2016年5月15日日曜日

舛添叩きは巨悪を隠すためのフェイクに過ぎない。

この数日間と言うもの、メディアのほとんどが舛添叩き一色となっている。あろうことか、御用評論家の田崎史郎までもが、声高に舛添を非難している。私は、田崎氏が前面に出るときには、素直にその論評を信じないことにしている。安保法制で彼の果たした巧妙な安倍擁護ぶりには、辟易させられたからだ。はっきり言って、まともな批評家などとは思っていない。安倍が守勢に立たせられたときにポッと顔を出す、安倍親衛隊の一員に過ぎないと思っている。

今回は、オバマの広島訪問で挽回しかけている安倍政権が、舛添叩きの巻き添えで苦境に立たないための防波堤として、又、舛添叩きを好機とした衆参同時選挙の焚き付け役としての登場だと思っている。なんせ彼は長い安倍の鮨友で、これまでも要所要所でその知名度を生かして安倍の危機を助けてきている。メディアを都合よく渡り歩いて、フジはフジなりに、TBSはTBSなりに振る舞って視聴者の目をふさいできた。その言動を、よくよく吟味していれば、そんなことは容易に分かることだ。決して、反骨精神を持った真っ当なジャーナリストなどと評価してはならない。正真正銘の御用達評論家であると承知すべきだ。

本来、評論家が今般の都知事の公私混同問題を語るのであれば、オリンピック不祥事との関連で、森を、下山を、安倍そのものをも同時に論じなければならない。又、石原や猪瀬の都政独裁とその弊害をも批評しなければならないのだ。その上で、舛添の政治姿勢についてを語らなければ、批評家としては一流とは言えない。しかし、彼のこれまでを振り返ってみればわかることだが、彼は、決してそんなことはできないはずだ。なぜなら、彼は、その時々において彼らを援護していたはずだからである。要は、時の権力者との馴れ合い批評家であるということだ。繰り返すが、田崎の舛添叩きは、安倍擁護のためでしかないと私は思っている。体良くメディア誘導をしていると言うことだ。まともに受け止めたら、馬鹿を見ることになる。

そのような検証もなしに、田崎を一流批評家としてとり扱い、コメントを求めるテレ朝やTBSの良識が疑われてならない。これでは、日テレやフジ・NHK並みになり下がったと批判されても仕方がないではないか。見ているがいい、そのうちに、田崎は舛添を叩きながら衆参同時選挙を煽るような言動を始めるに違いない。その時に初めて、田崎の果たしている役割にメディアは気づくだろう。そして、自分たちが安倍援護の一役を担ったことを思い知らされるはずだ。そうなってから田崎を外すようでは遅いのだが、萎縮しきった今のメディアには期待するだけ無駄と言えそうだ。

はっきり言って、舛添などは小者でしかない。本丸の巨悪の面々に比べたら、チョコチョコ走り回る小鼠にしかすぎないのだ。舛添攻撃は本丸隠しのフェイクに過ぎないということを私たちは見逃してはならない。ある面、舛添はスケープゴートにされていると思う。許すわけではないが、舛添そのものの利得などは大騒ぎするほどのものではない。直接的な損害はせいぜい数百万円に過ぎないだろう。殿様気分に酔いすぎて、公私混同も分からなくなったお調子者と言ってもよい。だから、都政の運営に、若干の危惧を抱くことはあっても、全メディアを挙げて叩くほどの価値などありはしない、と私は思う。彼によって、都の財政が食い潰されたり、軍国主義が急速に復活させられるなどは到底考えられないことだ。彼などはきついお灸をすえる程度で十分だ。辞任したら許してやればよい。石原や猪瀬とはその罪の重さが違うのだから。

石原前々都知事などは、その政策の失敗や公私混同分も含めると、数百億円の損害を都民に与えている。それだけではなく、尖閣諸島を買うなどと国民感情をあおって寄付を募り曖昧のまま無責任に放置もしている。その煽りが日中関係にどれほどの悪影響を与えたかは今更言うまでもないことだ。つまりは、舛添などと違って、私的政策で巨額の損失を出したり、この国に危険を呼び寄せるという大罪を犯しているのだ。メディアは、その罪深い石原に、どう対処したのかを反省するがいい、そして何もしてこなかったことを猛省するがいい。その上で、今からでも石原にその責任を求める気概を示して欲しい。相手を間違えるではないぞ、弱腰メディア。

