2011年12月10日土曜日

久々の横浜は、電車で往復!

 写真は、62歳の誕生日を迎えた妻への、子供(長男家族)からの誕生祝いである。「おばあちゃん、誕生日おめでとう!」の声と一緒に、孫たち(凛君、優次朗)から手渡されたもので、妻はニコニコ顔で受け取っていた。
 長女家族からは、誕生日の朝一番で祝電ならぬ祝FAXが届いた。そこには孫の”花音”のメッセージが記されていた。”そうたん=奏丞”からは、電話で直接の「おめでとう」の挨拶であった。プレゼントは、後日に会った折に渡すとのことで、何が良いのかと、娘が妻に聞いていた。
 
 私からのプレゼントは、特別にはないが、テレビで横浜の中華街を取り上げていたので、何年振りかで食事に出かけることにした。横浜までは、いつもであれば車で行くのだが、今回は電車で往復することにした。私のところからは、三田線で東急各線に直接乗り入れできるので、同じホームでの乗り継ぎ一回で中華街まで行ける。本当に便利になったものである。朝の9時ごろ出て、11時ごろには目的地に着くのだから、中華街で食事をしても2~3時間の散策時間は取れる。ということで、私たちは横浜に出かけた。

 中華街での食事は、店舗が多すぎてどこに入ってよいのか迷ってしまう。とくにあそこでというところもなかったので、ブラブラしながら適当な店を選んで入った。店は小さいものであったが、何種類もの料理が楽しめたので、まあまあといったところであった。行くまでは、あれも食べようこれも食べたいなどと話していたが、いざというと、多すぎる店舗のためにあれもこれもと考えてしまい、結局はバイキング方式みたいなところに入ってしまった。見ていると、私たちだけでなく、多くの観光客がそうしているようであった。


 中華街に行ったついでに、三国志の関羽をまつった<関帝廟>でお参りしてきた。中国式の参拝方式とやらを教わりながら、神妙に手を合わせてきた。意外だったのが、関羽が武神ならぬ商売(財務)の神としてあがめられていたことだ。兵糧などの兵站に優れていたからだという。中国では、今でも多くの国民に尊敬されているとのことであった。三国志が今に生きているということであるらしい。

 帰りは、山下公園から港沿いに”みなとみらい”まで歩いた。途中、赤レンガの倉庫(2棟)に立ち寄って、中のショッピング街をのぞき歩いたりしてそれなりに楽しむことができた。港では、カモメに餌付けしているおじさんを見つけ、カモメの写真を間近で何枚か撮った。港は、思ったほどに海水が汚れておらず、何となく嬉しくなった。でも、魚の姿が見えなかったのは残念である。

 ”みなとみらい”から3時過ぎに電車に乗ったので、ほの暗くなったころには家に戻れた。1日だけの一寸した横浜行であったが、妻には、記憶に残る誕生日となったようだ。妻が喜んでくれたのでうれしくはあったが、久々に何時間も歩いたので、私は少々疲れがでたようで足が痛い---。
 

 

2011年11月27日日曜日

歳は言い訳、がんばればできる!

 3か月にわたる就活支援講習は、ようやく終わった。
 
 風邪で休んだ何日かを除いては、まじめに通い続けたので、修了証書も無事にもらうことができた。講習でスキルアップの目標としていた、パソコン検定3級と日商簿記3級の試験も何とか受けることができた。パソコン検定の方は本当にギリギリでクリアできた。簿記に関しても、合格発表が12月の22日以降となるのでまだ確定というわけではないが、自分では多分大丈夫だろうと思っている。なにはともあれ、これで一応の目標は達成できたということだ。疲れた、とにかく疲れた。本当に疲れてしまったというのが率直な感想である。でも、その疲れよりも達成感の方が勝っている、というのが正直なところだ。

 就活支援講習は、ハローワーク(厚労省)が、就業促進を目的として民間機関に委嘱している事業で、正式名称は「緊急人材支援事業に基づく基金訓練」で通常は「基金訓練」と呼ばれているようだ。どちらかというと、若い人の就活支援事業といった色合いが強く、私のような高齢者の受講者は少ない。

 私が受講した機関(パソコン教室)も、私が最高齢者で自分でもご隠居さんといった感じがして,はじめのうちは何となく馴染めないものを感じていた。若い人たちに対しての私の固定観念的なものが、自分から入っていくことを躊躇させていたようだ。でも、そんな躊躇もすぐになくなった。学ぶということは、年齢差を感じさせなくするらしい。何のこだわりもなく、話し合えるようになり、居ごごちも悪くはなくなった。年長者である私が、若い人たちから学ぶことも多くなり、そのことへのこだわりも消えて行った。
 
