竹島問題・尖閣諸島・北方領土等と日本の領土問題を巡っては感情論も交えた盛んな論議がなされている。領土というよりは、領有権や実質的な占有権問題だと言った方が正確であるのかもしれないが、とにかく収拾がつかない状態になっている。
これらの問題での政府対応に関しては、弱腰外交だとの批判が大半を占め、野田政権の根幹を揺るがす問題となっている。政府見解も「遺憾に思う」の総理談話にとどめている程度だ。領土問題に関して言えば、軍隊を持たない(持てない)国としてはそう言わざるを得ないのだろうが、やはり主権国家としての対応としては情けない限りではある。
そもそも、領土問題に対する個人観や国家観は、一人一人・一国一国がそれぞれに違っているのだから、国防だとか愛国だとかの民族意識で一本化しようとすることには無理がある。その無理を、当事者国は、互いに国民感情や相手国への敵対意識を煽り立てるパフォーマンスを繰り返えすことで、国民の中に、既成事実として領有権が存在すると認識させ、その意識の統一を図ろうとしているようだ。韓国の大統領やロシアの首相等は、そのことを具体的な行動をもって示している。中国や香港・台湾の活動家と称する輩の、見え見えの敵対的アピール行動もその一環であるのだ。
飛躍した話になるが、私は、かのアポロ宇宙船が月面に初めて着陸した時、月の領土や領有権ということについて素朴な疑問を持ったことがある。アメリカの主張できる権利は、アームストロング氏が行動した範囲にとどまるのかなどと、他愛もない考えに耽ったことがあるのである。又、アメリカの開拓史時代、先住民族インディアンとの生死をかけた戦いの歴史は、領土問題を考える上で忘れてはならない教訓を私たちに示している。インディアンは、自分達の生活基盤を侵されたからこそ、侵略者との悲惨な戦いを続け敗れ去ってしまったが、彼らは自分達こそがアメリカ大陸の真の領有者であると、今も考えているに違いない。
明治・大正・昭和(敗戦まで)の時代に、わが日本国も、周辺諸国に対して侵略を続け、台湾・朝鮮半島・満州地域を占領領土として獲得したと喧伝してきた。軍事力によって実効支配してきたのである。朝鮮においては、母国語(朝鮮語)での教育を禁止させ、日本語使用強制によって文化面での侵略さえ行ってきた。近年に至って、そうしたことに目をふさぐ輩が増えて、侵略の事実はなく、虐殺や慰安婦問題なども事実ではないと、声高に喚いている連中が目につくようなった。誇張の問題はともかく、侵略した事実は拭い去ることはできないのである。問題となっているのは、紛れもなく日本国以外の地である限り、侵略した事実は覆い隠せないということだ。過ちは過ちとして、素直に反省できない限り、本当の解決策など見いだせるわけがない。私たちは、ドイツの教訓を大いに学ぶべきであろう。戦争犯罪という意識は、加害者と被害者ではその受け止め方に相違があって当然だと思う。だから、その犯した犯罪には被害者感情を加味して真剣に目を向けるべきなのだ。そして、償うべきは真摯に償わなければならない。私たちは、曖昧にしてきた過去を清算し、未来志向での対話を開始すべきだと思う。今こそ、その時期であることを自覚しようではないか。
歴史は、その時代時代によって、相手国との関係や立場を変えてきている。その時代時代においては、真逆の関係や立場に立ってきているということである。今、紛争(?)の相手国としている韓国・中国・台湾・ロシア等について考えてみてもそのことは明確である。古くは、邪馬台国の朝貢、白村江の戦い、仏法の招来、遣隋使・遣唐使の派遣、元寇の変、足利幕府の勘合貿易、秀吉の朝鮮出兵、鎖国令による諸外国との目隠し外交、薩摩の琉球支配と日本国への一方的編入等、取り上げればきりのないほど多くの実例があるのだ。
今騒がれているのは、近年に至っての日清・日露の戦争や、第一次世界大戦後の帝国陸軍暴走による満州侵略とその支配、そしてアジア全域にまで戦火を広げて犠牲を強いた太平洋戦争がもたらした後遺症的問題なのだ。上記したような国際関係や諸問題は、明治維新後の軍事力の増強による帝国主義的な侵略によって、その国際的な立場を逆転させた。アジアの一大強国として、保護や支援を名目に思うがままに領有権や領土支配を宣言してきた。こうした事実の繰り返しの中に、今日の領土問題が起因し、民族の優位性という身勝手なおごりさえ生んでしまったのである。
そのおごりが、敗戦によって打ち砕かれた。
ポツダム宣言の受諾、サンフランシスコ条約の締結によって、敗戦後の領土問題は解決したかのように思われたが、そのあいまいさが今日に禍根を残すこととなった。それは、それ以前の領土問題が、国際的にはっきりした根拠に基づくものではなく、相手国との軍事的・経済的強弱によってなし崩しに的に認証(?)されてきたものであったからである。威圧され威嚇されて認証したものを、戦後という解放された感情の中で、取り戻せたと思うのは自然の流れではなかろうか。問題を考える場合には、目線を変えて考えなければならないのである。
ここまでこうした意見を述べると、私は非国民として罵られるのかもしれない。
でも、アポロの月面着陸時に抱いた素朴な感慨は、領有権や領土問題の根本問題に関わるものであり、出発点であると思っている。だから、こうした問題は、当事国同士や周辺国だけでは解決できない問題と思っている。その主張をどこまで遡って根拠とするのか、相手国にどうした感情を持ち続けてきたかを考えあわせると、容易に解決できる問題ではないのである。
現在は、文明の最も花開いた時代であると思う。こうした時代に、旧態依然とした主張の繰り返しで問題の解決を図ろうとしても、不可能に近いことであると思う。だからといって、武力による実効支配などは、その最悪のもので何の解決にもなりはしない。感情的に高ぶって粋がったり、威勢のいい言辞を弄しても、問題を拗れさせるばかりで、最悪に事態を招くばかりである。どこかの知事などは心してほしいところだ。
私は、今、国際的に、領有権・領土問題についての基準的な法整備を行うべきだと考えている。そして、国際司法判断に従って、その解決を図るべきだとも思っている。このように言うと、現在も国際司法裁判所で裁かれているはずだと反論されあろうが、現在のものは、当事国の一方が出廷しなければ審議もできないという強制力を伴わないものでしかなく、国連の常任理事国の決議と同じで、一部の国のエゴに支配されてしまってているようだ。しかし、国際紛争の多くが領土をめぐる境界の争いである限り、この法的整備は急務の問題であると私は考えている。
武力以外の道で解決するしかない以上、私たちは、もどかしさを味わいつつも、国際的基準の法整備を願い、その実現に力を注ぐべきであろう。そして、その実現に心する政権の選択・樹立を目指すべきと思う。そして、その政権が一部の軍事同盟に偏ることなく、真の意味での国際司法の確立に努力を重ねることが大切だと思う。
領土問題は、一長一短では解決できない問題であるのだから、長い目で、確実に歩むしかないのだ。一時の感情や、一部の煽動に踊らされることなく、本質を見抜くしっかりとした目を養い、この国の未来を誤らせないように身を挺して行こう。子や孫のためにも……。