2016年5月31日火曜日

国民はなぜ安倍内閣を支持するのか―1

(運動会での孫たちのダンス―5/28)
一番下の孫は小学2年生。この土曜日、その孫の運動会と言うことで、弁当持参で出かけた。4人一組の徒競走では、ガムシャラに走って今年は1位の栄冠。本人も鼻高々と言ったところだ。去年2位の雪辱を果たしたと言ったところらしい。

運動会の開催時期も変わってきて、5月開催が多くなっている。田舎育ちの私には、豊穣とした実りの中での運動会が懐かしいのだが。楽しみの昼食は、どのシートでも自慢のお弁当を広げて嬉しそうだ。私たちは、孫一人に大人5人の応援団と言ったところだが、見まわすとそうしたシートも数多く見られた。子供にとっての運動会は、今も昔も家族総出の運動会と言えそうだ。

(娘との持ち寄り昼食―5/28)
私の4人の孫たちは、保育園(2人)、幼稚園(2人)を経て入学している。昨今の「保育園落ちた。日本死ね!」といった深刻な状況にも遭遇せず無事にスルーできた。幸いであったと言うところだ。

娘(現役保育士)の話では、現場では本当に深刻な状況らしい。保育士が足りないことは事実らしいようで、娘の勤務状況からもそうしたことが伺える。増員要請も空しいとのこと、民営化の話で躱されることも多いという。入所できなかったり、別々の保育園入所で苦労している保護者も多いと聞く。政治の積極的関与が求められるところだ。

その政治であるが、理解しがたいことが起こっている。そして、この現象は短期間と言うよりは、長期間続いている。

東京新聞5月30日付朝刊には、共同通信社発表の世論調査の結果が掲載された。大騒ぎした伊勢志摩サミットやオバマ氏の広島訪問の後だけに、与党に有利な数値が出ることは当初より予想されていた。が、その内容には驚かされるものがあった。不思議なことであるが、その理解しがたい特徴が固定化されてしまったようなのだ。

安倍内閣の支持率は、その失政にもかかわらず、48.3%から55.3%に上昇している。その上昇原因が、サミットやオバマ氏の広島訪問にあることは明白だ。しかし、この世論調査や先の世論調査、そのまた先の世論調査には、共通した類似点があって、そこから判断すれば、高支持率維持や、急激な上昇などは考えられないことなのだが、何故か高支持率を保っている。

― 基本政策への支持が低いのに内閣支持率が高い不思議 ―

それらの特徴とは、安倍政権の基本政策に関しての評価が、いずれも低いという特徴だ。通常であれば、基本政策が支持されない内閣など支持率が低くて当然なのだが、理解しがたいことにある程度の高支持率をずっと保ってきている。不思議としか言いようがない。

具体的には、今調査でも、世界の経済認識をリーマンショック前と酷似とした安倍に対して、世論では51.9%もの人がその認識を否定している。アベノミクス関しては、この政策で今後景気が良くなるとは思わないが64.1%を示し、憲法改正に関しても54.9%が反対の意思を表明している。又、消費増税の再延期に関しても70.9%の世論が賛意を示し、沖縄問題の根幹をなす地位協定に関しても71.0%に人たちがその改定を求めている。こうした数値は、アベノミクスの失敗を意味し、他の重要政策も国民と乖離していることを示している。

常識的には、これだけ基本政策が否定されれば支持率も降下するはずだが、不思議なことに政策とは連動せず別な動きを示してしまう。例えば、サミットに関しての評価は、評価すると、どちらかと言えば評価するを合わせると、78.4%もの高評価を示している。リーマンショックなどを持ち出して顰蹙をさえかっているのにである。私などは国際的に恥をさらしたとしてマイナス評価であるのだが。政党支持率でも37.2%から44.4%へと上昇している。いかにオバマ効果があったとしても、この数値は異常だと言ってもよい。このことは、国民は政策で安倍政権を支持しているのではないという証明ではなかろうか。

この、基本政策は支持しないが安倍内閣は支持するという傾向は、ここ数か月間若干の変動はあるとしても、固定化した特徴として定着してしまった。なんとも理解しがたい不思議な現象である。安倍内閣を支持する理由も、他に適当な人がいないが33.0%から37.7%に上昇しており、民主党政権への失望感が強すぎるためだ、と受け取られている。しかし、その理由づけには、いかに何でもと疑問をもたざるを得ない。民主党内閣が不十分な内閣であったとしても、3年余もその嫌悪感が続いているとは思えないからだ。そう思い込ませてしまう、何か別の要因があると思えるのだが、考えすぎであろうか。

― 国民全体が無意識のうちに右傾化傾向に馴染み、その傾向を容認し始めた?
― 国民の意識の中に、周辺危機の洗脳的喧伝によって、偏った民族主義が芽生えた?
― 政治への諦め感が、安倍を実力以上に評価し、代わりがいないと錯覚させた?