 学んでいく中で、困ったことに直面した。自己流で覚えてきたことの弊害が出てきてしまったのだ。タイピングにその弊害が特に出てしまい、一時は受講の継続を断念しようかとさえ思ったほどだ。指が動かないのである。カナ変換で覚えた指が、ローマ字変換に対応しようとせず、カナからローマ字への変更を拒絶するかのように動いてはくれないのだ。悩んでいる私に、あれこれと励ましてくれたのは、若い人たちであり、熟練した講師陣であった。とにかく、繰り返しの練習でしか解決できないことを肌で感じたので、ガムシャラにキーを打ち続けることにして、朝晩の区別なく取り組んでみた。

 5分間で300文字(日本語)を入力できなければ、3級の合格ラインには届かない。私の当初の入力数は220~230文字ぐらいであったが、努力の成果が出て受験した時には、315文字を入力させることができた。ギリギリではあったが、何とかクリアできたのである。その時には、思わずガッツポーズが出てしまい、合格できた嬉しさに小躍りしたい気分であった。学科の方は、カタカナだらけの専門用語に悩まされはしたが、タイピングほどの苦労もなくクリアすることができた。何十年かぶりかの試験であり合格であったので、喜びもひとしおである。

 学習院大学での簿記試験は、練習していた問題とは違った傾向のものが出題されたので、少しドギマギとしたが、何とかクリアできたと思っている。この簿記問題は、自宅でも毎日2~3時間は勉強をしていたが、模擬試験などではいつも合格ギリギリの線で推移していたのでひやひやものであった。でも、本試験では割合に落ちついた対応ができ、自分では満足できる内容であったと思っているので、多分大丈夫だと思う。

 歳だから、もう勉強なんて無理かな? と、途中でこの受講を諦めかけたこともあったけど、なせばなるのである。司法書士とか税理士とかのレベルではないにしても、歳だなんて言い訳しないで頑張れば、ある程度のことはクリアできるということだ。そう、歳は言い訳にすぎない、頑張ればできるのだから-----。


 

2011年10月15日土曜日

失業中にスキルアップを!

 ポーチュラカの花も、こうして見ればそれなりに美しく見えるものだ。武骨な鉄さび色の小さな花鉢が、その鈍い色合いのわりには、可憐なポーチュラカとよくマッチして、花の美しさを余すところなくひきだしてくれている。生け花の心得などさらさらない私なのだが、このショットが、バラや牡丹のあでやかさや華やかさに欠けていたとしても、この花の持つ可憐な美しさを十分に取り出していることだけは分かる---。

 失業中であるからか、なにかにつけて理屈をつけたがる。困ったものだ----。

 私は、今、失業中であって、ハローワークのお世話になっている。腰を痛めての失業ということで、失業保険金の給付も待機期間もなく翌月から受けることができた。健康であったのなら、3か月後からの支給ということであったが、ハローワークの指導と担当医の診断書によって、翌月からの給付となった。

 失業保険の給付期間は、4か月間である。64歳という年齢や14年という雇用保険の加入期間からしてあまりにも短いと思えるのだが、自己退職であるという理由からやむを得ないとのことであった。会社都合による退職であったのなら、期間も長くなるとのことであったが、私の都合に会社が合わせてくれるはずもないので、待機期間がないだけ良しとせざるを得ないようだ。

 私は今、再就職に向けて、パソコンのスキルアップと事務関係の実務能力アップのために、3か月にわたる講習を受けている最中だ。これまでも簡単なワードやエクセルについては、それなりに理解できていると思っていたし、経理関係についても簿記の3級程度の実力はあるものと思っていたので、これまでのおさらいをしようなどと、ごく軽い気持ちでこの就活支援講習に参加した。ところがである、この講習期間中のスキルアップ目標とされているパソコン検定3級及び日商簿記3級取得の課題は、私のこれまでの自信を打ち砕くだけでなく、ついていけないのではという不安さえも与えるものであった。自己流で覚えてきたことの弊害が、あちこちにに顔を出して学習の妨げとなってしまったのだ。

 最初のうちは、余裕をもって勉強していたが、すぐに追いついていけなくなっている自分を知った時には愕然となってしまった。単に年のせいだけだはなく、能力の衰えをさえ感じさせられたときには、おおげさではなく絶望感やあきらめ感さえ持つに至ってしまった。妻の「若い人と一緒だと思ったらだめよ。自分にできるだけのことを精いっぱいやればそれでいいんじゃないの。」との励ましがなかったら、私はとうに挫折してしまっていたと思う。----そうだ、やれるだけやってみればいい。お金をもらいながら勉強できるなんて、こんな機会はもうないのだから----。

