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2016年5月2日月曜日

野党共闘にノダメはいらない。

(藤の花は今が見ごろ-4/30-上尾丸山公園)
ゴールデンウイークとあって、上尾市の丸山公園は大賑わいであった。孫二人(2・3番目)を連れて行ったが、男の子ばかり(小2、小4)だとこちらのほうが疲れてしまう。

公園の沼で釣りをしたり、弁当を食べたり、広い公園を散策したりと、昼時のひと時を十分に楽しんだ。まだまだ自分でエサをつけることはできないが、釣りの楽しみは味わえたようで、孫二人のこれからが楽しみだ。

帰りは足を延ばして吉見町の道の駅に行ってきた。時間が少し遅かったのか、産直品(農産物)は品薄となっていて、目指すものは買えなかった。ただ、熊本支援と銘打って売られていたトマト(熊本産)は買ってきた。少しでも支援につながればと言うことで。

(根津神社の山門-4/26)
桜・菜の花・チューリップ・つつじ・藤と、ここのところはこまめに花を訪ね歩き廻っている。いかめしい顔の私ではあるが、毎年、花を求めて歩き廻っている。これからは、ポピーや蓮・バラの花なんかが楽しみだ。これでは、花咲じじいならぬ花巡りじじいといったところか。

と言って、花巡りにうつつを抜かしてばかりいるわけではない。安倍自公の暴政を見逃さないためにと、警戒レーダー(メディア全般へ)は全方向に張り巡らしているつもりだ。レーダには、見えないものも結構映し出されてくる。特に、安倍自公の欺瞞ぶりや、堕落した民進党一部幹部の動向など、臭気を帯びたその映像は、見苦しく情けない。

野党共闘の試金石と言われた衆院北海道5区補選は、残念ながら野党側の敗北に終わってしまった。敗因にはいろいろ取り上げられようが、私は民進党の持つ撓みと歪みが第一の敗因であったと指摘しておきたい。寄せ集め政党であるから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、今後の共闘にも関わると思えるので、苦言だけではなく警告も発したい。

本当かどうか定かではないが、選挙の最中にも関わらず、野党代表のそろい踏みに生活の党小沢代表の登壇を拒んだ、とのことが囁かれた。あのノダメ氏(野田元首相)の意向が強かったからだと言われている。先に、小沢氏以外ならだれとでも組むと言って顰蹙をかったかのノダメ氏は、野党共闘の真の意味を理解してはいない。流石に民主党政権をつぶした男だ。安倍自公とのお友達と言ってもいいだろう。右派と言われる前原氏でさえ、共産党と壇上に並んだのに、ノダメ氏の馬鹿さ加減にはあきれ返ってしまう。おそらく、今度の敗因の一部に自分が関わっているなどと言う自覚は持ち合わせていないだろう。あの解散劇での安倍とのやり取りを思い出すたびに、私は、ノダメ氏のご退陣を願っていたのだが、本人は自分の責任に気づいていないのだから始末が悪い。一日も早い自公入りを願いたい。

野党は共闘!、今や市民レベルの闘いになっているこの流れを、ノダメ氏ごときに掉さされてはたまらない。池田候補は優れた候補者であった。その池田さんを次に生かすためにも、共闘の絆は絶やしてはならない。民進党よ目覚めよ、悪魔が蘇ってでは遅いのだぞ。ノダメごときに大きな顔をさせるでない。

2016年4月15日金曜日

激震が走った!

(地震大国であることを忘れまい-4/14)
(被害は甚大だ、原発は大丈夫?-4/14)
4/14 夜の9時26分、東京での私は入浴中であった。妻が慌ただしく、浴室のドアを開けて、「熊本で震度7の地震だよ!」と知らせてくれた。東日本大震災から5年、天災は忘れかけたころにやってくるという格言通りの大震災である。被災者の方々には、心からのお悔みとお見舞いを申し上げたい。あの名城「熊本城」も大きな被害を受けたようだ。加藤清正の霊も心を痛めているのではなかろうか。

妻の知らせを聞いて、私の頭を最初によぎったのは川内原発のことであった。熊本からは150KM離れているが、当地でも震度4の揺れがあったとのこと、その対応が心配された。しかし、私の杞憂をよそに、津波の心配がないとの情報で、何の対応もなしに運転を続けているとのこと、あきれ返って開いた口もふさがらない。

ホンダやソニー熊本など周辺の企業は、いずれも様子見で操業を見合わせているというに、最も警戒を要する原発が操業を続けているなど私には信じられないことである。能天気であるとしか言いようがない。危機管理がなっていないということだ。政府の強い対応を望むところである。

熊本と言えば、噴火が心配されている阿蘇火山に近い。この地震が火山の噴火に結びつかなければよいのだがと、余計な心配もしてしまう。この国が、常に自然災害の危険にさらされているのだと、改めて思い知らされた感がする。心構えを忘れるなという、警告なのではなかろうか。