漸くにして、ヘイトスピーチ規制法が国会で議決された。内容的には不十分さもあるが一歩前進と言ったところだ。こういうと国民的盛り上がりの中で、議決されたと思えるが事実は違う。勇気ある在日韓国人女性の訴えから運動が立ち上がり、多くの人の奮闘で法整備へと進展したのだ。そして、その闘いは、命を脅かされながらの苦しいものでもあった。カウンターや支援者たちの体を張っての対峙がその運動を支えてきた。ネット社会でのネトウヨ攻撃に対して、反撃を繰り返し続けた多くの支援者があったことも見逃せない。しかし、運動そのものは、全国民を巻き込んでまでのものとは言いがたく、その広がりは決して大きものではなかった。だから、法整備までに時間がかかったのだ。

わが国におけるヘイト攻撃とは、在日韓国人や朝鮮人、朝鮮総連、朝鮮学校生への、人権を無視した侮蔑的攻撃を指して言う。が、最近はアイヌ民族や外国人に対しても同様の攻撃が行なわれ、排斥運動も繰り広げられている。しかも、無知で凶暴な民族主義者達のその攻撃は、執拗で生活環境を脅かすばかりでなく、生命の危険をさえ感じさせる攻撃に変わってきている。一種、組織的ネオナチの様相をさえ示し始め、危険極まりない事態にもなっている。

こうした攻撃が長年にわたって繰り返されていることを、ほとんどの国民は知らないで来た。知っていても、大音量をあげて走り回る一部の右翼活動だ、ぐらいにしか認識していなかった。だが、事実は、特定の人種、特定の地域を攻撃目標とした、反動民族主義者や反人権団体による組織的な排斥運動であったのだ。たんなる暴力団崩れの嫌がらせなどではない。しかし、この攻撃が被害者の訴えによるまで公には明らかにされず、つい最近まで警察の見過ごしのもと繰りかえされてきた。無関心もいいところである。日本人として恥ずかしい限りである。では、なぜ見逃されてきたのかとの疑問が出てくる。なぜ、ヘイト攻撃が公にされなかったのかと言う疑問である。

私は、この疑問を解き明かせれば、表題とした「安倍内閣高支持率の不思議」も同時に解明できると思っている。この疑問の中にこそ、理解しがたい特徴が固定化し定着化した理由が含まれているとも考えている。

疑問の解き明かしと私見による対応策は、次の投稿で述べることにしたい。

2016年5月23日月曜日

7秒で記憶が消える。

5/21のTBS「報道特集」は、感銘を受けるものであった。
3年に及ぶ取材を通じて、難病と闘う母娘の姿が力強く生き生きと映し出されていた。又、そこに至るまでの母娘の葛藤や、難病を抱える本人の辛苦・絶望からの脱出と努力、更には娘を支え続けた母親の生きざまも飾らずに映し出されていて、見終わってからは感動とともに活力を与えられた思いで一杯だった。

(息子から妻がもらったミニバラ―5/23)
娘の病状は、おりおりの記憶がたったの「7秒間」しかないというものであった。7秒以前の記憶が保全できないという難病なのだ。病名は定かではなかったが、その原因が、誰でも罹病するヘルペスのウィル菌だということで、その菌が何らかの経緯を経て脳内に侵入し、発症した言うのである。なんでも、脳の海馬と言われる部分を収縮させ、その収縮が喫緊の記憶を7秒以上保てなくさせているというのだ。CT画像を見ると、明らかにその部分(海馬)の収縮が見られた。身体の不思議としか言いようがない。なぜ、その部分だけなんだという思いである。

症例は、今食べたことを7秒後には忘れてしまうという具合に、すべての行動、すべての視聴覚が7秒間しか脳にとどまらないというものだ。考えられないことである。そうした世界がどういうものであるか、私にはとても思い至ることができない。そうした世界に母娘は4年まえから入って闘ってきたのである。そして、闘いの中で母娘は生きる道を掴み、逞しく歩んできた。

(岩淵の赤水門―5/19)
娘は、いつもメモを取っている。それも膨大の量のメモをである。海馬の収縮で記憶できないものを、その都度に全てメモにしているというのだ。言い換えれば、メモをもって、海馬に記憶できない部分を補おうという試みである。
だから、その量は膨大なものとなってしまうということであった。メモこそが脳の一部と化しているのである。

見習わなくてならないのは、彼女が、現在も運転を続けていることだ。記憶が保てないのだから、ルートなど覚えようもないはずなのに、繰り返すことで体に覚えさせているというのである。まさに脱帽と言うほかない。車だけではなく、簡単な仕事も他人との付き合いも、メモを片手に頑張り通しているのだ。それもいつも笑顔を絶やさずにである。

写真のミニバラをいつ貰ったのかとか、赤門に前回行ったのがいつだったのかとか、物忘れが多さを悩んでいる場合ではないらしい。そんなことでは母娘に申訳がない。頑張って吠え続けなければあの母娘に恥ずかしいではないか。戦争反対と叫び続けるのが私の役割なのだから。

ここのところの「報道特集」は素晴らしい。憲法特集(緊急事態法)では日本会議のウソを暴き、ヘイト特集では、被害者の目から真実を追求してくれた。放送法の圧力問題以来、萎縮しきっているメディアに光明が射したという思いである。これからもますます頑張ってほしい。