 ハローワークの支援ということもあって、講習料(授業料)は一切なく、失業保険金の支給を受けながらの取り組みであるから、私にとっては願ったりの機会でもあった。但し、就活は続けることが条件であって、講習(学習)そのものが目的ではないということであった。一面理解はできたが、再就職に生かすためのものであるのなら、しっかりと学習させてほしいというのも率直な感慨ではあるのだが---。

 四十の手習いという言葉があるが、私の場合は六十四才の手習いである。ついていけない部分は多いが、最近では勉強することが楽しくなってきている。おそらく、過去を振り返ってもこうした感慨は湧いたことがないはずである。何十年かぶりかの本格的な勉強となっているが、とにかく、今は楽しみながら勉強しているところだ。1日5時間の講習と自宅で3時間の学習は、失業中の自分にとっては大きな張合いとさえなっているのである。

 P検3級・簿記3級、何が何でも取得するぞー!---の意気込みを持って頑張っています。

 * スキルアップの勉強は有限会社HSD(パソコン指導教室)でしています。


 

 

2011年7月5日火曜日

本当にお世話になりました。

 写真は64歳の誕生祝いに、子供たちから貰った紫陽花の花である。左側の方は、昨年の母の日に妻が貰ったもので、何とか咲かせようと世話をしてきたが、咲かずじまいとなりそうだ。どうも、日当たりが良すぎたのが悪かったようだ。ベランダで咲かせることは、難しいようである。
 
 娘夫婦からは、好きなものを選んでと「お小遣い」を、息子夫婦からは、呆け防止のためだと「脳トレゲーム」をプレゼントしてもらった。母が逝ってから間もないので、祝い事はなしにしたかったが、子供たちの好意に甘えることにした。

 今年は、全員のスケジュールが合わず、娘家族と息子家族に、それぞれ別々に祝ってもらった。孫たちとの顔合わせは、母の死の痛みを幾分かは薄めてくれた。孫たちと顔を寄せ合ってのロウソク消しは、自分が今幸せであることをかみ締めるのに十分なものであった。これで、体調さえ良ければ申し分ないのであるが……。

 体調が悪いということで、私は5月の末からタクシー乗務を休んでいた。
 だから、母の死はこの休職中に迎えてしまったことになる。「腰椎変形症」とも言えるこの症状に対しては、薬餌だけでは解決できない。それで、腰への負担を軽くするためのダイエット、変形した腰椎を支えるための筋トレを同時に行うことになった。焦らずに、少しずつの改善を目指してである。
 昨年取り組めなかったダイエットも、毎日のカロリー計算をしながらの本格的のものとなった。もちろん妻の協力なしではできないことなので、夫婦しての共同作業として取り組んでいる。パソコンに独自のカロリー計算書をインプットしたことで、最近ではその計算もスムーズにできるようになり、頭を痛めることもなくなってきた。

 取り組んでから一月たった今、私たち夫婦は、それぞれ約5kgのダイエットに成功した。単に食事量を減らすことだけでなく、リハビリを兼ねた筋トレを一体とさせたことが功を奏したようだ。担当医の指導もあって
決して無理はしていない。だから、痩せたといっても、衰えたという感じはお互いに見られない。少し締まった感じになってきたのだ。

 ところがである、肝心の腰痛の方はどうかと言うと、改善は見られるものの、終日の乗務に耐えられるまでには回復してはいない。焦らずに、今の取り組みを継続させるしかないということなのだ。この一月あまりは、休職中であったから取り組めたようなものだ。更なる改善を目指すには、休職期間を延長させてもらうしかない、ということになる。

 私の今の健康状態、業界に復帰することによる今後の展望、64歳という年齢、余命と生き方等について真剣に考えた場合、休職を延長させることに、その意味合いがあるのかどうかは悩ましい課題であった。……で、悩んだ末に出した結果は、辞職してタクシー業界から身を引くということであった。中途半端に身をおくことは、事故の元になってしまいそうで怖くなったなったことも事実だ。14年間お世話になった業界からのリタイヤには、正直考え深いものがある。事業に失敗した後だっただけに、助けられた想いが強いからだ。本当にお世話になりました…である。本当に………。
 
 
 
 



  

2011年6月15日水曜日

一つの区切りがついた。

 秀峰-会津磐梯山-からの夜明けの一瞬である。
午前4時半頃のもので、郷里の夜明けがこんなに美しいものとは、64歳直前の今の今まで知らずにいた。迂闊そのものであった。