話題は急転するが、検察は甘利君ではなく田母神君の逮捕で矛を収めようとしているらしい。なんとも摩訶不思議なことである。今、国民の求めていることは、甘利汚職事件の真相である。附けたしのような田母神選挙違反事件では決してない。動き出せばあっという間にできる摘発を、収賄の出丸(秘書、事務所)にさえ手を付けようともせずに、手をこまねいている。政権と検察の癒着が見え見えではないか。ここまでくると、シールズではないが民主主義って何だと叫びたい。

癒着組は、、贈賄側のS社とURとの贈収賄事件としてその幕引きを図る狙いであるらしい。馬鹿にするのもいい加減にしろだ。当の甘利君は、睡眠障害を盾にして国会出席を拒みつつ、次の選挙出馬を画策しているとのこと、何が政治家としての「美学」だ。恥を知れ恥を、である。

熊本地震の余震は多く、かってないほど頻繁に強く揺れているとのことだ。余震であるのに、震度6強という、強烈なものもあった。一日も早い終息を願うのみである。だが、甘利君に関しては、その終息を許すわけにはいかない。心して国民の制裁を待て!---と言っておこう。

2016年3月7日月曜日

鵺(ぬえ)は国会から去れ!

(今年も咲いたシクラメン-3/5)
もう何年になるだろうか。今年もシクラメンが咲いた。
ほとんど手入れもしていないのに、毎年可憐に咲き誇ってくれている。最初のころは、暮れから正月にかけて開花していたが、この頃では、3月から4月にかけて開花するようになった。気候変動のせいででもあるのだろうか。だとすると、開花時期が早まりそうだとも思えるのだが、どうだろうか。それとも、手入れが行き届かないせいで、花そのものの開花力(生命力)が弱まったということなのだろうか。

手入れもしないで、開花力を云々するなど、花(写真のシクラメン)に対して失礼に過ぎるかもしれないが、毎年咲き誇ってくれていることには感謝しているので、花さんには勘弁してほしいところである。ともかく、理屈抜きに「今年も咲いてくれてありがとう」と言いいたい。本当にありがとう。

ここのところ、国会中継をよく見ている。受信料は払っているのに中継の少ない(意図的かどうか?)NHKでは物足りなくて、インターネット中継を主として利用している。高校野球などは、2チャンネルに変えてまで全試合をほぼ完全に放送(中継)しているのに、国会審議に至っては、中途でも放送を打ち切ってしまう。そのカット部分は深夜に放送しているからと、その対応のまずさをしきりに弁解しているが、そうした扱いを受けているのが小規模な政党であることは覆い隠している。

(枯れたと思っていたミニバラが復活した-3/5)
高市総務大臣は、そうしたNHKの不公平をこそ指弾すべきであって、メディアによる政権批判を押しつぶそうなどとの圧力を加えるべきではない。思想信条にかかわる放送内容に関しては、権力側はいかなる干渉をも慎むべきなのだ。放送法の成立過程が、今日の平和憲法成立と軌を一にして、戦争からの反省に根差していることは言うまでもない。つまり、放送法は、二度と戦争に加担しないというメディアの強い自己批判による表現の自由を守るための自己規範だ、ということを忘れてはならないのだ。その法の精神も理解しないで、権力によるメディアへの規制法であると解釈するなど、断じて許されることではない。勘違いも甚だしいし、驕りもいい加減にしろというものだ。

そのおごる政権におもねる勢力もある。国会議員としての任務や役割を本当に承知しているのかと疑いたくなってしまう。国会が招請した公述人に対して、あろうことか、侮蔑した対応をなし捨て台詞まで吐き散らした愚か者がいたのだから、あきれ返ってしまう。いかに何でもそれはないではないか。その足立何某とかいう大阪維新所属議員は、これまでも、本来の質疑から外れた他党攻撃を繰り返し、反論できない議場であることを悪用して、国会や国民を侮辱してきた問題議員である。このような議員が言論の府たる国会にいること自体が、私には理解ができない。それも、時の政治権力に対しての批判故ということでもあればまだ許せるとしても、その権力にすり寄りおもねるための暴挙でしかないのだから、野党を標榜するも恥ずかしいくらいである。恥を知れ!---だ。

鵺(ぬえ)的な大阪維新は、この国にとって百害あって一利なしの政党だ。とっとと、自民党に行け!中央においても恫喝的大阪方式が通用するなどとは思わないほうがいい。なめるではないぞ。

2016年2月8日月曜日

多士済々もいいところだ。

(改修なったベランダで今年も咲いた沈丁花-2/7)
政治家の責任の取り方やその美学には驚かされるものがある。甘利大臣のそれには、開いた口も塞がらない。斡旋も口利きもしないでただどりした賄賂を政治献金だと言いつくろったり、たかり常習の秘書をかばい立てして辞職することが、美学だと思っているらしいのだから恐れ入る。ただただ恐れ入る次第である。