2016年5月19日木曜日

赤水門にサイクリング

(趣のある岩淵の赤水門―5/18)
お天気が良かったので、妻とサイクリングとシャレてみた。夕食で残った炊き込みご飯(ちなみに私が作った傑作?)をおにぎりにして、フキの煮物(妻の傑作?)・ゆで卵と一緒に昼弁当とした。水門は、荒川河川敷を6~7KMほど下ったところにあり、自宅からでも40~50分ぐらいで行ける。陽光のまぶしい中を、サイクリングするのはとても清々しく、日頃の鬱憤など忘れてしまう。それにもまして、広々とした流れを見晴らしての昼飯はなんとも贅沢である。単純ながら本当に最高だと思う。

水門の周りでは、何人もの人が釣りを楽しんでいた。釣り好きの私は、さっそくその釣果を聞いて廻った。リール竿を立てている人たちは、フッコ・セイゴ狙いだという。でも日中よりは夜の方がいいとのことだった。水辺の護岸石の間に糸を垂れていた人たちは、手長エビ狙いだとのことで、それなりに数をあげていた。時期的には少し早いのでまだ小さいとのことだったが、ここのところ釣果に恵まれていない私には、釣行を誘うに十分な魅力であった。ということで、近日中に手長エビ釣り決定!

(荒川と新河岸川とを結ぶ水門。合流後の下流は隅田川。)
この赤水門の位置は、荒川河口から20KM程の上流にある。だから、東京での直下型地震のおりには、ここまで津波が押し寄せるだろうかなどと、いやな妄想も湧いてくる。ここのところの大震災は、何かにつけて諸々を連想させる。困ったものである。

この水門は、津波だけではなく、大雨などでの大水害に際しても大きな役割を担っている。その開け閉めで、上下流域に大きな影響を及ぼすから、防災拠点と言ってもよい。そんなことを考えていると、「頼りにしてますよ」と声もかけたくなる。何にせよ、私はこの赤水門の魅力にひかれて何度も訪れている。機会があったら、ぜひにも訪れてほしい。

いつもいつも政治への憤懣をブログにぶちまけているので、たまにするこうした投稿は自分でもホットできる。人間である限り、怒ってばかりではいられないということだろう。何の不思議もないことだ。

2016年5月15日日曜日

舛添叩きは巨悪を隠すためのフェイクに過ぎない。

この数日間と言うもの、メディアのほとんどが舛添叩き一色となっている。あろうことか、御用評論家の田崎史郎までもが、声高に舛添を非難している。私は、田崎氏が前面に出るときには、素直にその論評を信じないことにしている。安保法制で彼の果たした巧妙な安倍擁護ぶりには、辟易させられたからだ。はっきり言って、まともな批評家などとは思っていない。安倍が守勢に立たせられたときにポッと顔を出す、安倍親衛隊の一員に過ぎないと思っている。

今回は、オバマの広島訪問で挽回しかけている安倍政権が、舛添叩きの巻き添えで苦境に立たないための防波堤として、又、舛添叩きを好機とした衆参同時選挙の焚き付け役としての登場だと思っている。なんせ彼は長い安倍の鮨友で、これまでも要所要所でその知名度を生かして安倍の危機を助けてきている。メディアを都合よく渡り歩いて、フジはフジなりに、TBSはTBSなりに振る舞って視聴者の目をふさいできた。その言動を、よくよく吟味していれば、そんなことは容易に分かることだ。決して、反骨精神を持った真っ当なジャーナリストなどと評価してはならない。正真正銘の御用達評論家であると承知すべきだ。

本来、評論家が今般の都知事の公私混同問題を語るのであれば、オリンピック不祥事との関連で、森を、下山を、安倍そのものをも同時に論じなければならない。又、石原や猪瀬の都政独裁とその弊害をも批評しなければならないのだ。その上で、舛添の政治姿勢についてを語らなければ、批評家としては一流とは言えない。しかし、彼のこれまでを振り返ってみればわかることだが、彼は、決してそんなことはできないはずだ。なぜなら、彼は、その時々において彼らを援護していたはずだからである。要は、時の権力者との馴れ合い批評家であるということだ。繰り返すが、田崎の舛添叩きは、安倍擁護のためでしかないと私は思っている。体良くメディア誘導をしていると言うことだ。まともに受け止めたら、馬鹿を見ることになる。

そのような検証もなしに、田崎を一流批評家としてとり扱い、コメントを求めるテレ朝やTBSの良識が疑われてならない。これでは、日テレやフジ・NHK並みになり下がったと批判されても仕方がないではないか。見ているがいい、そのうちに、田崎は舛添を叩きながら衆参同時選挙を煽るような言動を始めるに違いない。その時に初めて、田崎の果たしている役割にメディアは気づくだろう。そして、自分たちが安倍援護の一役を担ったことを思い知らされるはずだ。そうなってから田崎を外すようでは遅いのだが、萎縮しきった今のメディアには期待するだけ無駄と言えそうだ。

