2012年11月26日月曜日

危惧が現実に?

(孫たちに作ってあげた紙飛行機)
今年の2月に、このブログで、マスコミが無分別に持ち上げていた「維新の会」の動きと、マスコミの対応についての一文を投稿した。そして、その維新を巡っての動きが、日本の右傾化につながるのではとの危惧を訴えた。

 特に、石原前都知事と橋下大阪市長との野合を懸念し、その流れが日本の右傾化を促進し、かっての戦争への道を歩み始めるのではと、その危惧の本質についてを述べた。

 あにはからんやである。その危惧した通りに事態は進行を始めた。自分を暴走老人と評し、尖閣問題や竹島問題を利用して、自衛の名のもとに再軍備の旗を掲げようと都政を投げ出した石原氏。選挙に勝つためには手段や主張もさえあっさりと変えてしまった橋本氏。日本の逆戻りを目指して歩調を合わせるこの危険極まりないコンビが誕生したことで、日本の民主主義は危険に瀕してしまったと、私は恐れにも似た懸念を感じている。

対抗しようとしてか、また一人、変な政治家が復活してしまった。自民党の安倍総裁である。幕末の吉田松陰に自身を重ねて、憂国の志士気取りで再軍備を主張し始めている。かの松陰もびっくりしているに違いない。まったく次から次と理解しがたい政治家が現れるものだ。私は、さきの一文でも述べたが、自分の任務を全うしないでその責任を投げ出す者は大嫌いである。そのような者を信用できないのは当然のことである。名をあげた3名は、その典型である思う。国難だからと主張しているようであるが、私には、彼らこそがさらなる国難をもたらす人たちであると危険視している。

写真は、孫たちと遊んでいる紙飛行機とゴム鉄砲である。私は今度の選挙が、この日本に 本物の戦闘機と鉄砲をもたらし、戦争への道を 開きかねない危険を孕んだ選挙だと受け止めている。だから、声を大にして訴えたい。ムードに流されるな、マスコミに踊らされるな、自分の1票が進路は決めるのだと。

 
(孫たちと遊んでいる木製のゴム鉄砲)
これまで、何度も味わった来たことだが、マスコミのいい加減さには本当にウンザリさせられている。小沢氏の裁判に関しても、ある面では、マスコミが彼を陥れたといってもいいと思う。彼が2年余も日陰の暮らしを余儀なくさせられなかったら、今日の状況がどうなっていたか分からないと思う。私は、小沢氏の支援者ではない。むしろ、その政治家としての手法には反感をさえ覚えている一人である。でも、政敵を倒すための策謀や、マスコミの格好の餌食としてさらされたことに関しては同情を禁じ得ないのである。こうした誤りが、今度の選挙においても繰り返されようとしているのだ。

 有権者のみなさーん、選択を間違わないようにしてくださーい!



 

2012年11月14日水曜日

同級会に行ってきた。―2

 私の同級生(小・中学時代の2クラス)は、その顔ぶれがほとんど変わっていない。小さな村落だったので、小学校も中学校も同じ顔ぶれで過ごしてきた。その9年間というものは、2名の転校生の入れ替えと、病没した1名があっただけである。だから、私たちの同級会はクラス会ではなく同村同年会と呼ぶべきもので、お互いの子供時代をよく知っており、卒業後の付き合い方も子供時分と変わってはいない。俺お前の付き合いなのだ。

 悲しいことではあるが、中学卒業後から現在までに5名の友が亡くなってしまった。事故や病没によってであるが、その早い別れは惜しむべきものであり、残った私たち五十数名は、彼らの分までこれからの人生を有意義に過ごさなければならないと思う。同級会とは、そうしたことの確認の場でもあるのだ。
(東照宮正面からの紅葉風景)

ホテルでの宴会は楽しいものであった。
年齢(65歳)が年齢であるだけに、話題の大半は健康や孫の話が多かった。特に健康面では、この1~2年の間に、心臓のバイパス手術をしたものや咽頭ガンの手術をしたものなど、人生の岐路に立たされた者もいた。又、大震災で甚大な被害を蒙ったのに、たくましく立ち直ったものもいて、私などは手が上がらないなどとショボクレてはいられないと励まされたものだ。

