2012年10月28日日曜日

押入れのアルバム

 11月の同級会が近いというせいか、懐かしさを求めたいという回顧願望が強くなってきた。

(ベランダのノースポール)
 そこで、押入れに首を突っ込んでアルバムを探した。アルバムとはいうものの、子供たちが保育園に入るまではそれなりに整理したのでそれらしくはあるが、それ以後はただ写真を撮って保管してあるに過ぎず、雑然としていてアルバムなどと呼べる代物ではない。

 何時・何処で・誰が・誰と・何のために撮ったのかも判然とせず、1枚1枚の写真を見ながら考え込んだり首を傾げたりと苦笑いをしながら数百枚の写真をめくり続けた。

 不思議なもので、そうしているうちに、この写真は娘との初めてのハイキングであったとか、息子の保育園のお迎えの際に、先生にシャッターを押してもらったのだとかが、少しづつ記憶としてよみがえってきて、だんだんと嬉しくなってきた。最近では、昨日の食事がなんであったかさえも忘れる始末なのに、20年も30年も前のことが次々と想い起こされるのだから、自分でも驚く次第である。

 押入れから箱ごと引っ張り出して、部屋中に撒き散らかして、ああだったこうだったとか独り言を言いながら、何とはなしに時空列的に整理を始めると、その時々の瞬間が鮮明に浮かび上がってくるようになってきた。だから、何十年も整理できずにいた難題のはずのその作業がとても楽しくなってきて、雑然としていた写真も、妻関係の思い出、娘関係の思い出、息子関係の思い出、仕事関係の思い出、家族みんなの思い出などとそれなりに整理ができ、アルバムづくりの基礎ができたように思えてきた。とは言え、我が家の写真はこれだけではなく、押入れ以外にも最近の孫たちの写真を含めた相当量があるのだから、基礎ができたなどと喜んではいられない。

 亡くなった両親や長兄・祖父母のあれこれの記憶や、中学高校時代の青臭い自分や青春時代の中での妻との出会いなどが、めくられる1枚1枚の写真から思い起こされて整理する手が止まってしまうのだが、我が家のアルバム作りもようやくその第一歩を踏み始めた言えそうだ。台帳に貼りつけたり、コメントを書き綴ったりといった作業はこれからであるが、焦る必要もないことだ。1枚1枚に込められている懐かしい思い出をたどりながら、じっくりと取り組んでいこうと思う。

 押入れのアルバム(?)にもようやく光が届きそうである…。
 



2012年10月22日月曜日

嬉しい便り

(埼玉県吉見町の道の駅で求めた桔梗)
凛とした姿が何ともすがすがしい風情を醸し出している。孫娘とドライブに出かけた際、道の駅で求めてきた桔梗であるが、しばしの間我が家のベランダに涼風を感じさせてくれた。
歳を重ねたせいか、こうした1輪の花にも愛おしさを感じるようになった。

 その歳を噛みしめ味わえる嬉しい便りが届いた。小・中学校時代の同級会(同年会)の知らせである。還暦時以来5年ぶりに開催するというもので、その幹事の中に彼の名を見つけた時は、心からの喜びを感じたものだ。なぜなら、彼はあの忌まわしい震災で家を失い最愛の娘さえも失っていたからだ。

 彼の惨状を知らせ、少しでも励まそうと、郷里(福島の会津)の同級生から呼びかけがあったのは、震災後の間もない時期であった。その呼びかけが、とても嬉しくて世話役たちには感謝さえしたものである。同級生っていいよね。

 しばらくして、彼からの直筆の礼状が届いた。その文面からは、悲しみを必死に乗り越えようとしている心情が汲み取れて、思わず涙してしまった。その彼がである、幹事に名を連ねて同級会を呼びかけてきているのだ。嬉しいことではないか、とても素晴らしいことではないか…。その力強く歩んできたであろう彼に会いたいという思いで、肩の痛みも忘れ、喜んで出席する旨のはがきを投函した。○○君、よく頑張ったね、とても励まされたよ。腱板断裂ごときはなんのそのの気概を持たなちゃね……。

 老いても凛として生きたいものである。


2012年10月21日日曜日

まだまだハイキング気分!

(埼玉県吉見町の吉見百穴)
孫たちの運動会もようやく終わった。4人の孫たちの内、3人の運動会(2日間)に行った。雨で途中中断となり翌日延期ということもあって三日間費やしてしまった。これから何年間かは、こうしたことの繰り返しとなりそうだ。やれやれというところなのだが、張り切る妻に引っ張り出され、文句も言えないたといったところである。

 一人だけ行けなかった小4の孫娘は、その償いとして一寸した見学ドライブに連れて行った。埼玉県吉見町の古代遺跡・吉見百穴を見学しに行ったのだ。当初は、行田市手前のさきたま古墳公園に行く予定であったが、公園の資料館が休日とのことで、発掘された遺物を孫に見せられないため、急遽の変更となった。

 古代人(弥生時代から古墳時代)の住居とみなされていた横穴は、発掘された資料(遺物)からお墓であったことが証明されたが、硬い岩盤に多くの横穴を穿ったその努力を考えた時、鉄器もままならなかったであろうその時代の困難な作業から、死者を弔う素朴で必死な思いが伝わってきて、思わず手を合わさずにはいられなかった。

 岩盤は、触れてみるととても硬いものであった。先の太平洋戦争ではその硬さを、軍事工場として利用するため、お墓である横穴を穿ち広げ、古代人の聖域を冒瀆した。おそらく軍事優先の名目で、遺跡の価値も古代人への思いも何ら考え及ばなかったに違いない。悲しいことではあるが、戦争とは人間として大切な感情をも失くしてしまうもののようだ。

 小4の孫娘も資料を興味深げに見て回っていた。学校に持っていくのだと写真も撮っていた。でも遺跡の持つ重要さや、古代人の思いは、感じることができていないようであった。まだまだハイキング気分の孫娘である。小4に求めるのは無理とは思うが、願わくは次回訪れるときには、そうしたものを感じられる娘に成長していてほしいと思う…。