2012年2月29日水曜日

雪に強い東京を!

深夜に降り出した雪が、団地の駐車場を真っ白にしている。今年に入って何度目かの降雪になるが、このたった3~4センチ程の積雪が、その都度この東京の交通機能をマヒさせてしまう。とにかく、東京は雪に弱い。

 今朝の8時ごろ、妻を、車で職場まで送ってきた。妻は、いつもなら7キロぐらいの道のりを、健康のためだからと自転車通勤しているのだが「雪道だけは駄目だから送ってよ」と、頼まれたからだ。大雨のときなどにも送っているので、慣れた道筋ではあるのだが、雪道のときは一寸した緊張感を持つので、普段よりも早めに出かけた。車の流れが、まるで違ってしまうからだ。
 
 私の車は、この時期にはスタッドレスタイヤに履き替えており、この程度の積雪には驚かない。でも、東京ではほとんどの車が雪に対応できるタイヤを履いてはいないので、周囲への対応には、結構気を使ってしまう。冬用タイヤを保持することは、それなりに大変なことだ。団地住まいの私などは、その保管場所に苦慮して、知り合いのタイヤ屋さんに預かってもらっているので、毎年季節ごとに履き替えることができているが、ほとんどの人はその保管場所が見つけられずに、困っているようだ。それで、一寸した積雪には、ノーマルタイヤのままで対応しようとして、事故を誘発させてしまう。

 私は、去年の7月までタクシーの乗務員をしていたので、東京での雪道がいかに危険に満ちているかを体験として知っている。あわやといった場面にも何度か遭遇しており、雪が積もりだすと、あたふたと帰庫することにしていた。君子危うきに近寄らずの、逃げの一手に徹底していたのである。でも、業務上、止むを得ずに運転している人が大半である限り、自分の注意ばかりではこの雪道の危険は防ぎきれない。

 そこで、時期を限っての法整備が必要なのでは、と考えることがある。個人の対応だけに頼っていたのでは、根本的な解決にはならないと思うからだ。時期と地域とを考慮した一律的な使用義務とか、道路の損耗を考慮した履き替え時期の規制とか、タイヤ保管場所の設置とかを法的に整備すれば、予測できる危険を未然に防ぐことができるのではないだろうか。

 こうしたことを言い出すと、突拍子もないことだと批判されそうだが、性能の良くなっている車両への一律的な車検制度を見直すことだけでも、予算的な面での解決はできると思えるし、保管場所等も公共の空き地等を防災事業と関連させて活用すればそれなりに解決できると思う。車検制度の見直しで個人の負担もさほどのことにはならないはずなので、実現にはそれほどの困難はないと考えのは甘すぎるだろうか。多くなる廃タイヤの活用についても、従来の油脂化への研究と併せ、チップ化して東日本大震災の復興資材として研究すれば、思いがけない活用法も見い出せるのではないだろうか。

 私のひとりよがりの考えはともかく、雪に弱い東京からの脱却を図るためには、点としての個人対応のみに任せないで、面としての行政対応が必要なことは間違いないことだと思う。皆で考えて見る必要があるようだ。雪が積もったからとあたふたしないで、その風情を楽しみたいものである---。

 

 

 
 

 

2012年2月27日月曜日

癒しの散歩

 小さな区立公園の中に、瀟洒な日本庭園がある。写真は、その庭園にあるこじんまりとした人工の滝である。少し離れた位置から撮影したものだが、庭師の思惑が感じられて、なるほどと頷かされてしまう。

 この公園には心の字池もあり、その池を臨むように一寸した茶室も設けられている。茶室の縁側に腰を下ろして、池に流れ落ちる滝音を聞きながら目を閉じていると、京都の有名庭園を訪れているような錯覚を覚えてしまい、何とはなしの旅行気分に浸ることができる。

 「五十肩」に悩まされている私は、気晴らしと運動を兼て、3~4時間ほどの散歩に出かけることが多い。この区立の公園も、その存在は知っていても訪れることはなかったのだが、散歩ついでに立ち寄ってみたのだ。身近にある公園だからと、これまでに訪れなかったことが悔やまれる。この茶室でなら、茶道の心得はなくとも、茶席について一服を喫してみたいとも思う。そんなことを考えると、気のせいか、しばし、肩の痛みも飛び散っていくようだ。

 散歩は、思いがけないものが発見できて、結構楽しいものである。
春の訪れを探してみたり、時代の移り変わりを感じてみたり、懐かしい風情を楽しんだりと、その時々の感情によって違った発見ができることがうれしい。

 今の私は、一瞬でも肩の痛みを忘れることができる「癒し」の発見を求めて歩いている。小さなリュックを背負って、防寒具にくるまっての散歩なので、だるまさんが歩いているようだ。デジタルカメラを片手に、ゆっくり歩きながら目線を四方に配る。「癒し」に繋がる発見を求めていると、一寸したものでも目につくもので、写真のような果実にもついシャッターを押してしまう。一緒に歩いている妻と、かりんではないし夏みかんでもない、ポンカンでもザボンでもなさそうだ、などと言いながらシャッターを押す。そうした会話の中にも「癒し」は存在するようで、しばしの間は肩の痛みを忘れることができる。散歩の効用大いにあり、といったところだ。

 五十肩になって3ヶ月、痛みは一向に薄れずに、痛み止めの注射も寄せ付けない勢いだ。だから、私の「癒しの散歩」は当分は続きそうだ。身近なところでの、新しい発見を求めながら-----。

 



2012年2月7日火曜日

維新の言葉に惑わされないで!

