写真は、「そうたん」の1歳誕生日のおりに、本人に背負わせた誕生祝の一升餅である。[力餅]?とも呼ばれている、一区切りの祝い餅でもある。かっての暮らし向きでは、乳児の無事な成長は困難なことであった。それだけに、乳離れができて、歩き始めることのできる時期を迎えられたことは、嬉しく喜ばしいことであったに違いない。だからこそ、その無事を祝い、重さに耐えてしっかり歩けと、励ましたのだと思う。一升という単位は、益々(五合二枡)とかけて繁盛(健康)を願ってのことでもあろうか。あるいは,一生(一升)の無事を願って、縁起をかついだのかも知れない。残念なことに、最近のこうした慣習は、他の慣習と同様に単なる行事と化してしまい、私のような年代のものも、それの持ついわれや意味合いを忘れ去ろうとしている。お恥ずかしい限りである。
私の娘は、こうしたことの一つ一つを、大事に祝ってきている。私なんかの目で見れば、そこまで仰々しくしないでもいいのにと思うのだが、妻はそうではないと言う。そして、してやりたくとも出来なかったことへの反省もあってか、娘の呼びかけには、嬉しそうにして応じている。孫がなついたと言って喜んでいる私とは、違ったところにその喜びがあるようだ。
[力餅]を背負わされ、押しつぶされて泣いていた「そうたん」も、あれから半年になろうとしている今は、足どりもしっかりとして、あれこれとイタズラを繰り返している。娘に教え込まれた「ジー、ジー」を時折口にして、私を嬉しがらせながら、もろ手を挙げて抱っこをせがんでくるのだ。本当に可愛いー孫である。
しかし、でも、それなのにである。
今の私は、この可愛い「そうたん」を抱っこできないのだ。恨めしい[ギックリ腰]のやつめが、しぶとく私にしがみついて離れないのだ。注射までして追い払おうとしているのに、疫病神めはとりついて離れようとはしない。「痛いの痛いのどっかに飛んでけぇー」…である。
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