2010年7月28日水曜日

ノーシード

 夏の甲子園を目指す都道府県大会も、いよいよ大詰めをむかえている。私は、プロ野球よりも高校野球が好きで、特に代表校が選ばれるまでの地方大会が好きだ。一試合ごとの必死で真剣なプレーぶりには、本当に感動させられている。

 私は、バブルの終わる頃、事業に失敗して家族と離れ、3年余り埼玉県の山に近い地方都市で再起を期していた。上州おろしの吹きすさぶ寒い町だったが、何とかしようと必死にもがいていた。もがきながらも、慣れない一人暮らしを続けるためには、自分なりに生活に充足感を持たせる努力が必要であった。釣りが好きになったのもこの時期である。荒川や利根川でのヤマベと鮒釣り、その支流を遡ってのハヤやヤマメ釣り等は、それなりに心を落ち着かせてくれた。秩父の山奥まで出かけて道に迷ってしまい、熊が出るのではないかなどと、逃げ帰ったこともあった。釣り以外でも、生活に楽しみを与えてくれたものがあった。それが高校野球である。

 私は、仕事の途中で、汗を流しているとある高校の野球部員達をよく見かけた。仕事の順調なときには、自分たちで草野球のチームを作っていた私だけに、それ程上手でもない部員たちの練習ぶりは、微笑ましく懐かしいものであった。「がんばれ、がんばれ、へこたれるなよ。」声には出さなかったが、グランドのフェンス越しにいつも声援を送っていた。もちろん、自分への励ましも兼ねてのことであったが…。その無名で弱小の高校も、甲子園を目指して夏の大会に出ていた。ある日、近くの古びた地方球場で試合をすることになったので、早速、応援に出かけることにした。

 相手チームは、県内では名の売れた高校であった。応援団もブラスバンドもそろったチームで、試合開始前から、呑んでかかっていたようだ。予想どうり、試合は一方的なものとなってしまい、5回コールドという惨憺たるものであった。当然といえば当然と言えた試合であったが、部員たちは最後まで頑張った。それこそ一生懸命にである。試合後、その部員達が、泣きじゃくりながら、まばらな応援席に深々と頭を下げた姿には、思わず感動をさえ覚えたものだ。そこには、地方大会ならばでの清々しさがあった。これぞ高校野球と言える何かを、感じさせてくれたのである。

 この試合をきっかけに、私は高校野球が好きになった。あれ以来、もちろん、あの弱小チームを応援してきている。春の大会、夏の大会、秋の大会と時間の取れたときは、球場にも出かけた。私の居た3年余りの間には、何度かの勝利もあった。抱き合って喜び合う仲間もなかったが、それなりに嬉しくなって、一人で祝杯を挙げたものである。「よかったなぁ、よく頑張った。よしよし」と頷きながら、逆に励まされていると感じてさえいた。このチームは、あれから十数年たった今も、上位進出を果たしたことはないが、そこそこの戦いは続けている。この夏もそうであった。

 かっての相手チームは、県内の強豪校として名をはせ、常にシード校として活躍しているが、この夏は準決勝で敗れてしまった。そのチームを倒して、決勝進出を果たしみごと優勝したのは、本庄第一高校である。ノーシードから、勝ち上がってのすばらしい優勝であった。この本庄第一高校とそれほど離れていないところに、私の応援する高校はある。だからつい………

………「君たちも頑張れば勝ち上がれるよ。ノーシードでも優勝できるんだからね。」と、自分勝手に勝利の美酒に酔いしれたいと、ささやかに願ってしまう私なのである……。

 

 

 

 

 

2010年7月23日金曜日

腰痛(ギックリ腰)孝

 恥ずかしい話であるが、私は、整骨院では注射や薬の処方はしないということを知らずにいた。マッサージ等は、医療行為でなく施術であるから、と言う事らしい。だから、どんなに痛かろうが、痛み止めの注射や薬の処方による治療は出来ないと言う事だ。

 そのせいか、私の場合は、腰にボードをあてがいそれをサラシでぐるぐる巻きにして固定し、全身を揉みほぐすという対応でしかなかった。ギックリ腰?というものに初めてお目にかかり、その痛さや不自由さに閉口した私は、それこそ藁にも縋りたい想いで訪れたのだが、その対応には唖然とさせられた。知らないこととは言え、レントゲンぐらいは当然と考えていたのである。もちろん、注射や薬をもである。

