大阪維新の会という政治会派・団体(?)が、自称して流行らせているようだ。
維新という言葉からは、すぐに明治維新という歴史の転換期が連想できる。そこからは、坂本竜馬・西郷隆盛・高杉晋作・吉田松陰などの名前も思い起こされ、黒船以来の激動の時代であったことも偲ばされる。そしてその維新が、幾多の犠牲の上に成し遂げられたものであったのかをも考えさせられる。
私も、維新活動が、社会の行きづまりや停滞を打開すべく、変革を求める有為の志士による犠牲的活動で成し遂げられたものであることは承知している。今日、維新を叫んでいる人達は、今こそが激動の時代であり、明治維新のような一大変革を求めて、立ち上がる必要があるのだと主張している。こうした動きのあることに対して、マスコミの大半は、その活動に参加する者たちこそが正義の志士であるかのように、持ち上げ祭り上げようと煽り立てている。それも、過激な言動を繰り返す一部の新進政治家?達を、さも平成の時代における坂本竜馬であるなどと、なぞらえかねない論調をもってしてである。
こうした風潮は、無責任なあおり報道の追い風を受けて、維新の活動に集うものは正義の改革者であり、反対を唱える者は時代遅れの偽政者であるとの色分けを無理矢理に行ってしまってもいる。今、盛んに報道されている維新活動なるものは、今の政治の欠点を抉り出すことによって、それらへの民衆(市民)の不満を、過激で先導的な言動の繰り返しで集約し組織化しようとしているものに他ならない。しかし、そこにかってのヒットラーやムッソリーニの影やにおいを感じてしまうのは、一人私だけではあるまいと思う。多くの国民(市民)が、同様の漠然とした危惧を抱き始めているのではあるまいか。
ここ数年で新星のごとくに現れた大阪市長の橋下氏は、市民の不満をうまく煽り立てて利用した前の小泉元首相によく似ている。行動力もあり、弁もたち、アジテーターとしては申し分がない。大阪の府民(市民)は、特徴あるキャラクターにからしき弱い面があるようで、その人物の政治性や人間性というよりは、その人物に特徴的なキャラクター性があるかどうか、人情味があるかどうかが、選択の基準とされている場合が多いようだ。かの横山ノック氏を2期にわたって選択したことなどは、その端的な例であると思う。失礼な話ではあるが、かの横山氏に、府知事としての資質や先見性があったとは、私には到底思えない。人間味という点では、破廉恥な行動によって退いたというところでは証明されたが、あまりに情けないことであった。大阪府民は大いに反省すべきである。
私は、再登場が期待されている前の小泉元首相を、政治家としてはさほど評価してはいない。なぜなら、かの元首相は、国民を愚弄してはばからなかったからだ。郵政問題を前面に立てて、国民を一大旋風に巻き込んで政治を混乱させ、その混乱に乗じて、イラクへの自衛隊派遣を行うなどは恥ずべき行為でしかなかった。それも、安全区域は行ってみなければ分からないとか、自衛隊が行っているところが安全区域だとか、くもをまくようなこと言い続けて国民を愚弄した。自衛隊員の命を軽んじるのもいい加減にしろといったところである。
マスコミの作り出した小泉ブームは、国民生活をないがしろにして、格差社会を生み出すことにもなった。私は、タクシー乗務員としてその時代を見てきたので、暮らしがだんだん厳しくなって来ていることを、実感として受け止め続けていた。だから、純ちゃんなどと手を振って騒いでいた多くの人々を、冷めた情けない思いで見ていた。自民党をぶっ潰すという威勢のいい掛け声に騙されて、国民生活を壊されてしまったことを、私たちは真剣に反省しなければならないと思う。同じことを繰り返してはならないのである。
然るにである、犯してしまった過ちを、私たちは再び繰り返そうとしているのだ。今、大阪維新の会?を核として、平成維新とやらを目論む人たちに、国民のすべてが巻き込まれようとしている。そして、過ちを繰り返す危険な徴候も、ところどころに見られるようになった。確かに、今日の政治(家)に、国民生活を委ねることは誰しもが不安に思うことであろう。何の政策も打ち出せず実行もできない政府や国会に失望することは、当然の成り行きであるからだ。だからといって、この閉塞感を打開するために、今のブーム的流れに身を委ねてしまっては、自らを身動きできない立場に追いやってしまうことになる。
今、大阪と東京の指導者の提携云々が、マスコミで大きく取り上げられている。今日の日本は、強いリーダーシップによってのみ混迷から脱却できるので、その資質を持っている東西の指導者に国政を預けたらどうかというのが、その根拠であるらしい。最新の情報では、意見や立場の違いを超えて、大まかなところで妥協し合えるための「船中八索」なるものも、チラホラと見え隠れ始めた。なにおかいわんやである。かの東西の指導者の主張に共通していることは、強いリーダーシップによる教育の改革であり、国旗掲揚に起立し、君が代斉唱を何の疑問も持たずに成長する子供たちを育成することにある。そして、そうして教育した子供たちを、右習いで行進させることが最終目的でもあるのだ。反論もあるであろうが、私には、彼らの行き着くところはそこでしかないと思えてならないのである。
彼らの共通点を、もう一つ取り上げてみたい。それは、彼らが、与えられた任務を全うもしないで、中途半端に放り投げてきた言うことである。東京都知事の石原氏は、参議院議員の任期半ばで衆議院にくらがえし、そのくらがえした衆議院議員の責務も都知事に挑戦して放り投げ、敗れるや再び衆議院議員に返り咲き、その衆議院議員も25年の政治活動を理由にして、任期半ばで責任を放り投げた。そして4年のブランクの後、再度都知事に挑戦して当選し現在に至っている。橋下氏にしてもしかりである。大阪府知事に当選するや、多くの課題を府民に投げつけたままその責務を投げ出して、大阪都構想を掲げて大阪市長にくらがえした。まるで、ロシアのプーチン氏を彷彿とさせる行動をとっている。そうすることが、責任を果たすことになるなどとの彼らの言い訳は、私には詭弁としか受け取れない。投げ出した事実は事実でしかないのだから。
私は、自己の人気にあやかって責務を投げ出し、その任期も全うできない政治家は信用できない。まして、その人気におもねり、すり寄ろうとしている政治家などは、なおさらに信用ができない。今、マスコミが犯している過ちは、こうしたブーム的現象を、強いリーダーシップを持つ者の出現であり、維新改革の具体的行動が始まっていると、歪めて報道していることである。ブーム的現象による政治の結末がどのようなものであるのかは、かっての日本新党や、横山氏・青島氏・小泉氏からも苦い教訓として知らされているはずだ。だから、マスコミは、維新などとの言葉で、私たちを混乱させないで欲しい。
冷静に現実を見つめようよ---。マスコミの煽り立てに踊らされず、選択の目をしっかりと養おうよ---。かってドイツが犯したように、誤った民族主義に陥っての焚書活動や国会放火事件などの暴挙を、是として容認しないように、私たちは曇りのない確かな目でこの国を見つめて行こうよ---。過激な言動に迷わされることなく、この国が誤った進路に踏み出さないように、しっかりと監視して行こうよ---。子や孫の為にもね---。
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