2012年1月31日火曜日

「五十肩」で寝不足に---


 とにかく痛い。痛くて眠れないのだ。眠れないから、夜が恐ろしい。また眠れないのかと考えると、布団に入ることすら億劫になってしまう。こんな状況が2ヶ月も続いている。だから、極度の寝不足に悩まされている。

 「五十肩」だというのだ。64歳の私であるが年齢には関係なく、そう呼称しているということだ。整形外科に行って、痛み止めの注射をしてもらったり薬をもらったりしているが、一向に治る気配がなく悪化しているのが現実だ。担当医によると、病気の原因はいまだに特定されていないということで、考えられるその要因を想定して治療にあたっているのだという。

 私の妻も数年前にこの「五十肩」になって、1年以上苦しんだ。病院に行ったりマッサージに行ったりと、あらゆる方法で治療したが、一時的に一寸だけ痛みが薄らいだだけで目立った効果は得られなかった。私も肩もみをしてあげたりしたが、思うような効果は上がらなかったようで、歯がゆい思いをしたものだ。

 ところがである。妻は、ある日突然のように、それまでの痛みが嘘のようになくなった。妻だけでなく、私の姉も同じように、突然のように痛みが取れたと言うのである。妻の姉も、同様な体験をしたと話していた。医者に話したら、ほとんどの人がそうであるというのだ。個人差はあっても、ある程度の時期を経過すれば痛みはなくなるという。どういうことなのであろうか?

 私は今、痛みのなくなる日をひたすら待ち望んでいる。寝不足と闘いながら、じっと耐えているのだ。失業中なので、仕事に支障が出るということはなくとも、この痛みからは一日でも早く解放されたい。そして、ぐっすりと眠りたい。

 こんな、切実な願いを込めて、新座市で出会った六地蔵に手を合わせた。
 

2012年1月27日金曜日

昭和は遠くに----

 小学3年生の孫娘が、学校で「昭和時代の道具」について勉強しているので、我が家にも何かないかと問い合わせてきた。あらためてそう問われると、団地住まいの我が家には、地方の農家のように古い道具が置かれているわけでもなく、あれこれと探してみたが、相応の道具を見つけることができなかった。
 見つからないとの返事にガッカリしていた孫娘を励まそうと、所用で埼玉県の新座市に出かけるおりに、孫娘を同行して「昭和探し」をすることにした。デジタルカメラを片手に、一寸したハイキング気分で歩くことにしたのだ。しかし、いざ探すとなるとなかなか見つからないもので、「昭和の道具」と限定されると、昭和から現代まで使用しているものはどうなんだろうなどと、その判断に迷ってしまい、なかなかこれはというものを見つけることができなかった。
 
 あれこれ探していると、「おじいちゃん、あった、あった」と孫が目を輝かせて駆け寄ってきた。そして、写真の赤いだるまポストを見つけてすぐにシャッターを押した。 その後も、こ一時間ほど探し歩いたが、これはというものには出会わなかった。建設現場に作業用の一輪車があったりしたが、「平成の道具」の面も多いということで写真には撮らなかった。難しいものである。

 自宅に戻ってから、孫が、道具入れの中から七輪を見つけてきた。孫の感性では「昭和の道具」に見えるようだ。本人がそう言うのだからと写真に撮った。「七輪は江戸時代にもあったんだよ。煮炊きは、七輪ですることが多かったようだよ。」と一応の説明はしたが、他にこれはというものもなかったので、この写真も学校に持っていくことにしたようだ。

 私も64歳の半ばになっている。平成の今上天皇も相当の年齢となっている。私の周りでは、平成生まれの孫たちが飛び回っている。「昭和の道具」を探すのにひと苦労するようになったということは、昭和がだんだん遠くになりつつあるということらしい。-昭和は遠くになりにけり-は、言葉ではなく実感として受け止めざるを得ないようだ。


 

2012年1月9日月曜日

孫で暮れて孫で明ける

 昨年の暮れは、小学3年の娘孫を2泊三日、5歳の息子孫を1泊二日預かった。孫来てうれし帰ってなおうれしなどと言われているが、その通りだと思う。大晦日も途中まで孫と一緒で、結構疲れがたまってしまった。

 新年は、元日に家族の顔合わせをしたので、娘も息子も孫連れで集合した。今年は喪中ということもあって、年賀のあいさつは簡単に済ませ、ささやかなおせち料理をつまみながらお酒を酌み交わした。例年であれば、誰かしらが車で来ていたので、お酒も乾杯程度であったが、今年は全員が電車で来たので、何の心配もなく飲むことができた。

 ところがである。元旦に孫の一人がお泊りということになり、今年も孫に振り回されそうな気配が濃厚となった。3日には別の孫がお泊りとなり、宿題の書初めを見てやることになった。今の子供たちの書初は、墨をすることから始まるということはない。できあいの墨汁をそそいで簡単に書き始めるのだ。だから、墨の濃淡による味わいのある書体などとは縁遠くなっている。指導する教師や親ができないのだから、筆の持ち方から運び方までを教えないと、毛筆と呼べるような書体を書くことは無理なようだ。

 7日には、息子孫が、じいちゃんやばちゃんと遊びたいと嫁に送られてきた。私は、病院に行ったり予約してあったパソコン教室に出かけたりしたのでそれほど遊べなかったが、妻は四六時中一緒だったので相当に疲れたようだ。孫は可愛いい、でも疲れる。年初からの率直な感慨である。

 冬休みが終わろうとしているのに、孫の習字はうまくいかないとのことだった。そこで、追加の指導(?)が必要となりまたまた孫娘のお泊りとなった。孫娘にとっては、8日の夜は、眠い目をこすりながらの習字となり、新年に書初めをして気を引き締めるなどというその目的からはかけ離れた辛い書初めとなってしまったようだ。やれやれである。

 

2011年12月10日土曜日

久々の横浜は、電車で往復!

 写真は、62歳の誕生日を迎えた妻への、子供(長男家族)からの誕生祝いである。「おばあちゃん、誕生日おめでとう!」の声と一緒に、孫たち(凛君、優次朗)から手渡されたもので、妻はニコニコ顔で受け取っていた。
 長女家族からは、誕生日の朝一番で祝電ならぬ祝FAXが届いた。そこには孫の”花音”のメッセージが記されていた。”そうたん=奏丞”からは、電話で直接の「おめでとう」の挨拶であった。プレゼントは、後日に会った折に渡すとのことで、何が良いのかと、娘が妻に聞いていた。
 
 私からのプレゼントは、特別にはないが、テレビで横浜の中華街を取り上げていたので、何年振りかで食事に出かけることにした。横浜までは、いつもであれば車で行くのだが、今回は電車で往復することにした。私のところからは、三田線で東急各線に直接乗り入れできるので、同じホームでの乗り継ぎ一回で中華街まで行ける。本当に便利になったものである。朝の9時ごろ出て、11時ごろには目的地に着くのだから、中華街で食事をしても2~3時間の散策時間は取れる。ということで、私たちは横浜に出かけた。