猪瀬前知事は、いくら大物ぶっても、右翼との関わりから5000万円余りで失脚した小者でしかない。が、舛添に比べれば、その罪ははるかに大きい。最近ちょこまかとあちこちに顔を出しているようだが、都民への反省はしているのだろうかと疑いたくもなる。彼は否定するだろうが、今、都民は、彼の名声欲のために数千億円と言う新たな負担を押し付けられようとしている。彼は我々都民に、いや国民に何と言ったか忘れてはいないはずだ。東日本大震災の復興も進まない中で、その復興を励ますためとか、旧施設の利用で小回りの利く低予算オリンピックができるからとかを理由にして、同様に名声を欲しがる安倍と組んで強引に東京誘致を実現させたことを----。なのにこの有様である。だから、今日起っていることの大半は、現知事舛添の責任と言うよりは、前知事猪瀬の責任だと言ったほうが正しい。もちろん、裏で猪瀬をリードした安倍政権(下山+森)の不見識さが被害を甚大にさせたということも事実だ。低予算が聞いてあきれる。2兆円を軽くオーバーしそうだというのだから話にもならない。よくもまあ、愚物がそろったものだと感心するしかない。

その曖昧さで国民を悩まし続けるオリンピックが、今、贈賄による国辱的手段による招致だったことが暴露され、大きく取りざたされている。あの喜びに沸いた瞬間を観せられた我々は、今更ながらに、あの招致活動とは何だったのかと考えさせられてしまう。国民の誰もが、招致活動で、怪しげなブローカーへ報酬がを支払われた事実を知らされていないし、そのような薄汚い手段で招致してほしいなどとは頼んだ覚えもない。まして、あってはならない裏金と言うスキャンダラスな手段を使ったということは、世界中に日本の恥をさらしてしまったということなのだから、恥ずかしいことこの上ない不始末である。国辱以外のなにものでもない、そんなオリンピックはご免こうむりたいものだ。世界中に謝罪して辞退するのが順当と思う。

舛添叩きについての投稿のはずが、思わぬ方向への投稿となってしまった。舛添に限定して書くことに大きな矛盾が出てきたということだ。何度も述べてきたが、書けば書くほど舛添の存在が小さくなってしまい、小者でしかないことに気づいたのだ。そして、この舛添叩きには裏があると思えるようになった。叩くべきは舛添ではなく、その裏に隠れている巨悪なのではなかろうかと思い至ったのである。そこでの田崎氏の登場であった。田崎氏の登場には裏があるというのが私の感覚的発想法なのだ。ある意味、彼の登場はある種のバロメーターでもあるということだ。そのバロメーターには、常に安倍の状況がインプットされており、下降線をたどったときには彼が登場して、視聴者を惑わして側面援護する。その典型が安保法制での彼の動きであったと私は思っている。だから、田崎氏の登場によって、安倍の存在が浮きぼりになったと言うことだ。こんな考え方は笑止に過ぎないと一蹴されそうだが、つじつまが合っているのだから馬鹿にして欲しくはない。なお、繰り返し述べている田崎氏評に関しては、異論が出て当然と思っているが、その異論については、同氏が安倍の鮨友から決別できた時に拝聴したいと思っている。行き過ぎがあればその時には謝罪もする。それまでは一切受け付けないつもりである。言い訳など聞きたくないからだ。

ここで、思い出して欲しいことがある。あの菅官房長官のおりおりの談話とそのタイミングである。彼は政府や与党内での不祥事が出されると、必ずと言ってよいほど「問題はないと考えている」とその追究を一蹴してきた。あの問題でもこの問題でも[問題ない、問題ない」の繰り返しなのだ。それも必ずと言ってよいほど、問題の本質が明るみに出る前に早々と「政府は調査しない」「適法である」とかの談話を出して煙幕を張ってきた。だから、彼が早々と「何の問題もない」と談話を出した時には、必ず何かがあると思って間違いはない。それほど、彼の言動には信用がないということだ。事実、次々とその襤褸が暴かれている。