 腰を締め付けたことで、幾分かは痛みが薄らいだ。でも、痛くてどうしようもない状態に変わりはなかった。「注射や痛み止めの薬は?」、私の問いに答えず、「時間がかかりますので、しばらく通ってください。」と告げられた。別に不親切でもなかったので、そんなものかと、次の日も訪れた。トイレに行っても、お尻の始末もままならない状態なのに、同じ処置しかしない対応に私は不満を持ったが、翌日も通おうかと思っていた。

 『昨日も貰えなかったけど、会社に出す都合があるので、領収書を下さい。』と言う私の要望に、『うちは月に一回まとめて出しているので、その都度には出していません。』と返答された時、私の中で何かがはじけた。予期しない返事だったので、疑問が湧いてきて、ここは信用できないのではとの思いに駆られてしまった。薄れかけていた痛みが、激しくぶり返してくるような、そんな想いであった。

 3日めには、通いつけの診療所に行った。レントゲンを撮って説明を受けてから、注射を打ってもらい薬剤投与の処方箋をもらった。いつもは、高血圧の治療ばかりだったので、整形外科があったことを忘れていたのだ。このことで、痛みは驚くほどに薄れたが、日常生活を取り戻すには、まだまだの状態が続いた。再度痛み止めの注射をうってもらい、タクシーの乗務に戻ろうと試みたが、座席に腰が沈むことで痛みが増して、仕事どころではなかった。

 『2~3週間はかかるから、焦っても仕方がないよ。』、顔なじみの担当医が、慰めるかのようにそう言った。と言われても、最悪の売り上げ状況であるタクシー業界だけに焦らずにはおられないのだ。10日ほどして、何とかなると車で出勤したが、会社にたどり着くまでの50分ほどで腰が凝ってしまい、そのまま帰宅という情けない始末になってしまった。

 発症から2週間を経過した今は、痛みもそれ程ではなくなり、日常生活も正常になりつつある。担当医とも話し合って、痛みを庇うことでますます歪んでしまった骨盤や背骨を矯正したり、固まった筋肉を解きほぐすために、マッサージを受けている。別の整骨院で施術を受けているが、効果はあるようで、もう少しの我慢で痛みから解放されそうだ。……焦らず焦らずにである。付け足しのようであるが、この整骨院でも、領収書の発行は月に一度のことだと言う。整骨院とは、そういう業界なのだろうか? だとしたら、私は、前の整骨院に対して、失礼な感情を抱いてしまったのかも知れない……。

 写真は、2月に訪れた[商売繁盛で笹もってこい!]で有名な西宮の神社であるが、お賽銭が足りなかったのか、私の腰までにはごりやくがなかったようだ………。

 

 

 

 



2010年7月19日月曜日

早く抱っこしたい!

 写真は、「そうたん」の1歳誕生日のおりに、本人に背負わせた誕生祝の一升餅である。[力餅]?とも呼ばれている、一区切りの祝い餅でもある。かっての暮らし向きでは、乳児の無事な成長は困難なことであった。それだけに、乳離れができて、歩き始めることのできる時期を迎えられたことは、嬉しく喜ばしいことであったに違いない。だからこそ、その無事を祝い、重さに耐えてしっかり歩けと、励ましたのだと思う。一升という単位は、益々(五合二枡)とかけて繁盛(健康)を願ってのことでもあろうか。あるいは,一生(一升)の無事を願って、縁起をかついだのかも知れない。残念なことに、最近のこうした慣習は、他の慣習と同様に単なる行事と化してしまい、私のような年代のものも、それの持ついわれや意味合いを忘れ去ろうとしている。お恥ずかしい限りである。
 
 私の娘は、こうしたことの一つ一つを、大事に祝ってきている。私なんかの目で見れば、そこまで仰々しくしないでもいいのにと思うのだが、妻はそうではないと言う。そして、してやりたくとも出来なかったことへの反省もあってか、娘の呼びかけには、嬉しそうにして応じている。孫がなついたと言って喜んでいる私とは、違ったところにその喜びがあるようだ。