 中華街での食事は、店舗が多すぎてどこに入ってよいのか迷ってしまう。とくにあそこでというところもなかったので、ブラブラしながら適当な店を選んで入った。店は小さいものであったが、何種類もの料理が楽しめたので、まあまあといったところであった。行くまでは、あれも食べようこれも食べたいなどと話していたが、いざというと、多すぎる店舗のためにあれもこれもと考えてしまい、結局はバイキング方式みたいなところに入ってしまった。見ていると、私たちだけでなく、多くの観光客がそうしているようであった。


 中華街に行ったついでに、三国志の関羽をまつった<関帝廟>でお参りしてきた。中国式の参拝方式とやらを教わりながら、神妙に手を合わせてきた。意外だったのが、関羽が武神ならぬ商売(財務)の神としてあがめられていたことだ。兵糧などの兵站に優れていたからだという。中国では、今でも多くの国民に尊敬されているとのことであった。三国志が今に生きているということであるらしい。

 帰りは、山下公園から港沿いに”みなとみらい”まで歩いた。途中、赤レンガの倉庫(2棟)に立ち寄って、中のショッピング街をのぞき歩いたりしてそれなりに楽しむことができた。港では、カモメに餌付けしているおじさんを見つけ、カモメの写真を間近で何枚か撮った。港は、思ったほどに海水が汚れておらず、何となく嬉しくなった。でも、魚の姿が見えなかったのは残念である。

 ”みなとみらい”から3時過ぎに電車に乗ったので、ほの暗くなったころには家に戻れた。1日だけの一寸した横浜行であったが、妻には、記憶に残る誕生日となったようだ。妻が喜んでくれたのでうれしくはあったが、久々に何時間も歩いたので、私は少々疲れがでたようで足が痛い---。
 

 

2011年11月27日日曜日

歳は言い訳、がんばればできる!

 3か月にわたる就活支援講習は、ようやく終わった。
 
 風邪で休んだ何日かを除いては、まじめに通い続けたので、修了証書も無事にもらうことができた。講習でスキルアップの目標としていた、パソコン検定3級と日商簿記3級の試験も何とか受けることができた。パソコン検定の方は本当にギリギリでクリアできた。簿記に関しても、合格発表が12月の22日以降となるのでまだ確定というわけではないが、自分では多分大丈夫だろうと思っている。なにはともあれ、これで一応の目標は達成できたということだ。疲れた、とにかく疲れた。本当に疲れてしまったというのが率直な感想である。でも、その疲れよりも達成感の方が勝っている、というのが正直なところだ。

 就活支援講習は、ハローワーク(厚労省)が、就業促進を目的として民間機関に委嘱している事業で、正式名称は「緊急人材支援事業に基づく基金訓練」で通常は「基金訓練」と呼ばれているようだ。どちらかというと、若い人の就活支援事業といった色合いが強く、私のような高齢者の受講者は少ない。

 私が受講した機関(パソコン教室)も、私が最高齢者で自分でもご隠居さんといった感じがして,はじめのうちは何となく馴染めないものを感じていた。若い人たちに対しての私の固定観念的なものが、自分から入っていくことを躊躇させていたようだ。でも、そんな躊躇もすぐになくなった。学ぶということは、年齢差を感じさせなくするらしい。何のこだわりもなく、話し合えるようになり、居ごごちも悪くはなくなった。年長者である私が、若い人たちから学ぶことも多くなり、そのことへのこだわりも消えて行った。
 
 学んでいく中で、困ったことに直面した。自己流で覚えてきたことの弊害が出てきてしまったのだ。タイピングにその弊害が特に出てしまい、一時は受講の継続を断念しようかとさえ思ったほどだ。指が動かないのである。カナ変換で覚えた指が、ローマ字変換に対応しようとせず、カナからローマ字への変更を拒絶するかのように動いてはくれないのだ。悩んでいる私に、あれこれと励ましてくれたのは、若い人たちであり、熟練した講師陣であった。とにかく、繰り返しの練習でしか解決できないことを肌で感じたので、ガムシャラにキーを打ち続けることにして、朝晩の区別なく取り組んでみた。

 5分間で300文字(日本語)を入力できなければ、3級の合格ラインには届かない。私の当初の入力数は220~230文字ぐらいであったが、努力の成果が出て受験した時には、315文字を入力させることができた。ギリギリではあったが、何とかクリアできたのである。その時には、思わずガッツポーズが出てしまい、合格できた嬉しさに小躍りしたい気分であった。学科の方は、カタカナだらけの専門用語に悩まされはしたが、タイピングほどの苦労もなくクリアすることができた。何十年かぶりかの試験であり合格であったので、喜びもひとしおである。

 学習院大学での簿記試験は、練習していた問題とは違った傾向のものが出題されたので、少しドギマギとしたが、何とかクリアできたと思っている。この簿記問題は、自宅でも毎日2~3時間は勉強をしていたが、模擬試験などではいつも合格ギリギリの線で推移していたのでひやひやものであった。でも、本試験では割合に落ちついた対応ができ、自分では満足できる内容であったと思っているので、多分大丈夫だと思う。

 歳だから、もう勉強なんて無理かな? と、途中でこの受講を諦めかけたこともあったけど、なせばなるのである。司法書士とか税理士とかのレベルではないにしても、歳だなんて言い訳しないで頑張れば、ある程度のことはクリアできるということだ。そう、歳は言い訳にすぎない、頑張ればできるのだから-----。


 

2011年10月15日土曜日

失業中にスキルアップを!

 ポーチュラカの花も、こうして見ればそれなりに美しく見えるものだ。武骨な鉄さび色の小さな花鉢が、その鈍い色合いのわりには、可憐なポーチュラカとよくマッチして、花の美しさを余すところなくひきだしてくれている。生け花の心得などさらさらない私なのだが、このショットが、バラや牡丹のあでやかさや華やかさに欠けていたとしても、この花の持つ可憐な美しさを十分に取り出していることだけは分かる---。

 失業中であるからか、なにかにつけて理屈をつけたがる。困ったものだ----。

 私は、今、失業中であって、ハローワークのお世話になっている。腰を痛めての失業ということで、失業保険金の給付も待機期間もなく翌月から受けることができた。健康であったのなら、3か月後からの支給ということであったが、ハローワークの指導と担当医の診断書によって、翌月からの給付となった。

 失業保険の給付期間は、4か月間である。64歳という年齢や14年という雇用保険の加入期間からしてあまりにも短いと思えるのだが、自己退職であるという理由からやむを得ないとのことであった。会社都合による退職であったのなら、期間も長くなるとのことであったが、私の都合に会社が合わせてくれるはずもないので、待機期間がないだけ良しとせざるを得ないようだ。

 私は今、再就職に向けて、パソコンのスキルアップと事務関係の実務能力アップのために、3か月にわたる講習を受けている最中だ。これまでも簡単なワードやエクセルについては、それなりに理解できていると思っていたし、経理関係についても簿記の3級程度の実力はあるものと思っていたので、これまでのおさらいをしようなどと、ごく軽い気持ちでこの就活支援講習に参加した。ところがである、この講習期間中のスキルアップ目標とされているパソコン検定3級及び日商簿記3級取得の課題は、私のこれまでの自信を打ち砕くだけでなく、ついていけないのではという不安さえも与えるものであった。自己流で覚えてきたことの弊害が、あちこちにに顔を出して学習の妨げとなってしまったのだ。

