2013年7月8日月曜日

初めての収穫!

(花が咲いたので期待も大)
(期待通り立派に結実)
(我が家での初めての収穫)
前回の投稿から、いろいろなことがありすぎてどう投稿すれば良いのかと、考え込んでしまった。グローバルなできごとや、ほんの身の回りのできごとでもその変化は激しく目まぐるしいもので、そのできごとの理解に追いつかず、自分の処すべき対応も見いだせないまま今日に至ってしまった。

 別に大げさに考えているつもりはないが、シリア・トルコ・エジプトの問題などは、その根底にあるものが理解できないので、宗教・民主主義・経済問題などを説かれても一向に理解できないままにその推移を見守っているだけだ。

 国内問題では、相も変わらずに理解しがたいことが続いている。先の東京都議選の結果は、危うんでいた通りの結果となり、腹立たしい限りでしかない。命よりも株(景気)の動向が大切だとの判断をしたということなのか。それでも、一部とは言え、反原発や憲法改悪反対・戦争反対を唱える政党が議席を倍増させたことは、酷暑の中で清涼飲料水を味わうがごとくの清々しさを感じさせてくれた。

 現在参議院選挙中であるので政党名は伏せるが、その政党の存在意義すら定かでないもろもろが多すぎる。それらの政党は、暗雲に更に曇りガラスをかざすような役割をはたしており、毒素を全世界に売り歩こうとしている輩を陰に陽に支えている。始末の悪いことには、その自ら果たしている役割に気付いてはいないのだ。そのことが、日本の右傾化を確実に促進させていることに一日も早く気付き、今何が大切なのかを改めて考えなおしてほしいものである。この参議院選挙も、都議選と同様の結果が予想されており、私にとっては憂鬱でしかないが、微力を尽くして、命を本当に大切にする勢力の躍進に貢献したいと考えている。

 写真は、我が家のベランダで初収穫をした茄子を撮ったものである。さほどの手入れはしていないが、毎日の水やりと野菜の病気や害虫駆除には気を配ったせいか、見事(?)に収穫ができた。次々と花も咲かせているので、この夏は自家栽培茄子を堪能できそうだ。この茄子のように、命を大切に、丁寧に育てれば必ず実は結ぶのである……。

2013年5月31日金曜日

ラップの芯で楽しもう!

(ラップの芯などで作ったオモチャ)
右の写真は、ラップやトイレットペーパーの芯で作ったオモチャである。適当に切り刻んだり、組み合わせたりしながら形作っていくのはそれなりに楽しいものであった。サイズも何もあったものではない。ただ、適当に作業を進めていく中で出来上がったシロモノ(?)ではあるが、出来上がってみるとそれなりに愛着がわいてくる。目ざとくこれらを見つけた4歳の孫が欲しい欲しいと騒いだが、すぐに壊されるのは分かり切ったことなのでとうとうあげずじまいにしてしまった。

(セスナ機?)
私はとても不器用な方なので、妻はその完成を危ぶんでいたのだが、出来上がった作品(?)をみて、意外であるといった表情を見せていた。今では、新しい芯が出るとすぐに私に手渡すようになっている。夢中になって作っている私を見つめながら、多分、「子供がえりでも始まったか?」と思っているのかもしれないな。とにかく、楽しんでいる最中である。

 いらなくなったボタンや孫のオモチャのタイヤも部品として大活躍している。プロペラは、ラップの芯で作ってゴム動力で回るようにしてある。苦労したのは、そのプロペラを固定させることであった。小さなボタンを利用して針金で回るようにしてみたが、残念ながら、今の私の力量では自走したり飛行させるまでにはできそうもない。ただ、子供みたいにプロペラの回ることを楽しんでいるだけなのだ。

(チキチキ大レース?の車)
下の写真は、パソコン用インクの入っていた小箱とトイレットペーパーの芯を使って作ったチキチキ大レースに出てくるような車である。組み合わせによっては、意外に面白い発想も湧いてくるようだ。この車はまだ孫には見つけられていないので、見つかったらまた欲しいよと騒がれそうだが、今度は「大事に優しく扱って」と注文をつけてあげようかと思っている。やはり、孫の喜ぶ顔はなにものにも代えがたいものだからね。でも、本音はチョッピリ惜しい気もする…。

2013年5月14日火曜日

一喝される!