又、そのことを潔い決断だと褒めたたえる自公政権のその腐臭体質にも、おう吐をもよおすばかりである。汚いことこの上ない。その汚濁を浄化すべき、法務大臣には、法律を論ぜず、質問外のことを何十篇も繰り返して、疑惑の同僚議員をかばい立てする人がふさわしいらしい。正義を唱える人は遠ざけられるようだ。内閣法制局長官やNHK総裁と共通した安倍的職務意識が歓迎されているようだ。
半面、マスコミで安倍批判をして正論を吐く名だたるキャスターは、軒並降板の憂き目にあっている。言論弾圧が流行っているらしい。菅官房長官のチェックが厳しいとのことだ。そのうち、何も言えなくなってしまうのか、戦前のように。ばかばかしいにも程がある。

総理大臣に倣って、関係ないことをまくしたてる大臣も優遇されるらしい。
厚生大臣の安倍マネや新しい経産大臣のデタラメ答弁は、安倍政権の優良答弁でもあるらしい。
(本音をむき出しにした安倍首相―2/4)
誠実そうだった中谷防衛大臣は、今では安倍首相そっくりとなり、原発反対を唱えていた河野氏は行政改革大臣就任と同時に原発再開容認へと変節した。命がけでとTPP絶対反対を叫んでいた経産省副大臣は、晴れがまし顔をして道化た和服でその調印式に臨んだ。志操堅固はどこへやらと、その変節ごっこも流行っているらしい。どうやら、自公政権は、変節者の吹き溜まりらしい。

下着ドロをかばったり、言論封殺をもみけしたり、戦争大好きのあんちゃん代議士をそだてたり、汚職疑惑のオリンピック大臣を守ったり、暴言を吐く身内の磯崎議員をかばったりしているので、安倍の周りには、安倍に義理立てしなければならない奴が、わんさかと群れ集まっている。親分!親分には絶対服従しますから、次の選挙もお願いします、と。

鼻声で馴れ合い質問を繰り返,し、憲法9条の改悪を狙う極右の稲田政調会長、ベタベタ寄り添いながら、報道規制を企む高市総務大臣、選挙違反も平気だし島売りも平気な島尻大臣、稲田に追いつけと安倍カラーに染まりたい都知事の元妻議員、と安倍ガールズも多彩で安倍首相もご満悦の様子である。忘れていたが、原発再容認で除染なんて簡単でいいと言った環境大臣もいたんだっけ。とにかく男も女も、お化けワールドも顔負けするぐらいに多士済々である。でも鬼太郎たちの水木ワールドに例えたりしたら、泉下の先生に叱られるだろうな。そんな言い怪訝な奴らは、ワールドには入れないと----。

本音をむき出しにした安倍総理はとても危険だ。だんだんヒトラーの手法が身についてきたようだ。その本性に触れて、憲法改悪には触れないでと頼んでも、無視されるのは公明党。今更、平和ぶっても遅いのだ。そもそもが、公明党が政権欲につかれたからこうなったのだ。その責任は取ってもらおうじゃないか。もう学会だって、だまされないはずだと思うよ。いい加減に目を覚ませ公明党!でも、無理かな。やっぱり、無理だろうな。

2015年11月18日水曜日

存在意義なし?

(H26/11の京都旅行―「絶景かな」の南禅寺)
腰を痛めてのたうち回っている時に、情けないニュースが飛び込んできた。あまりなまでの不快感に腰の痛みが増幅されてしまった。

それは、細野豪志・前原誠司などが、本音を露にして民主党年内解党論をぶちまけたからだ。前々から分派的行動を続けていたので当たり前といえば当たり前であるのかもしれないが、それにしても、タイミングを計ったようなその行動には、顰蹙を通り越して政治家としての良識をさえ疑わざるを得ない。正直、バカじゃないのといったところだ。日本をどうしたいと思っているのか。

彼らは、立憲主義・民主主義が犯されている今の危機的現状を、認識できていないのであろうか。先の延長国会で明白となった、自公政権による平和主義への挑戦を、本当に理解しているのだろうか。

理解していないのだとしたら、民主党員としてこれまでとってきた彼らの行動は、単なるパフォーマンスでしかなかった言うことだ。戦争反対!民主主義を守れと訴え続けた大多数の国民を裏切り続け、破壊者自公政権を裏から助けていたと言うことだ。平和を求める多くの国民をだまし続けてきたということだ。

共産党とは相いれないだとか、理想とする民主党の党是に反するとかを理由にして、戦争勢力と対峙する勢力の大同団結をつぶそうとして躍起になっているあんたたちは何者なのだ!民主勢力の内部分裂を図る政権側の回し者だったということなのか。恥を知れ恥を!戦争の危機が迫っている時に、今あなたたちのやろうとしている行動は、かっての翼賛政治家の行動そのものだということが分からないのか。

あなたたちに民主的政治家を名乗る資格はない。民主勢力一員としての存在意義すらもない。そんなに権力に縋りつきたいのなら、さっさと自公勢力側にすり寄っていけばいい。私たちには必要はないのだから。
石川五右衛門は、アンチ独裁を叫んだと言われている。あなたたちも、少しは見習うがいい!



