2016年1月20日水曜日

トホホである。

(平成28年のお正月料理)
今年のお節料理には、私の作品(煮物)?は入っていない。昨年は、煮物の大半をそれなりに作って好評(?)を得たのだが、今年は一品たりとも並べられていない。それだけでなく食器洗いにさえ参加できなかったのだから、料理好きの私には波乱の幕開けとなってしまったのである。

昨年の暮れ(12/29,12/30)に、私たち夫婦は、娘家族と一緒に千葉の館山に出かけてきた。宿が取れなくて、漁港近くの民宿だったのだが、施設・料理ともに評価するには今一といったところであった。娘夫婦のお誘いなのだから何も言うつもりはないが、首を一ひねりといったところだ。それでも、私は婿殿と釣りができたので、海と戯れて楽しい旅行であった。

その肝心な釣りに関しては、魚がいるのに釣果はさっぱりというもので、小物ばかり数尾という寂しいものであった。もちろん腕前云々というよりは、仕掛けが適合しなかった(?)のだから仕方のないことであった。でも隣の人たちが、アジやタコ、このしろ、クロダイ、キス、メバル、ボラなどをそれなりにあげているのを見るのは羨ましくも情けないことであった。

そんな私に同情してくれたのか、その人たちの一人が、食べるならと大形のボラを一尾恵んで(?)くれた。ボラは捌いたことがなかったので、少し躊躇ったが好意を謝して頂いてきた。そしてそのボラが、波乱の幕開けを呼び込むこととなったのである。

なんのことはない、おいしく捌くはずが自分の指を捌く(切り傷)始末となり、暮れの30日から正月の15日ごろまで水を使うことができなかったのだ。、好評の(?)の煮物もつくれず、お節の一切を妻に任せざるをえなっかったのである。私にとっては残念至極のことであった。子供たちや孫たちから「じいちゃんの煮物は美味しい」と言ってもらいたかったのに----あーあーである。

繰り言/捌いたボラは、意地でもと刺身にして食した。活きがよかったので癖もなくまあまあ美味しかったが、妻は、私が自分の指を捌いたことからかあまりおいしそうには食していなかった。 トホホである。


2016年1月15日金曜日

グーの音も出させない!

(議員会館前で抗議 1/4)
新年を迎えても、安倍自公の暴走は止まらない。1/4から始まった国会審議でも、その独善的態度を改めようとせずに、ひらきなおりと言い逃れに終始し、臨時国会を開かなった憲法違反の行為や、消費税軽減税率の曖昧さ、選挙目当ての3万円バラマキ、心のこもらない慰安婦問題での日韓妥協等と国民を愚弄して憚らない。

新年早々の国会抗議行動では、安倍が本性を露わにして、憲法改悪の目論みを明言したので、その怒りも頂点に達していた。国民に挑戦状をたたきつけたも同じだからである。驕りに任せて「止められるものなら止めてみろ」と嘲笑っているのが窺い知れるからでもある。

安倍がひたすらに憲法改悪に向かっているのに、肝心な野党共闘は遅々として進んでいない。新宿西口での「市民連合の初集会-1/5」も、私には期待したほどの盛り上がりが感じられなかった。

それは、政党、特に民主党の本気度が感じられなかったからだ。憲法学者の小林節氏や中野晃一氏の言う通り、今は、政策の違いがどうのこうのを言っている場合ではない。この国が、戦争への道に確実に踏み出したという事実を重く考え、危機は目の前に迫っていること、事態は緊急を要していることを、全身で受け止めるべきなのだ。一党のみの利益に縛られている時ではない。いい加減にしてほしいと思う。

(北朝鮮の妄動ぶりを伝える新聞-1/7)
北朝鮮の妄動は、日本の軍国主義復活への口実を与えかねず、サウジアラビアとイランの対立も中東介入という機会を、安倍政権に与えようとしている。狡猾な安倍政権が、この機を逃すはずはない。にもかかわらず、最大野党の民主党は、事態の本質や深刻さを勉強しようとせず、党内派閥の思惑に左右され続けており、ただただ情けない姿を晒すのみである。しっかりしろ民主党!身を捨てる覚悟で安保法案に対処しろ!民主党主導で勝てるとでも思っているのか----。

今や、自民党ばかりでなく、大阪維新やその他の反動どもまでもが、憲法改正を叫んで国民をだまそうとしている。と言って、このままの事態を見過ごすことはできない。こんなはずではなかったと慌てふためく公明党はすてておいて、私たちは、戦争反対で一致できる全勢力を結集させる必要がある。そして、60年安保を上回る、一大闘争を展開をさせなければならないと思う。それこそ、「100万人規模の国会包囲デモ」等を組織して、反動勢力にグーの音も出させない一大抗議行動を起こすべきだと思う。ぜひにでも実現させたいものである。


2016年1月1日金曜日

申年は、暴れ年?

(今年の干支のサル君です。)
明けましておめでとうございます。
と、手放しで祝うことができるかどうか不安な情勢となっている。

証券業界には、申年は暴れ年になるとして注意を呼びかける向きがあるようだが、安倍自公に壟断されているこの国の前途はいかがなものであろうか。

年末のあわただしい「日韓劇場」は、歴史のゆがみをただすものとは程遠い、被害者を置き去りにしたご都合主義の政治決着パフォーマンスであった。厳に、被害者の元慰安婦たちの激しい抗議行動に見舞われ、その曖昧さを両国民の前に露呈した。

ここのところの安倍政権の行動は、すべてが7月の参議院選挙に向けた票獲得のための欺瞞的な行動だ。そこには、国民の思惑や意思は存在してはいない。あるのは、この参議院選挙で、憲法改悪を推し進めようとする邪悪な企みだけである。国民を、表面的なもので釣り上げようとする、姑息で陰険な政治手法の連続でしかないのだ。

愚かでお粗末な公明党でも、安倍自民の企みに気づかないはずはない。それなりの見識を持ち合わせてはいるはずだから、内心では慌てふためいているに違いない。それでも、彼らは、安倍自民とは袂を分かつことができないと思う。なぜなら、彼らにとって権力とは、麻薬にも似た甘い蜜のようなものとなっているからである。今の公明党は、学会などの支持者から、手ひどいしっぺ返しでも食わない限り目覚めることないと思われる。それほどまでに、権力の亡者となり果てているのだ。もはや、期待はできないし、すべき存在ではない。

この年が、例え暴れ年と言われようと、私たちは乗り切っていかなければならない。乗り切って、安倍自公を必ず倒すのだ。そうしなければ明るい未来は望めないし、孫たちに胸を張って平和を語れななくなってしまう。見ザル、聞かザル、言わザルとなって、負けザルなんかになるものか!........である。