2014年7月23日水曜日

ひと思案ひと思案。

(集団自衛権を合唱する雀の学校-
-自民・公明・維新・みんなの党等々)
雀の学校のように、仲良く並んで「平和・平和」と合唱しているのに、その実は「戦争・戦争」と集団的自衛権を唱えている、不思議な合唱団がある。

数を恃んでやりたい放題にして国会を糞だらけにしている。国民の生命や権利などというものは、自分たちの権力を維持するがためには、二の次三の次と言った合唱団である。

あれほど無茶を通して憲法解釈をねじまげた内閣決定をしておきながら、選挙に不利だからとその本質に迫る各法案は、統一地方選挙まで棚上げにするというご都合主義にはあきれ返ってしまう他はない。多くの国民の反対をおしきってまで捻じ曲げた憲法解釈は、結局は党利党略に基づくものでしかなかったことを彼らは自ら証明してしまったのだ。

最近のマスコミ報道も、集団的自衛権の問題にはあまり触れなくなってしまった。毎度のことであるが、掘り下げて継続して追及するという姿勢は保てないようである。情けないことだと思う。

(ちょっとまて、平和のためにひと思案)
2枚の絵は、墨絵教本の模倣画であるが、私の訴えたい心情をよく表していると思う。

猫ではないが、この国の為にも、全国民が「平和のためにひと思案」をするべきではなかろうか。

小学二年生の孫が、夏休みになったのでということで、早速泊まりに来た。
この孫は、ついこの間まで釣りに連れて行っても魚にも餌にもさわれない孫であったが、頑張るからということで富士見市の用水堀に小魚を釣りに連れて行った。

写真は、その釣果である。小さな鯉が1匹(尾)に、フナが2匹、クチボソが7~8匹といったところであったが、くだんの孫は暑いなか2時間以上も頑張ることができたので、合格点をあげようかと思っている。(クチボソ4匹の成果)

先に海釣りに連れて行った孫は、すでに合格点をあげているので、これで二人目である。楽しみが増えたというものだ。
(富士見市の用水堀で釣果)

今、戦争に参加しようとしている無責任な政治家たちに、このかわいい孫たちを奪われてたまるものかとあらためて思う次第である。

「平和のためにひと思案ひと思案」……。


2014年7月16日水曜日

古代蓮の里に行ってきた。

(埼玉県行田市の古代蓮の里 7/15)
行田市の古代蓮の里は、古代遺跡発掘中に発見された2000年前の蓮の種子を、大切に守り育てて、現代に蘇らせた処である。

蓮池一杯に咲き誇っている古代蓮は、「行田蓮」と名付けられている。魅惑的な色合いの「甲斐路」と名付けられた交配種も、その「行田蓮」を元としているとの事であった。なんでもアメリカの種子との交配らしく、2000年をかけた日米親善(?)と言ったところか。

7月1日の自公政権による憲法無視の「閣議決定による集団的自衛権の容認」という暴挙から、一昨日(7/14)は初めての国会開催日であった。

安倍首相は、野党の質問に対して、相も変わらずにとぼけた答弁を繰り返し、集団的自衛権の本質から国民の目をそらそうと、見苦しい態度を続けていた。あげくは、先に公明党を妥協に誘い込んだ約束事(基本的な3つの歯止め事項)を、早速破る言動も開始している。

(大きな目で自公政権を監視)

とにかく、何が何でも「戦争のできる普通の国」づくりをするという姿勢が見え見えである。閣議決定してしまったのだからと、用済みとなった公明党の存在など歯牙にもかけなくなるのはそう遠いことではないだろう。

歯止めをかけたと見栄を張った公明党幹部は、その妥協による政治駆け引きで、日本国民を戦争の危険へと導いてしまった責任を、国民にも同党の支持者にも、創価学会の信者に対してもどうとるというのだろうか。私には、権力妄想者達の心理などはとうてい分かりはしないが、責任だけはしっかりととって欲しいと思っている。

古代蓮の話ではないが、真の日米関係の改善こそが望ましいのであって、軍事的に従属した関係等は決してあってはならないことである。親分と一緒に戦争ができると喜んでいる安倍首相には、一日も早いご退陣を願いたい。公明党は、政権離脱を覚悟して、泥にまみれた「平和の党」の表看板を綺麗に洗い直して欲しいところである。

7/13投票の滋賀県知事選での自公勢力敗退は、今、国民が何を望んでいるかを示した結果だったと思う。
国民の誰もが戦争などしたくないのである。放射能の危険に満ちた原発再開など誰も望んではいないのである。

安倍首相は、驕るのもいい加減にしろ!
公明党は初心に還れ!………なのである。

2014年7月7日月曜日

打倒安倍政権!

