今、不自由な体勢でキーボードをたたいている。
左肩が思うに任せないので、机に向かっても左手の操作がぎこちなくなってしまい思うようにキーをうてない、じれったいこと、この上なしだ。
心配していた左肩の腱板断裂に関しては、いよいよその接続と修復のために手術を行うことになった。長期リハビリによる回復の目途が、一向に立たないからだ。手術によって、どのくらいの回復が図られるのかは判らないが、現状よりははるかに良い状態になるとのことなので決断した。正直のところ不安でたまらない。なんせ、50年ほど前に盲腸の手術をして以来、手術も病気入院もしたことがないのだから、考えるだけで鬱陶しくなってしまうのだ。
手術すると、リハビリも含めて半年間ぐらいは不自由な生活を余儀なくされるようだ。
とにかく我慢の一字で耐えるしかない。そして、以前のように、あれやこれやと頑張らねばと思う。このような私の事情には関係なく、遅れていた春もようやく訪れてきた。団地の桜は今が見ごろである。にりん草も可憐に咲き出した。
手術による入院は3週間の予定で、肩から腕にかけてをギブスで固定し、腱板と肩の骨との接続を図るとのことである。そのために、変則的に固定されるギブスで、身体の自由は奪われてしまい、着衣やトイレなども思うに任せず、介護の手を要するとのことだ。もちろん、食事や入浴も同様に補助が必要とのことである。
不自由な生活ということから、私は、昨年に永眠した母のことを想いうかべている。
介護施設でのある出来事のことをである。私は、入所して間もない母を気遣って、田舎に帰った。施設は、まだ新しいもので設備も職員も十分に満足できるもので、費用の点を除けば何も言うことはなかった。 私が訪れた時は、ちょうど食事が終わりかけていた時で、母はお茶を飲んでおり私の来訪を喜んで迎えてくれた。食事はグループに分かれてとっていたようで、母以外の何人かはまだ終えていなかった。そんなおり、母は便意をもよおしてしまい、職員にその旨を訴えていた。
母の訴えを聞いた職員は、食事中の他の人の世話で手が離せず、少し我慢してほしいと母に言っていた。他の職員(介護)も手が離せないようで、母は泣きそうな声になって、私に助けを求めてきた。情けないことに、私はそうした対応のなにものをもできないので、あらためて私からも職員に頼み込んでみた。しかしその時にである。その時に発せられた介護職員の言葉と対応に、私は激しいショックを受けてしまったのだ。いや私だけではない、母はショックどころではなく人間としての尊厳をもさえ傷つけられてしまったのだ。95歳(当時)とはいえ、母は転倒による歩行困難以外には、何らの問題はなかった。歩行ができなくなったことで、家族で介護できない事情もあって施設に入ったのであった。だから、母も私も、痴呆や耄碌による入所とは違った対応になると考えていたのである。
「○○さん(母の名)、我慢できなかったら、そこでしてもいいんですよ。オムツをしていますから大丈夫ですよ。そこでしてください、してもいいんですよ。」、何気ない職員の優しげな言葉は、母のプライドをズタズタに切り裂いてしまった。
「違う!私は違う!私は違うんです!」母の叫びは悲痛であった。その叫びを聞きながら、私はいたたまれなくなってしまい、その場を逃げ出し、ほかのグループの職員に助けを求めた。私は、母がその場でオムツに用を足すことに耐えられなかったのだ。自分は、歩けないだけで、耄碌もしていなければ痴呆でもない、だからみんなと違うのだ言う母の叫びが私にはよく分かるから、その場にいることが耐え難かった。
「最初はいやでも、すぐになれますよ。」母や私の訴えを、困ったものだと受け止めていた職員は、施設での対応はそうであるとして、特別ですよとの態度で、母の車いすを押してトイレに向かってくれたが、私には納得できなかった。そうしたことに慣れて行くだろう母を思うと、心から悲しくなってしまい、傍にいて介護もできない自分が、とても親不孝ものであると、つくづく思い知らされ心苦しかった。
入院を間近にして、私はあの日のことを思い出してしまった。
不自由な療養生活を考えた時、母の味わったあの屈辱や情けなさを、私自身がかみしめる日も近いのだろうかと、侘びしく感じている今日この頃でもある。老いは、確実に迫っているという証なのであろうか----。