おふくろの話

100歳も近い……平成22年8月

「オレ、頑張ったよね。」
「あと、3年ちょっとで100歳になるんだから。」
「あのトモ じんちゃより長生きして、村一番になれっかもしんねな。」
ベットの上で、おふくろが威張っている。

…なれるとも、おふくろならなれるよ…

自宅介護が無理なので、介護ホームに入っている。
入所時には、そのおふくろとすったもんだと大騒ぎをした。
ホームにやられるのは嫌だと言うのだ。

義姉が蜘蛛膜下出血で倒れたので、介護するものがいなくなった。
だから、半ば強引にホームに入ってもらった。
転倒して脊髄を損傷し歩けなくなっているのに、頭だけはしっかりしているから、自己主張が強くて困ってしまう。正直な話、呆けて何も分からないほうが幸せかもしれないな。

自分の家で往生したいと、頑強に抵抗していたが、どうしようもない現実に、おふくろもようやく納得した。おふくろの気持ちが分かるだけに、可哀そうで堪らなかった。
でも、自分の感情を押さえて、入所させた。そうするしか方法がなかったから…。

そのおふくろも、もう少しで100歳だ。

「こんどは、いつ来れるんだい?」
「忙しいのに、ありがとうね。」
「楽しみに、待ってるからね。」

耳は遠くても、まだまだ元気なおふくろではある。



おふくろは歌人……平成22年10月

おふくろは、意外に歌人である。
手紙を届けてきていた93歳ぐらいまでは、ときおり俳句や短歌を詠んでいた。
ある時、「詠んだもの集めてみたけど、どうだろうね」と、便箋やメモに書き留めて置いたものを見せてくれた。率直なところ、3~4句を除いてはそれほどの出来ではなかったが、「ワープロで打って、歌集にしてあげるよ」と、詠んだその努力を評価してあげると、とても嬉しそうにしていた。

今、私の手元には、そのおりの『よしの歌集』がある。
懐かしく読み返していると、「どうう?」と自慢げに胸をそらしていたおふくろの顔が想いだされる。「おれ(私)って、よくやるよね」と歌人ぶっていた、あのおりの得意げな顔をである…。
ちなみに、そのおりの代表作?をあげてみる。(一部添削あり)
孫の手を かりて夕餉の 仕度かな (77歳)
同じことと 思いつうれし 松飾り  (80歳)

人は皆 千代八千代にと 願いしも
………………ながらえし我 心むなしき (85歳
年の瀬の 水辺の月の 冷たきを
………………よわい重ねし 肌身もて知る (88歳)

おふくろは今、手が震えるので、手紙などは書けなくなっている。リハビリを兼ねて毛筆を練習しているとのことであったが、再びペンをもてるかどうかは分からない。
最後に届いた93歳の手紙は、たどたどしい文字で綴られていた。その文字を見つめていると、涙がこぼれそうであった。おふくろの字はきれいであったのに…。

……でも、おふくろは書けなくなったことを嘆くことなく、今も俳句や短歌を詠んでいることと思う。そして、詠んだそれらを頭の中に綴っているはずだ。
私は、いつの日かそれらを聞き出して、新しい『歌集』をつくってあげたいと思う。そして、もう一度、あの得意げな顔を見たいものだと思っている。


おふくろにもボケが来た!……平成23年3月

「あれ!だれだっけ!」そう言ってじっと見つめていた。
「俺だよ。マーさんだよ、マーさん。」そう言っておふくろの手をとった。
「マーさん?んーマーさん?本当にマーさん?」
信じがたいような目をして見つめ返していたが、握られた手に力が入ってきた。

「マーさんだ、マーさんだ、本当にマーさんだ。」
嬉しそうな顔をすると、すぐに涙ぐみ始めた。
「来てくれたんだ。もう会えないって思ってたのに…。」

あれこれと他愛もない話をしながら、しばらく時を過ごした。
11月に来たときには、記憶もビックリするぐらい確かだったのに、今は曖昧になっている。
その曖昧さにも気づかなくなっていて、話もちぐはぐになっていた。
……しょうがないか、おふくろも満で97歳だからな……。

「もう思い残すことはないよ。マーさんに会えたから思い残すことはなくなったよ。」
いつもの口癖が出る頃にはサヨナラの時間だ。
あれほど帰りたがっていた自宅のことには、一言も触れずに
「ここは、皆んな親切に面倒見てくれるから、とってもいいよ。」
本心かどうかは分からないけれど、私には救いの言葉だった。

「今度は6月に来るからね。」
いつものせりふで帰り支度を始めると、いつものように
「6月だね、本当に来てくれるんだね。本当に本当だね?」
『待ってるから、待ってるからね。本当に来てよ。」
と、名残惜しそうにベッドから見送ってくれた。

