2014年5月12日月曜日

【戦争をする国】にはしたくない!


(娘親子が母の日にプレゼントしてくれ
          た妻へのカーネーション)
連休も終わった5月11日(日)は、母の日であった。この5月11日は、娘の誕生日(42才)でもある。
ということで、娘の提案で2つのお祝いを、一緒にすることにした。この日ぐらいは、私の手料理をと提案したが、あっさりと却下されてしまい、妻と娘とが台所に立った。

ちょっとマンネリ化して儀式めいたものとなってきたが、それでもみんなで祝うことができるということは、幸せなことだと思う。こうしたことの繰り返しが、お互いの絆を確認し合い、深め合えるのだとも思う。

この日は、近くの小学校で上の孫がバレーボールの試合に出ると言うので、その勇姿(?)を見に出かけた。早いもので、その孫は小学6年生になっている。
普段は、そのバレーボールのせいで孫と親しめないと文句を言っていたのだが、いざ孫の勇姿(?)を目にするととにかく頑張れと応援してしまうのだから、私も相当に大甘のジジイではある。

孫の奮闘?もあって、孫たちは4チーム中一位(全勝)で次のステージにすすむことになった。得意げな孫の顔が可愛くてたまらない。かってのように髭面をこすりつけたい思いであったが、嫌われてしまうのでそんなことはできない。孫の成長というのは、何とも歯がゆいものでもあるのだ。
(9条の会の講演会チケット)

申し込んでいた、9条の会の「集団的自衛権と憲法9条」の講演会チケットが届いた。

連休後の安倍内閣の動きは、一気に<戦争のできる国造り>へと突っ走る様相を呈してきている。私たち夫婦のように、まずは憲法の再学習からなどというのでは遅きに失するのかもしれない。今こそ、全国民を挙げての行動が必要になっていると思う。

戦争への道を阻止するための大きなうねりが必要だ。子供や孫たちを戦争にやらないための、とてつもないほどの大きなうねりが必要だ。戦争をたくらむ勢力を押し流すほどの大きく強力なうねりを作り出さなければならない。平和を求める声が、国家という名に包み込まれるのをなんとしても防がなければ、子や孫たちの生死が危うくなる。

朝日新聞の「声」欄にも、憲法改正を是とする意見が多くみられるようになってきた。このようなことはかってなかったことではなかろうか。私たちはいつの間にか、安倍内閣のマインドコントロールに左右されてきているのではなかろうか。危うい、とにかく危うくなってきている。

私は、立ち込めている暗雲を取り払うために行動することを決意した。私のできる限りの行動をとることにした。事業の失敗から萎縮していた心を、奮い立たせることにした。例え一枚のビラ配りからでも具体的に行動することから始めることにした。改憲で炎上するネット上に、平和のための風穴を開ける努力もしたい。9条の会への参加も積極的にすることにした。この緑豊かな日本の国を、【戦争をする国】には絶対にしたくないからだ。可愛い孫たちを戦争に狩り出されたくはないからだ。


2014年5月2日金曜日

今こそ憲法を学び直す時!

(孫と遊んでいる模型飛行機 5/2)

明日5月3日は憲法記念日である。テレビでこの連休について、それぞれ何の祝日であるかのインタビューをしていたが、残念なことに憲法記念日を知っていた人は4割にも満たなかった。ただ休日で有ればよいと考えている国民が多いということらしい。

昨日の朝日新聞に、ナチスの蛮行を容認したり、日本の侵略戦争を正当化したりする若者が増えているという記事が掲載されていた。最近問題となっている、図書館や書店での「アンネの日記」を破る事件も、こうした流れの中でのことだと危惧もしていた。

ツイッターやUチューブでの、中国・韓国を誹謗する投稿の多さには、目を覆うばかりである。その内容も悪意に満ちた、卑劣な言葉を浴びせかけると言った愚劣なものがほとんどで、何の説得力も主張をも持たない稚拙なものでしかないが、お互いに煽りあって興奮している様は恐怖さえ覚えるほどだ。

(ベランダのミニバラ 5/2)
こうした民族主義的ナショナリズムの台頭は、安倍内閣のすすめる極端な右傾化政策の産物でしかないのだが、放置しておいてよいものではない。さも表現の自由から政治に参加しているように偽装してはいるが、その実態は言葉や映像を用いての暴力にほかならず、軍靴を響かせる危険な序章となりかねないからだ。どのような形であれ、暴力主義のはびこりを許してはならない。

その危険な芽を早めに摘み論破するのには、私たち自身がしっかりとした平和主義で身を鎧わなければならないと思う。
だからそのために、私達は、今こそ世界に誇れる日本国憲法を学び直す時であると思う。平和主義の大切さを再度考えあわせる必要があると思うのだ。

私達夫婦は、今、遅ればせながらではあるが、戦争反対・原発反対のための一歩を踏み出すことにした。9条の会主催の講演会に参加することから始めようと申し込んだ。その一歩が小さくとも、平和を求める大きなうねりの一雫として役立てるようにと願ってのことである…。

2014年5月1日木曜日

念願の孫との釣りが!

(今年2回目開花のベランダのミニバラ 5/1)
4月25日に、婿殿に誘われて下の孫と一緒に千葉県市原市の海釣り公園に行ってきた。
釣果は今一であったが、数年ぶりの海釣りを大いに楽しむことができた。やはり、海はいい。川釣りでは味わえない醍醐味があるからだ。

この日、国賓として来日していたオバマ大統領が帰国するとの事で、大幅な交通規制が敷かれたため、釣りの目的地も変えざるを得なかった。当初は、横浜の本牧で海釣りをする予定だったのだが、止むを得ず市原を目的地とした。

5才の孫連れでの釣行であるから、何よりも安全が第一だったので、釣果は二の次であった。なによりも、孫を釣り好きにさせるための釣行であったのだ。

(市原市の海釣り施設 4/25)
とは言え、やはり釣果は欲しかった。残念なことにハゼ1匹という結果で、孫を楽しませるには至らなかった。「どうして、僕たちだけ釣れないの?」との孫の声は、私にも婿殿にも辛いものであった。

その声に奮起したのか、婿殿は、4月の29日には横浜に出かけ、目刺し級のイワシを16匹釣りあげて汚名を晴らしている。当然に下の孫も同行して釣果を上げたとのことであった。よかったよかったである。これで孫も釣り好きになることは間違いなしである。ジジイの念願は漸くにして達成できそうなアンバイだ。めでたしめでたし…。