(妻が頂いたシクラメン。毎年咲いて楽しませてくれる。)


電話が鳴った。妻が取り上げてO先生からだと言う。O先生は80才間近の税理士である。何だかんだと先生との付き合いは長く、私の上京後すぐからのお付き合いである。だから、年数だけであれば四十数年もお付き合いしていることになる。

O先生は、東大出なのに、労働運動(特に未組織労働者の組織化)に命を懸けて取り組んでいて、自身の栄達などまるで顧みない熱血青年闘士であった。上京したてで、小企業勤務の苦汁を飲まされていた私にとっては、先生は頼りがいのある憧れの存在でもあったのである。先生とは、直接の親交というよりは、地域支部という組合関係を通じての触れ合いであったが、その折々の触れ合いの中での印象は常に強烈に心に残るものであった。まさに、私にとっての英雄そのものであった。

ある時、私たち三名(友人2名を含む)は、売上税(今日の消費税)創設反対のポスターを電柱に貼っていた。当時は、今と違って、政治的主張はポスター掲示によることが多く、労働運動や政治運動をする者にとっては、電柱は警察に捕まる危険はあっても格好の主張の場でもあったのである(現在は電柱でのポスター貼りはほとんどなくなっているが…)。その時は不運(?)なことに、ポスター貼りを通報され、パトカーに追い回されて私以外の2名が捕まってしまった。あわてた私は、知人に連絡を取って、即時釈放を求めて集団で警察署に押しかけた。20名以上であったか、深夜にもかかわらず集まってくれた仲間の中にO先生もいて、釈放交渉の中心となって折衝してくれたのである。その対応の見事さや毅然とした態度には、若かった当時の私の魂を揺さぶるのにやぶさかではなかった。とにかく、O先生は私の憧れの人であったのである。

時を経て、労働運動も勢いをなくし今日のようになってしまったが、先生は税理士の資格を取得してその業務をしながら、労働運動への関与を現在も続けている。私は、税務関係の相談等で交流を続けてきているが、未組織労働者の救済の話になると、四十数年前の情熱そのままに熱弁をふるうO先生の姿には、ただただ頭が下がるばかりでなのだ。

(力強く大地から顔を出す筍)
その先生に、一喝されてしまった。
近況いかがと心配して電話をくださったのであるが、健康を理由とした最近の私のていたらくぶりが情けなかったらしく、この状況をなんと考えているかと一喝されてしまったのである。久しぶりの叱責に、身の震える思いがしたが、仰られる通りなので、電話口で身をすくめるほかはなかった。

私にもできる貢献の場があるはずだからと、かっての熱情そのままに話す先生は、あの当時の若々しさを今にとどめていた。本当に頭の下がる思いであった。近日中に訪れることを約して電話は終わったが、私は、久々に身の引き締まる思いにとらわれている。そうなのだ、先生の言われる通り、健康を理由に怠惰な生活を繰り返していてはいけないのだ…。情勢は緊迫していることを忘れてはいけない。奮起せよである………。



2013年4月12日金曜日

入学式で右傾化を知る。

(入学式会場-開会前)
孫の入学式に行ってきた。私としては、式というあらゆるものが苦手なので、足を運びたくはなかったのだが、妻の再三の誘いに止むを得ずといったところで出かけた。

 孫の入学する小学校は、東京に隣接する埼玉県の地方都市で開校9年目を迎える新興地の学校である。建物も近代的で、一見学校とは思えないモダンな造りであった。地元では人気の小学校とかで、3クラス90名余りの新入生を迎えたそうだ。

 緊張する孫を見つめながら、私は、数十年ぶりの入学式を楽しもうと、リラックスしていたのだが、式が進行するにしたがって、顔がこわばってくるのを抑えられなくなっていた。ニュースでは知らされていたが、その現場を目のあたりにして、今さらながらに考えさせられてしまったのである。それは、教育現場への右傾化の押しつけが、考えていた以上に浸透していることに気付かされたからである。そして、そのことに参列者のほとんどが気づかず(?)、無関心であるばかりかむしろ当然の事として受け入れている事実に、肌の泡立つ思いさえしてしまった。

 式であるからには、ある程度の厳かさがあってしかるべきだとは思う。しかし、教頭の開会のあいさつから始まった入学式は、校長・教育長・PTA他と順次の登壇でありきたりの歓迎挨拶等で終了し、孫のために喜べるなにものをも感じることができないものであった。むしろ、孫のためには嘆かわしい事実を知らされて、不愉快そのものであったのである。