 最初のうちは、余裕をもって勉強していたが、すぐに追いついていけなくなっている自分を知った時には愕然となってしまった。単に年のせいだけだはなく、能力の衰えをさえ感じさせられたときには、おおげさではなく絶望感やあきらめ感さえ持つに至ってしまった。妻の「若い人と一緒だと思ったらだめよ。自分にできるだけのことを精いっぱいやればそれでいいんじゃないの。」との励ましがなかったら、私はとうに挫折してしまっていたと思う。----そうだ、やれるだけやってみればいい。お金をもらいながら勉強できるなんて、こんな機会はもうないのだから----。

 ハローワークの支援ということもあって、講習料(授業料)は一切なく、失業保険金の支給を受けながらの取り組みであるから、私にとっては願ったりの機会でもあった。但し、就活は続けることが条件であって、講習(学習)そのものが目的ではないということであった。一面理解はできたが、再就職に生かすためのものであるのなら、しっかりと学習させてほしいというのも率直な感慨ではあるのだが---。

 四十の手習いという言葉があるが、私の場合は六十四才の手習いである。ついていけない部分は多いが、最近では勉強することが楽しくなってきている。おそらく、過去を振り返ってもこうした感慨は湧いたことがないはずである。何十年かぶりかの本格的な勉強となっているが、とにかく、今は楽しみながら勉強しているところだ。1日5時間の講習と自宅で3時間の学習は、失業中の自分にとっては大きな張合いとさえなっているのである。

 P検3級・簿記3級、何が何でも取得するぞー!---の意気込みを持って頑張っています。

 * スキルアップの勉強は有限会社HSD(パソコン指導教室)でしています。


 

 

2011年7月5日火曜日

本当にお世話になりました。

 写真は64歳の誕生祝いに、子供たちから貰った紫陽花の花である。左側の方は、昨年の母の日に妻が貰ったもので、何とか咲かせようと世話をしてきたが、咲かずじまいとなりそうだ。どうも、日当たりが良すぎたのが悪かったようだ。ベランダで咲かせることは、難しいようである。
 
 娘夫婦からは、好きなものを選んでと「お小遣い」を、息子夫婦からは、呆け防止のためだと「脳トレゲーム」をプレゼントしてもらった。母が逝ってから間もないので、祝い事はなしにしたかったが、子供たちの好意に甘えることにした。

 今年は、全員のスケジュールが合わず、娘家族と息子家族に、それぞれ別々に祝ってもらった。孫たちとの顔合わせは、母の死の痛みを幾分かは薄めてくれた。孫たちと顔を寄せ合ってのロウソク消しは、自分が今幸せであることをかみ締めるのに十分なものであった。これで、体調さえ良ければ申し分ないのであるが……。

 体調が悪いということで、私は5月の末からタクシー乗務を休んでいた。
 だから、母の死はこの休職中に迎えてしまったことになる。「腰椎変形症」とも言えるこの症状に対しては、薬餌だけでは解決できない。それで、腰への負担を軽くするためのダイエット、変形した腰椎を支えるための筋トレを同時に行うことになった。焦らずに、少しずつの改善を目指してである。
 昨年取り組めなかったダイエットも、毎日のカロリー計算をしながらの本格的のものとなった。もちろん妻の協力なしではできないことなので、夫婦しての共同作業として取り組んでいる。パソコンに独自のカロリー計算書をインプットしたことで、最近ではその計算もスムーズにできるようになり、頭を痛めることもなくなってきた。

 取り組んでから一月たった今、私たち夫婦は、それぞれ約5kgのダイエットに成功した。単に食事量を減らすことだけでなく、リハビリを兼ねた筋トレを一体とさせたことが功を奏したようだ。担当医の指導もあって
決して無理はしていない。だから、痩せたといっても、衰えたという感じはお互いに見られない。少し締まった感じになってきたのだ。

 ところがである、肝心の腰痛の方はどうかと言うと、改善は見られるものの、終日の乗務に耐えられるまでには回復してはいない。焦らずに、今の取り組みを継続させるしかないということなのだ。この一月あまりは、休職中であったから取り組めたようなものだ。更なる改善を目指すには、休職期間を延長させてもらうしかない、ということになる。

 私の今の健康状態、業界に復帰することによる今後の展望、64歳という年齢、余命と生き方等について真剣に考えた場合、休職を延長させることに、その意味合いがあるのかどうかは悩ましい課題であった。……で、悩んだ末に出した結果は、辞職してタクシー業界から身を引くということであった。中途半端に身をおくことは、事故の元になってしまいそうで怖くなったなったことも事実だ。14年間お世話になった業界からのリタイヤには、正直考え深いものがある。事業に失敗した後だっただけに、助けられた想いが強いからだ。本当にお世話になりました…である。本当に………。
 
 
 
 



  

2011年6月15日水曜日

一つの区切りがついた。

 秀峰-会津磐梯山-からの夜明けの一瞬である。
午前4時半頃のもので、郷里の夜明けがこんなに美しいものとは、64歳直前の今の今まで知らずにいた。迂闊そのものであった。

 今度の帰郷は、母の葬儀のためだ。6月7日早朝、母危篤の知らせが、東京の私のもとに届いた。母は、私の帰りを待ちきれずに、
97歳の生涯を終えた。年齢的には大往生であったと思う。
 母の逝く日の近いことは、3月の帰郷の際に、施設の所長から聞かされていた。内臓はボロボロで、特に心臓が弱っており、いつ逝ってもおかしくはないと知らされていたのだ。だから、危篤の知らせにも、それ程の驚きもショックもなかった。心の準備ができていたせいだ。…でも、それは表面的なものであったらしい。4泊5日の帰郷の疲れは想像以上のもので、帰ってきてから2日間も寝込んでしまった。身体の疲れは勿論のことだが、母の死の痛手が深く浸み込んでいたのだろう。私には、これで漸く一つの区切りがついた。漸くにである……。

 ブログへの投稿は5ヶ月ぶりのことである。正月の13日以来の投稿となる。

 暮れに投稿した-国防のあり方 1-の続きを考えていたら、どう纏めたらよいのか分からなくなってしまった。考えれば考えるほど分からなくなった。そこには、今までのような底の浅い国防論では承知できない自分がいて、考えるほどに頭がこんがらがってきた。自分では、平和主義の非武装論に近い考え方であったのに、それで現実的な対応ができるのかという疑問にぶつかってしまい、迷路に踏み込んだかのような心境に陥ってしまったのだ。

 この問題で真剣に悩んでいる間に、東日本大震災が発生した。そのあまりなまでの被災状況に驚愕したり、実体験した揺れの恐怖に怯えたり、連絡の取れなくなった母や実家・それに兄の消息や津波にのみ込まれたかもしれない気仙沼のいとこの心配と、投稿どころではなくなってしまったのだ。