2014年4月30日水曜日

まっ、いいか…。

(板橋区の花“にりんそう”の自生群落 4/12)
桜も散って、春は新鮮な息吹の中で花の盛りを迎えている。
写真は、都市部では珍しい”にりんそう”の群落自生地である。ここは、地元の愛好家たちのたゆまぬ努力によって守られてきた。この自生地には、その愛らしい姿を楽しもうと訪れる人も多く、今では一寸した名所ともなっている。
私は毎年この群落地を訪れ、可憐な花との対話の中で春の訪れを実感してきた。今年も当然のごとく対話を楽しんできた。

この時期、我が家のベランダは色とりどりの花々によって装飾される。
毎年のように咲き誇る真紅のシクラメンは、今年もあでやかさを増して目を楽しませてくれた。息子からもらったミニバラも今年に入って2回目の開花を迎えようとしている。それも、一度に6輪もというのだから、その黄色の蕾には期待を膨らませているところである。

(今年も見事に咲きました 4/25)
今年は、例年よりも出歩く機会が多くなっている。
先に命のはかなさについて投稿したように、意識的に今ある自分たちの生活を楽しんでおきたいとの思いからである。

この4月には、長崎への旅行もしたし、孫たちを連れて武蔵丘陵自然公園(国立)にも行ってきた。
新緑の中で、精いっぱい走る周る孫たちと遊べることは、ジジイ冥利に尽きると言ったところでもある。
婿殿の誘いに応じて、下の孫と一緒に海釣りも楽しんできた。成果は今一であったが、何年ぶりかの海釣りは爽快そのものであった。そして、なによりも、孫が釣りに同行できるまでに成長したことがうれしかった。孫との釣行が念願であっただけに、その嬉しさはひとしおである。
足利のフラワーパークに、藤の花も見に行ってきた。ライトアップされた藤の花は、幻想的でさえあった。時期的には少し早めであったが、藤以外にもつつじやシャクナゲが咲き誇っていて、満足のできる花見行であった。

(ライトアップされたおおふじ 4/28)
別に人生を急ぎ終えようとしているわけではないが、この4月は何となく慌ただしく過ごしてしまった。
仕事の事、健康の事、今後の生活の事、孫たちの将来の事、戦争に至りそうな危うい政治情勢の事等々、考えなければならないことや行動すべきことがたくさんあったはずなのに、この4月はミツバチのように花を求めて歩き周ってしまったのだ。出歩きすぎかな?

まっ、いいか…。

2014年4月10日木曜日

慌ただしい旅だった。

(ハウステンボスの一景 4/6)
結婚して42年にもなるのに、夫婦そろっての旅行などは初めてのことである。
いろいろな出来事が多すぎて、旅行どころではなかったのだが、60も半ばを過ぎたところでようやくといったところだ。

といって、この安らぎが私の手によってもたらされたものではないのが残念ではある。そのすべてが、妻のコツコツとした努力の賜物であるので、私としてはただただ頭を下げるのみである。
本当にありがとう……としか言いようがない。

(吉野ヶ里の復元住居群 4/7)
今回の旅行には。妻の姉も同行している。ここのところはよく一緒に行動しているので、何の違和感もなく一緒に楽しんできた。義姉は、10年ほど前に夫に先立たれているので私たち夫婦との外出を喜んでくれている。歳を重ねると相みたがいという感情が湧くようで、いつまでも仲良く過ごしたいものだと思っている。

今度の旅行は、2泊三日という限られた中で、あれもこれもと欲張った慌ただしい日程となってしまった。旅行社のフリープランツアーということだったので、行動範囲を広げるためにレンタカーを使用しての計画を立てた。加えて、妻の要望があれこれと出されるに及んでは、お世話になる身?の私としてはその実現を目指すべく、強行軍もやむなしの計画とせざるを得なかったのである。

(グラバー亭公園からの展望 4/7)
*4/6 PM12:30羽田発→4/8 PM12:35羽田着
(長崎の平和公園記念像 4/7)

(雲仙温泉地獄谷 4/8)
異国情緒たっぷりの町並みは、半日ではとても散策しきれない広さであった。
旅行の目的でもあり期待したイルミネーション・特に3Dを駆使した企画には圧倒され大いに楽しむことができた。一度は倒産の憂き身を味わったハウステンボスだけに、その企業努力の必死さが伝わってきて感動をすら覚えた。事業の失敗から立ち直れないままになっている私にとっては、その立ち直りが大きな励ましともなってくれた。努力なくして再生なしという現実を見せつけられた思いである。

邪馬台国を連想させる「吉野ヶ里の歴史公園」は、その遺跡の広大さからも、古代の村(クニ)を偲ぶのには十分なもので、この旅行中最も満足のできたところであった。建物などの復元が過ぎるきらいもあったが、弥生社会が想像できる遺跡としては申し分がなく、散策時間の足らなさが恨めしい限りであった。

グラバー亭公園は、かって明治維新において賊軍とされた「会津」出身の私にとっては、複雑な心境での見学となってしまった。偏狭的な考えではあるのだが、どうしても【死の商人】としてのイメージが強すぎて、近代日本への貢献という側面では見学できなかった。反省しなければならないとは思っているのだが…。

平和記念公園には訪れる人が少ないのか、人影がまばらであった。私達は、この惨劇をもたらした戦争を再び起こしてはならないとの願いを込めて、祈りをささげた。忘れ去ってはならない記憶なのである。原爆資料館には、多くの外国人も訪れていて、平和の希求がグローバルなものであることを実感した。
世界の三大夜景になったとかで浮かれることなく、平和都市長崎としての発展を願ってやまないところである。

雲仙温泉は、奈良時代の701年に【行基】によって開湯されたものだと、ホテルの若旦那?に教えてもらった。早朝にヘルシー散策だとして周辺を案内してもらった中で教えてもらったのだが、さびれゆく観光地の再発展を模索してのこうした努力が、大きな成果につながることを心から期待している。若旦那ガンバレである。

もっともっと、あちこちと周りたかったが、私達の慌ただしい旅は、とにかく無事に終わった。機会があれば、次回はもっとゆったりとした旅にしたいものである。

2014年4月4日金曜日

桜並木を散歩して

(埼玉県戸田市 荒川土手沿いの桜 4/2)