 [力餅]を背負わされ、押しつぶされて泣いていた「そうたん」も、あれから半年になろうとしている今は、足どりもしっかりとして、あれこれとイタズラを繰り返している。娘に教え込まれた「ジー、ジー」を時折口にして、私を嬉しがらせながら、もろ手を挙げて抱っこをせがんでくるのだ。本当に可愛いー孫である。

 しかし、でも、それなのにである。
今の私は、この可愛い「そうたん」を抱っこできないのだ。恨めしい[ギックリ腰]のやつめが、しぶとく私にしがみついて離れないのだ。注射までして追い払おうとしているのに、疫病神めはとりついて離れようとはしない。「痛いの痛いのどっかに飛んでけぇー」…である。

 

 

2010年7月13日火曜日

真剣に危惧している



 この4~5日、ギックリ腰らしきものでのた打ち回り、痛み止めの注射やらマッサージやらと病院通いを続けている。情けないことに、トイレの始末もままならず、仕事はおろか日常生活にも支障をきたしている。立つことも座ることも歩くこともままならず、部屋の中をゴロゴロ移動しながら、ついついテレビで気分を紛らせてしまう。

 レントゲン写真を前に、何故痛むのかを教えられる。脊椎を支える軟骨がいくつも磨り減っているのを見せられて、痛むのが当然で、それが年をとったと証拠と言われると、どうしても侘しさを感じてしまう。ベットにうつ伏せになり、お尻に何十年ぶりかの注射を打たれた時は、そのズンとした痛みで、子供のときのペニシリン注射を想いだしてしまった。………こんな調子では、孫の抱っこもできそうにない………いやだいやだ………。

 痛む腰を庇いながら投票した選挙結果は、マスコミの思惑通りになってしまったようだ。その言いようのない憤りは、腰の痛みもあってか大きなしこりを胸に残した。選挙結果は、マスコミの言うように、本当に「国民の声」を反映したものなのだろうか?私には、どうしてもそうとは思えない。やすきに走らされている、いや、流されているとしか思えないのである。

 私には、私なりの政治信条がある。支持する政党も、支援した候補者もいる。残念ながら、今度の参議院議員選挙は、私の希望とは相容れない結果となってしまった。でも、このことは予想できたことだったので、それほどの衝撃はない。残念でも、次に頑張ればよいのだから…。 胸のしこりとして私に残されたものは、こうした敗北感ではない。大げさかもしれないが、この国のあり方や孫たちの将来に、疑念や不安を抱かせたと言う事なのだ。それも深刻なものとしてである。

 この国は、不十分ながらも、民主主義国家を標榜してから、60数年の歴史を作ってきた。その歴史は、国際的には経済大国としての地位を築きながらも、対米基調が災いしてか、外交に於いては対米従属を強いられるという、不可思議なものとなってしまった。独立国家の首都やその周辺に、他国の軍事基地が存在するなどあり得ない話なのに、この国の政権は、屈辱的な事実を、国の安全保障の名目で正当化してきた。愚かしいことに、商業主義に陥っているこの国のマスコミも、真実を報道する本来の役割を忘れて、国民の目をオブラートで包み込むという、恥ずべき行為を繰り返してきた。
共犯者としてのマスコミは、バブルを煽りたてたり、小泉劇場などという馬鹿げた騒ぎを演出したり、その息子を追い回すことで旧勢力の浮揚に貢献したりと、国民の目を眩ます役割を反省もなく果たしている。 時の政権が不安定になると、かっての新自由クラブ、さきがけ、自由党、新進党などの立ち上げがそうであったように、新党が乱立する。よく考えれば、改革を標榜しての不満分子が集散離合したにすぎないことなのに、マスコミは新勢力が出現したと騒ぎたて、本質から目をそらさせてしまう。そして、騒ぎ立てることで、一時的にせよ、その勢力の伸張を助けてきた。

 今回議席を増やした新党の代表は、行政改革や天下り撲滅を掲げているが、その本人は、囀りまくっただけで何の実績も上げられず、壁が厚かったからと同士の獲得もならずに逃げ出した一人である。ただ、その逃げ出しが他に先んじていたことで、マスコミに長時間注目されたことが、彼や彼らに幸いした。マスコミは、ここでも過ちを犯した。国民に考えさせるのでなく、恣意はともかく国民を誘導してしまったのだ。彼を、いや彼らの勢力を、改革の先覚者と錯覚させ、そのイメージを国民に植えつけてしまった、という過ちをである。