(お国のために出撃?)
特に、登壇したすべての者の、団中央につるされた国旗への対応には驚かされるものがあった。必要以上の礼拝とも受け取れるその対応は、登壇前の階段下の拝礼に始まり、登壇後の重ねての拝礼、さらに降壇後の再々の拝礼と、拍手を交えればまるで神社における礼拝そのものであって、かっての国家神道への対応を彷彿させるものであった。こうした国旗へのバカげたへりくだりと強制される国歌斉唱とを抱き併せて考えると、歪められた国家観が無言のうちに押しつけられようとしていることは、私にも容易に理解できた。伝聞だけだはなかったのだ。教育現場では、現実に右傾化が進行していたのである。おそらく、国を愛すること、そのための国旗であり国歌であると関連付けて教育しているに違いない。

 そうした日常の教育が入学式にも反映して、登壇者のすべてに何の矛盾も感じずに馬鹿丁寧な拝礼を繰り返させていたのであろうか。恐ろしいことである。その国旗の横に、象徴天皇でない専制天皇やヒトラーの影が見え隠れしていることに早く気付くべきなのだ。かっての日本は、そうした日常教育の中から、戦争への道を突き進み、国民に塗炭の苦しみを味あわせてきた。お国のためにとの合言葉のもとにである…。

 今日の日本は、内外ともに大変な状況におかれている。北朝鮮と中国の軍事圧力や東日本大震災の復興の遅れ、特に原発事故対応への人権無視の無責任な対応と意識的な風化政策、金融大緩和の名目によるお金のバラマキと日本売りの促進等と複雑怪奇な課題に取り囲まれている。こんな時だからこそ注意しなければならないのだ。彼ら(戦争を企てる勢力)にとっては、防衛を名目にして民族意識を駆り立て憲法を改悪して再軍備を計り、経済復興を名目にして増税(軍事費増強)を正当化する絶好のチャンスであるからだ。危険な状況である。国民一人一人が、身近な幸せに酔っている時ではないのである。目覚めよう、今目覚めなければ悔いを残すに違いないのだ。

 入学式で感じた不快感から、話が飛躍してしまったが、私は私たちが今こそ声を上げ行動に移る時だと思っている。たかが国旗への対応ではないかなどと、見過ごしてはならないのである。危険な躍動に対しては、声を大にしてその芽を摘んでしまわなくてはならないと思うのだ。そのことが、愛する孫たちへの果たすべき責任であるのだから…。

 

2013年4月10日水曜日

孫を歴女に!

(満開の桜が美しい埼玉古墳公園-丸墓山)
一番上の孫を連れて、埼玉県行田市の埼玉古墳公園に出かけてきた。小5になる孫娘に願わくば将来の歴女を期待してのことであったが、果たして期待通りとなるかどうかは疑問かな?といったところだ。

 私がこの公園を訪れるのは、20数年ぶりのことである。平成3~4年頃に深谷市にいたおりに行ったのが最後で、古墳公園としての環境整備は予想以上で驚かされた。整備されすぎて、古代を偲ぶのにはいささかと惑いを感じさせられる変わりようであった。周辺一帯も公園化されており、田んぼや畑の中の遺跡群といったイメージはなくなっていた。稲荷山古墳のごときは、かっての面影をなくして復元されてもいた。率直に言って少し公園化を計りすぎたきらいがある。欲を言えば、懐かしさを感じさせて欲しかったのであるが…。

 とは言えここの古墳群は、我々に、この国の成り立ちを考えさせるには申し分のない遺跡ではある。それだけの資料を十分に埋蔵していた遺跡であるのだ。稲荷山古墳から出土した、国宝となっている金象嵌の鉄剣などはその最たるもので、中央(ヤマト王権)から遙かなこの地に、これらの古墳を築いた強力な権力者が存在していた事実を教えてくれている。詳細は語らないが、紀元470年頃に、ヤマト王権?の雄略大王が存在し、その大王に仕えたオワケの君という豪族(権力者)がその記念として金象嵌の鉄剣を作ったと、記している。