(同上を土手の上から撮影 4/2)
3月30日の雨の中、義兄嫁の納骨式が行われた。
本当に早いものだ。2月15日の大雪の日に倒れ、雨の日にお墓に入るなど、本当に悲しむべき出来事でしかなかった。それでも、認めざるを得ない現実なのだから、諦めるほかはない。

お墓のある埼玉県武州長瀬は、東京よりは開花がやや遅く、桜はチラホラとしか咲いていなかった。花の好きな人だったので、満開の桜吹雪の中での葬送が似合いだったろうにと、考えたりもした。

写真は、納骨式から3日後の花模様である。
埼玉県戸田市のボートレース場前荒川土手の桜並木だ。水曜日ということもあって、混雑はなかったが、丁度満開の見ごろで、そのあでやかさには圧倒される思いであった。

この桜並木の変貌ぶりには驚かされている。この並木も、私が仕事をバリバリとやっていた30数年前には、若木の並木であまりパッとしたものではなかったが、今は丁度壮年期と言ったところでみごとというほかはない。
たそがれ時に入っている私には、この圧倒的な力強さは眩しいぐらいである。いや羨ましいと言った方が良いのかもしれないな。木々の生命力には感動をすら覚えてもいる。

だから、この生命力を吸収して、65歳で亡くなった義兄嫁の分まで生き抜かねばとも思う。少なくとも、私も妻も、この素晴らしい桜並木の下を、仲良く元気に散歩できているのだから、頑張って行かねば申し訳ないではないか。

(たくましく、幹に直接花を咲かせていた 4/2)

2014年3月27日木曜日

健康長寿を目指すぞ!

( 今年は咲かないかと諦めていたのに
  見事に咲いてくれたハナカイドウ 3/25)
妻と一緒に、鳥越俊太郎氏の講演を聞いてきた。講演内容は、ガンと闘っている鳥越氏らしく「ポジティブに生きる」が主題であった。

私と妻の間には暗黙の了解がある。
それは、私たちの一方がガンに侵されて終末を迎えた場合の対応についてである。

妻の希望は、一切の告知をしないで欲しいというものである。自分の死を感じないままにこの世を去りたいというのがその理由である。あと何か月、あと何日とその日を数えることは嫌だということであった。

私の希望はというと、告知して欲しいということである。限りある命を、最後まで有効に使いたいと思っているからだ。その告知後の残された期間に、何かしらできることがあると考えられるからである。

このように違いのある二人ではあるが、終末に関しては共通した願いがある。医者の判断で回復の見通しが立たなくなった場合には、延命治療はしないで欲しいということだ。植物状態となって無駄に延命しても、私たちにはその延命措置になんの価値も感じることができないと思われるからだ。抗ガン治療を否定するわけではないが、私達はぜひにもそうしてもらいたいと願っている。

その際は、どのような措置であっても構わないので、苦痛を伴わないものにしてもらいたいものだ。苦痛に耐えられるのは、治癒できるという希望が持てるときであって、何の希望も持てないままの苦痛などはごめんである。モルヒネでもなんでも有効な鎮痛剤で、痛みを緩和してほしいと願う。と今は思っているのだが、いざというときにはどうなるのか…。

鳥越氏の話は、転移を繰り返す悪質なガンとの闘いの体験談であった。そして、その体験からは教訓として「早期発見に努め、健康長寿を目指す」ことの大切さを学びとった。74歳という年齢を感じさせない氏の若々しさは、闘病中であることも感じさせない力強さで、まさに「健康長寿」の体現者であることを知らしめるものであった。66歳の私としては、大いに学ばなければならないところである。あっちが痛いこっちが痛いなどと騒いでいてはいけないのだ。


2014年3月12日水曜日

心をこめた復興を!

先日、花芽を小鳥に食い散らされたこと、そしてゴミ袋のネットで残った花芽を守っていることを、命のはかなさとの関連で投稿した。その守りきった花芽が成長して、今では写真のように以前も増して咲き誇っているので、妻と一緒に喜んでいるところだ。

今日、平成24年3月11日は、あの東日本大震災から3年が経過した日である。2~3日前から、あの時の生々しい被災映像を繰り返し流しながら、この3年間の歩みについてを、特別番組として各局が報道している。そのいづれもが、真剣に真面目に取り上げていることを感じることができて、ホッとした思いだ。今日も又、終日、内容の濃い報道がなされており、日頃はマスコミに批判的な私も、マスコミの良心に触れた思いで素直に喜んでいる。

(復活して咲き誇るアンジェリカ)
その一方で、先日の国会中継(予算委員会)や、民放での被災地復興を巡っての復興対策委員長と現地関係者との討論番組をみていて、情けない思いにとらわれてしまったことも、正直なところである。

質問者が、福島の現状が決して好転していないことを、資料をもって説明しているにもかかわらず、又、政府の原子力安全に関しての諮問委員会(原子力規制委員会)の委員長が、「安全宣言できる立場にない」として安全宣言をしようとしないでいるのに、「世界一厳しい審査基準で臨んでいる」などと詭弁を弄していた安倍総理や担当大臣は、相変わらず、原発再稼働まっしぐらという対応に凝り固まっていた。もはや正常であるとは言い難い痼疾ぶりだ。国民でなく誰の代弁をしようとしているのか、と、疑わざるを得ない在り様である。

「アンケートによる被災者の要望をとりあげたので、復興対応策には問題はないと考える」とか、「何度も足を運んでいるので、現地の要望は理解しているつもり」などと答える民放での政府関係者達からは、形式を整えようとする姿や、体裁やメンツを保とうとする姿が見え見えで、恥ずかしくさえ感じられた。「現地の要望と違った対応をしている」「もっと、現地を理解してほしい」といった地元からの切実な訴えとの甚だしい乖離を感じたのは、私だけでけではなかった筈と思う。

今日の政府主催の「被災者慰霊祭」でも、天皇の被災者を思いやる誠意ある姿勢に比して、安倍総理の原発問題に触れまいとする逃げの姿勢には、情けなさを通り越してあきれかえる思いでたまらなかった。私にはあの姿勢からは、かっての中身のなかった“美しい国日本”のスローガンと、同様のことが連想できるのだが、いかがなものであろうか。復興は進んでいる、原発事故の対応は改善されているなどと、一国の総理たるものが白々しく言明するなど、あってはならないことだと私は思っている。今、何が一番大事なのかを真面目に考えろ!である。

支持率に支えられていると言われる安倍内閣ではあるが、「驕る平家は久しからずや」ということを忘れないでほしい。いつまでも国民を欺けるとは思わないことだ……。





2014年3月6日木曜日

だんだん孫たちが遠くなる、遠くなる?

