2014年11月13日木曜日

老いるとは?

(かりんの実を見上げて)
あの台風にもめげず、団地内のかりんは吹き落とされることもなく枝にしっかりとしがみついている。そしてそのたくさんの実たちが、黄色に熟して周りにかぐわしいにおいを降り注ぐようになった。

洗面器の中では、お祭りですくってきた金魚が元気に泳いでいる。3尾いたのだが、1尾は脱出を図ったのか、器の外に飛び出して干からびてしまった。可哀そうだったので妻と一緒に植木鉢の片隅にお墓を作って弔った。
そんなこともあって、この絵を描いた後に小さな浄化装置の着いた水槽を買って引っ越しさせた。だから、今ではブクブク泡立っている水槽の中を元気に泳ぎ回っている。

(お祭りですくってきた金魚)
最近、仏心(ほとけごころ)について考えることが多くなった。蜘蛛をつぶしたり、ゴキブリを叩いたり、虫をつまんだりした時などは特に考え込んでしまう。今まで何の気なしにしていた、そうした行為がすごく罪深いもののように感じられてならないのである。

金魚は弔うのにゴキブリなどは当然のように殺してしまう。その差には自分でも納得できない何かを感じてしまうのだ。とりわけて仏教の教えを信じているわけでもないのに、何故かもののあわれを考えてしまうのである。

齢67に至っての心境の変化とでも言えるのだろうか。思いまどろむことの多い昨今である。普段は、政治への不満をたぎらせてあれこれと憤っているはずの自分が、この頃では空の青さや、木々の色づきに目を奪われることが多いのだ。

老いるとはこうしたものなのだろうか?

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