(稲荷山古墳から出土した金象嵌の鉄剣)
雄略大王(天皇)というと、神話から歴史の世界に踏み出して間もない時代の権力者である。中国への朝貢も知られており、その後ろ盾によって倭国(日本)を代表する権力者(大王)と認められている?人物でもある。俗に、倭の5王と呼ばれている、我が国の黎明期の大王の一人でもあるのだ。その歴史上の人物との繋がりが証明されたのだから、この遺跡の価値はとても計り知れないものである。もっともっと足を運ばなくちゃ…。

 このようなことを、私は孫と語り合いたので、歴女への期待を高めているのだが、広々とした公園や満開の桜の方が嬉しいらしく、あと何年かかるやらとため息が出るばかりである。小5じゃしかたがないのかな…。娘からは、自分の趣味を孫に押し付けないでと、念を押されてはいるのだが、耳をかさずに連れ出すつもりの歴爺なのだ。あきらめないぞ! 

2013年3月25日月曜日

孫来て嬉し、………嬉し。

(写真の花は義兄からの転居祝いの花)
孫来て嬉し、帰ってなお嬉しとはよく言ったものである。
 
 昨年来体調が思わしくないせいか、私の対孫感情が変わってきているようだ。孫に会ったからと言って、前のように無条件に嬉しいということが少なくなってきたのだ。会えない期間が少しでも長くなると、ソワソワしだして電話をかけてしまう等ということもなくなった。

 もちろん孫たちの成長につれて、孫たちが自我に目覚めじいちゃん(私)の思うに任せなくなったということもあるのだが、とにかく、孫たちと接していてうるさいと思うようになったり、煩わしいと感じたりするようになったのは事実である。自他共に認めるじじバカの私に、こうした感情が生まれようとは思いもしなかったことだ。やはり、体調不良で疲れているのだろうか。引っ越しによって、面倒くさいという思いは一段と強くなっており、装いなった住居への孫たちの訪れも心はずものではなく、むしろ鬱陶しくさえもある。

 かと言って、孫たちが来ると、一緒になって真剣に遊び、一緒に疲れ果てているのは変わりのないことである。だから、嬉しいということには変わりはないのだと思う。嬉しいけれど、何かが違ってきているということであるようだ。成長している孫たちの進歩と、旧態依然としている私の対孫感情にズレが生じてきて、そのズレの克服が出来ないことがかかる心の変化を生み出した、ということになるのであろうか。

 最近では、孫たちを叱ることも増えてきた。優しいばかりのじいちゃんではなくなっているのだ。しかる材料となる孫たちの行為が目につくようになって、些細なことと知りつつもついつい叱ってしまっている。郷里の教えではないが「ならぬことはならぬ」と、しかりとばしてしまうのだ。孫たちにとっては、優しいはずのじいちゃんの大変貌といったところであろうか。ときには、ゴツンとやられて、びっくりした顔をして泣き出すこともある。じいちゃん、どうしてしかるのって!抗議の目を向けられることもある。

 困ったものだ。孫たちのせいにしているが、変わりつつあるのは自分(じいちゃん)である事を誰よりも知っているくせに。素直になれない、困ったじじいではある。そんなことでは、孫たちに嫌われてしまうよ!「孫来て嬉し帰ってなお嬉し」なんてことは、まだまだ自分は孫たちに好かれているという自惚れが言わせていることで、孫たちともっともっと触れ合っていたい願望の裏返しでもあることを、素直に知るべきじゃないかな? …理屈やで素直でないおじいちゃん…自分を知りなさい。本当に「…帰ってなお嬉し」なの?………。
 
 

2013年3月13日水曜日

春が来た。でも浮かれまい。

(東京北区の旧岩淵水門)
穏やかな日差しを浴びながら、荒川の河川敷でサイクリングを楽しんだ。写真は、自宅から8~10キロぐらいのところにある、荒川と隅田川(新河岸川)とを結ぶ水防のための調整水門で、その水門が赤く塗装されていることから、「岩淵の赤水門」として知られている。

 私は、初めて行ったのだが、それなりに環境整備がなされており、その独特の風情と併せるとなかなかの行楽スポットとして楽しめそうであった。訪れた時には、あちこちに釣り人の姿も見られ、話を聞くと、釣り場としても知られているとのことで、週末には子連れの釣り人で賑わっているとのことでもあった。釣り好きの私には、願ってもない場所となりそうである。「このポイントで、昨日(3/11)は、75センチぐらいの鯉をあげたよ。」なんて話を聞くと、次回には釣竿を持ってこなくちゃと、思わざるを得ない。ハゼは12月ぐらいまで、セイゴは年中釣れるとのことも聞かされたので、再度の訪れは決まったようなものだ。但し、同行した妻からは、「釣りだったら、一人で来てね。」と冷たいお言葉を賜ってしまったが…。