一番上の孫娘が、11回目の誕生日を迎えた。4月からは、はやくも小学6年生である。
最近では、バレーボールに熱中していて、かってのように一緒に楽しむことがなくなってしまい、満たされないことが多く不満たらたらのジジイなのである。
(妻の拾ってきた桜の枝に花が咲いた。3/6)

誕生祝は靴がいいとの事だったので、ショッピングモールで待ち合わせをして、孫娘に選ばせた。やはり女の子なのか、洋服にも目が行くようで、娘(孫娘の母)に足し前させて、気に入った洋服もプレゼントすることにした。娘は喜んでいたが、肝心の孫娘は今一と言ったところのようで、妻と二人で拍子抜けした思いであった。

拾ってきた桜の枝なら、水を換えたり栄養剤(砂糖)を加えたりと、手を加えることで早めの開花を促すことはできても、孫娘までもは思うに任せないもののようだ。それが成長するということなのであろうか。

「だんだんお家が遠くなる、遠くなる。」と言った歌?が思い出される。「だんだん孫たちが遠くなる、遠くなる。」と言った心境になってしまい、何となく侘びしさを感じてしまう。
ジジイの僻みと言ったところか。孫たちの成長が、嬉しいような悲しいような、何とも複雑な今日この頃であるのだ。




2014年3月5日水曜日

あまりにもはかなくて……。

(ベランダで咲き誇るアンジェリカ)
写真の花は、もう1カ月以上もベランダで咲き誇っていた。……と、残念ながら、過去形の話として伝えざるを得なくなってしまった。
この綺麗に咲いていた花が、あろうことか小鳥に食い散らされてしまったのだ。小鳥たちが、食用としたのか、興味本位でいたずらしたのかは分からないが、とにかく見事に食い散らかされてしまった。
今は、応急措置として、生ゴミ用のネットを使って残された花芽を守っている。嬉しいことに、残された花芽からは、たくさんの花が開き始めているので、元のようになるのも近いようだ。又、きれいな花々を楽しめそうではある。

花々は、守ったり手入れしたりすることで再生させることができるが、悲しいことに人の命は絶対に再生させることができない。

私達に不幸がもたらされたのは、つい先日の大雪の日であった。私の妻の兄嫁が急逝してしまったのだ。義兄夫婦は、私たちの住まいとは 300~400m程しか離れいないところに住んでいる。まさにご近所のお付き合いといったところであった。

その日、義兄嫁は、大雪だということで、同じマンションの人と雪かきをしていたらしいが、その最中に突然倒れてしまったということであった。あわてて救急車を呼んでも、大雪ですぐには来てもらえず、警察から連絡してもらって漸く病院に搬送してもらったそうだ。この間2時間を要した言うことである。あの大雪では、誰も責めることはできないが……。

私達のところに連絡が入ったのは病院の義兄からで、手の施しようがない状態で手術もできないとの知らせであった。突然のことにその意味合いが分からないまま、雪道の中をノーマルタイヤで病院に向かった。本当に、この大雪は恨めしくも呪わしいものでしかなかった。
(なんとも恨めしい大雪であった。2/15)

彼女が病院に運ばれた時には、すでに心肺停止の状態だったそうだ。MRIで調べた結果は、蜘蛛膜下出血で脳内に出血が広がっていて手の施しようがなく、ただただ心臓の止まるのを待つしかない状況らしかった。

午後の1時過ぎに病院に運ばれて、深夜の1時一寸過ぎには、彼女は還らぬ人となってしまっていた。あまりにもあっけない、はかない終焉であった。現実とは思えぬままに、葬儀が執り行われて、彼女は、笑顔の写真を残してこの世を去ってしまった。数日の間は、私たちは、彼女の面影が思い起こされて、信じられないままに日を送っていた。これは本当の事なのだろうかという思いで……。

今、私たち夫婦は、65才で逝った彼女を偲びながら、余生をお互いに楽しもうと話し合っているところだ。いつ訪れるか分からない不幸を待つより、生きている今を大事にしたいからである。ちなみに私達は、私が66才で妻は64才の人生まだまだといった夫婦なのである。

2014年3月2日日曜日

孫を預かるのは大ごとだ!

 一番下の孫がインフルエンザにかかったので、4日ほど私のところで預かった。
預かった初日の深夜に、39度6分以上の高熱を出して、はあはあ言い出したのでビックリして熱さましにかかった。ぐったりした孫を見て、正直、預かるのではなかったと後悔したものである。自分の子でないだけに、その対応に苦慮せざるを得なかったからだ。

 と言うのは、熱さましの方法に、孫の親である私の娘との間には考え方に、大きなくい違いあったからである。大げさかもしれないが、私は熱に関しては神経質なくらいに気を配っている。過去(私のタクシー乗務員時代)に、肝を冷やした経験があるからだ。

 深夜に千住近くで乗せた親子連れ(20代の夫婦と3歳ぐらいの女の子)があった。
子供が熱を出したので、病院までと言うことであった。話の中で、熱は39度8分ぐらいまで上がったが子どもが元気だったので、救急車を呼ばなかったとの事であった。話の通り、車内でも子供は元気にしていた。運転手の私とも「お熱が出ちゃったの」「病院に行ってお薬貰ってくるの」などとおしゃべりしていてとても元気であった。

 病院を目指してしばらく走っていたら、急に後部座席でバタバタと言う音がして、母親と父親の悲鳴のような叫び声が起こった。「○○○が、死んじゃう!白目をむいてしまって、体が突っ張ってしまったままになったよ!」「○○○どうしたの!返事して!○○○!○○○!」

 若い両親のあわてように、私までもが冷静さを失い、「どうしました!娘さんがどうかしたのですか」と、あわててしまっていた。私は、もしや癲癇ではないかと思いながら、「舌をかまないように,注意して!」と言うのが精いっぱいの事であった。

 それからの病院までの走行は、まるで宙を走っているような思いで運転した。泣き叫ぶ両親の「とにかく急いで!信号もなにかも無視してとにかく急いで!○○○が死んじゃうよー!」との必死の切なさが伝わってきて、とにかく病院へ病院へと急いだ。