 身近にいる子供たちや孫たちのことも心配で落ち着かず、交通手段がなくなったこともあって母の元にも駆けつけられなかったので、ただただ焦るしかなかった。二週間ぐらいの間は、ただオロオロしていただけだったが、皆の無事な消息が知れるにつれて、自分の気持ちも生活も落ち着いてきた。

 恥ずかしながら、私は、この震災でなすべき自分の役割を、未だに知らずにいる。長期にわたる復興の過程には、私にも果たせる役割が必ずあると信じているが、今は自身の体調を回復させることに専念したい。ヨロヨロとした休職中の身では、何もできはしないのだから……。

 -国防を考える 2-はしばらく投稿できそうもないので、ご容赦を……。


 

 
 

2011年1月13日木曜日

我が家のお正月


 新年明けましておめでとうございます。

 我が家の新年は、写真のうさちゃんとの挨拶で始まった。ベランダからの初日の出に手を合わせ、妻とあらためて新年の挨拶をしてから、お猪口で乾杯してお雑煮を食べる。この流れは、ここ数年続いていることで、我が家のしきたりのようになっている。昨年は、末孫の「そうたん」が風邪でパパの生家に同行できず、娘とともに大晦日から加わっていたので賑わいがあったが、この元旦は、例年通りに二人きりの静かなものであった。

 お雑煮を食べて一休みをしてから、東京大仏に初詣に出かける。ほろ酔い気分
で、2キロほどノンビリと歩いて行くのであるが、それはそれなりに楽しいものである。妻とたわいもない話をしながら歩くのも、歳を重ねたせいか、今では楽しい年中行事の1つとなってきている。変われば変わるものである。数年前までは、元旦早々に2キロも歩くなどとんでもないと、ぶつくさ言っていた私であったのに、歳のせいか本当に変わったものだと思う。数十分も並んでお参りするなどは、考えられなかったことだ。

 数年歩いていると、街の様子の変化も眼にとまるようになる。あの公園の花壇が変わったとか、植栽が枯れてしまったとか、空き地がマンションに変わってしまったとか、お店がなくなったとか新しくできたとかが眼について、その変わりようを勝手な推測で理屈づけてしまう。相続税が大変だったのだろうかとか、人通りが少ないから経営が成り立たなかったのかな、などとの具合にである。写真は、とあるお米屋さんの店先での1枚である。ここのご夫婦は、お花の手入れを丹念にされている。いつも綺麗に手入れされているので、店先ではいつも立ち止まってしまう。人柄を推し量って、末永いご繁盛をと願わずにはいられない、新春の嬉しくなる1コマである。

 正月の2日は、我が家の新春の集い?である。当初は親子4人だけであったものが、今では、婿・嫁・孫を加えた3家族10人の大賑わいである。この春は、全員が健やかに顔を見せ合うことができた。とても嬉しいことである。妻は、大晦日から、この日のための料理造りに大わらわであった。忙しい忙しいとこぼしていたが、集まった元気な顔ぶれを見て、苦労の甲斐もあったと満足げである。

写真は、我が家のおせち料理である。豪華なものはないが、妻の心のこもった料理なので、子どもたちも孫たちもおいしいおいしいと、食べつくしてしまう。その様子を見て、妻は、早くも来年の献立を考えているようだ。妻にとっては、至福のひと時であろうか……。

 

2010年12月10日金曜日

新そばの味

 12月も半ばになろうとしているのに、公園内のバラ園は、咲き誇るバラでかぐわしく匂っていた。種類別の香りを楽しむのか、花びらに顔を押し付けるようにしている人もいた。「同じ色なのに、匂いは違うのね。」…初老の婦人が、試してみたらと言わんばかりに話しかけてきた。私も、それではと鼻を近づけてみたら、甘くくすぐるような匂いがしたので、なんとなく嬉しくなって次の花に顔を向けた。

 東京都調布市の神代植物公園と、地続きの深大寺に行ってきた。妻と妻の義姉との3人で、深大寺の新そばを目的に出かけたのだ。私は、深大寺周辺の茶店を覘き歩いていると、一時代をさかのぼったようなゆったりとした心持になれるので、この散策コースがお気に入りである。饅頭やそば菓子、コマや焼き物等の民芸品を並べた店先には、かっての門前町を偲ばせる風情がある。その通りを着流しでそぞろ歩きでもしたら、自分自身がタイムスリップの世界に入り込めて、大いに満足できるかも知れないな。かって、近藤勇や土方歳三が闊歩したように、胸をそらし刀でも差して歩けたら最高かもしれない。くしくも、近藤の生家は、ここからさほど遠くないところにある。
                     
 武蔵野台地からの豊かな湧水は、畑作の多いこの地域に、うどんや蕎麦をたべる食文化を定着させたようだ。深大寺といえば、なんといっても手打ち蕎麦である。深大寺の代名詞のようなものだ。ということで、ここを訪れるたびに必ず食している。店店によって、その味わいや食感が違うので、その都度入る店を変えている。茶店である場合もあるし、専門店の場合もある。店が違うのだから、当然のように、その美味しさも違ってくる。残念なことに、今回の感想はいまいちであった。妻や義姉はまあまあだったとの感想であったが、私は、次回に期待したいといったところだ。

 植物園の方は、冬ということもあって、バラ以外にはこれといった花は咲いていない。それでも、広い庭園を散策していると、いろいろな発見をするものだ。園内には、その思いがけない発見を求めて、同年輩の人たちが、カメラや三脚をかついで、ポイントを捜し歩いていた。一見、雑草のような小さな花にもおもしろい表情があるようで、真剣な顔で覗き込んでいる。一寸したプロ意識に浸っているようだ。65歳以上の年間入場料は1250円とのこと、四季折々を楽しめるのだから、
近隣の同年配者にはありがたいことだと思う。私も、近くに住んでいたのなら……である。

 園内に、枝振りのよい桜の老木がたくさんあった。春には、その老木の下で、花見をしたいものだ。今度は、花を愛でながらの団子である。そういえば、茶店には美味しそうな草団子も売られていた。今度は、孫たちも連れてこようかな?
……はーるよ来い、はーやく来いである……。
                                           

2010年12月1日水曜日

名刹と十三参り

 写真は、郷里の名刹・円蔵時(虚空蔵様)の境内にある一院である。鮮やかなモミジの色と寺院との取り合わせが、とても素晴らしかったので一枚を。この日は、孫の「花音」と甥の子供たちを連れて何年ぶりかに訪れたのだが、悲しいことに、時代の波はこの古刹にも押し寄せており、観光化が急速に進みかっての厳かさは薄れていた。

 街を歩いていると、町の観光課の職員でもあろうか、キャラクターの赤い牛のぬいぐるみを着て、町の宣伝パンフを配布しているのに出会った。子供たちは、大喜びで一緒の写真に納まった。このひなびた観光地でも、町の振興に必死に取り組んでいるのだ。観光化することは、歓迎すべきことではないのだが、過疎の町の努力には敬意を称したい。