 子供の話、孫の話、嫁・婿の話と、まるで老人会の集いみたいな愚痴話も多く、気心が知れているだけに遠慮のないアドバイスもでて和やかであった。カラオケを聞くよりは、隣同士で話し合うことの方が楽しく、料理にも手を付けず談じあっていた。余りの楽しさに、次回は5年後ではなく1~2年後に開催しようとの意見が多く、それも修学旅行みたいにはとバスに乗ってみたいなどとの希望もでて、次の幹事への期待も大なるものであった。私も、同室の3人と深夜まで話が尽きず、翌朝は目をこすりながら朝風呂にとびこむほど楽しめたので、次回に大きな期待を寄せる一人である。
 
 バイキング形式の朝食後、一室に一同が会した。そこで別れがたいので、車で参加したものに全員が分乗して、東照宮の紅葉を楽しもうということになった。写真は、その東照宮で撮ったものである。幸いなことにモミジの色付きが特に鮮やかで、全員を楽しませてくれた。丁度見ごろでラッキーであった。混雑が多くなって、全員で昼食をとる場所が確保できず、各車ごとに分かれて食事をとることにしてそのまま散会とすることにした。私は、同方向の4人を乗せて、鹿沼までの杉並木を楽しんで帰路についた。途中、手打ちそばを食したが、まあまあといったところで腹を満たした。

 再会を約して、みんなと別れたのは夕方の5時頃である。友の変わらぬ無事と再会への期待を胸に、帰宅後すぐにデジカメを確かめプリントアウトを始めた。次回も元気な笑顔で会えるようにと祈りながら……。本当に楽しかったよー!
 

同級会に行ってきた。―1

(鬼怒川温泉街の小公園からの遠望)
11月10日(土)、1泊2日の日程で、待ちわびていた同級会に出かけた。鬼怒川温泉のBクラスのホテルだったが、ホテルのランクなどには関係なく、5年ぶりのとても楽しい再会となった。みっちょ(光男君)やせっちゃん(節子さん)ら同級生との懐かしい再会である。

 逸りすぎたのか、車での到着は予定時間よりも2時間半も早かった。そこで、日ごろは帰郷の際の通過点となっていた温泉街を巡り歩くことにした。写真は、散策のために何ケ所か用意されていた公共駐車場(小公園)で、新設間もないようでとても綺麗に管理されていた。

 温泉街を流れる鬼怒川に架けられている橋を渡り歩くのが、散策のポイントであるようだったので、私も公園に車を止めて急坂を上り下りして歩いた。吊り橋もあったりして、そこからの眺めは、峡谷とホテルとの対比が面白く、それなりに楽しめるものであった。特に、モミジの真紅と白い岩石、流れに映える水面の照り返しなどはシャッターを押さずにはいられない組み合わせであった。

 峡谷の趣きに対して、裏通りの温泉街は世相を反映してか、侘びしさだけを感じさせるゴウストタウンの様相を呈していた。せっかくの散策も、その楽しみが半減されてしまった思いである。閉じられたままのホテルや土産物店からは、この温泉街の実情を知らされた思いもした。昨年の大震災・原発事故は、この温泉街にも更に暗い影を投げかけてしまったようだ。

(吊り橋から上流を臨む)
散策を終え、ホテルに入ってから懐かしい顔を見つけた時には、瞬時に小・中学生時代の心に戻っていた。そして、数人に声をかけて近づくと、彼らは65歳の年齢を感じさせない若々しさを発散させていた。その若々しさを感じた時に、私は、「自分だけがジジイになってしまったのではないか」と変な妄想にとらわれてしまった。それだけ、自身の変貌ぶりを気にしていたということであったらしい。歓談の中でその話をすると、「頭はそれなりに薄くなったようだが、まだまだ若々しいものだ」と慰めてくれた。正直、ホッとした思いがしたものである。

 一風呂浴びてからの宴会は、予想通りの楽しいものであった。 ―2に続く……。


2012年11月9日金曜日

盛りは過ぎても…。

(蕾から咲きはじめの姿)

 数年前に息子から妻にプレゼントされたミニバラは、今年も何度目かの開花を迎えた。

 3枚の写真は、特にきれいに咲きそうな部分を摘んで、咲き始めから咲き誇るまでを撮ったものだ。わずか何日間かの移り変わり様であったが、見つめているだけでも心弾むものであった。ベランダの花を、このようにじっくりと観察したことはなかったので、あらためて花の持つ神秘さに触れた思いである。