孫の誕生祝のケーキ
料金どころの騒ぎではなかった。到着するとすぐにタンカに乗せられて救急室に入って行った子供が心配で、胸がつぶれるようであった。15分ほどして、看護師が私のところにきて、「ひきつけだったようですよ」と告げてくれた。そして、両親から託されたとタクシー料金も預かってきていた。そこで私は漸くホッとした思いになることができた。無事だったのだと……。

 私もそうであるが、あの若い両親にとっても、子供のひきつけは初めてのことであったようで、あの突然の事態には、何の対応もできなかったのである。看護師の話によると、高熱からのひきつけはよくあるとのことで、あまりの高熱の場合には、とにかく下げることを心掛けること、下がらない場合には遠慮しないで救急車を呼ぶようにとの事であった。

 高熱は怖いという私の先入観は、こうした経験から来ているのだが、保育士をしている娘にとっては薬による対応の方が心配なのだと言う。そう言われても、熱にうなされている孫を見ていると、あの夜のことが思い出されてしまい、買い置きの小児用坐薬やピタット等の熱さまし湿布薬を使ってしまう。今度の場合も、額と両脇にピタットを貼りつけて、冷たいタオルを換えながら熱さましに神経を使った。その効果か、翌朝には平熱近くまで下がって、孫は元気になって食欲も出てきた。

 元気な孫を見ながら、私は妻とぼやいていた。「娘の仕事を助けるためとはいえ、今度のような場合は預かるのは考えもんだね。私たちには責任が取れないんだから、考えなくちゃね。」と………。

2014年1月19日日曜日

トイレットペーパーの芯から、モアイ型人形を!

(陰陽師、楽人、旅人、素浪人のモアイ型人形)
(梅沢富雄、河童、妖怪ガラス、トランプマン等を追加)
我ながら子供じみたものを作ったものだと思う。何の考えもなしに、ただ思いのままにトイレットペーパーの芯を切り刻んでいくうちに、それなりの形になってしまうのだから、このモアイ型(勝手にそう呼んでいる)人形作りはとても楽しいものだ。

ゴミとしか扱われないトイレットペーパーの芯を、いろいろなものに変身させることができるとは思ってもみなかっただけに、思い付きのままに作業することでそれなりのものが出来上がっていく過程は、本当にわくわく感をさえ覚えてしまうほどである。これが、子供がえりというものなのだろうか。不器用で、創作能力もない私であるはずなのに、66才を超えた今、こうした楽しみを見つけられるとは、幸せなのだと思うべきかもしれない。

孫たちには、気持ち悪いと不評なのだが、私自身はなかなかのものではないかと自画自賛しているところだ。妻の友人が、面白い作品だとして写真を撮って褒めてくれたが、お世辞とはわかっていても嬉しいものである。

調子に乗った私は、絵手紙にも挑戦しているが、TV番組の「ちい散歩」みたいな旅紀行画が描けるはずもなく、いささか自信喪失といったところである。やはり、基本的なデッサン力に欠けているせいか思うようには描けず、なかなか筆が進まない状態だ。でも、描き続けていれば、いつかは満足のできるものが描けるかもしれないと思って今も続けている。

いつの日か、このブログに、絵手紙コーナーを開けるようにと念じてもいる。66才、まだまだ気力満々のじじいでいたいと思う。まだまだ、先は長いのであるから……。

2014年1月16日木曜日

やっぱり驕って右傾化へ

(元旦の七福神-東京大仏にて)
平成26年は、寒いながらも穏やかな日差しの下で幕を開けた。

私たち夫婦は、例年通り東京大仏で初詣を済ませた。昼時ということもあってか、人ごみはさほどでもなかった。
今年は、妻がひざを痛めて久しいので、神頼みとばかりに、境内の七福神にも詣でたが、果たして霊験あらたかとなるかどうか。とにかく、少しでも痛みが薄らぐことを願うばかりである。にわか信心で虫のよいことではあるが、願わずにはいられない昨今であったのだ。

この投稿まで、半年近くの間が開いてしまった。先の投稿もやはり、数か月の間をあけてしまったが、別に投稿が億劫になったというわけではない。むしろ、投稿して、自分なりにメッセージを発信しなくてはと焦っていたというのが正直なところであるのだ。

この間の私は、66才の全力?を、小中学時代の同級会(同期会)開催のために注いでいたのである。昨年(鬼怒川開催)は、単なる参加者であったが、今回は幹事として初めての連年開催という課題に挑戦していたのだ。もちろん、幹事は一人だけではなかったが、部落(地区)の出身者7名とともに、あれこれと知恵を絞り合っての準備活動は、久しぶりにやりがいを感じさせるものであった。中学卒業以来50年余を経た交流は、心浮き立つものでさえあった。

仲間との努力の甲斐もあって、同級生の半数近くが1泊2日のマイクロバス旅行に参加して、修学旅行気分を味わうことができ、同級会は大成功であった。記念のDVDを作ったりして、同級生50数名とのコンタクトもとれ、私自身にとってはとても有意義な期間であったと思っている。

しかし、こうした私の個人的な喜びを暗澹とさせる事態が、いやおうもなく眼前に迫ってきたことで、その私の喜びも半減させられてしまった。
私は、このブログを通じて、日本の右傾化についての不安を繰り返し訴えてきた。そして、その不安に対しての自分なりの対応ができていないことにも悩んできた。

こんな私を置き去りにして、アベノミクスなる経済政策?を隠れみのとした強引な右傾化誘導は、私の予想をはるかにしのぐ勢いで実行されつつある。秘密保護法しかり、安全保障問題しかり、原発再開問題しかり、中韓外交の悪化を招く靖国参拝しかりと、もはや歯止めは効かないのではとの疑念をさえ覚えてしまうほどだ。

あまつさえ、都知事の不祥事からの政治動向を、小泉やら細川やらの曖昧勢力に利用されかねない事態も発生している。彼らは、一面、独走する自民への警鐘をならすかのような装いも見せているが、私には、 安倍内閣・自民党の軍国化への逆戻りを、反原発の名目をもってベールをかぶせてしまう補完勢力としてしか映らない。アジテーターのアジテーターとしての本質が見えるように思われてならないのだが、いかがなものであろうか?

ご用心ご用心である……。
警鐘を連打させなければならない事態なのだから……。

2013年7月8日月曜日

初めての収穫!