 この地方の子供たちは13歳になると、「十三参り」と称して、親に連れられてこの名刹を訪れる。なぜ13歳なのかは定かではないが、古くからの慣習として、今日に至っているのだ。私は母に連れられて、汽車に揺られて訪れた。私の母は、祖父に連れられて、夜更けの峠道を泣き泣き歩いてのお参りだった、とのことである。甥や甥の子供たちは、マイカーでのお参りだったとのことだ。世代によって、お参りの交通手段に違いはあっても、素朴な信仰心に基づく慣習は脈々と受け継がれ、今日に至っているのだ。

 私にとっての「十三参り」は、厳かな儀式であり、母との初めての楽しい小旅行でもあった。初めて食べた「卵どんぶり」の味や、湯気の出ていた「あわまんじゅう」のおいしさは、50年経った今でも記憶に残っている。裸まつりで知られる虚空蔵様の鰐口銅鑼の綱を、思い切り引いて音高く鳴らしたこと、お守りを買ってもらってポケットに入れたこと、急坂の階段を元気良く上ったこと、名刹縁起の牛の像を撫でまわしたこと等と、今でも懐かしく思い起こせるのだ。しかし、風情のあったつり橋の上・下流に無愛想な鉄橋が覆いかぶさるように架けられたこと、名刹縁起の一つである尺余のウグイの群れや巨鯉の姿が見られなくなったこと等には、一抹の寂しさを感じさせられてしまった。

 帰りに食べた新蕎麦の味は、なかなかのものであった。子供たちが食べたお餅(あんこ、きなこ、なっとう)もなかなかで、おいしいおいしいと一緒になって味わった。味わいながら、私は、50年前の母との想い出に浸り、介護ホームで待つその母に想いを募らせていた。



 

2010年11月12日金曜日

おかしいぞ日本

 マスコミ報道が曖昧になってきた。尖閣諸島をめぐるビデオ流出事件に関して、そのユーチューブ投稿者をどう評価するかの諸説が様々に入り乱れて、本件の本質が曖昧になりかけている。

 今のところ、投稿者と思われる人物は、現職の海上保安官であるという。本人が、上司に話したことによって公となり世間を騒がせているのだが、その目的とするところがハッキリしないために、マスコミは右往左往させられている。ただ、右往左往しながらも、ある一点については、全てのマスコミに共通性がある。その共通性は、最近ではこのビデオ流出問題だけに限らず、ほとんどの時事問題で顕著になってきている。

 ----不甲斐ない総理、出しゃばりすぎの官房長官、その彼に振り回される信頼できない内閣、公約も政策もあいまいで実行力のない与党、思い付きで口先だけの大臣が多い現政府によって、この国はかってないほどの危機的な状況に立たされている。----だから、政府は信用できない。------信用できない政府を批判することはマスコミの責務である。----政府内からの内部告発は、正義の行動であり、国民の期待し要求するところである。-----

 ここにあげた幾つかの論点から検証すると、最近のマスコミが、いかに常軌を外しかけているかを知ることができる。極端な言い方をすれば、政府不信の方向に国民を誘導しているのではと、疑いたくもなるのである。おそらく、マスコミ自身は気づいてはいないと思う。今、自分たちが犯している過ちについて、をである。国を愛し国を思う純真な心が、偏狭な民族主義の台頭に利用され、危険な右翼思想に犯されつつあることを、マスコミは自覚して欲しいところだ。
            
 右派として折り紙つきの、かの石原都知事は、真相究明も待たずに、かの保安官を『愛国者』呼ばわりをして民族主義を煽っている。このことを、マスコミはどう報道しているだろうか。国民を代弁しているかのように繰り返し報道しているのが実態であって、その右翼的言動の検証すらしていない。又、ある高名なキャスターの、「ビデオの機密性がなくなっている以上、国家機密としての扱いは不適当であるから、流失に犯罪性はなく、むしろ国民の知る権利に合致した時宜を得たな行為であるから、起訴すべきではない」…とのまともでない主張を、そのまま当然として報道し続けている。

 事件の本質が理解されていないのである。かの保安官のとった行動は、流失したビデオに機密性があるかないかということとは関係ない。その機密性の問題は、別次元で論じるべきであるまいか。機密?を国家間の駆け引きに用いたとされる政府中枢の、対応の是非をめぐる問題として、政治レベルで論じるべきであるのだ。そのことと、流失させた問題とを混同させてはならないのである。

 投稿問題は、彼が国家公務員であり、その立場で勤務上知りえた情報を、その勤務時間中に、勤務先の機器を私用して、公憤を名目にした私用目的のために取得し、自分のパソコンや報道機関などで堂々と公にもせず、流失元を曖昧にするために漫画喫茶から投稿した…というその事実から判断すべきことで、そこから遊離した議論は、見当違いも甚だしいものである。忘れてならないことは、彼が最前線で活動する保安官であるということである。一個人が、恣意のままに行動したら、どのような組織でも成り立たないことは明白である。まして、準軍人的な海上保安官の立場は、規則遵守が第一であるはずだ。

 私は、これまでの投稿でも述べているように、菅内閣を支持するものでも、民主党を支持するものでもない。むしろ、アンチ民主党的な考えの持ち主である。このような私でも、昨今のマスコミの有り様には、焦げ臭い危険なものを感じてならないので、しつこいくらいに警鐘を鳴らし続けているのだ。

 最近の報道のあり方には、本当にウンザリとさせられている。現政府を批判し、菅総理を無能呼ばわりし、仙石官房長官を影の総理扱いすることが、キャスターやコメンテーター等の常識的対応として定着し、内政・外交・経済・雇用等の失敗も当然のように結び付けられて、失政のためだと結論が出されている。マスコミの影響は本当に恐ろしい。最近では、タレントやお笑い芸人などにも同様な傾向が見られ、したり顔でコメントを発している。やがて、子供たちさえも、あなどりだすに違いない。当然の様にだ……。否定を前提とした報道は、ものごとの全てを歪めてしまうことに気づいて欲しい…。

 報道では、今回のビデオ問題では、国民の大多数が投稿した保安官を支持し、公務員法などで処罰されることを望んでいないという。そして、「国民の知る権利に応えた正義の内部告発」であるから、起訴すべきではないと願っているというのだ。恐ろしいことだ。見事なまでの、コントロールである。私は、コントロールされている多くの人々に警鐘を鳴らしたい。こうした「正義」をふりかざすマスコミのあり方こそが、かっての「大本営発表」の影に重なって来ていることを…。 ご用心ご用心である……。

 

 



 

 

 

 

 



 

2010年11月5日金曜日

早く元気にね

 11月5日、今日は孫の「そうたん」が病院に行く日だ。前から気になっている足を診てもらうためである。もう、出かけた頃であろうか。とても心配でたまらない。

 保育園から、「そうたん」の足について話があったのは、半年ほど前のことらしい。『O脚のようです。一度診てもらったほうがいいのでは。』と、告げられたとのことであった。妻によると、娘も保育園の時に同じことを言われたらしい。身内におられませんかと言われたので、私の足を見たところ、見事なO形だったので納得したそうだ。「そうたん」は、じいちゃんの遺伝なのかな?