はっきり言って、舛添などは小者でしかない。本丸の巨悪の面々に比べたら、チョコチョコ走り回る小鼠にしかすぎないのだ。舛添攻撃は本丸隠しのフェイクに過ぎないということを私たちは見逃してはならない。ある面、舛添はスケープゴートにされていると思う。許すわけではないが、舛添そのものの利得などは大騒ぎするほどのものではない。直接的な損害はせいぜい数百万円に過ぎないだろう。殿様気分に酔いすぎて、公私混同も分からなくなったお調子者と言ってもよい。だから、都政の運営に、若干の危惧を抱くことはあっても、全メディアを挙げて叩くほどの価値などありはしない、と私は思う。彼によって、都の財政が食い潰されたり、軍国主義が急速に復活させられるなどは到底考えられないことだ。彼などはきついお灸をすえる程度で十分だ。辞任したら許してやればよい。石原や猪瀬とはその罪の重さが違うのだから。

石原前々都知事などは、その政策の失敗や公私混同分も含めると、数百億円の損害を都民に与えている。それだけではなく、尖閣諸島を買うなどと国民感情をあおって寄付を募り曖昧のまま無責任に放置もしている。その煽りが日中関係にどれほどの悪影響を与えたかは今更言うまでもないことだ。つまりは、舛添などと違って、私的政策で巨額の損失を出したり、この国に危険を呼び寄せるという大罪を犯しているのだ。メディアは、その罪深い石原に、どう対処したのかを反省するがいい、そして何もしてこなかったことを猛省するがいい。その上で、今からでも石原にその責任を求める気概を示して欲しい。相手を間違えるではないぞ、弱腰メディア。

猪瀬前知事は、いくら大物ぶっても、右翼との関わりから5000万円余りで失脚した小者でしかない。が、舛添に比べれば、その罪ははるかに大きい。最近ちょこまかとあちこちに顔を出しているようだが、都民への反省はしているのだろうかと疑いたくもなる。彼は否定するだろうが、今、都民は、彼の名声欲のために数千億円と言う新たな負担を押し付けられようとしている。彼は我々都民に、いや国民に何と言ったか忘れてはいないはずだ。東日本大震災の復興も進まない中で、その復興を励ますためとか、旧施設の利用で小回りの利く低予算オリンピックができるからとかを理由にして、同様に名声を欲しがる安倍と組んで強引に東京誘致を実現させたことを----。なのにこの有様である。だから、今日起っていることの大半は、現知事舛添の責任と言うよりは、前知事猪瀬の責任だと言ったほうが正しい。もちろん、裏で猪瀬をリードした安倍政権(下山+森)の不見識さが被害を甚大にさせたということも事実だ。低予算が聞いてあきれる。2兆円を軽くオーバーしそうだというのだから話にもならない。よくもまあ、愚物がそろったものだと感心するしかない。

その曖昧さで国民を悩まし続けるオリンピックが、今、贈賄による国辱的手段による招致だったことが暴露され、大きく取りざたされている。あの喜びに沸いた瞬間を観せられた我々は、今更ながらに、あの招致活動とは何だったのかと考えさせられてしまう。国民の誰もが、招致活動で、怪しげなブローカーへ報酬がを支払われた事実を知らされていないし、そのような薄汚い手段で招致してほしいなどとは頼んだ覚えもない。まして、あってはならない裏金と言うスキャンダラスな手段を使ったということは、世界中に日本の恥をさらしてしまったということなのだから、恥ずかしいことこの上ない不始末である。国辱以外のなにものでもない、そんなオリンピックはご免こうむりたいものだ。世界中に謝罪して辞退するのが順当と思う。

舛添叩きについての投稿のはずが、思わぬ方向への投稿となってしまった。舛添に限定して書くことに大きな矛盾が出てきたということだ。何度も述べてきたが、書けば書くほど舛添の存在が小さくなってしまい、小者でしかないことに気づいたのだ。そして、この舛添叩きには裏があると思えるようになった。叩くべきは舛添ではなく、その裏に隠れている巨悪なのではなかろうかと思い至ったのである。そこでの田崎氏の登場であった。田崎氏の登場には裏があるというのが私の感覚的発想法なのだ。ある意味、彼の登場はある種のバロメーターでもあるということだ。そのバロメーターには、常に安倍の状況がインプットされており、下降線をたどったときには彼が登場して、視聴者を惑わして側面援護する。その典型が安保法制での彼の動きであったと私は思っている。だから、田崎氏の登場によって、安倍の存在が浮きぼりになったと言うことだ。こんな考え方は笑止に過ぎないと一蹴されそうだが、つじつまが合っているのだから馬鹿にして欲しくはない。なお、繰り返し述べている田崎氏評に関しては、異論が出て当然と思っているが、その異論については、同氏が安倍の鮨友から決別できた時に拝聴したいと思っている。行き過ぎがあればその時には謝罪もする。それまでは一切受け付けないつもりである。言い訳など聞きたくないからだ。