 800数十兆円もの負債について、国家予算がどのようにして使われ、その結果誰がどのようにして膨らませたのか、そしてその責任は誰がとるべきなのかの、徹底した原因の追求もない。普天間の現状を誰が作り出し、何故長い間沖縄県民を苦しませてきたのかの、本質的な追求もない。この二つの事柄は、今の日本を語る上で、国のあり方を問う本質的な問題だと、私は考えているのだが…。

 選挙におけるマスコミの果たすべき役割は、こうした国の根幹に関わる問題を、徹底した真実の報道と正確な資料の提供を行うことにある、と私は思っている。その報道のあり方や資料の提供の仕方に、それぞれの違いがあったとしても、これをもとに国民は公平な選択をすることができると思う。マスコミは、時の政権におもねったり、話題性や興味本位のニュースに国民を誘導してはならないのだ。特に、選挙に際しては、マスコミ本来の役割を思い起こし、責任を果たすべきである。

 長文の投稿となってしまったが、孫たちの将来や国のあり方を考えれば、まだまだ足りないぐらいなので、もう少しだけ主張させて欲しい。それだけ、不安を覚え、危惧を募らせているということだ。
 戦後から現在までを、一つのスパンとして考えた場合、この国は間違いなく、右方向に傾いてきている。正しいかどうかは別にして、保革の均衡という一面から考えても、そのことは事実である。かって革新と呼ばれた勢力の退潮は甚だしく、バランスを崩した大きな要因となっている。保守本流の自民党が伸張したわけでもないが、替わりとして中間的な存在としての民主党やみんなの党が勢力を伸ばしてきた。公明党がかろうじて勢力を保っていることは、宗教団体に支えられた宗教政党である限り当然なことであって論じるまでもない。問題は、勢力を伸ばしてきた民主党やみんなの党をどう見るかということだ。そして、大切なことは、その勢力伸張に、マスコミが補完的な役割を果たしてきたということでもある。

 民主党やみんなの党は、集散離合を繰り返してきた党であり、している党でもある。元をただせば、自民党の分派的勢力が主体であり、保守の亜流といっても言い過ぎではない。こう考えると、かっての保革のバランスが大きく変わってしまったことに気づく。六分四分であったものが、九分一分以上にも隔たってしまったのだ。このことは、長期間に渡ってマスコミの果たした役割を考えたとき、簡単に「民意の反映」であった、と納得は出来ないのである。商業主義に陥った結果として、民意を、悪しき方向に誘導してきたとしか思えないのである。

 教科書の沖縄問題や南京事件の取り扱い方、国歌斉唱や国旗掲揚の強制、憲法9条改悪問題、安保条約の拡大解釈による自衛隊の海外派遣等々、危険な方向への歩みは速まっている。こうした急速な右傾化への歩みについて、亡くなられた[井上ひさしさん]をはじめ多くの方々は、九条の会http://www.9-jo.jp/等を作って国民に警鐘を鳴らし続けてきた。このことは、とても大切なことであるのに、マスコミの対応は警鐘に応えるものとはなっていない。気づいていないはずはないのだ。気づいていても、気づかぬふりをすることが、今のマスコミには必要なのか、と疑わざるを得ない。不審でたまらない。

 私は、こうした危険な流れに、不安を感じ、じっとしていられないほどの危惧を抱いている。孫や国の将来のために、身体をなげだすことがあるのでは、との予感めいたものも感じている。添付した写真の靴は、孫の[りん君]へのささやかな誕生祝いである。この可愛い[りん君]や[ゆうじろう][そうたん]を、戦争になどかり出されたくはない。そんなことは絶対に許されないことだ。そのためにも………
 ……マスコミは、本来の役割を忘れるな! 真実をオブラートで包み込むな! ……である。
 
ギックリ腰の痛みをこらえて、二日がかりの投稿となってしまった。……痛い、ああ痛いのに……。




 


 


 


 


 


 


 


 
 


 


 


 


 


 






 