2014年10月27日月曜日

本来について考えよう!

(水量豊かな袋田の滝 10/15)

(観瀑台からの袋田の滝 10/15)
写真は、同級会の途次に訪れた茨城県の“袋田の滝”である。この日は、台風通過のせいもあって、水量も豊富でその迫力は名瀑にふさわしいものであった。

この滝にはこれまでに2度訪れているが、いつもちょろちょろとした流れしか見られず、期待外れであっただけに、本来の姿を見せられた思いで嬉しい限りであった。

本来の姿と言えば、ここのところの政治家の見苦しいあたふたぶりにはあきれ返ってしまい開いた口もふさがらない。政治家とは何者ぞと問いただしたい思いである。

国民注視の国会中継で、うちわをかざしてうちわのようなものでうちわでないと開き直る現職の女性法務大臣、子どもでもその収支に疑問を持つであろう報告書を突き付けられて、言い逃れもできず困惑している二世女性大臣、SMバーへの支払いを交際費として計上していた引継経産省大臣と、語るのも恥ずかしい醜態でしかない。

しかし、これが安倍内閣の実態で、いまさら呆れかえっても仕方がないのかもしれない。だから当然のようにボロが出たということで、嘆くにも値しない出来事なのだと思う。第一次安倍内閣を彷彿させるこの事態は、安倍総理の指導力の欠如と人物眼のなさを如実に示したということでもある。一刻も早いご退陣を願いたい。

法の解釈もできない法務大臣、収支の計算のチエックも出来ない経産省大臣、SMバーへの支出を政治活動費と判断する部下に支えられる引継大臣とこの国の指導部は、なんと情けないメンバーで構成されていることか、恥ずかしい限りである。今こそ、政治家の本来のありかたが問われる時ではなかろうか。

国民よ目覚めよ!である。本来の政治家とはどういうものであるかを真剣に考えようではないか。

2014年7月2日水曜日

まるで、童話のようだ…。

(水彩画教本からの模倣画)
娘がブログを見たとメールをくれた。父の日を忘れていて申し訳なかったと、あらためて電話をくれ、遅ればせながらと“パステルのスケッチセット”をプレゼントしてくれた。
右の絵は、そのパステルを使って描いたものだ。相変わらず、教本の模倣に過ぎないが、それでも楽しく描くことができた。

大人気もなく僻んだり拗ねたりしていた私だが、娘や孫の顔をみるとやはり頬が緩むのはどうしようもない。我ながら現金なものだと呆れている。

息子からは相変わらずの音沙汰なしであるが、孫の誕生祝(7/3)の呼びかけもないので、父の日の件できまづくなり、電話ができないでいるようである。
私は、妻と話し合って、、孫の誕生プレゼントを誕生前に届くように郵送した。本来なら、届けてあげればよい事(車で15分)なのに、まだ不満が残っているのであえて郵送にした。

(与野公園のバラ園でパチリ)

昨日(7/1)は、この日本の平和精神を根本的に変えてしまった忌まわしい日となった。
政府与党によって、閣議決定だけで憲法解釈ができるとする暴挙がなされたのである。

得々として、記者会見する安倍首相の顔が、イソップのオオカミにだぶって見えたのは、私だけであったろうか。自民党の高村氏は橋の上のキツネに、公明党の山口氏や北川氏はカチカチ山のタヌキに見えてならなかったのだが、余りにも皮肉にすぎるであろうか。

童話は、本質をついた話が多く、たくさんの教訓を示してくれている。子どもに話しつがれるのは、ただ楽しい話であるばかりではなく、そこに心に触れる教訓が示されているからだと私は思っている。だから、何代も何代も語り継がれてきた。

この国が、オオカミに蹂躙され、キツネのために国益を損ない、タヌキによって火のついた薪を背負わされてしまったことが本当に残念でならない。でも、まだ諦めてはいない。そう簡単に諦めてたまるものかである。国民は決して騙されはしないのだ。

2014年6月25日水曜日

またまた妥協ですか?