ここで、思い出して欲しいことがある。あの菅官房長官のおりおりの談話とそのタイミングである。彼は政府や与党内での不祥事が出されると、必ずと言ってよいほど「問題はないと考えている」とその追究を一蹴してきた。あの問題でもこの問題でも[問題ない、問題ない」の繰り返しなのだ。それも必ずと言ってよいほど、問題の本質が明るみに出る前に早々と「政府は調査しない」「適法である」とかの談話を出して煙幕を張ってきた。だから、彼が早々と「何の問題もない」と談話を出した時には、必ず何かがあると思って間違いはない。それほど、彼の言動には信用がないということだ。事実、次々とその襤褸が暴かれている。

今年に入ってからのことを考えてみても、そのことは十分に知ることができる。辺野古基地をめぐって、地元と和解したと言った直後にその反故めいた言及をして腹黒さを証明した。甘利氏問題にしても「弁明は果たしたのだから問題はない」と談話を出し、その後の対応を放置している。犯罪者擁護もいいところである。誠実さも何もないということだ。それだけではないTPPに関しての黒塗り資料問題でも「問題はない、違法性はない」と一蹴し、更にパナマ文書に関しても「問題はないので、政府として究明するつもりはない」と早々とプーチンや習近平に次いで曖昧談話を出した。更にさらに、オリンピックの裏金不祥事問題でも「わが国では正当な運動をしてきたので問題ない」と早々と談話を出したが、翌日にはフランス当局にその事実についてを報道されると「担当部局に調査するように指示をした」と一日で前言を翻した。二枚舌もいいところである。一事が万事この通りである。だから、彼の談話には裏があると考えても間違いはない。本当に表裏の多い男である。

こうしたことを考え合わせると、安倍自公政権とは常に不正を覆い隠し、隠ぺいし続けてきた政府であると言える。国民目線などは持ち合わせていないということだ。今彼らは、参議院選挙を前にして、TPPで挫折し、安保法制で国民世論を失い、憲法改正問題で不信をかっている。片山虎之助ではないがこんなおりの九州中部地震は不遜でも助け舟となった。更に、本来ならサミットを目前とした外遊失敗で万策尽きた状態であったはずなのに、オバマの広島訪問という、大きな光明も得た。安倍政権にとってはまさに九死に一生を得た思いであろう。とは言え、安倍自公のあまりなまでの右傾化は、国民の警戒心を呼び起こしてしまった。そして、疑念の眼差しを多く受ける結果を招いてしまった。放送法でのしこりも残っているし、ここにきて、勢力内に政治資金規正法に触れそうな議員も複数出てきた。高市総務大臣も入っているので心中は穏やかではないはずだ。

安倍にとっての最善策は、不可思議な高支持率を保っている間の衆参同時選挙である。国民に何と言われようが、その最善策の実現に全力を尽くすはずだ。おそらく伊勢志摩サミットでは、調整に失敗した経済政策は背後に回し、オバマ関連から核問題を前面に出してくることは間違いない。その上で、オバマの広島訪問をもって議長国としての成果を大々的に宣伝し、瞬間的な高支持を得ようと、目論んでもいるはずだ。だから安倍にとっては、今が最も大切な時期であり、不安定な要素に対してはことさらに神経をピリピリさせているに違いない。

一方、世情では安保法制や秘密保護法に対しての怒りが噴出し、集団訴訟が実現したり、甘利追及のうやむやさを怒って刑事訴訟に発展する様相も出てきた。加えて、オリンピック招致での不正疑惑も出てきて、森・下山への追及も激しくなりそうになってきた。もちろん、安倍自身への追及も厳しくなることは間違いがないことだ。この時期に、波風が立って逆風が吹きあれることは致命傷にもなりかねない。同時選挙どころか、参議院選選挙の大惨敗もあり得ることになってしまうのだ。こうしたおりの権力者とは非常なものである。その矛先を変えるためには同胞をもさえ犠牲にしかねない。だから、週刊文春の舛添叩きは好都合となった。選挙でもなければ救いの手を差し述べるだろうが、安倍の今の心境ではこれ幸いとしてスケープゴートにあげることは当然のことだ。

安倍にとって、甘利の本格追及やTPP問題での徹底審議は絶対に避けたいところである。加えて、オリンピック不正疑惑などはもってのほかと言わざるを得ない。そのための舛添叩き便乗なのである。これまでも書いてきたが、舛添のそれはあまりにせこすぎて話にもならないことであるが、せこくみみっちい問題であるだけに、分かりやすく叩きやすい身近な問題でもあるのだ。都知事と言うその職がらも、叩かれ役としては最適と言ったところである。だから、マスコミも(メディア)こぞって舛添叩きを繰り返しており、ここぞと正義?を振りかざしている。叩きやすいところを徹底して叩くと言いうのが悪しき常法である。今行われている舛添叩きは、そうした内容を含んでいると理解しないと、本当の狙いと言うものは分からない。よくよく考えるべしである。

私は表題で巨悪という表現を用いたが、ここでいう巨悪とはドロドロとした安倍政権に他ならない。汚濁に満ちた自公政権を表するには他に表現のしようがなかったから用いた次第である。本日の私の投稿をよく吟味して頂ければ、つたない文章であっても、私の投稿する意味合いや表題の用いようがご理解頂けるものと思う。