 あらためて見てみると、確かにO形になっていた。それも、かなりの湾曲である。娘の話では、大きくなると直る場合が多いとのことであったが、私の見た感じでは、医者の診断が必要だと心配させるほどの曲がり具合であった。「じじバカ」である私は、すぐにでも病院に行くようにと焦っているのだが、娘夫婦はのんびりと1ヵ月半後に保健所検診があるとして、一向に急ぐ様子はなかった。……困ったものだ。………で、今日がその日なのである。

 気になると、「そうたん」と遊んでいても足の方に視線が向いてしまい、その歩き方にさえ神経を使ってしまう。運動会でも、ほかの子と違いはないかと、そればかりを気にしていた。どうも違うような気がする。歩行そのものが不安定に見えて仕方がないのだ。左足の具合が内側に歪んで見えて、少しだけ引き摺っているように感じられる。不遜ではあるが、歌手の某氏の歩行に似ていると思えるのだ。娘には言いにくいが、たまらなく不安である。とにかく、今日の結果を待つしかないのだが…。

 その「そうたんが」が、自宅の階段から転げ落ちて、病院に運ばれたのは10日ほど前である。大きなこぶたんができて大泣きしたとのことだ。こぶたんの方は大したことがなかったようだが、自分から『ポンポンが痛い』とお腹を押さえて訴えるので、病院に行ったとのことだ。まだ口も満足にきけない「そうたん」が、必死にポンポンと言うぐらいなのだから、相当に痛かったのだろうとは、娘の話である。

 病院では、思いがけなくも[そけいヘルニヤ]との診断が下され、その場で腸を押し込んだとのことであった。階段から落ちた拍子に、脱腸したらしい。痛みはすぐに収まったようであるが、今後も同じことが起きやすいので、手術をしたほうがよいとのことだった。ということで、「そうたん」は11月の中旬に、ヘルニヤの手術を受ける。心配するほどの手術ではないとのこと、ホッと一安心というところか…。

 「そうたん」、早く元気になって、じじと紅葉を見に行こうね。

 

 



 

2010年10月30日土曜日

短くなった秋

 記録的な猛暑が漸く終わったと思ったら、山々は急いで紅葉のたたずまいを見せ始めた。ここのところの異常気象は、夏から一気に冬にいたるという、秋外しの様相を強めている。ゆったりとした四季の移ろいが楽しめたのは、過去の話となってしまうのだろうか。日本の気候は、フィリピンに近い亜熱帯に変わろうとしているようだ。やがて、北海道でバナナが収穫できるということになるかも知れない。事実、東京湾の舘山周辺には、沖縄あたりに見られるサンゴやあでやかな熱帯地方の魚が確認されている。まさに温暖化現象が起こっている証拠である。

 ニュースでは、昭和記念公園のコスモスが満開とのこと。早速出かけようとしたら、冷たい雨が降って冬もどきの寒さになってしまい、中止となってしまった。なんせ、出かける予定の3人は、60~70歳の老人だから、無理はしないことにしている。青空の下、可憐なコスモスに囲まれたいと期待していただけに、中止はとても残念であった。…が、諦めたわけではない。コスモスが無理でも、紅葉や銀杏並木がある。埼玉県新座市の平林寺境内のもみじや神宮外苑の銀杏の葉が、風に吹き流される様は絵画的で、里の秋を満喫するのには十分である。楽しめる時期も11~12月にかけてであるので、焦る必要もないが、モミジやケヤキの色づきが悪くくすんでいるとのこと、ちょっと心配ではある。

 今日は10月の30日(土)である。時期はずれの台風14号が、関東地方に接近中とのことで、歓迎されざるその訪れを、私はメールを打ちながら待っているところだ。風も強くなってきた。雨足も強くなっている。最接近が近いようだ。孫たちの学校や保育園はお休みなので、今日は台風の心配はする必要がない。これが平日のことであったら、心配で気もそぞろとなり、車でお迎え?に走り廻っていた事と思う。私はジジ馬鹿なのだから…。

 異常気象で秋季が短くなっている。1日の寒暖の差が極端に大きくなって、スコールのような豪雨や竜巻が頻繁に起こっている。経験したこともないような自然災害が、時期に関係もなく発生している。奄美大島の記録的な豪雨は、今後起こりえる大異変のまがまがしい前兆であるのだろうか。こんな時に……

 ……のんびりと秋を楽しもうだの孫のお迎えを心配するだのは、あまりにも個人的に過ぎることであろうか?これ程地球が壊れかけているというのに、個人的な喜びに終始にしてよいのであろうか?遅いかもしれないが、自分でも出来ることがきっとあるはずだ。小さいことから始めよう。始めることが大切だと気づいたのだから、まずは第一歩を踏み出さなければ……である。

 

2010年10月27日水曜日

いつか来た道へ?

 衆議院議員北海道5区の補欠選挙の結果が出た。おおかたの予想通り、自民党・町田氏の大勝である。典型的なマスコミのお膳立て選挙であった。勝つべくして勝った自民党のコメントや、勝たせたマスコミのコメントは、それこそ、同じ原稿用紙を読んでいるかのような決まり文句が並べられている。

 政権与党の民主党に対する国民の失望感や不満、小沢氏など政治と金に関する問題でのあいまいさ、政権交代後の与党としての実績の少なさ、相変わらずの景気低迷、進展しない雇用問題等々、判を押したように同じ調子で論じている。そしてそれこそが、"国民の声であり国民感情である"という。景気が悪いのも、失業者が多いのも、政治が悪いのも、みんなみんな与党の民主党が悪いからであり、実効力のない菅内閣のせいであるとして、歩調を合わせて攻撃している。

 オイオイ待ってくれよ…である。私は、政党としての民主党や政治家としての小沢氏は好きではないが、今のマスコミや自民党をはじめとする野党の論調には納得できないものがある。むしろ、納得できないを通り越して危険な臭いをさえ感じているのである。このことについて、共産党員であるⅠ氏と話し合ったことがあるが、やはりその論調は自民党などと同じであり、特に小沢問題については、「あなたの考え方は、一部週刊誌の受け売りでしかないし、小沢の擁護論でしかない。」「国民の声や国民感情は無視してはならないし、証人喚問は当然である。」「国会の場でこそ、白黒をハッキリさせるべきだ。」と批判されてしまった。

 さらにI氏は、尖閣諸島の中国漁船問題にも及び、諸問題と関連づけて、与党の民主党がいかにあいまいな政党か、小沢氏の喚問要求がいかに正当な要求であるのかを、彼なりの論法で主張した。しかし私には、その主張にはマスコミや野党の主張との違いを、見つけることはできなかった。言い過ぎであるかも知らないが、付和雷同であるとしか、感じられなかったのである。共産党までもが冷静さを失っている事態は、非常に危険な状況になっていると言わざるを得ない。

 中国では、反日デモが繰り返されている。日本の国旗が焼かれたり、日本製品が壊されたりしている。尖閣諸島問題の抗議活動であるとのことだが、事態はそのような生易しいものではなくなっている。政府間交渉はおろか民間の交流にさえ、深刻な影響を与え始めている。ネットを媒介にして、あっというまに広がったデモは、反日から反政府へとその矛先が変わりつつあり、中国政府も慌て始めたようだ。