 妻が突然に具合を悪くした。
めまいと吐き気で、布団から起き出せなくなってしまったのである。歩いてトイレにも行けなくなり、食事もとれず嘔吐を繰り返すばかりであった。 突然のことであっただけに、私はオロオロしてしまい、救急車を呼ぼうとしたが、妻に止められてしまった。少し様子を見て欲しいというのだ。

(咲き始めた姿)
食事もとれず起き上がることもできないままに1日が経過してしまった。喉を通したのは、ヨーグルトと麦茶だけで、食べやすいようにと炊いたお粥と野菜のやわらか煮にも手を付けることができなかった。

 夜、娘から電話があったので状態を話すと、どうして病院に連れて行かなかったのかと叱られてしまった。妻の頑固さを知っているはずの娘なのに、生意気にも親を叱るのだから、それだけ成長し、本当の大人になったと言うことなのであろうか。変なところで、感心してしまったものだ。

 1日おいて、妻の状態も少し良くなったので、
朝一番で病院に行かせた。連れて行くと言っても
(咲き誇っている姿)
歩いて行けるからと、自分一人で出かけて点滴を受けてきた。その効果もあってか、昼時分にはお粥も食べられるようになり、ホッとさせてくれた。更年期障害の典型的な症状であったようである。体が急に熱くなったり、冷えたりと、自分でもコントロールができなかったようであった。

 63歳直前の年齢は、その盛りが完全に過ぎ去ったということでもあるようだ。2歳年上の私などは、特にそのことを切実に実感している。妻の突然の変調は、盛りを過ぎた人生を、二人してどう生きるかを真剣に考えよという、何らかの啓示なのであろうか?
 
 とにかく、私たちは写真のような盛りは過ぎたのである。だから、姿かたちは咲き誇れなくとも、心の充実を目指して、お互いの生きざまを誇れるように努力したいものである。老いてもますます盛んであることを示したいものだ…。
 
 

 
 

 

2012年11月7日水曜日

東京駅は楽しいところとなった!

(丸の内中央口から南口ドームを臨む)
  小雨降る中を、新装なった東京駅に行ってきた。テレビで映し出されていた通りの威容で、どちらかというとロシアあたりの宮殿を感じさせるものであった。私と同じように見学に訪れたのか、カメラを向けている同年輩の人たちが大勢いて、小雨の中、傘をさしながら、思い思いの角度からシャッターを押していた。

 それにしても巨大な建築物である。このような建物が、よくもかの時代に建てられたものと、その時代を思わずにはいられなかった。それこそ国力を挙げての大事業であったに違いない。外形だけでなく、建物内のあれこれにも驚かされた。ショッピング街や飲食街なども、歩くだけでも楽しめるものであった。不景気と騒がれ続けて長いにもかかわらず、大きな流れとなって蠢いている人々の群れは、嬉々として意外にも明るいものであった。私も、妻と妻の姉との3人連れで2時間ほど歩きまわってきたが、それなりに楽しい時間を過ごすことができ、満足して帰宅できた。食事も、他店舗との競い合いのせいか、リーズナブルな価格の魅力的な店が多く、選んだところも満足できるものであった。楽しめる場所を確保した思いで何となく得した気分になれて嬉しくもあった。

(丸の内北口の天井ドーム)
一寸としたハプニングもあった。車で出かけたせいもあって、当初は高速道路からそのまま進入できる八重洲の地下駐車場(東側)を利用する予定であったが、その八重洲線が事故のために通行止めとなって進入できず、いったん高速を降りて丸の内側の地下駐車場を利用することにした。

 ところがその駐車場がステーションホテルの駐車場となっており、高級車がずらりと並んでいるような場違いのもので、地下から1階までの豪華なエントランスの中を歩くのが気恥ずかしいぐらいであった。止めてしまったのだからと、開き直った思いで利用はしたが、出庫の際の料金にはビックリさせられてしまった。通常の5倍ぐらいの料金だったので、3人分の食事代だと苦笑いしてしまったものだ。とんだおのぼりさんぶりであった。