(公明党の妥協を伝える朝日新聞)
公明党が政権に絡むようになってから、こうした記事を何度読まされたことか。そして、その妥協の都度、日本の政治が右傾化への速度を速め、戦争への道を急速に歩み始めていることに何度も危惧を感じてきた。その危惧がとうとう現実のものとなってしまった。

極論だが、今日の危険な政治情勢を作り出した責任は公明党にあると言っても過言ではない。自民党の暴走を許しているのは、その補完勢力として、妥協に妥協を重ねてきた同党にこそその責任があるのだと思う。

政権にしがみつきたいがためのその妥協の連続が、この国をいかに不安な国とさせてきたか、彼らはおそらく気づいてはいまい。
振り返ってみてもその妥協の歴史は、枚挙にいとまがないのである。

そして、その妥協の言い訳も決まりきった文言で、「わが党の存在が自民党の暴走を阻んでいる。政権に入っているから、児童手当等の福祉政策も実現もできている。だから、政権に入っている事は絶対必要なことだ。それに、池田創価学会名誉会長の国会喚問を阻止できているのも、与党だからこそだ。」と…。
善良な支持者や学会信者は、その言い訳を信じて今日まで来ている。

いつものことながら、彼の党は、重要法案に関しては、最初は必ず抵抗の姿勢を見せている。そして、必ずと言っていいほどの妥協を繰り返してきた。先の言い訳を続けながらである。

今回の集団的自衛権の問題でも、平和の党だからと、反対のパフォーマンスをとっていたが、飯島内閣参与に、「名誉会長喚問」を示唆されると腰砕けになってしまい、記事のような妥協に追い込まれてしまった。とは、私の穿った見方であろうか。

そもそも、彼の党と自民党との政策協議の中に、自衛隊を戦争に駆り出すような集団的自衛権の政治課題が入っていたのだろうか。おそらくは入っていなかったはずである。そのことが政権協議に入っていたのなら、心から平和を希求する支持者や学会信者が納得しないからである。だから、今回も抵抗しているかのようなパフォーマンスが必要だったのだとしか思えない。政策協定にも入っていない重要問題を押し付けられるなど、政党としての資質を疑わざるを得ない。

公明党の妥協の歴史を遡ってみる。

その最初が、選挙制度の改悪に賛成した、小選挙区制の導入であった。この時も、最初は頑強に抵抗した。でも、結局は政治的駆け引きで妥協した。その結果が、今日の大政党(自民党)有利に作用することなど見え見えの事であったのにである。揚句は、政党助成金制度などで税金の流用にまで甘受しているのだから、彼の党の本質やいかんといったところである。

(お地蔵さんだって、憂えている)
思えば、戦争への危険を増大させたのは、それまでの党是を破棄して日米安保容認に転じ、自衛隊のPKO派遣に賛成してからである。その結果、アフガン戦争への後方支援やイラク戦争への協力、PKOを名目とする海外への自衛隊派遣と拡大の一途をたどるに至った。

国民を苦しめている消費税の導入やその税率アップも、一部の条件を付したとして妥協している。安倍内閣の経済政策が、大企業本位に立ったものであることを知らぬはずはないにもかかわらずである。彼の党の補完的役割で、どれだけ国民生活が脅かされいるかなど、支持者や学会信者はどれほど理解できているのだろうか。

原発の再開や海外輸出、武器の製造と輸出の緩和、秘密保護法案可決、と最近の安倍内閣はやりたい放題である。それができるのは、与党であり、友党?でもある公明党の協力が見込めればこそである。彼の党は、完全になめられているのだ。政権にしがみつきたい本音を、自民党に見透かされているからにほかならないのである。

今たくまれている、戦争への参加をもたらす集団的自衛権問題は、憲法の精神を根本から否定しようとするものである。この大事な国民的課題を、憲法の改正もなしに一内閣の解釈で変えようとしているのに、彼の党は報道のごとくまたまた妥協しようとしている。

彼らは、平和の党と自称してきた誇りも矜持もすべて失ってしまったのであろうか。支持者や学会信者への背信行為をまだまだ続けるつもりであるのだろうか。かっての結党精神はどこに行ってしまったのか。

しっかりと目を覚ませ公明党。国民の期待を裏切ってはならない。

2012年9月7日金曜日

国際的基準の法整備を!

 竹島問題・尖閣諸島・北方領土等と日本の領土問題を巡っては感情論も交えた盛んな論議がなされている。領土というよりは、領有権や実質的な占有権問題だと言った方が正確であるのかもしれないが、とにかく収拾がつかない状態になっている。

 これらの問題での政府対応に関しては、弱腰外交だとの批判が大半を占め、野田政権の根幹を揺るがす問題となっている。政府見解も「遺憾に思う」の総理談話にとどめている程度だ。領土問題に関して言えば、軍隊を持たない(持てない)国としてはそう言わざるを得ないのだろうが、やはり主権国家としての対応としては情けない限りではある。

 そもそも、領土問題に対する個人観や国家観は、一人一人・一国一国がそれぞれに違っているのだから、国防だとか愛国だとかの民族意識で一本化しようとすることには無理がある。その無理を、当事者国は、互いに国民感情や相手国への敵対意識を煽り立てるパフォーマンスを繰り返えすことで、国民の中に、既成事実として領有権が存在すると認識させ、その意識の統一を図ろうとしているようだ。韓国の大統領やロシアの首相等は、そのことを具体的な行動をもって示している。中国や香港・台湾の活動家と称する輩の、見え見えの敵対的アピール行動もその一環であるのだ。