(花が咲いたので期待も大)
(期待通り立派に結実)
(我が家での初めての収穫)
前回の投稿から、いろいろなことがありすぎてどう投稿すれば良いのかと、考え込んでしまった。グローバルなできごとや、ほんの身の回りのできごとでもその変化は激しく目まぐるしいもので、そのできごとの理解に追いつかず、自分の処すべき対応も見いだせないまま今日に至ってしまった。

 別に大げさに考えているつもりはないが、シリア・トルコ・エジプトの問題などは、その根底にあるものが理解できないので、宗教・民主主義・経済問題などを説かれても一向に理解できないままにその推移を見守っているだけだ。

 国内問題では、相も変わらずに理解しがたいことが続いている。先の東京都議選の結果は、危うんでいた通りの結果となり、腹立たしい限りでしかない。命よりも株(景気)の動向が大切だとの判断をしたということなのか。それでも、一部とは言え、反原発や憲法改悪反対・戦争反対を唱える政党が議席を倍増させたことは、酷暑の中で清涼飲料水を味わうがごとくの清々しさを感じさせてくれた。

 現在参議院選挙中であるので政党名は伏せるが、その政党の存在意義すら定かでないもろもろが多すぎる。それらの政党は、暗雲に更に曇りガラスをかざすような役割をはたしており、毒素を全世界に売り歩こうとしている輩を陰に陽に支えている。始末の悪いことには、その自ら果たしている役割に気付いてはいないのだ。そのことが、日本の右傾化を確実に促進させていることに一日も早く気付き、今何が大切なのかを改めて考えなおしてほしいものである。この参議院選挙も、都議選と同様の結果が予想されており、私にとっては憂鬱でしかないが、微力を尽くして、命を本当に大切にする勢力の躍進に貢献したいと考えている。

 写真は、我が家のベランダで初収穫をした茄子を撮ったものである。さほどの手入れはしていないが、毎日の水やりと野菜の病気や害虫駆除には気を配ったせいか、見事(?)に収穫ができた。次々と花も咲かせているので、この夏は自家栽培茄子を堪能できそうだ。この茄子のように、命を大切に、丁寧に育てれば必ず実は結ぶのである……。

2013年5月31日金曜日

ラップの芯で楽しもう!

(ラップの芯などで作ったオモチャ)
右の写真は、ラップやトイレットペーパーの芯で作ったオモチャである。適当に切り刻んだり、組み合わせたりしながら形作っていくのはそれなりに楽しいものであった。サイズも何もあったものではない。ただ、適当に作業を進めていく中で出来上がったシロモノ(?)ではあるが、出来上がってみるとそれなりに愛着がわいてくる。目ざとくこれらを見つけた4歳の孫が欲しい欲しいと騒いだが、すぐに壊されるのは分かり切ったことなのでとうとうあげずじまいにしてしまった。

(セスナ機?)
私はとても不器用な方なので、妻はその完成を危ぶんでいたのだが、出来上がった作品(?)をみて、意外であるといった表情を見せていた。今では、新しい芯が出るとすぐに私に手渡すようになっている。夢中になって作っている私を見つめながら、多分、「子供がえりでも始まったか?」と思っているのかもしれないな。とにかく、楽しんでいる最中である。

 いらなくなったボタンや孫のオモチャのタイヤも部品として大活躍している。プロペラは、ラップの芯で作ってゴム動力で回るようにしてある。苦労したのは、そのプロペラを固定させることであった。小さなボタンを利用して針金で回るようにしてみたが、残念ながら、今の私の力量では自走したり飛行させるまでにはできそうもない。ただ、子供みたいにプロペラの回ることを楽しんでいるだけなのだ。

(チキチキ大レース?の車)
下の写真は、パソコン用インクの入っていた小箱とトイレットペーパーの芯を使って作ったチキチキ大レースに出てくるような車である。組み合わせによっては、意外に面白い発想も湧いてくるようだ。この車はまだ孫には見つけられていないので、見つかったらまた欲しいよと騒がれそうだが、今度は「大事に優しく扱って」と注文をつけてあげようかと思っている。やはり、孫の喜ぶ顔はなにものにも代えがたいものだからね。でも、本音はチョッピリ惜しい気もする…。

2013年5月14日火曜日

一喝される!

(妻が頂いたシクラメン。毎年咲いて楽しませてくれる。)


電話が鳴った。妻が取り上げてO先生からだと言う。O先生は80才間近の税理士である。何だかんだと先生との付き合いは長く、私の上京後すぐからのお付き合いである。だから、年数だけであれば四十数年もお付き合いしていることになる。

O先生は、東大出なのに、労働運動(特に未組織労働者の組織化)に命を懸けて取り組んでいて、自身の栄達などまるで顧みない熱血青年闘士であった。上京したてで、小企業勤務の苦汁を飲まされていた私にとっては、先生は頼りがいのある憧れの存在でもあったのである。先生とは、直接の親交というよりは、地域支部という組合関係を通じての触れ合いであったが、その折々の触れ合いの中での印象は常に強烈に心に残るものであった。まさに、私にとっての英雄そのものであった。

ある時、私たち三名(友人2名を含む)は、売上税(今日の消費税)創設反対のポスターを電柱に貼っていた。当時は、今と違って、政治的主張はポスター掲示によることが多く、労働運動や政治運動をする者にとっては、電柱は警察に捕まる危険はあっても格好の主張の場でもあったのである(現在は電柱でのポスター貼りはほとんどなくなっているが…)。その時は不運(?)なことに、ポスター貼りを通報され、パトカーに追い回されて私以外の2名が捕まってしまった。あわてた私は、知人に連絡を取って、即時釈放を求めて集団で警察署に押しかけた。20名以上であったか、深夜にもかかわらず集まってくれた仲間の中にO先生もいて、釈放交渉の中心となって折衝してくれたのである。その対応の見事さや毅然とした態度には、若かった当時の私の魂を揺さぶるのにやぶさかではなかった。とにかく、O先生は私の憧れの人であったのである。

時を経て、労働運動も勢いをなくし今日のようになってしまったが、先生は税理士の資格を取得してその業務をしながら、労働運動への関与を現在も続けている。私は、税務関係の相談等で交流を続けてきているが、未組織労働者の救済の話になると、四十数年前の情熱そのままに熱弁をふるうO先生の姿には、ただただ頭が下がるばかりでなのだ。

