2014年6月23日月曜日

侘びしかったから

(郷里の大沼のイメージで模倣)
左の絵は、昨日描いたものだ。図書館から借りてきた水墨画の練習本を模倣したものだが、我ながらよく描けたものと感心している。

私には絵の素養がないのか、スケッチやデッサンといったものが不得意で、絵は好きでもなかなか筆を握るということはなかった。自分には描けないと半分あきらめてもいた。

昨年に絵手紙を描いたことはあったが、おせじにも誉められた筆さばきではなかったので、数か月で筆をおいてしまった。

その私が、今は墨絵というか水彩画というか、日本画風の絵に夢中になっているのだから、不思議だとしか言いようがない。それも、毎日毎日描いているのだからあきれ返ってしまうほどだ。

あくまでも模倣の段階でしかないのだが、その出来栄えに納得して自己満足するのも、悪い気持ちではなく、次のステップへと向上心も湧いてくる。

今、なぜ絵なのかについては、一寸したいきさつがある。
ここにきて、いい年をして私は少々拗ねてしまったのである。それも、父の日に子どもたちから電話一本なかったことに腹を立ててしまったことが原因なのである。私の誕生日は6月16日、今年の場合には父の日の翌日になっていた。だから、この十年来の事から考えても、誕生日と一緒の何がしかが当然あるものと考えていた。
(安倍内閣の暴走に抗議しての一枚)

にもかかわらずである。父の日の当日には、二人の子供からは何の音沙汰もなしで、誕生日の夜に遅くなってごめんと二人から言い訳がましく電話が入ったのみで、ハンカチ一枚ものプレゼントもなかった。別に物が欲しいわけではないが、通り一遍の電話だけで済まそうとするその態度が、大いに不満なのである。現に母の日には、二人の子どもたちから、カーネションのプレゼントが届けられているのだから、私が僻むのも無理はないではないか。

 孫たちも電話口に出たが、誕生日だか父の日だかの区別も分からない話ぶりは、親に言われてのあいさつが見え見えで、嬉しさも半減といった感じだ。こんなことは、初めてのことである。これも僻みに違いはないと思っているのだが…。

ということで、侘びしさ解消のためと、墨絵や水彩画に夢中になってしまったという次第である。でも、けがの功名ではないが、私にはいいキッカケとなったようだ。

で、今は平常心に戻っている。
私のハンドルネームである「リメイク布袋」のごとく、ゆったりとした心もちでいたいものだ。

(自分にどこか似ている布袋)

情勢は緊迫しているので、僻んだり侘びしがったりしている時ではないのに、本当に大人げないことであるとは思うが、侘びしいときには侘びしいのだから、歳には関係がない。

6月10日の9条の会の講演会に夫婦で行ってきた。今の危険な政治情勢を按じる多勢の人が集まって、私達は大いに励まされた。

でも、安倍首相のような厚顔無恥の人が少ないせいか、講演は終始穏やかすぎて、かっての安保闘争のような勢いに欠けるのではと、物足りなさも感じてしまった。

穏やかにしている時ではない筈である。今声を挙げなくては、必ず後悔するのだから、「戦争反対・憲法守れ」の行動を、安保闘争を上回る規模で!が、今必要なことでは?
全国の老人たちよ奮起せよである。


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