 今度の帰郷は、母の葬儀のためだ。6月7日早朝、母危篤の知らせが、東京の私のもとに届いた。母は、私の帰りを待ちきれずに、
97歳の生涯を終えた。年齢的には大往生であったと思う。
 母の逝く日の近いことは、3月の帰郷の際に、施設の所長から聞かされていた。内臓はボロボロで、特に心臓が弱っており、いつ逝ってもおかしくはないと知らされていたのだ。だから、危篤の知らせにも、それ程の驚きもショックもなかった。心の準備ができていたせいだ。…でも、それは表面的なものであったらしい。4泊5日の帰郷の疲れは想像以上のもので、帰ってきてから2日間も寝込んでしまった。身体の疲れは勿論のことだが、母の死の痛手が深く浸み込んでいたのだろう。私には、これで漸く一つの区切りがついた。漸くにである……。

 ブログへの投稿は5ヶ月ぶりのことである。正月の13日以来の投稿となる。

 暮れに投稿した-国防のあり方 1-の続きを考えていたら、どう纏めたらよいのか分からなくなってしまった。考えれば考えるほど分からなくなった。そこには、今までのような底の浅い国防論では承知できない自分がいて、考えるほどに頭がこんがらがってきた。自分では、平和主義の非武装論に近い考え方であったのに、それで現実的な対応ができるのかという疑問にぶつかってしまい、迷路に踏み込んだかのような心境に陥ってしまったのだ。

 この問題で真剣に悩んでいる間に、東日本大震災が発生した。そのあまりなまでの被災状況に驚愕したり、実体験した揺れの恐怖に怯えたり、連絡の取れなくなった母や実家・それに兄の消息や津波にのみ込まれたかもしれない気仙沼のいとこの心配と、投稿どころではなくなってしまったのだ。

 身近にいる子供たちや孫たちのことも心配で落ち着かず、交通手段がなくなったこともあって母の元にも駆けつけられなかったので、ただただ焦るしかなかった。二週間ぐらいの間は、ただオロオロしていただけだったが、皆の無事な消息が知れるにつれて、自分の気持ちも生活も落ち着いてきた。

 恥ずかしながら、私は、この震災でなすべき自分の役割を、未だに知らずにいる。長期にわたる復興の過程には、私にも果たせる役割が必ずあると信じているが、今は自身の体調を回復させることに専念したい。ヨロヨロとした休職中の身では、何もできはしないのだから……。

 -国防を考える 2-はしばらく投稿できそうもないので、ご容赦を……。


 

 
 

2011年1月13日木曜日

我が家のお正月


 新年明けましておめでとうございます。

 我が家の新年は、写真のうさちゃんとの挨拶で始まった。ベランダからの初日の出に手を合わせ、妻とあらためて新年の挨拶をしてから、お猪口で乾杯してお雑煮を食べる。この流れは、ここ数年続いていることで、我が家のしきたりのようになっている。昨年は、末孫の「そうたん」が風邪でパパの生家に同行できず、娘とともに大晦日から加わっていたので賑わいがあったが、この元旦は、例年通りに二人きりの静かなものであった。

 お雑煮を食べて一休みをしてから、東京大仏に初詣に出かける。ほろ酔い気分
で、2キロほどノンビリと歩いて行くのであるが、それはそれなりに楽しいものである。妻とたわいもない話をしながら歩くのも、歳を重ねたせいか、今では楽しい年中行事の1つとなってきている。変われば変わるものである。数年前までは、元旦早々に2キロも歩くなどとんでもないと、ぶつくさ言っていた私であったのに、歳のせいか本当に変わったものだと思う。数十分も並んでお参りするなどは、考えられなかったことだ。

 数年歩いていると、街の様子の変化も眼にとまるようになる。あの公園の花壇が変わったとか、植栽が枯れてしまったとか、空き地がマンションに変わってしまったとか、お店がなくなったとか新しくできたとかが眼について、その変わりようを勝手な推測で理屈づけてしまう。相続税が大変だったのだろうかとか、人通りが少ないから経営が成り立たなかったのかな、などとの具合にである。写真は、とあるお米屋さんの店先での1枚である。ここのご夫婦は、お花の手入れを丹念にされている。いつも綺麗に手入れされているので、店先ではいつも立ち止まってしまう。人柄を推し量って、末永いご繁盛をと願わずにはいられない、新春の嬉しくなる1コマである。

 正月の2日は、我が家の新春の集い?である。当初は親子4人だけであったものが、今では、婿・嫁・孫を加えた3家族10人の大賑わいである。この春は、全員が健やかに顔を見せ合うことができた。とても嬉しいことである。妻は、大晦日から、この日のための料理造りに大わらわであった。忙しい忙しいとこぼしていたが、集まった元気な顔ぶれを見て、苦労の甲斐もあったと満足げである。

写真は、我が家のおせち料理である。豪華なものはないが、妻の心のこもった料理なので、子どもたちも孫たちもおいしいおいしいと、食べつくしてしまう。その様子を見て、妻は、早くも来年の献立を考えているようだ。妻にとっては、至福のひと時であろうか……。