長々とした本稿に目を通して頂いたことを感謝したい。―感謝拝礼―。











2016年5月11日水曜日

税について考えないと。

(確定申告書と一般事業者用青色決算書)
右の写真は、私が毎年提出している確定申告書と決算書である。写真は未記入の用紙であるが、申告時期には結構頭を悩ませながら記入する。私の場合には、事業所得以外の所得もあるのでこの申告書にその源泉徴収票も添付して合算する。もちろん年金等の源泉徴収票も添付して合算している。私同様に国民の大多数は、適正に申告し適正に納税している筈だ。そのまじめな国民によって、この国は支えられている。

納税に関して言えば、私たちはこうした申告納税ばかりではなく、消費税や酒税・自動車税といったものから、固定資産税をはじめ電気・水道・交通費と言った生活に直結したものにまで課税され納税している。端的に言うと、朝から晩まで24時間徴税されていると言っても大げさではない。おぎゃあと生まれて死ぬまで、息をしている間は税金を払い続けていると言うことである。残念ながら、私たちはそのことに余りなまでに慣らされており、自分がどれほど納税をなしているか良く理解していない。一度、総納税額の計算をしてみる必要がありそうだ。

私たちは、多額の納税をしているにもかかわらず、国家運営のためにはまだまだ不足しているとして消費税などでの負担増を押し付けられている。社会福祉予算や年金予算などを削られても、公共のためだとか、国家のためだからとかの綺麗ごとに誤魔化されて支払わされてもいる。一方では、アメリカから押し付けられた欠陥飛行機オスプレイ等に千数百億円もの無駄金を使われても、安全保障のためだなどの戯言や、軽減税率云々とかの世迷言に追及の矛先を躱されてしまっている。不満を言えば、国の安全に無関心だと批難され、財政を知らないと馬鹿にされる。私たちは、本当にお人好しの国民であるようだ。これでは、国(権力者)の言いなりではないか。

(孫のためにとせめてもの鯉のぼり)
5月10日、今問題とされているタックスヘイブン(租税回避地)に関してのパナマ文書が一部公開された。我が国においても400余の個人・法人の関与が取りざたされている。ソフトバンク・丸紅・楽天の三木谷氏、ユニクロの柳井氏など名だたる企業や個人名が相次いで公表された。その各社・彼らは早速に声明を出して弁解に努めている。口裏でも合わせたように、グローバルの視点からのもので、租税回避には当たらないと、同じ言い訳で切り抜けようと躍起になっている。やはり、社会からの批判は怖いようだ。やましいから言い訳をするのだ。

パナマ文書に取りざたされたジャパン関係者の回避総金額は数十兆円と言われており、その回避税額は4~5兆円余りに達すると試算されてもいる。国会で大騒ぎしている消費増税など吹き飛ぶくらいの回避税額であるということだ。言い訳で、合法的なビジネス行為だと言い連ねようが、取りざたされている地域そのものでの行為が租税回避行為そのものと承知しているのだから、日本国への納税回避を図った事実は消すことはできない。そうでなければ、わざわざその地に関与する理由がないではないか。合法的な租税回避などありえないのだ。各社・彼らには、その租税回避で我々国民に負担させた責任を、応分に果たしてもらおうではないか。

こうした事実を承知しているにもかかわらず、自公政権は、その社会的制裁については何の言及もせず、通り一遍の税務調査の必要性に触れただけだ。それも、ことの本質が明るみに出る前にと、ロシアのプーチン、中国の習主席についで、菅官房長官が異例の速さで政府の追及はしない旨の意志を表明した。大企業優先の安倍政権の本質が暴露されることを恐れてのことと考えても不思議はない。それはそうだ、世界に誇るトヨタの国内法人税が優遇措置でゼロであるのに、仮に同社がタックスヘイブンに関与した証拠でも出された日には、目も当てられないことになってしまうからだ。だから、事前に予防線を張ったということだろう。とにかく、大企業本位の安倍政権はやることなすことがコスイとしか言いようがない。早速のご退陣を願いたい。

僻むわけではないが、写真のような鯉のぼりで、ささやかな幸せを感じている私は、かの世界一貧乏な大統領言とわれたムヒカ氏の言葉を借りれば、貪欲に富を求める本当の貧乏人よりは、、本当の意味で幸せであると言えるようだ。幸せは、タックスヘイブンなどとは無縁のところにある。

安倍晋三よ、税金は大儲けをしている大企業から多く取れ、不正を許すではない。増税で庶民を苦しめ、軍国主義を復活させようなど、たわけた夢を追うではない。大喝!

