2010年12月10日金曜日

新そばの味

 12月も半ばになろうとしているのに、公園内のバラ園は、咲き誇るバラでかぐわしく匂っていた。種類別の香りを楽しむのか、花びらに顔を押し付けるようにしている人もいた。「同じ色なのに、匂いは違うのね。」…初老の婦人が、試してみたらと言わんばかりに話しかけてきた。私も、それではと鼻を近づけてみたら、甘くくすぐるような匂いがしたので、なんとなく嬉しくなって次の花に顔を向けた。

 東京都調布市の神代植物公園と、地続きの深大寺に行ってきた。妻と妻の義姉との3人で、深大寺の新そばを目的に出かけたのだ。私は、深大寺周辺の茶店を覘き歩いていると、一時代をさかのぼったようなゆったりとした心持になれるので、この散策コースがお気に入りである。饅頭やそば菓子、コマや焼き物等の民芸品を並べた店先には、かっての門前町を偲ばせる風情がある。その通りを着流しでそぞろ歩きでもしたら、自分自身がタイムスリップの世界に入り込めて、大いに満足できるかも知れないな。かって、近藤勇や土方歳三が闊歩したように、胸をそらし刀でも差して歩けたら最高かもしれない。くしくも、近藤の生家は、ここからさほど遠くないところにある。
                     
 武蔵野台地からの豊かな湧水は、畑作の多いこの地域に、うどんや蕎麦をたべる食文化を定着させたようだ。深大寺といえば、なんといっても手打ち蕎麦である。深大寺の代名詞のようなものだ。ということで、ここを訪れるたびに必ず食している。店店によって、その味わいや食感が違うので、その都度入る店を変えている。茶店である場合もあるし、専門店の場合もある。店が違うのだから、当然のように、その美味しさも違ってくる。残念なことに、今回の感想はいまいちであった。妻や義姉はまあまあだったとの感想であったが、私は、次回に期待したいといったところだ。

 植物園の方は、冬ということもあって、バラ以外にはこれといった花は咲いていない。それでも、広い庭園を散策していると、いろいろな発見をするものだ。園内には、その思いがけない発見を求めて、同年輩の人たちが、カメラや三脚をかついで、ポイントを捜し歩いていた。一見、雑草のような小さな花にもおもしろい表情があるようで、真剣な顔で覗き込んでいる。一寸したプロ意識に浸っているようだ。65歳以上の年間入場料は1250円とのこと、四季折々を楽しめるのだから、
近隣の同年配者にはありがたいことだと思う。私も、近くに住んでいたのなら……である。

 園内に、枝振りのよい桜の老木がたくさんあった。春には、その老木の下で、花見をしたいものだ。今度は、花を愛でながらの団子である。そういえば、茶店には美味しそうな草団子も売られていた。今度は、孫たちも連れてこようかな?
……はーるよ来い、はーやく来いである……。
                                           

2010年12月1日水曜日

名刹と十三参り

 写真は、郷里の名刹・円蔵時(虚空蔵様)の境内にある一院である。鮮やかなモミジの色と寺院との取り合わせが、とても素晴らしかったので一枚を。この日は、孫の「花音」と甥の子供たちを連れて何年ぶりかに訪れたのだが、悲しいことに、時代の波はこの古刹にも押し寄せており、観光化が急速に進みかっての厳かさは薄れていた。

 街を歩いていると、町の観光課の職員でもあろうか、キャラクターの赤い牛のぬいぐるみを着て、町の宣伝パンフを配布しているのに出会った。子供たちは、大喜びで一緒の写真に納まった。このひなびた観光地でも、町の振興に必死に取り組んでいるのだ。観光化することは、歓迎すべきことではないのだが、過疎の町の努力には敬意を称したい。

 この地方の子供たちは13歳になると、「十三参り」と称して、親に連れられてこの名刹を訪れる。なぜ13歳なのかは定かではないが、古くからの慣習として、今日に至っているのだ。私は母に連れられて、汽車に揺られて訪れた。私の母は、祖父に連れられて、夜更けの峠道を泣き泣き歩いてのお参りだった、とのことである。甥や甥の子供たちは、マイカーでのお参りだったとのことだ。世代によって、お参りの交通手段に違いはあっても、素朴な信仰心に基づく慣習は脈々と受け継がれ、今日に至っているのだ。

 私にとっての「十三参り」は、厳かな儀式であり、母との初めての楽しい小旅行でもあった。初めて食べた「卵どんぶり」の味や、湯気の出ていた「あわまんじゅう」のおいしさは、50年経った今でも記憶に残っている。裸まつりで知られる虚空蔵様の鰐口銅鑼の綱を、思い切り引いて音高く鳴らしたこと、お守りを買ってもらってポケットに入れたこと、急坂の階段を元気良く上ったこと、名刹縁起の牛の像を撫でまわしたこと等と、今でも懐かしく思い起こせるのだ。しかし、風情のあったつり橋の上・下流に無愛想な鉄橋が覆いかぶさるように架けられたこと、名刹縁起の一つである尺余のウグイの群れや巨鯉の姿が見られなくなったこと等には、一抹の寂しさを感じさせられてしまった。

 帰りに食べた新蕎麦の味は、なかなかのものであった。子供たちが食べたお餅(あんこ、きなこ、なっとう)もなかなかで、おいしいおいしいと一緒になって味わった。味わいながら、私は、50年前の母との想い出に浸り、介護ホームで待つその母に想いを募らせていた。