 デモの参加者は、大半が学生や若者である。中国政府に煽動された彼らは、真実の何たるかよりも洗脳された日本憎しの感情に踊らされていることに、気づいてはいない。そして、その感情こそが、中国国民の正義であると信じきっている。私は、国家的煽動とマスコミ的煽動の違いはあっても、国民を誘導しているということに関しては、日本も中国も似通ってきていると危惧している。自由な国である日本と、統制されている中国とを同時に論じることは、本質的に違っていると批判されるだろうが、私には、共通した危険性が含まれているとしか見えない。むしろ、日本のほうが、自由主義という美名にカモフラージュされているだけに、騙されやすいのではないかと思っている。

 今の日本は、危機的な状況にある。経済的な面ばかりではなく、国際的にも国内的にも不安定な状況にある。にもかかわらず、与党も野党も政争にあけくれてばかりで、国家の危機を顧みていない。小沢氏の証人喚問が実現しなければ、国会審議にも応じないなどその最たるものである。小沢氏の問題をそれほどまでに重視したいのであれば、中途半端な対応にしないで、刑事事件として司直の手で裁くべきであろう。国会は、裁判所ではないのだ。どうしても裁きたいのであれば、断罪を主張している議員自身が、資料をそろえ証拠を示して、自身で告訴すればよいことである。その理も分からないとは、情けない限りだ。国会を冒涜するのもいい加減にしてほしい。

 今の中国が、国力の増強を裏づけとして大国主義に陥っていることを、私たちは愚かなことと見過ごしてはならない。なぜなら、私たちは、先の大戦で同じ過ちを犯して大きな犠牲を払っているからだ。形は違っても、中国は、同じ過ちを犯そうとしているのである。そして、第二次世界大戦以上の惨禍が、この地球上にもたらされるかも知れないのだ。危機はすぐそこにまで迫っている。

 私たちは、心せねばならない。マスコミがあらぬ方向で歩調を合わせ始めたときには、大きな落とし穴が待っているということをだ。今のこうした状況を打開するためには、マスコミの正常化をこそ求める必要がある。そのためには、私たち一人ひとりが目覚めなければならない。そして、心のそこから、マスコミや政府に大きな声で訴える必要がある。………いつかきた道へ戻ってはならないと。戻りかけているのだと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年10月23日土曜日

老いるとは

 この半年ぐらいのタクシー乗務の間に、同じように考えさせられることが3件あった。それは、老いるということであり、その老いがそう遠くない時期に、私にも妻にも確実に訪れるということだった。そしてその体験は、老いが痴呆症をともなうことを見せつけたことで、言いようもないほろ苦さを感じさせるものであった。

 おどおどとして乗り込んできた80歳ぐらいの老人(男)は、いつまでたっても行き先を告げないでいる。私は行き先を確認してから発信させるようにしているので、スタートさせずにこちらからも「どこまでお送りしますか?」とたずねた。「えーと、えーと…。」、老人は考え込んでいるのだが返答が出来ないでいる。 「行き先が分からないと、お送りできませんので、想いだせてから乗られたらいかがですか?」と言って、止むを得ないのでドアを開けてその方を降ろした。そしてしばらく走った後、何となく後ろめたかったので、ユーターンして戻ったが姿はなかった。

 品のよい80過ぎのおばあさんだった。「△△△に行って頂けますか?」「ハイ、かしこまりました△△△でよろしですね。」、行き先が確認できたので、車をスタートさせた。お天気の話などしながら走らせていたら、「あのね、私、タクシーで分からないところに連れて行かれたのよ。」と変な話を始めた。「池袋から乗ったんだけど、あっちこっちまわっても家に着かないから、おかしいわって言ったら、あそこに降ろされちゃったのよ。」「ちゃんと、△△△とおっしゃったのですか?」「△△△じゃなくて、〇〇〇っていったのよ。」「えっ、△△△じゃないんですか?」…。正直、困ったことになったと思った。--どうやら、このお客さんは、自分の行くところが分からないらしい--

 私の不安そうな様子が分かったのか、おばあさんは「私、お金は持ってるから大丈夫よ。」などと見当違いの事を言い出した。どうやら、前のタクシー運転手は、面倒になって降ろしてしまったらしい。私は困ってしまって車を止め、あらためてそのおばあさんの行き先を確認しようとしたが、おばあさんは泣き出しそうな顔になり、「お家に帰りたいの」と訴えるようにしている。何だかんだと話しているうちに、迷子札のことを思い出して、「何か書いたものを持っていませんか?」と言うと、本人も気づいたらしく財布から、メモのようなものを出した。そこには住所と電話番号が書いてあった。早速電話したが、留守なのかだれもでなかった。その住所はそれほど遠いところではなかったので、とにかく送ることにした。

 その住所は、△△△でもなく〇〇〇でもなかった。目的の住所に近づいたのでたずねたら、その周りには見覚えがないと言う。住所の近くに車を止めて、おばあさんには車内で待ってもらって、その家のインターフォンを鳴らしたが誰も応答しなかった。あきらめて、近くの警察に行こうとしたところ、勤め帰りのような男性が、「家に何かごようですか?」と声をかけてきた。その男性に事情を話したら、「うちの母です。うちの母にまちがいありません。」と言って、すぐに車のおばあさんを確認した。息子さんであった。息子さんを見つけたおばあさんの表情が急に明るくなった。料金は息子さんに支払ってもらった。おばあさんは、車を降り、手をひかれてうれしそうに家に入っていった。何度も何度も頭を下げていた息子さんと、あの嬉しそうなおばあさんの顔は、当分の間忘れることはないだろう。

 3件目の体験は、年老いた奥さんが90過ぎの徘徊おじいさんを迎に行くというものであるが、投稿が長文になってしまうので、紹介は次の機会にしたい。

 掲載の写真は、妻が埼玉県の『川越祭り』を撮ってきたものである。こうした伝統行事は、多くの人々の想いと努力が支えとなって、何十年何百年と続けられるものだ。私も妻も、しばらくの間は元気でいられそうなので、何度かは見物に行ける事と思う。祭りには直接関与できなくとも、見学に参加することはできる。参加することが、祭り継続の小さな一助になると信じて…。

 私たちは、喧嘩をしながら、ぼやき合いながら、お互いにボケないことを念じながら生きて行こうと思っている。そして、たとえボケたとしても、社会の一員として、老いた自分たちにもできる小さな役割を、見つけたいと考えている。その役割に、老いてからの生甲斐を感じたいとも思っているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年10月15日金曜日

ヨーイドン!