 昨日の3月11日は、「東日本大震災から2年を経過した日」である。岩淵の赤い水門を見つめながらあの日のことを思い出してしまった。テレビ映像に映し出されていたあの破壊つくされた津波防御壁をの様子が、目の前の赤水門と重なってしまい、自然の恐ろしさに今更ながら震える思いがしてならなかった。昨日は、各局共に、あの震災の特集番組を組んでいた。原発事故やあの大震災の風化をもくろむ風潮への、一石を投じたことになったので、とても有意義なことであったと思う。
(春を告げる白木蓮が咲き始めた)

 私は、郷里が福島であることもあるせいか、震災後の政府対応や政治家達の無神経さには、心からの腹立たしさを感じている一人である。原発を再開させるかどうかを巡っての会合に出席した福島県知事が、被災者に対してのそのあまりなまでの無神経さに憤って、席を立ってしまったとの記事に触れて、当然だとの思いで一杯であった。が、その続きの記事を目にしたときには、愕然としてしまった。あろうことか、その同じ会合で、再開の方向が出たとして、歓迎する拍手が湧き起ったというのである。現場対応に心血を注いでいる福島県知事の抗議の退場を慮りもせず、党利党略のみから原発再開の歓迎の拍手をするなど、人間としての資格をさえ問いただしたい思いである。恥を知れ!である。

 その拍手が、先の総選挙の結果から生み出されたもので、自民党や保守勢力の驕りから出たものであることを、私たちは見逃すべきではない。恥ずべき選択であったことを、思い知るべきなのである。昨今の株価の動きなどから、景気回復云々と騒がれているが、煽り立てられたムードは、その本質と関係なく一時的な現象をもたらすものである、ということを忘れてはならない。そして思いもかけないしっぺ返しが待っているのだとも、忘れてはならないことである。ご用心ご用心なのだ…。


2013年2月6日水曜日

最後の引っ越し?

(整理を終えて回収を待つ段ボール)
1月末に引っ越しをした。段ボール箱で100箱余もの荷物があり、自分でもその量の多さにビックリと言ったところだ。2DKの団地住まいだったのに、どこにそんな荷物が詰め込まれていたのかと不思議でたまらない。役に立ちそうもないがらくたを、よくもまあため込んでいたものだと、我ながらあきれ返ってしまった。

 引っ越しを考えたのは、一昨年3月の東日本大震災の恐怖体験によってである。その恐怖から、7階に住んでいた私は、高層から低層への移動を強く願うようになった。自分の身の安全はもちろんであるが、孫が来ていたらと考えると身の縮む思いがしてたまらなかったのである。孫を連れて逃げ出すのには、どうしても低層に移るしかないと、その移動を考えていたところ、丁度良い具合に同じ団地の別棟に3階の空きが出て、広さも希望通りであったので、急遽、リフォームを待って転居することにした。

(整理した書棚)
歳を重ねるということは、それだけ思い出の品(荷物)も多くなるということで、引っ越し慣れている(13回)私でも辟易するぐらいに、その準備と整理には時間を要してしまった。それでも、多分最後の引っ越しであろう事を考えると、準備も整理も慎重にならざるを得ず、保存をきめる取捨選択の手間暇はやむを得ないことであった。写真の一枚一枚にも思い入れがあるのだから、大量の荷物であるだけに、当然と言えば当然のことであったのだ。引っ越しとは、回想に浸る機会でもあるようだ。

 11月の総選挙の結果は、私に暗澹とした未来を予感させ、孫たちやこの国の将来に不安を抱かせるものであった。以後の経過は、進展の速度はともあれ、決して好ましい推移をたどっているとは思えないし、危惧したとおりに動いているとしか考えられない。私は、この引っ越しを契機に、私なりの平和への発信を開始しようと決意している。幸いにも、1年以上にわたって私を苦しめた肩の故障は、引っ越しの激務にも耐えられるまでに回復したようだ。だから、1年半ぶりの仕事への復帰も検討を始めている。困難でも、自分に適した仕事を確保するつもりでいるのだ。