 飛躍した話になるが、私は、かのアポロ宇宙船が月面に初めて着陸した時、月の領土や領有権ということについて素朴な疑問を持ったことがある。アメリカの主張できる権利は、アームストロング氏が行動した範囲にとどまるのかなどと、他愛もない考えに耽ったことがあるのである。又、アメリカの開拓史時代、先住民族インディアンとの生死をかけた戦いの歴史は、領土問題を考える上で忘れてはならない教訓を私たちに示している。インディアンは、自分達の生活基盤を侵されたからこそ、侵略者との悲惨な戦いを続け敗れ去ってしまったが、彼らは自分達こそがアメリカ大陸の真の領有者であると、今も考えているに違いない。

 明治・大正・昭和(敗戦まで)の時代に、わが日本国も、周辺諸国に対して侵略を続け、台湾・朝鮮半島・満州地域を占領領土として獲得したと喧伝してきた。軍事力によって実効支配してきたのである。朝鮮においては、母国語(朝鮮語)での教育を禁止させ、日本語使用強制によって文化面での侵略さえ行ってきた。近年に至って、そうしたことに目をふさぐ輩が増えて、侵略の事実はなく、虐殺や慰安婦問題なども事実ではないと、声高に喚いている連中が目につくようなった。誇張の問題はともかく、侵略した事実は拭い去ることはできないのである。問題となっているのは、紛れもなく日本国以外の地である限り、侵略した事実は覆い隠せないということだ。過ちは過ちとして、素直に反省できない限り、本当の解決策など見いだせるわけがない。私たちは、ドイツの教訓を大いに学ぶべきであろう。戦争犯罪という意識は、加害者と被害者ではその受け止め方に相違があって当然だと思う。だから、その犯した犯罪には被害者感情を加味して真剣に目を向けるべきなのだ。そして、償うべきは真摯に償わなければならない。私たちは、曖昧にしてきた過去を清算し、未来志向での対話を開始すべきだと思う。今こそ、その時期であることを自覚しようではないか。

 歴史は、その時代時代によって、相手国との関係や立場を変えてきている。その時代時代においては、真逆の関係や立場に立ってきているということである。今、紛争(?)の相手国としている韓国・中国・台湾・ロシア等について考えてみてもそのことは明確である。古くは、邪馬台国の朝貢、白村江の戦い、仏法の招来、遣隋使・遣唐使の派遣、元寇の変、足利幕府の勘合貿易、秀吉の朝鮮出兵、鎖国令による諸外国との目隠し外交、薩摩の琉球支配と日本国への一方的編入等、取り上げればきりのないほど多くの実例があるのだ。

 今騒がれているのは、近年に至っての日清・日露の戦争や、第一次世界大戦後の帝国陸軍暴走による満州侵略とその支配、そしてアジア全域にまで戦火を広げて犠牲を強いた太平洋戦争がもたらした後遺症的問題なのだ。上記したような国際関係や諸問題は、明治維新後の軍事力の増強による帝国主義的な侵略によって、その国際的な立場を逆転させた。アジアの一大強国として、保護や支援を名目に思うがままに領有権や領土支配を宣言してきた。こうした事実の繰り返しの中に、今日の領土問題が起因し、民族の優位性という身勝手なおごりさえ生んでしまったのである。

 そのおごりが、敗戦によって打ち砕かれた。
 ポツダム宣言の受諾、サンフランシスコ条約の締結によって、敗戦後の領土問題は解決したかのように思われたが、そのあいまいさが今日に禍根を残すこととなった。それは、それ以前の領土問題が、国際的にはっきりした根拠に基づくものではなく、相手国との軍事的・経済的強弱によってなし崩しに的に認証(?)されてきたものであったからである。威圧され威嚇されて認証したものを、戦後という解放された感情の中で、取り戻せたと思うのは自然の流れではなかろうか。問題を考える場合には、目線を変えて考えなければならないのである。

 ここまでこうした意見を述べると、私は非国民として罵られるのかもしれない。
 でも、アポロの月面着陸時に抱いた素朴な感慨は、領有権や領土問題の根本問題に関わるものであり、出発点であると思っている。だから、こうした問題は、当事国同士や周辺国だけでは解決できない問題と思っている。その主張をどこまで遡って根拠とするのか、相手国にどうした感情を持ち続けてきたかを考えあわせると、容易に解決できる問題ではないのである。