今年に入ってからのことを考えてみても、そのことは十分に知ることができる。辺野古基地をめぐって、地元と和解したと言った直後にその反故めいた言及をして腹黒さを証明した。甘利氏問題にしても「弁明は果たしたのだから問題はない」と談話を出し、その後の対応を放置している。犯罪者擁護もいいところである。誠実さも何もないということだ。それだけではないTPPに関しての黒塗り資料問題でも「問題はない、違法性はない」と一蹴し、更にパナマ文書に関しても「問題はないので、政府として究明するつもりはない」と早々とプーチンや習近平に次いで曖昧談話を出した。更にさらに、オリンピックの裏金不祥事問題でも「わが国では正当な運動をしてきたので問題ない」と早々と談話を出したが、翌日にはフランス当局にその事実についてを報道されると「担当部局に調査するように指示をした」と一日で前言を翻した。二枚舌もいいところである。一事が万事この通りである。だから、彼の談話には裏があると考えても間違いはない。本当に表裏の多い男である。

こうしたことを考え合わせると、安倍自公政権とは常に不正を覆い隠し、隠ぺいし続けてきた政府であると言える。国民目線などは持ち合わせていないということだ。今彼らは、参議院選挙を前にして、TPPで挫折し、安保法制で国民世論を失い、憲法改正問題で不信をかっている。片山虎之助ではないがこんなおりの九州中部地震は不遜でも助け舟となった。更に、本来ならサミットを目前とした外遊失敗で万策尽きた状態であったはずなのに、オバマの広島訪問という、大きな光明も得た。安倍政権にとってはまさに九死に一生を得た思いであろう。とは言え、安倍自公のあまりなまでの右傾化は、国民の警戒心を呼び起こしてしまった。そして、疑念の眼差しを多く受ける結果を招いてしまった。放送法でのしこりも残っているし、ここにきて、勢力内に政治資金規正法に触れそうな議員も複数出てきた。高市総務大臣も入っているので心中は穏やかではないはずだ。

安倍にとっての最善策は、不可思議な高支持率を保っている間の衆参同時選挙である。国民に何と言われようが、その最善策の実現に全力を尽くすはずだ。おそらく伊勢志摩サミットでは、調整に失敗した経済政策は背後に回し、オバマ関連から核問題を前面に出してくることは間違いない。その上で、オバマの広島訪問をもって議長国としての成果を大々的に宣伝し、瞬間的な高支持を得ようと、目論んでもいるはずだ。だから安倍にとっては、今が最も大切な時期であり、不安定な要素に対してはことさらに神経をピリピリさせているに違いない。

一方、世情では安保法制や秘密保護法に対しての怒りが噴出し、集団訴訟が実現したり、甘利追及のうやむやさを怒って刑事訴訟に発展する様相も出てきた。加えて、オリンピック招致での不正疑惑も出てきて、森・下山への追及も激しくなりそうになってきた。もちろん、安倍自身への追及も厳しくなることは間違いがないことだ。この時期に、波風が立って逆風が吹きあれることは致命傷にもなりかねない。同時選挙どころか、参議院選選挙の大惨敗もあり得ることになってしまうのだ。こうしたおりの権力者とは非常なものである。その矛先を変えるためには同胞をもさえ犠牲にしかねない。だから、週刊文春の舛添叩きは好都合となった。選挙でもなければ救いの手を差し述べるだろうが、安倍の今の心境ではこれ幸いとしてスケープゴートにあげることは当然のことだ。

安倍にとって、甘利の本格追及やTPP問題での徹底審議は絶対に避けたいところである。加えて、オリンピック不正疑惑などはもってのほかと言わざるを得ない。そのための舛添叩き便乗なのである。これまでも書いてきたが、舛添のそれはあまりにせこすぎて話にもならないことであるが、せこくみみっちい問題であるだけに、分かりやすく叩きやすい身近な問題でもあるのだ。都知事と言うその職がらも、叩かれ役としては最適と言ったところである。だから、マスコミも(メディア)こぞって舛添叩きを繰り返しており、ここぞと正義?を振りかざしている。叩きやすいところを徹底して叩くと言いうのが悪しき常法である。今行われている舛添叩きは、そうした内容を含んでいると理解しないと、本当の狙いと言うものは分からない。よくよく考えるべしである。

私は表題で巨悪という表現を用いたが、ここでいう巨悪とはドロドロとした安倍政権に他ならない。汚濁に満ちた自公政権を表するには他に表現のしようがなかったから用いた次第である。本日の私の投稿をよく吟味して頂ければ、つたない文章であっても、私の投稿する意味合いや表題の用いようがご理解頂けるものと思う。

長々とした本稿に目を通して頂いたことを感謝したい。―感謝拝礼―。











0 件のコメント:

コメントを投稿