維新という言葉が流行っている。
大阪維新の会という政治会派・団体(?)が、自称して流行らせているようだ。
維新という言葉からは、すぐに明治維新という歴史の転換期が連想できる。そこからは、坂本竜馬・西郷隆盛・高杉晋作・吉田松陰などの名前も思い起こされ、黒船以来の激動の時代であったことも偲ばされる。そしてその維新が、幾多の犠牲の上に成し遂げられたものであったのかをも考えさせられる。

 私も、維新活動が、社会の行きづまりや停滞を打開すべく、変革を求める有為の志士による犠牲的活動で成し遂げられたものであることは承知している。今日、維新を叫んでいる人達は、今こそが激動の時代であり、明治維新のような一大変革を求めて、立ち上がる必要があるのだと主張している。こうした動きのあることに対して、マスコミの大半は、その活動に参加する者たちこそが正義の志士であるかのように、持ち上げ祭り上げようと煽り立てている。それも、過激な言動を繰り返す一部の新進政治家?達を、さも平成の時代における坂本竜馬であるなどと、なぞらえかねない論調をもってしてである。

 こうした風潮は、無責任なあおり報道の追い風を受けて、維新の活動に集うものは正義の改革者であり、反対を唱える者は時代遅れの偽政者であるとの色分けを無理矢理に行ってしまってもいる。今、盛んに報道されている維新活動なるものは、今の政治の欠点を抉り出すことによって、それらへの民衆(市民)の不満を、過激で先導的な言動の繰り返しで集約し組織化しようとしているものに他ならない。しかし、そこにかってのヒットラーやムッソリーニの影やにおいを感じてしまうのは、一人私だけではあるまいと思う。多くの国民(市民)が、同様の漠然とした危惧を抱き始めているのではあるまいか。

 ここ数年で新星のごとくに現れた大阪市長の橋下氏は、市民の不満をうまく煽り立てて利用した前の小泉元首相によく似ている。行動力もあり、弁もたち、アジテーターとしては申し分がない。大阪の府民(市民)は、特徴あるキャラクターにからしき弱い面があるようで、その人物の政治性や人間性というよりは、その人物に特徴的なキャラクター性があるかどうか、人情味があるかどうかが、選択の基準とされている場合が多いようだ。かの横山ノック氏を2期にわたって選択したことなどは、その端的な例であると思う。失礼な話ではあるが、かの横山氏に、府知事としての資質や先見性があったとは、私には到底思えない。人間味という点では、破廉恥な行動によって退いたというところでは証明されたが、あまりに情けないことであった。大阪府民は大いに反省すべきである。

 私は、再登場が期待されている前の小泉元首相を、政治家としてはさほど評価してはいない。なぜなら、かの元首相は、国民を愚弄してはばからなかったからだ。郵政問題を前面に立てて、国民を一大旋風に巻き込んで政治を混乱させ、その混乱に乗じて、イラクへの自衛隊派遣を行うなどは恥ずべき行為でしかなかった。それも、安全区域は行ってみなければ分からないとか、自衛隊が行っているところが安全区域だとか、くもをまくようなこと言い続けて国民を愚弄した。自衛隊員の命を軽んじるのもいい加減にしろといったところである。

 マスコミの作り出した小泉ブームは、国民生活をないがしろにして、格差社会を生み出すことにもなった。私は、タクシー乗務員としてその時代を見てきたので、暮らしがだんだん厳しくなって来ていることを、実感として受け止め続けていた。だから、純ちゃんなどと手を振って騒いでいた多くの人々を、冷めた情けない思いで見ていた。自民党をぶっ潰すという威勢のいい掛け声に騙されて、国民生活を壊されてしまったことを、私たちは真剣に反省しなければならないと思う。同じことを繰り返してはならないのである。

 然るにである、犯してしまった過ちを、私たちは再び繰り返そうとしているのだ。今、大阪維新の会?を核として、平成維新とやらを目論む人たちに、国民のすべてが巻き込まれようとしている。そして、過ちを繰り返す危険な徴候も、ところどころに見られるようになった。確かに、今日の政治(家)に、国民生活を委ねることは誰しもが不安に思うことであろう。何の政策も打ち出せず実行もできない政府や国会に失望することは、当然の成り行きであるからだ。だからといって、この閉塞感を打開するために、今のブーム的流れに身を委ねてしまっては、自らを身動きできない立場に追いやってしまうことになる。