2016年5月10日火曜日

衣替えが必要だ。

(我が家の衣替え-5/10)
我が家では、5月の連休が終わったころに衣替えをする。20年前ぐらいには梅雨に入る前にしていたと覚えているが、果たしてどうだったのだろうか。とにかく、衣替えの時期が早まったということは間違いない。これも温暖化のせいなのでは、と思う。衣替えを済ませると何となく気分もすっきりとして、訪れる季節への心構えも新たになるようで、意外と心地よい。

私は昨日(5/9)、民主主義を守るためには、絶対的課題として甘利氏の告訴が不可欠だと投稿をした。国家が、その行政官たる閣僚の不正を許し、その罪を匿い、権力をもってその罪を隠ぺいするなど断じて許されるものではない、との怒りからの投稿だ。

民主主義は、その主権が国民にあるのであって、行政庁たる内閣や官僚がその主権者であるなどと勘違いしては困る。甘利問題は、民主主義そのものが問われる根本的な問題である、と理解しなくてはならない。この問題をあやふやにさせるということは、日本の民主主義が死に体になってしまったことを証明することであり、主権在民の根本が犯されたということにもなる。憲法の精神を無視した、行政庁たる内閣によって、国家的クーデターがなされているということでもある。日本に於いて、民主主義が順守されているかどうかを検証する際には、三権分立の大原則が守られているかどうかの検証が大前提となる。その大前提が安倍自公の手で露骨に崩されていると見えるから、私はあえて投稿した。それも、なし崩しに忘れさせようという卑怯な心根が見え見えであるだけに、気短な私には到底許せることではない。

甘利問題は、この大前提たる三権分立の大原則を無視し、ないがしろにしていることを如実に示している。こじつけの睡眠障害を隠れ蓑とした立法府たる国会での審議拒否、司法をつかさどる検察の安倍自公を恐れての及び腰、犯罪事実を隠ぺいする内閣の強硬姿勢、まさに民主主義そのものに対しての挑戦である。だからこそ、甘利氏告訴が民主主義を守るための突破口として必要なことなのだ。たんに一甘利氏の問題ではない。民主主義を闘いとるために絶対に必要な闘いなのである。不正は絶対に許してはならない。まして、見逃すなどを許しては、民主主義そのものを否定することに繋がるのだから、体を張ってでも阻止しなくてはならないのだ。

今、政界そのものの衣替えが必要なようだ。衣替えをして、すっきりとしようではないか。


2016年5月9日月曜日

甘利の告発は、民主主義を守る第一歩。

(息子からの母の日のプレゼント-5/9)
父の日は忘れても母の日は忘れることがないらしい。例年のごとく、息子が母の日のプレゼントを届けに来た。忙しい仕事の合間を縫ってのことだという。妻はとても喜んでいる。日頃はなんだかんだと息子の文句を言っているのに、やはり、手放しで嬉しいらしい。

嫁さんと一緒に買い求めたとのことで、その嫁さんにも早速お礼の電話を入れていた。こうした気配りのやり取りが、信頼関係を築くことになるのだが、若い夫婦にはそのあたりの呼吸は呑み込めないでいるようだ。それでも、母(親)を忘れていないということなのだから、素直に喜ぶことにしよう。

信頼関係と言えば、国民の信頼を収賄?と言う形で裏切ったあの甘利氏は、睡眠障害だなどと国民をだまして逃げ切ってしまおうという腹積もりらしい。どうも、そうした臭いが検察筋から漂いだしたとのことだ。国会への招請もしない安倍自公の隠ぺい体質は、検察にも及んでいるということらしい。まったく恥ずかしい限りだし愚かであるとしか言いようがない。あの甘利を逃がして国の体裁が保てるとでも思っているのだろうか、恥を知らないにも程がある。民主主義の否定に他ならないではないか。

こうした日本の現状を憂える外国メディアの評価は、悲しいことであるが正しいと言える。言論の抑圧、専制国家への邁進、軍国主義の復活等は、アメリカへの属国化ばかりではなく、戦前への回帰を図るもので決して見逃しできるものではない。安倍の反知性主義とも言える国民だましのアドバルーンに惑わされてはならないし、外遊パフォーマンスに踊らされてはならないのである。

今やらなければならないことの第一は、国家による犯罪者隠しをやめさせ、国民の手で不正を質すという大事をなすことである。甘利氏への審判を国会の手で行うということである。その実現なしには日本の民主主義は守れないと、私は思っている。このことは、民主主義を守るための第一歩であり最低限の責務だと思うべし----である。


2016年5月5日木曜日

民進党よ英断せよ!

(端午の節句の菖蒲湯-5/5)
我が家は、老夫婦のみで誰も同居していないが、この時期には、毎年湯船に菖蒲を入れる。爺・婆の家に今更菖蒲でもなかろうが、例年のことだからと妻はこの習わしを守っている。同様に、冬至カボチャとか、節分の際のイワシの頭とかにも心を配っている。

イワシの頭では、妻とさんざんやりあったものだ。ウチは、共用通路のマンションなので、廊下側の窓枠に豆ガラとイワシの頭はないだろうという私と、習わしだからという妻とでやりあった。結局、今は窓枠はやめて、節分当日にイワシの丸干しを頭から食べるということで落ち着いている。今では何もしていないが、子供たちが小さかった頃には、桃の節句とか七夕なども、一緒に楽しんだものだ。

