2016年5月10日火曜日

衣替えが必要だ。

(我が家の衣替え-5/10)
我が家では、5月の連休が終わったころに衣替えをする。20年前ぐらいには梅雨に入る前にしていたと覚えているが、果たしてどうだったのだろうか。とにかく、衣替えの時期が早まったということは間違いない。これも温暖化のせいなのでは、と思う。衣替えを済ませると何となく気分もすっきりとして、訪れる季節への心構えも新たになるようで、意外と心地よい。

私は昨日(5/9)、民主主義を守るためには、絶対的課題として甘利氏の告訴が不可欠だと投稿をした。国家が、その行政官たる閣僚の不正を許し、その罪を匿い、権力をもってその罪を隠ぺいするなど断じて許されるものではない、との怒りからの投稿だ。

民主主義は、その主権が国民にあるのであって、行政庁たる内閣や官僚がその主権者であるなどと勘違いしては困る。甘利問題は、民主主義そのものが問われる根本的な問題である、と理解しなくてはならない。この問題をあやふやにさせるということは、日本の民主主義が死に体になってしまったことを証明することであり、主権在民の根本が犯されたということにもなる。憲法の精神を無視した、行政庁たる内閣によって、国家的クーデターがなされているということでもある。日本に於いて、民主主義が順守されているかどうかを検証する際には、三権分立の大原則が守られているかどうかの検証が大前提となる。その大前提が安倍自公の手で露骨に崩されていると見えるから、私はあえて投稿した。それも、なし崩しに忘れさせようという卑怯な心根が見え見えであるだけに、気短な私には到底許せることではない。

甘利問題は、この大前提たる三権分立の大原則を無視し、ないがしろにしていることを如実に示している。こじつけの睡眠障害を隠れ蓑とした立法府たる国会での審議拒否、司法をつかさどる検察の安倍自公を恐れての及び腰、犯罪事実を隠ぺいする内閣の強硬姿勢、まさに民主主義そのものに対しての挑戦である。だからこそ、甘利氏告訴が民主主義を守るための突破口として必要なことなのだ。たんに一甘利氏の問題ではない。民主主義を闘いとるために絶対に必要な闘いなのである。不正は絶対に許してはならない。まして、見逃すなどを許しては、民主主義そのものを否定することに繋がるのだから、体を張ってでも阻止しなくてはならないのだ。

今、政界そのものの衣替えが必要なようだ。衣替えをして、すっきりとしようではないか。


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