 今、大阪と東京の指導者の提携云々が、マスコミで大きく取り上げられている。今日の日本は、強いリーダーシップによってのみ混迷から脱却できるので、その資質を持っている東西の指導者に国政を預けたらどうかというのが、その根拠であるらしい。最新の情報では、意見や立場の違いを超えて、大まかなところで妥協し合えるための「船中八索」なるものも、チラホラと見え隠れ始めた。なにおかいわんやである。かの東西の指導者の主張に共通していることは、強いリーダーシップによる教育の改革であり、国旗掲揚に起立し、君が代斉唱を何の疑問も持たずに成長する子供たちを育成することにある。そして、そうして教育した子供たちを、右習いで行進させることが最終目的でもあるのだ。反論もあるであろうが、私には、彼らの行き着くところはそこでしかないと思えてならないのである。

 彼らの共通点を、もう一つ取り上げてみたい。それは、彼らが、与えられた任務を全うもしないで、中途半端に放り投げてきた言うことである。東京都知事の石原氏は、参議院議員の任期半ばで衆議院にくらがえし、そのくらがえした衆議院議員の責務も都知事に挑戦して放り投げ、敗れるや再び衆議院議員に返り咲き、その衆議院議員も25年の政治活動を理由にして、任期半ばで責任を放り投げた。そして4年のブランクの後、再度都知事に挑戦して当選し現在に至っている。橋下氏にしてもしかりである。大阪府知事に当選するや、多くの課題を府民に投げつけたままその責務を投げ出して、大阪都構想を掲げて大阪市長にくらがえした。まるで、ロシアのプーチン氏を彷彿とさせる行動をとっている。そうすることが、責任を果たすことになるなどとの彼らの言い訳は、私には詭弁としか受け取れない。投げ出した事実は事実でしかないのだから。

 私は、自己の人気にあやかって責務を投げ出し、その任期も全うできない政治家は信用できない。まして、その人気におもねり、すり寄ろうとしている政治家などは、なおさらに信用ができない。今、マスコミが犯している過ちは、こうしたブーム的現象を、強いリーダーシップを持つ者の出現であり、維新改革の具体的行動が始まっていると、歪めて報道していることである。ブーム的現象による政治の結末がどのようなものであるのかは、かっての日本新党や、横山氏・青島氏・小泉氏からも苦い教訓として知らされているはずだ。だから、マスコミは、維新などとの言葉で、私たちを混乱させないで欲しい。

 冷静に現実を見つめようよ---。マスコミの煽り立てに踊らされず、選択の目をしっかりと養おうよ---。かってドイツが犯したように、誤った民族主義に陥っての焚書活動や国会放火事件などの暴挙を、是として容認しないように、私たちは曇りのない確かな目でこの国を見つめて行こうよ---。過激な言動に迷わされることなく、この国が誤った進路に踏み出さないように、しっかりと監視して行こうよ---。子や孫の為にもね---。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

2012年2月5日日曜日

鬼(不幸・災い)は外!

 写真は我が家での節分グッズである。目刺しを焼いて、その頭をとって豆の枝の先端にさし、玄関表の窓格子にヒイラギとセットにして1年間置いておく。子供たちが小さかった時分には、私か妻かが鬼のお面をかぶって、逃げる役目を果たしていた。節分も、子供たちと触れ合える楽しい行事の一つであったのだ。

 妻と二人暮らしとなってからは、鬼の面を玄関ドアに貼りつけて、そのお面に豆をぶちまけている。はじめのうちは「福は内、鬼は外」と大声を出していたのだが、年を経るにしたがってその声もだんだん小さくなってしまい、今では口の中でぶつぶつ言っているような具合になってしまった。ぶちまける豆も、あとの掃除が大変なほど撒いていたのを、今は玄関に少々と各部屋にぱらぱらとしか撒いていない。鬼(不幸・災い)は、こうした中途半端な対応を知っていたのだろうか。平成23年は、そうとでも考えないと理解できないぐらいにいろいろなことが起こってしまった。

 健康面では、腰痛の悪化と年末からの五十肩に悩まされた。仕事面では、腰痛から長年勤めたタクシー業界を退いて失業せざるを得なかった。100歳まで頑張るかと思っていた母が97歳7か月で他界した。物的な面でも、テレビ・湯沸かし器・洗濯機・掃除機・お風呂の釜と次々に故障して取り替えた。姪の健康状態が悪くなったり、子供夫婦や孫たちの心配事が多かったりと、とにかく大変な年であったのだ。

 だから、今年の節分はいろいろな思いを込めて豆を撒いた。
 「福は内、鬼(不幸・災い)は外」と大声で------。