(力強く大地から顔を出す筍)
その先生に、一喝されてしまった。
近況いかがと心配して電話をくださったのであるが、健康を理由とした最近の私のていたらくぶりが情けなかったらしく、この状況をなんと考えているかと一喝されてしまったのである。久しぶりの叱責に、身の震える思いがしたが、仰られる通りなので、電話口で身をすくめるほかはなかった。

私にもできる貢献の場があるはずだからと、かっての熱情そのままに話す先生は、あの当時の若々しさを今にとどめていた。本当に頭の下がる思いであった。近日中に訪れることを約して電話は終わったが、私は、久々に身の引き締まる思いにとらわれている。そうなのだ、先生の言われる通り、健康を理由に怠惰な生活を繰り返していてはいけないのだ…。情勢は緊迫していることを忘れてはいけない。奮起せよである………。



2013年4月12日金曜日

入学式で右傾化を知る。

(入学式会場-開会前)
孫の入学式に行ってきた。私としては、式というあらゆるものが苦手なので、足を運びたくはなかったのだが、妻の再三の誘いに止むを得ずといったところで出かけた。

 孫の入学する小学校は、東京に隣接する埼玉県の地方都市で開校9年目を迎える新興地の学校である。建物も近代的で、一見学校とは思えないモダンな造りであった。地元では人気の小学校とかで、3クラス90名余りの新入生を迎えたそうだ。

 緊張する孫を見つめながら、私は、数十年ぶりの入学式を楽しもうと、リラックスしていたのだが、式が進行するにしたがって、顔がこわばってくるのを抑えられなくなっていた。ニュースでは知らされていたが、その現場を目のあたりにして、今さらながらに考えさせられてしまったのである。それは、教育現場への右傾化の押しつけが、考えていた以上に浸透していることに気付かされたからである。そして、そのことに参列者のほとんどが気づかず(?)、無関心であるばかりかむしろ当然の事として受け入れている事実に、肌の泡立つ思いさえしてしまった。

 式であるからには、ある程度の厳かさがあってしかるべきだとは思う。しかし、教頭の開会のあいさつから始まった入学式は、校長・教育長・PTA他と順次の登壇でありきたりの歓迎挨拶等で終了し、孫のために喜べるなにものをも感じることができないものであった。むしろ、孫のためには嘆かわしい事実を知らされて、不愉快そのものであったのである。

(お国のために出撃?)
特に、登壇したすべての者の、団中央につるされた国旗への対応には驚かされるものがあった。必要以上の礼拝とも受け取れるその対応は、登壇前の階段下の拝礼に始まり、登壇後の重ねての拝礼、さらに降壇後の再々の拝礼と、拍手を交えればまるで神社における礼拝そのものであって、かっての国家神道への対応を彷彿させるものであった。こうした国旗へのバカげたへりくだりと強制される国歌斉唱とを抱き併せて考えると、歪められた国家観が無言のうちに押しつけられようとしていることは、私にも容易に理解できた。伝聞だけだはなかったのだ。教育現場では、現実に右傾化が進行していたのである。おそらく、国を愛すること、そのための国旗であり国歌であると関連付けて教育しているに違いない。

 そうした日常の教育が入学式にも反映して、登壇者のすべてに何の矛盾も感じずに馬鹿丁寧な拝礼を繰り返させていたのであろうか。恐ろしいことである。その国旗の横に、象徴天皇でない専制天皇やヒトラーの影が見え隠れしていることに早く気付くべきなのだ。かっての日本は、そうした日常教育の中から、戦争への道を突き進み、国民に塗炭の苦しみを味あわせてきた。お国のためにとの合言葉のもとにである…。

 今日の日本は、内外ともに大変な状況におかれている。北朝鮮と中国の軍事圧力や東日本大震災の復興の遅れ、特に原発事故対応への人権無視の無責任な対応と意識的な風化政策、金融大緩和の名目によるお金のバラマキと日本売りの促進等と複雑怪奇な課題に取り囲まれている。こんな時だからこそ注意しなければならないのだ。彼ら(戦争を企てる勢力)にとっては、防衛を名目にして民族意識を駆り立て憲法を改悪して再軍備を計り、経済復興を名目にして増税(軍事費増強)を正当化する絶好のチャンスであるからだ。危険な状況である。国民一人一人が、身近な幸せに酔っている時ではないのである。目覚めよう、今目覚めなければ悔いを残すに違いないのだ。

 入学式で感じた不快感から、話が飛躍してしまったが、私は私たちが今こそ声を上げ行動に移る時だと思っている。たかが国旗への対応ではないかなどと、見過ごしてはならないのである。危険な躍動に対しては、声を大にしてその芽を摘んでしまわなくてはならないと思うのだ。そのことが、愛する孫たちへの果たすべき責任であるのだから…。

 

2013年4月10日水曜日

孫を歴女に!

(満開の桜が美しい埼玉古墳公園-丸墓山)
一番上の孫を連れて、埼玉県行田市の埼玉古墳公園に出かけてきた。小5になる孫娘に願わくば将来の歴女を期待してのことであったが、果たして期待通りとなるかどうかは疑問かな?といったところだ。

 私がこの公園を訪れるのは、20数年ぶりのことである。平成3~4年頃に深谷市にいたおりに行ったのが最後で、古墳公園としての環境整備は予想以上で驚かされた。整備されすぎて、古代を偲ぶのにはいささかと惑いを感じさせられる変わりようであった。周辺一帯も公園化されており、田んぼや畑の中の遺跡群といったイメージはなくなっていた。稲荷山古墳のごときは、かっての面影をなくして復元されてもいた。率直に言って少し公園化を計りすぎたきらいがある。欲を言えば、懐かしさを感じさせて欲しかったのであるが…。

 とは言えここの古墳群は、我々に、この国の成り立ちを考えさせるには申し分のない遺跡ではある。それだけの資料を十分に埋蔵していた遺跡であるのだ。稲荷山古墳から出土した、国宝となっている金象嵌の鉄剣などはその最たるもので、中央(ヤマト王権)から遙かなこの地に、これらの古墳を築いた強力な権力者が存在していた事実を教えてくれている。詳細は語らないが、紀元470年頃に、ヤマト王権?の雄略大王が存在し、その大王に仕えたオワケの君という豪族(権力者)がその記念として金象嵌の鉄剣を作ったと、記している。

(稲荷山古墳から出土した金象嵌の鉄剣)
雄略大王(天皇)というと、神話から歴史の世界に踏み出して間もない時代の権力者である。中国への朝貢も知られており、その後ろ盾によって倭国(日本)を代表する権力者(大王)と認められている?人物でもある。俗に、倭の5王と呼ばれている、我が国の黎明期の大王の一人でもあるのだ。その歴史上の人物との繋がりが証明されたのだから、この遺跡の価値はとても計り知れないものである。もっともっと足を運ばなくちゃ…。

 このようなことを、私は孫と語り合いたので、歴女への期待を高めているのだが、広々とした公園や満開の桜の方が嬉しいらしく、あと何年かかるやらとため息が出るばかりである。小5じゃしかたがないのかな…。娘からは、自分の趣味を孫に押し付けないでと、念を押されてはいるのだが、耳をかさずに連れ出すつもりの歴爺なのだ。あきらめないぞ! 