 現在は、文明の最も花開いた時代であると思う。こうした時代に、旧態依然とした主張の繰り返しで問題の解決を図ろうとしても、不可能に近いことであると思う。だからといって、武力による実効支配などは、その最悪のもので何の解決にもなりはしない。感情的に高ぶって粋がったり、威勢のいい言辞を弄しても、問題を拗れさせるばかりで、最悪に事態を招くばかりである。どこかの知事などは心してほしいところだ。

 私は、今、国際的に、領有権・領土問題についての基準的な法整備を行うべきだと考えている。そして、国際司法判断に従って、その解決を図るべきだとも思っている。このように言うと、現在も国際司法裁判所で裁かれているはずだと反論されあろうが、現在のものは、当事国の一方が出廷しなければ審議もできないという強制力を伴わないものでしかなく、国連の常任理事国の決議と同じで、一部の国のエゴに支配されてしまってているようだ。しかし、国際紛争の多くが領土をめぐる境界の争いである限り、この法的整備は急務の問題であると私は考えている。

 武力以外の道で解決するしかない以上、私たちは、もどかしさを味わいつつも、国際的基準の法整備を願い、その実現に力を注ぐべきであろう。そして、その実現に心する政権の選択・樹立を目指すべきと思う。そして、その政権が一部の軍事同盟に偏ることなく、真の意味での国際司法の確立に努力を重ねることが大切だと思う。

 領土問題は、一長一短では解決できない問題であるのだから、長い目で、確実に歩むしかないのだ。一時の感情や、一部の煽動に踊らされることなく、本質を見抜くしっかりとした目を養い、この国の未来を誤らせないように身を挺して行こう。子や孫のためにも……。

 
 

 
 

 
 

 

 

2012年2月7日火曜日

維新の言葉に惑わされないで!

維新という言葉が流行っている。
大阪維新の会という政治会派・団体(?)が、自称して流行らせているようだ。
維新という言葉からは、すぐに明治維新という歴史の転換期が連想できる。そこからは、坂本竜馬・西郷隆盛・高杉晋作・吉田松陰などの名前も思い起こされ、黒船以来の激動の時代であったことも偲ばされる。そしてその維新が、幾多の犠牲の上に成し遂げられたものであったのかをも考えさせられる。

 私も、維新活動が、社会の行きづまりや停滞を打開すべく、変革を求める有為の志士による犠牲的活動で成し遂げられたものであることは承知している。今日、維新を叫んでいる人達は、今こそが激動の時代であり、明治維新のような一大変革を求めて、立ち上がる必要があるのだと主張している。こうした動きのあることに対して、マスコミの大半は、その活動に参加する者たちこそが正義の志士であるかのように、持ち上げ祭り上げようと煽り立てている。それも、過激な言動を繰り返す一部の新進政治家?達を、さも平成の時代における坂本竜馬であるなどと、なぞらえかねない論調をもってしてである。

 こうした風潮は、無責任なあおり報道の追い風を受けて、維新の活動に集うものは正義の改革者であり、反対を唱える者は時代遅れの偽政者であるとの色分けを無理矢理に行ってしまってもいる。今、盛んに報道されている維新活動なるものは、今の政治の欠点を抉り出すことによって、それらへの民衆(市民)の不満を、過激で先導的な言動の繰り返しで集約し組織化しようとしているものに他ならない。しかし、そこにかってのヒットラーやムッソリーニの影やにおいを感じてしまうのは、一人私だけではあるまいと思う。多くの国民(市民)が、同様の漠然とした危惧を抱き始めているのではあるまいか。

 ここ数年で新星のごとくに現れた大阪市長の橋下氏は、市民の不満をうまく煽り立てて利用した前の小泉元首相によく似ている。行動力もあり、弁もたち、アジテーターとしては申し分がない。大阪の府民(市民)は、特徴あるキャラクターにからしき弱い面があるようで、その人物の政治性や人間性というよりは、その人物に特徴的なキャラクター性があるかどうか、人情味があるかどうかが、選択の基準とされている場合が多いようだ。かの横山ノック氏を2期にわたって選択したことなどは、その端的な例であると思う。失礼な話ではあるが、かの横山氏に、府知事としての資質や先見性があったとは、私には到底思えない。人間味という点では、破廉恥な行動によって退いたというところでは証明されたが、あまりに情けないことであった。大阪府民は大いに反省すべきである。

 私は、再登場が期待されている前の小泉元首相を、政治家としてはさほど評価してはいない。なぜなら、かの元首相は、国民を愚弄してはばからなかったからだ。郵政問題を前面に立てて、国民を一大旋風に巻き込んで政治を混乱させ、その混乱に乗じて、イラクへの自衛隊派遣を行うなどは恥ずべき行為でしかなかった。それも、安全区域は行ってみなければ分からないとか、自衛隊が行っているところが安全区域だとか、くもをまくようなこと言い続けて国民を愚弄した。自衛隊員の命を軽んじるのもいい加減にしろといったところである。