ハウスの玄関を出る時
……おふくろにもボケが来たようだな……と、侘しさが込み上げてきた。


地震が大嫌いなおふくろなのに……平成23年3月11日の大震災

とにかく連絡の取りようがない。
電話も携帯も通じないし、交通手段も遮断されてしまった。
地震の大嫌いなお袋なのに、どうなったか心配で心配でたまらない。

田舎の実家にも連絡はつかない。兄の消息さえも分からない。
車で出かけることさえもできない。
お袋が心配でも、身近の子供たちや孫たちも心配だ。
だから、保育園に迎えに行って、学校に迎えに行って
その元気な顔を見たら、ホッとした。

5日後にハウスと電話がつながった。
「お母さんは大丈夫ですよ。それほど怖がりませんでしたよ。」
職員の言葉に安心して、気が抜けてしまったようになった。
……良かった無事だったんだ。これで一安心できる。近いうちに顔を見せに行か
なくちゃ……


母は逝って戻ってきた……平成23年6月

…6月に入ったから、顔を見せに行かなちゃ。…
そう考えていた6月7日の早朝に、母危篤の知らせが入った。
危篤の母は、私の帰郷を待つこともなく、出立前にはその生涯を満97歳と7ヶ月で閉じた。

急性の心筋梗塞とのことであった。
3月の邂逅のおりには、母の逝く日の近いことを知らされていた。
「もう身体はボロボロになっています。特に心臓が弱っているので、何時亡くなられて
もおかしくはありません。」
所長の話は、高齢であるとは言え、母との別れを宣告されたにひとしいものであった。
それだけに、6月の出会いが最後のものと覚悟はしていたが、それを待たないなんて…。

3年7ヶ月ぶりに母は自宅に戻った。
あんなに帰りたがっていた自宅に、目を閉じてから漸く帰ったのだ。
あれこれあって、自宅に帰れなかった母の無言の帰宅を
先に逝っていた父と兄は、どんな思いで迎えただろうか。

母は、それこそ、眠っているかのように穏やかな表情をしていた。
その肌は、艶々としていて皺も見えず、とても97歳とは見えなかった。
でも、その氷のようにつめたい肌は、母の死の現実を教えてくれた。

母の死化粧は、とても綺麗なものであった。
薄眉を描いて、ほほ紅をうすくほどこして、口紅を一寸塗ったその顔は、
本当に生きているようであった。
その若々しい死に顔には、訪れた誰もが驚いていた。
その母も、念願の自宅に2泊して棺に入れられ、葬儀場に向かった。

かったるい坊主の読経の後、母は身内や親戚の手で花に埋められた。
私は、覚悟もしていたし大往生であることから、笑顔で送ることにしていた。
母には、そうした葬送が似合うのだと信じていた。

でも……
ひ孫の一人が、耐えられずに泣いた。他のひ孫たちも悲しんで泣いた。
孫たちも泣いた。そして親戚たちも泣いた。泣くまいとしていた子供たちも泣いた。
そして、とうとう、笑顔で送るはずの私も泣いた。

数時間後、穏やかな死顔をして棺に寝かされていた母は、
一条の煙とともに昇華し、骨壷に収まった。
20年も前に父と描いた若々しい肖像画の母は、ニコニコと笑っている。

その笑顔の肖像画と一緒に、
舎利となった母は、父と兄の待つ我が家に戻ってきた……。



もう3回忌 ………… 平成25年6月


実家から母の3回忌を知らせるハガキが届いた。
早いもので、母が亡くなってから、もう丸2年にもなろうとしているのだ。

私は今、絵手紙の練習をしている。
絵手紙というよりは、単なる水彩画でしかないのかも知れないが、それなりに楽しんでいる。
その絵手紙で母の似顔絵をモチーフとしてみた。

写真を見ながら描いたわりには、それなりに特徴を掴んでいたようだ。
絵は、特養ホームでの一コマを描いたものだったが、手紙を見た姉は、とても似ていたと懐かしがってくれた。何枚も同じものは描けないので、はがきにコピーして、実家と実姉と実兄のところへ3枚だけ送ったのだが、反応は姉からだけであった。

でも、実家から3回忌のハガキが届けられたのは、それから10日ほどしてのことであったので、なんとなく私から3回忌を催促したような思いにとらわれてしまった。それまで何の連絡もなかっただけにそのハガキが唐突に届けられたようで(命日の18日前)、もっと早く通知してくれれが良いものをと、ついつい妻に愚痴ってしまったものだ。父母のない実家は遠くなったということだろうか。

今のところ母の記憶は鮮明であるが、だんだんと薄れていくのは間違いのないことだ。だから、鮮明なうちに絵手紙でもなんでも活用して母を偲ぼうと思っている。