私の妻は、こうした風習めいたものをとても大事にしている。私も同感なので、一緒に守ることを心がけている。先人たちの思いがこもっていて、大切にしたい行事との思いがあるからだ。大げさに言えば、原始宗教とも言える素朴な祈りにも似た思いということであろうか。私たち夫婦の信仰心とは、こうした素朴なものであるらしいが、これはこれでいいと思っている。自民党憲法草案のような回顧主義を促し民族主義に彩られた郷愁等では決してない。押し付けられた神道等でもなく、国土と自然とが育んだ素朴さそのものの信仰心だ。私たちはこれでいいのだ。

(江東区有明での憲法集会-5/3)
左の写真は、5月3日に開催された憲法擁護のための大集会だ。参加者は、主催者発表で約5万人という規模のもので、現憲法を守り、自公政権の企む憲法改悪を阻止しようという集会である。私たちも夫婦して参加した。去年横浜で開かれた集会に比べると、安保法制の暴挙があったこともあってか、国民の怒りがそのまま集会に集約されたといった感じであった。野党共闘の実も見られ、難物民進党もそれなりの対応を示すようになった。市民運動の成果であるといえよう。

とは言え、委員長の岡田氏が、この集会で決意を表明しているのに、同じころ、同党の松原某と言う馬鹿者は、あろうことか櫻井よしこなどの改憲集会でおだを上げている。更には、細田某なる不倫議員も、外国まで行って野党共闘に水を差す暴言を吐いている。

私は、こうした民進党の態様を、同党の撓みであり歪みであると批判している。若干勢力が減るとしても、こうした反党的分子は、彼らの故郷である自民党に里帰りして頂いたらと思うのだが。そのことが、民進党の発展のために、いや野党共闘の実現のために、ひいては国民の幸せのためになると私は信じている。今こそ決断すべき時ではなかろうか。そうそう、肝心のノダメ氏の同行は必須条件であるということも、あえて申し添えておきたい。民進党よ英断せよ!である。

2016年5月2日月曜日

野党共闘にノダメはいらない。

(藤の花は今が見ごろ-4/30-上尾丸山公園)
ゴールデンウイークとあって、上尾市の丸山公園は大賑わいであった。孫二人(2・3番目)を連れて行ったが、男の子ばかり(小2、小4)だとこちらのほうが疲れてしまう。

公園の沼で釣りをしたり、弁当を食べたり、広い公園を散策したりと、昼時のひと時を十分に楽しんだ。まだまだ自分でエサをつけることはできないが、釣りの楽しみは味わえたようで、孫二人のこれからが楽しみだ。

帰りは足を延ばして吉見町の道の駅に行ってきた。時間が少し遅かったのか、産直品(農産物)は品薄となっていて、目指すものは買えなかった。ただ、熊本支援と銘打って売られていたトマト(熊本産)は買ってきた。少しでも支援につながればと言うことで。

(根津神社の山門-4/26)
桜・菜の花・チューリップ・つつじ・藤と、ここのところはこまめに花を訪ね歩き廻っている。いかめしい顔の私ではあるが、毎年、花を求めて歩き廻っている。これからは、ポピーや蓮・バラの花なんかが楽しみだ。これでは、花咲じじいならぬ花巡りじじいといったところか。

と言って、花巡りにうつつを抜かしてばかりいるわけではない。安倍自公の暴政を見逃さないためにと、警戒レーダー(メディア全般へ)は全方向に張り巡らしているつもりだ。レーダには、見えないものも結構映し出されてくる。特に、安倍自公の欺瞞ぶりや、堕落した民進党一部幹部の動向など、臭気を帯びたその映像は、見苦しく情けない。

野党共闘の試金石と言われた衆院北海道5区補選は、残念ながら野党側の敗北に終わってしまった。敗因にはいろいろ取り上げられようが、私は民進党の持つ撓みと歪みが第一の敗因であったと指摘しておきたい。寄せ集め政党であるから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、今後の共闘にも関わると思えるので、苦言だけではなく警告も発したい。

本当かどうか定かではないが、選挙の最中にも関わらず、野党代表のそろい踏みに生活の党小沢代表の登壇を拒んだ、とのことが囁かれた。あのノダメ氏(野田元首相)の意向が強かったからだと言われている。先に、小沢氏以外ならだれとでも組むと言って顰蹙をかったかのノダメ氏は、野党共闘の真の意味を理解してはいない。流石に民主党政権をつぶした男だ。安倍自公とのお友達と言ってもいいだろう。右派と言われる前原氏でさえ、共産党と壇上に並んだのに、ノダメ氏の馬鹿さ加減にはあきれ返ってしまう。おそらく、今度の敗因の一部に自分が関わっているなどと言う自覚は持ち合わせていないだろう。あの解散劇での安倍とのやり取りを思い出すたびに、私は、ノダメ氏のご退陣を願っていたのだが、本人は自分の責任に気づいていないのだから始末が悪い。一日も早い自公入りを願いたい。

野党は共闘!、今や市民レベルの闘いになっているこの流れを、ノダメ氏ごときに掉さされてはたまらない。池田候補は優れた候補者であった。その池田さんを次に生かすためにも、共闘の絆は絶やしてはならない。民進党よ目覚めよ、悪魔が蘇ってでは遅いのだぞ。ノダメごときに大きな顔をさせるでない。