2011年6月15日水曜日

一つの区切りがついた。

 秀峰-会津磐梯山-からの夜明けの一瞬である。
午前4時半頃のもので、郷里の夜明けがこんなに美しいものとは、64歳直前の今の今まで知らずにいた。迂闊そのものであった。

 今度の帰郷は、母の葬儀のためだ。6月7日早朝、母危篤の知らせが、東京の私のもとに届いた。母は、私の帰りを待ちきれずに、
97歳の生涯を終えた。年齢的には大往生であったと思う。
 母の逝く日の近いことは、3月の帰郷の際に、施設の所長から聞かされていた。内臓はボロボロで、特に心臓が弱っており、いつ逝ってもおかしくはないと知らされていたのだ。だから、危篤の知らせにも、それ程の驚きもショックもなかった。心の準備ができていたせいだ。…でも、それは表面的なものであったらしい。4泊5日の帰郷の疲れは想像以上のもので、帰ってきてから2日間も寝込んでしまった。身体の疲れは勿論のことだが、母の死の痛手が深く浸み込んでいたのだろう。私には、これで漸く一つの区切りがついた。漸くにである……。

 ブログへの投稿は5ヶ月ぶりのことである。正月の13日以来の投稿となる。

 暮れに投稿した-国防のあり方 1-の続きを考えていたら、どう纏めたらよいのか分からなくなってしまった。考えれば考えるほど分からなくなった。そこには、今までのような底の浅い国防論では承知できない自分がいて、考えるほどに頭がこんがらがってきた。自分では、平和主義の非武装論に近い考え方であったのに、それで現実的な対応ができるのかという疑問にぶつかってしまい、迷路に踏み込んだかのような心境に陥ってしまったのだ。

 この問題で真剣に悩んでいる間に、東日本大震災が発生した。そのあまりなまでの被災状況に驚愕したり、実体験した揺れの恐怖に怯えたり、連絡の取れなくなった母や実家・それに兄の消息や津波にのみ込まれたかもしれない気仙沼のいとこの心配と、投稿どころではなくなってしまったのだ。

 身近にいる子供たちや孫たちのことも心配で落ち着かず、交通手段がなくなったこともあって母の元にも駆けつけられなかったので、ただただ焦るしかなかった。二週間ぐらいの間は、ただオロオロしていただけだったが、皆の無事な消息が知れるにつれて、自分の気持ちも生活も落ち着いてきた。

 恥ずかしながら、私は、この震災でなすべき自分の役割を、未だに知らずにいる。長期にわたる復興の過程には、私にも果たせる役割が必ずあると信じているが、今は自身の体調を回復させることに専念したい。ヨロヨロとした休職中の身では、何もできはしないのだから……。

 -国防を考える 2-はしばらく投稿できそうもないので、ご容赦を……。