( 郷里・会津の里の夜明け -6月- )
右の絵は、郷里・会津の夜明けである。母の亡くなった平成23年6月に撮った写真をもとにして描いた。

絵を描きながら、その母の亡くなる3カ月前に東日本大震災が起こり、老人施設にいた母の安否が分からず心配していた事を思い出していた。

郷里の会津にも、多くの被災者たちが避難してきた。町ぐるみの避難で、その被害の甚大さを思い知らされたものであった。それも、原発の事故による放射能被害からの脱出という悲惨なものであった。

あの震災から3年を経過した今に至るも、まだ多くの人たちが、故郷に帰れないでいる。安倍政権が糊塗しているような復興などは、その実態が程遠いものでしかなく、将来を奪われた事実には何の変りもないのだ。

安倍首相は何かというと、現地を何度も訪れたと言明しているが、原発被害の深刻さを理解しているというのであれば、その被害をもたらした原発の徹底した検証もなしに、ベトナムなどの諸外国に経済界の代弁者として原発売り込みなど出来る筈はない。つまりは、現地訪問は単なるパフォーマンスに過ぎないということである。財界・大企業のための行動でしかなかったということだ。
(のどかな山村風景-教本の模倣画)

自公政権の7月1日の暴挙以来、私は、現政権のすべてが信じられなくなっている。
今、マスコミを賑わせている「拉致被害者をめぐる北朝鮮との交渉再開」も、純粋にもろ手を挙げて喜ぶことができないでいる。先の暴挙をカモフラージュする駆け引きに利用されているのではとさえ思えてしまうのである。シナリオは、すでに出来あがっているのではないかと穿った見方さえしてしまうのである。彼らの暴挙は、そう考えさせる多くの内容を含んでいるのだ。

こうした考え方が、被害者家族に対して不遜な考え方であることは承知しているが、安倍首相の発想には、軍事国家再建を目指すという彼の命題が常に見え隠れし、何でも利用するという匂いがしてならない。私は、被害者家族の為にも、純粋にそうでないことを祈るばかりだ。

今のままに自公政権が続けば、そう遠くない時期に、私たちは再び戦争の惨禍にみまわれることになるだろう。そうならないためにと声をはりあげているのだが、残念ながら、彼らには届きそうにない。財界を潤し、アメリカに歓待されさえすれば、国民の声などは無視してはばからないからである。

その彼らのこれ以上の暴挙を阻止するためには、彼らを政権の座から引きずりおろすほかないのだ。選挙で敗北させる他はないのである。彼らの本質を、国民全体で見抜く他はないのである。

今こそ、安倍政権打倒の国民的大運動が必要だ。



2014年7月2日水曜日

まるで、童話のようだ…。

(水彩画教本からの模倣画)
娘がブログを見たとメールをくれた。父の日を忘れていて申し訳なかったと、あらためて電話をくれ、遅ればせながらと“パステルのスケッチセット”をプレゼントしてくれた。
右の絵は、そのパステルを使って描いたものだ。相変わらず、教本の模倣に過ぎないが、それでも楽しく描くことができた。

大人気もなく僻んだり拗ねたりしていた私だが、娘や孫の顔をみるとやはり頬が緩むのはどうしようもない。我ながら現金なものだと呆れている。

息子からは相変わらずの音沙汰なしであるが、孫の誕生祝(7/3)の呼びかけもないので、父の日の件できまづくなり、電話ができないでいるようである。
私は、妻と話し合って、、孫の誕生プレゼントを誕生前に届くように郵送した。本来なら、届けてあげればよい事(車で15分)なのに、まだ不満が残っているのであえて郵送にした。

(与野公園のバラ園でパチリ)

昨日(7/1)は、この日本の平和精神を根本的に変えてしまった忌まわしい日となった。
政府与党によって、閣議決定だけで憲法解釈ができるとする暴挙がなされたのである。

得々として、記者会見する安倍首相の顔が、イソップのオオカミにだぶって見えたのは、私だけであったろうか。自民党の高村氏は橋の上のキツネに、公明党の山口氏や北川氏はカチカチ山のタヌキに見えてならなかったのだが、余りにも皮肉にすぎるであろうか。

童話は、本質をついた話が多く、たくさんの教訓を示してくれている。子どもに話しつがれるのは、ただ楽しい話であるばかりではなく、そこに心に触れる教訓が示されているからだと私は思っている。だから、何代も何代も語り継がれてきた。

この国が、オオカミに蹂躙され、キツネのために国益を損ない、タヌキによって火のついた薪を背負わされてしまったことが本当に残念でならない。でも、まだ諦めてはいない。そう簡単に諦めてたまるものかである。国民は決して騙されはしないのだ。