2015年1月25日日曜日

育てたように------

(孫の誕生日1/31に贈る予定の色紙)
右の色紙は、孫の誕生日に贈ろうと私が画いたものである。4人いる孫たちには、それぞれに画いて贈ってあげようと思っている。ささやかなプレゼントも用意はしてある。

この10日あまり、私は言いようのない孤独感に襲われている。前回投稿したように、妻の海外旅行で一人だけで過ごしてきたが、この間の寂寥感というものは思いの他のものであった。

妻の海外旅行の件は、正月の顔合わせの時に子供たちには知らせてある。そのおり、独りで過ごすので、泊まりに来るなり顔を出すなりして、何らかの形でコンタクトを取ってほしいと、子供たちには話したつもりであった。

妻が旅行に出発する前夜、「子供たちからは何の連絡もないので寂しい」と言っていた。せめて、「元気でいってきてね」とかの挨拶が欲しかったと言うのである。私も同感であったが、あえて何も言わなかった。

今この投稿を書いているのは、妻が出発してから10日目のことだ。明日には、妻の元気な顔が見れることと思う。そうしたら、この寂寥感も一挙に吹き飛んでしまうに違いない。だから、この投稿には何の意味もないのかもしれない。

でも、旅行先から妻の連絡がほとんどなかったこと、今日まで、子供たちからの連絡が一切なかったことで、私は家族から孤立してしまったのでは、との言いようもない不安に苛まれている。父親としての存在そのものにさえも自信を失いかけている。誰からも、心掛けてもらえなくなってしまったのではないかという、何とも言えない心境に陥っているのである。こうした感情は、老人に特有のひがみなのであろうか。おそらく単純に忘れているに違いないのだろうが、老いるとはこうしたものなのだろう。

「育てたように子は育つ」とは、常づね妻が口ずさんでいる言葉である。この3~4日は、こうしたことを絶えず考え込んでいた。コンタクトへの期待が多かっただけに、何もないことでなにか裏切られた思いの失望感だけが残ってしまっている。考えすぎだ、被害妄想?だとも思っているが、心はスッキリとはしない。関心も寄せられない、それだけの父親に成り下がったということか。

明日、妻の元気な顔を見たら、何と声をかけようか。子供たちからは何のコンタクトもなかったよと、平静に伝えられるだろうか。素直に、孫のプレゼントを買っておいたよと、話ができるだろうか。妻からの直接連絡がなかった不満を、顔に出さずにすませるだろうか。
でも孫の誕生日には、笑顔でプレゼントを届けようと妻に話すだろう自分を知っているだけに、そんな感情のあやがとても惨めに思えてたまらない。

追加―投稿を終えた夜に娘と孫から電話が入った。やはり忘れられていたようだ。娘には、ついつい嫌味にも似た言葉を吐いてしまった。私もまだまだ修行が足りないようである。


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