 マスコミの作り出した小泉ブームは、国民生活をないがしろにして、格差社会を生み出すことにもなった。私は、タクシー乗務員としてその時代を見てきたので、暮らしがだんだん厳しくなって来ていることを、実感として受け止め続けていた。だから、純ちゃんなどと手を振って騒いでいた多くの人々を、冷めた情けない思いで見ていた。自民党をぶっ潰すという威勢のいい掛け声に騙されて、国民生活を壊されてしまったことを、私たちは真剣に反省しなければならないと思う。同じことを繰り返してはならないのである。

 然るにである、犯してしまった過ちを、私たちは再び繰り返そうとしているのだ。今、大阪維新の会?を核として、平成維新とやらを目論む人たちに、国民のすべてが巻き込まれようとしている。そして、過ちを繰り返す危険な徴候も、ところどころに見られるようになった。確かに、今日の政治(家)に、国民生活を委ねることは誰しもが不安に思うことであろう。何の政策も打ち出せず実行もできない政府や国会に失望することは、当然の成り行きであるからだ。だからといって、この閉塞感を打開するために、今のブーム的流れに身を委ねてしまっては、自らを身動きできない立場に追いやってしまうことになる。

 今、大阪と東京の指導者の提携云々が、マスコミで大きく取り上げられている。今日の日本は、強いリーダーシップによってのみ混迷から脱却できるので、その資質を持っている東西の指導者に国政を預けたらどうかというのが、その根拠であるらしい。最新の情報では、意見や立場の違いを超えて、大まかなところで妥協し合えるための「船中八索」なるものも、チラホラと見え隠れ始めた。なにおかいわんやである。かの東西の指導者の主張に共通していることは、強いリーダーシップによる教育の改革であり、国旗掲揚に起立し、君が代斉唱を何の疑問も持たずに成長する子供たちを育成することにある。そして、そうして教育した子供たちを、右習いで行進させることが最終目的でもあるのだ。反論もあるであろうが、私には、彼らの行き着くところはそこでしかないと思えてならないのである。

 彼らの共通点を、もう一つ取り上げてみたい。それは、彼らが、与えられた任務を全うもしないで、中途半端に放り投げてきた言うことである。東京都知事の石原氏は、参議院議員の任期半ばで衆議院にくらがえし、そのくらがえした衆議院議員の責務も都知事に挑戦して放り投げ、敗れるや再び衆議院議員に返り咲き、その衆議院議員も25年の政治活動を理由にして、任期半ばで責任を放り投げた。そして4年のブランクの後、再度都知事に挑戦して当選し現在に至っている。橋下氏にしてもしかりである。大阪府知事に当選するや、多くの課題を府民に投げつけたままその責務を投げ出して、大阪都構想を掲げて大阪市長にくらがえした。まるで、ロシアのプーチン氏を彷彿とさせる行動をとっている。そうすることが、責任を果たすことになるなどとの彼らの言い訳は、私には詭弁としか受け取れない。投げ出した事実は事実でしかないのだから。

 私は、自己の人気にあやかって責務を投げ出し、その任期も全うできない政治家は信用できない。まして、その人気におもねり、すり寄ろうとしている政治家などは、なおさらに信用ができない。今、マスコミが犯している過ちは、こうしたブーム的現象を、強いリーダーシップを持つ者の出現であり、維新改革の具体的行動が始まっていると、歪めて報道していることである。ブーム的現象による政治の結末がどのようなものであるのかは、かっての日本新党や、横山氏・青島氏・小泉氏からも苦い教訓として知らされているはずだ。だから、マスコミは、維新などとの言葉で、私たちを混乱させないで欲しい。

 冷静に現実を見つめようよ---。マスコミの煽り立てに踊らされず、選択の目をしっかりと養おうよ---。かってドイツが犯したように、誤った民族主義に陥っての焚書活動や国会放火事件などの暴挙を、是として容認しないように、私たちは曇りのない確かな目でこの国を見つめて行こうよ---。過激な言動に迷わされることなく、この国が誤った進路に踏み出さないように、しっかりと監視して行こうよ---。子や孫の為にもね---。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

2010年6月6日日曜日

どうなってるの?

 政治家の神経ってどうなっているのかねえ。
 失敗して、みんなに叩かれて、都合が悪くなったら辞任ですか。私なんか、何とかしなくちゃともがいてもがいて何年も苦しみ抜いたのにねえ。もっと、責任の重さを考えて欲しいよ。もっと苦労しなくちゃ、本当の大人じゃないよ。
 その辞任劇を、何だかんだと攻撃している元の与党の面々は恥ずかしくないのかねえ。それと新党を作って、我々は関係ありませんなんて顔してるのもいるけど、本当はあんたがたに根本的な責任があるんじゃないの?
 今
、この国の運営を担うことの出来る人って、本当にいるんだろうかねえ。我々国民もしっかりしなくちゃね。そういう人を、我々が育てるようにしたいものだね。