2013年3月25日月曜日

孫来て嬉し、………嬉し。

(写真の花は義兄からの転居祝いの花)
孫来て嬉し、帰ってなお嬉しとはよく言ったものである。
 
 昨年来体調が思わしくないせいか、私の対孫感情が変わってきているようだ。孫に会ったからと言って、前のように無条件に嬉しいということが少なくなってきたのだ。会えない期間が少しでも長くなると、ソワソワしだして電話をかけてしまう等ということもなくなった。

 もちろん孫たちの成長につれて、孫たちが自我に目覚めじいちゃん(私)の思うに任せなくなったということもあるのだが、とにかく、孫たちと接していてうるさいと思うようになったり、煩わしいと感じたりするようになったのは事実である。自他共に認めるじじバカの私に、こうした感情が生まれようとは思いもしなかったことだ。やはり、体調不良で疲れているのだろうか。引っ越しによって、面倒くさいという思いは一段と強くなっており、装いなった住居への孫たちの訪れも心はずものではなく、むしろ鬱陶しくさえもある。

 かと言って、孫たちが来ると、一緒になって真剣に遊び、一緒に疲れ果てているのは変わりのないことである。だから、嬉しいということには変わりはないのだと思う。嬉しいけれど、何かが違ってきているということであるようだ。成長している孫たちの進歩と、旧態依然としている私の対孫感情にズレが生じてきて、そのズレの克服が出来ないことがかかる心の変化を生み出した、ということになるのであろうか。

 最近では、孫たちを叱ることも増えてきた。優しいばかりのじいちゃんではなくなっているのだ。しかる材料となる孫たちの行為が目につくようになって、些細なことと知りつつもついつい叱ってしまっている。郷里の教えではないが「ならぬことはならぬ」と、しかりとばしてしまうのだ。孫たちにとっては、優しいはずのじいちゃんの大変貌といったところであろうか。ときには、ゴツンとやられて、びっくりした顔をして泣き出すこともある。じいちゃん、どうしてしかるのって!抗議の目を向けられることもある。

 困ったものだ。孫たちのせいにしているが、変わりつつあるのは自分(じいちゃん)である事を誰よりも知っているくせに。素直になれない、困ったじじいではある。そんなことでは、孫たちに嫌われてしまうよ!「孫来て嬉し帰ってなお嬉し」なんてことは、まだまだ自分は孫たちに好かれているという自惚れが言わせていることで、孫たちともっともっと触れ合っていたい願望の裏返しでもあることを、素直に知るべきじゃないかな? …理屈やで素直でないおじいちゃん…自分を知りなさい。本当に「…帰ってなお嬉し」なの?………。
 
 

2013年3月13日水曜日

春が来た。でも浮かれまい。

(東京北区の旧岩淵水門)
穏やかな日差しを浴びながら、荒川の河川敷でサイクリングを楽しんだ。写真は、自宅から8~10キロぐらいのところにある、荒川と隅田川(新河岸川)とを結ぶ水防のための調整水門で、その水門が赤く塗装されていることから、「岩淵の赤水門」として知られている。

 私は、初めて行ったのだが、それなりに環境整備がなされており、その独特の風情と併せるとなかなかの行楽スポットとして楽しめそうであった。訪れた時には、あちこちに釣り人の姿も見られ、話を聞くと、釣り場としても知られているとのことで、週末には子連れの釣り人で賑わっているとのことでもあった。釣り好きの私には、願ってもない場所となりそうである。「このポイントで、昨日(3/11)は、75センチぐらいの鯉をあげたよ。」なんて話を聞くと、次回には釣竿を持ってこなくちゃと、思わざるを得ない。ハゼは12月ぐらいまで、セイゴは年中釣れるとのことも聞かされたので、再度の訪れは決まったようなものだ。但し、同行した妻からは、「釣りだったら、一人で来てね。」と冷たいお言葉を賜ってしまったが…。

 昨日の3月11日は、「東日本大震災から2年を経過した日」である。岩淵の赤い水門を見つめながらあの日のことを思い出してしまった。テレビ映像に映し出されていたあの破壊つくされた津波防御壁をの様子が、目の前の赤水門と重なってしまい、自然の恐ろしさに今更ながら震える思いがしてならなかった。昨日は、各局共に、あの震災の特集番組を組んでいた。原発事故やあの大震災の風化をもくろむ風潮への、一石を投じたことになったので、とても有意義なことであったと思う。
(春を告げる白木蓮が咲き始めた)

 私は、郷里が福島であることもあるせいか、震災後の政府対応や政治家達の無神経さには、心からの腹立たしさを感じている一人である。原発を再開させるかどうかを巡っての会合に出席した福島県知事が、被災者に対してのそのあまりなまでの無神経さに憤って、席を立ってしまったとの記事に触れて、当然だとの思いで一杯であった。が、その続きの記事を目にしたときには、愕然としてしまった。あろうことか、その同じ会合で、再開の方向が出たとして、歓迎する拍手が湧き起ったというのである。現場対応に心血を注いでいる福島県知事の抗議の退場を慮りもせず、党利党略のみから原発再開の歓迎の拍手をするなど、人間としての資格をさえ問いただしたい思いである。恥を知れ!である。

 その拍手が、先の総選挙の結果から生み出されたもので、自民党や保守勢力の驕りから出たものであることを、私たちは見逃すべきではない。恥ずべき選択であったことを、思い知るべきなのである。昨今の株価の動きなどから、景気回復云々と騒がれているが、煽り立てられたムードは、その本質と関係なく一時的な現象をもたらすものである、ということを忘れてはならない。そして思いもかけないしっぺ返しが待っているのだとも、忘れてはならないことである。ご用心ご用心なのだ…。