2010年7月5日月曜日

孫には負けました

 奥入瀬の清流は、何人の心をも清々しくさせる。私が奥入瀬を散策したのは、20年以上も前のことである。初秋の頃で、渓流沿いにはまだ紅葉は見られなかった。

 あの頃の私は、ヘビースモーカーで、美しい渓流の散策にも関わらず、途中で何度も喫煙をした。吸殻は持参した空き缶に入れ、臭いを撒き散らしながら、散策を楽しんでいた。その頃は、今日のように、禁煙についてはさほどはうるさくなかったので、タバコの臭いを撒き散らしながら歩いても、罪悪感を感じるようなことはなかった。喫煙は、個人の嗜好の問題であって、周囲にとやかく言われる必要がない、とさえ考えていた。だから、奥入瀬のようなところで喫煙しても、当然の行為であるとしか思えなかったのだ。


 そのような私も、12年前に週2回のタクシー乗務につくようになると、車内のタバコ臭が気になりだし、喫煙本数を減らすようになった。そして、乗客の臭いよりも自身の臭いに、神経が向けられる様になった。当然のように、車内での喫煙は自粛し、車外での喫煙後もウガイをするようになった。それでも、禁煙しようなどとは、露ほども考えなかった。 30数年の習慣は、しっかりと身について、理屈や圧力でおいそれと変えられるものではないのだ。

 初孫が誕生したとたん、妻や娘の圧力は厳しいものとなった。孫に影響するからやめてほしいと、くどいぐらいの圧力となった。禁煙グッズを用意してまで迫られると、持ち前のガンコ癖が頭をもたげ、「楽しみを、奪われてたまるか」と、頑強に抵抗した。喫煙場所がベランダのみとなっても私の抵抗はやまず、寒さをこらえての喫煙も、乙なものとなった。私の抵抗は、4人目の孫が誕生しても、ガンコに続けられた。それでも、孫たちやよその子供たちの前では、絶対に喫煙はしないようになった。

 その私が、突然に禁煙を宣言し、今日まで半年以上も禁煙を続けている。薬もグッズも何ものにも頼らずにである。「来年の正月元旦から、禁煙するよ。」…私の禁煙宣言は、去年11月の家族旅行の時であった。半信半疑の家族の前で、私は、キッパリと宣言したのだ。

 元旦になって宣言どうりに禁煙したので、家族の面々は驚いている。その禁煙理由を教えていないので、その実行性には疑問を持っていたようだ。「孫に負けました。」とは言いづらいので理由は言わずにいたが、「おじいちゃんタバコ臭い。」と上の孫に顔をしかめられたこと、旅行で4人の可愛い孫たちと楽しく遊びながら、「もっともっと長くこうして遊びたい。」と思い至ったことが、決意したきっかけだった。

 ガンコ者も、孫には勝てないもののようだ。「孫には負けました。」…である。
 


2010年7月2日金曜日

出番だね!

 午前6時30分、慌しく呼び出し音がなっている。
受話器をとるまでもなく、相手も用件も分かってしまう。「そうたん、お熱かな?」と言いながら、妻と顔を見合わせる。

 娘の2人目の子供は、この4月から区立の保育園に通っている。1年あまりの産休後に、運よく入所できたのだ。孫は、1歳5ヶ月の元気な男の子で、よく食べ・よく遊んでいる。チョコマカと休みなく動き回るので、上の女の子と違って、相手をしていると結構疲れてしまう。疲れるのが分かっているのだから、ほどほどに相手をすればよいのに本気で相手をするから、「そうたん」と遊んだ後はクタクタになってしまう。

 娘によると、保育園に早めのお迎へをして欲しいとのことである。熱は下がっているとのことだが、心配なので娘が帰宅するまで遊んでいて欲しいとのことだ。幸いにして、今日の予定は特にないので、二つ返事で承諾をした。妻が横で笑っている。疲れる疲れると言いながら、喜んで返事している私に、半分あきれ返っているようだ。

 「じいちゃん、出番だね!」と笑う妻に背を向け、湿布薬を貼ってもらいながらニヤニヤしてしまう私は、相当な[じじ馬鹿]のようだ。  <写真は、息子の上の子(男)に、妻がプレゼントした傘と長靴>