 雲ひとつないお天気、まさに快晴である。雨天順延が幸いして、りん君の運動会は最高のお天気に恵まれた。10月に入ってから、私にとっては3回目の孫の運動会だ。
 
 小2の花音に始まって、保育園のそうたん(1歳9ヶ月)、幼稚園のりん君(4歳2ヶ月)と続いたのだが、仕事の都合で花音の運動会だけは見に行けなかった。花音には、自分のところだけ来なかったとふくれられたが、『借り暮らしのアリエッテイ』という映画に連れて行って、埋め合わせをした。

 運動会は、お天気しだいで日程が狂うことが多く、共働きの若夫婦にはその調整が大変である。二人以上の子供がいて、小学校・幼稚園・保育園と別々に通っていると、その日程のやりくりは本当に大変である。私の場合には、妻が一人ですべてに参加してきたのだが、今にして思えば、働きながらであっただけに本当に大変なことであったと思う。ただただ感謝感謝である。

 運動会には、パパ・ママだけでなく多ぜいのじいちゃん・ばちゃんが来ている。りん君も母方のじいちゃん・ばあちゃんが顔を見せてくれた。そして、りん君の出番には、身を乗り出して声援を送った。そうした光景があちこちで見られた。もちろん私たちも手を振って応援した。

 そうこうしながら、私は、昭和30年代の郷里の運動会を思い起こしていた。当時、農村という特殊性はあるものの、小学校の運動会は村・地区を挙げての一大イベントであった。そして、その運動会では、親子・兄弟・親戚・級友間のふれあいを深め、親子競争や地区対抗リレーで地域ぐるみの一体感・連帯感を確かめ合ったものだ。

 茣蓙に車座になって食べた昼食は、太目のかんぴょうの海苔巻きにぎっしりと詰まったおいなりさん、甘い鯛でんぶのおぎにりに里芋と油揚げの煮物が定番で、芋あり・栗あり・柿ありと秋の味覚も盛りだくさんで、とても楽しいものであった。隣同士がお互いのものを交換し合って、お互いのものを誉めあっては喜んでいた。保育園も幼稚園も少ない時代であっただけに、運動会は、子供たちのお披露目の場でもあり、大人(地域社会)全体が子供たちを認識できる場でもあった。ああ、あの子は〇〇んちの3番目かという具合に。

 今の時代にかっての運動会を求めても無理なことは承知している。しかし、カメラやビデオの撮影に気をとられて、わが子だけの記録造りにあくせくしているパパママの姿からは、「時代である」と笑ってはすごせないやるせなさを感じさせる。地域ぐるみで共有できた、子供たちを通じての交流や連帯の場・運動会はもはや存在しないのだと…。今では、たんなる発表会の場に過ぎないのだと…。

 澄み切った青空のように、子供たちの心には曇りもかげりもないままでいて欲しい。大人たちの都合や社会の都合で、勝手に染め分けて欲しくはないのだ。生活用品の充実や便利機器の発達が、文化の発展を促したと勘違いしているむきがあるが、心の充実なくしての発展などはあり得ない。小学生の時からケイタイを持たせたり、高価なゲーム機を与えているようではどうしようもない。私たちは、今こそ、子供たちが何を求めているのかを理解すべきである。運動会は、それを理解できるチャンスでもあるのだ。

 パパやママ、じいちゃんばあちゃん、おじちゃんおばちゃんを見つけた時の、子供たちのあの喜びに輝いた目を、私たちは忘れてはならない。あの輝きこそが、真に求めているものを証明しているのだ。子や孫のために、運動会に出かける人が多ぜいいるのだから、私たちは、時代の波に流されず、運動会の持つ本来の目的や役割を考え直してみたいものだ。……ヨーイドンである。


 

 

 

          
 
 

2010年10月8日金曜日

花は咲いたが?

 ベランダのポーチュラカがきれいに咲いています。今年は特に花の数も多く、妻はニコニコして毎日水やりをしています。
 どういうわけか、私の妻は、大輪の花よりも小さめの花が好きなようです。バラや百合・ひまわりといったものよりも、コスモスや芝桜・桜草といった群生する花や松葉ボタンのような大地に密着している花を好んでいます。派手な花よりも地味な花といったところでしょうか、妻の性格をうかがい知ることが出来ます。

 ところで、花は咲いたが…です。先の投稿で妻と一緒にダイエットに挑戦すると宣言したのですが、2ケ月も経っているのに、何の計画もたてられずあいもかわらずにモタモタとしています。妻は水泳教室に通ったりしていますが、食欲はますます旺盛で、その効果は出ていないようです。

 私はというと、経理の仕事が忙しかったことと、体調が思わしくなかったことを理由に、油っぽいものを減らしているぐらいで、取り立てて何の対応もせずに今日に至ってしまい、むしろ体重が増えてしまいました。タバコを止めると、食欲は旺盛になるようで、本当に困ったものです。このままでは、二人して大輪の花ならぬ大デブになりそうです。

 真剣に挑戦しなくちゃね!反省していまーす。

  

2010年10月5日火曜日

ショックです!

 9月下旬の深夜、杉並区の宮前体育館の近くで、タクシー乗務中に、タヌキが車にはねられているのを見つけた。一瞬目を疑ったが、それはまちがいなくタヌキであった。2ヶ月ほど前に、そこから600~700メートルぐらい離れた上荻で、つがいらしい2匹を見つけて喜んで投稿しただけに、本当にショックであった。その後、あのときの片割れでないこと願いながら、悲しい思いで業務を続けた。そして、彼ら?の厳しい現実を知らされて、見つけたと浮かれていた自分が情けなかった。

 ほどなくして、テレビで、都内でタヌキの生息が数多く確認されているとの報道があった。隅田川を越えた地域でも確認され、それまで考えられていた高尾山方面からだけではなく、筑波山方面からの進出もあるのでは、との考えに興味を持たされた。又、彼らの移動が、深夜の線路(山手線他)を使っている可能性もあるとのことで、そのたくましさには感心させられてしまった。

 喜んだり、悲しんだり、感心させられたりするばかりで、何一つ出来ない私ではあるが、彼らにエールを送ることだけは出来る。「杉並だけでなく、東京のタヌキがんばれ!」「ドライバーの皆さん、タヌキが頑張って生きています。注意して運転してください!」……と。

 

 

2010年9月3日金曜日

二人でダイエット?

 今年の元旦から始めた禁煙は、9月に入った今も続いている。この間、くじけそうになったこともあったが、苦しむこともなく何とか我慢できた。どうにか、このまま吸わずにいられそうだ。

 禁煙を始める時に、私は、あることを危惧していた。それは、太るのではないかという心配であった。禁煙によって太るという話は、よく聞かされていた。だから、太らないように気をつけていたが、タバコをやめたことで食欲が増してしまい、危惧した通りになってしまった。

 禁煙前に71㎏であった体重は、今では75kgとなってしまった。2重顎ならぬ3重顎となった顔はふくよか?になり、下腹ではなく上腹がポッコリと突き出たために、見事?なタヌキ腹が完成してしまった。なまじの料理?好きが、災いの原因となったようでもある。当然のごとく妻も巻き添えをくい、一緒に成長?を続けている。横へ横へと限りなく成長している…。

 太りすぎは健康にとっては大敵である。医者の話では、先の腰痛に際しても、この太りすぎが要因となったようだ。体重の増加が、腰への負担をきつくしたようである。又、仕事や一寸した運動で疲れやすくなり、回復も時間がかかるようになった。タクシー乗務のあとには足がパンパンにはって、浮腫みがとれるまで半日はかかるようになった。そこで………

 ……妻と話し合って、二人してダイエットに挑戦することにした。
 私は、事業に失敗する前(20年前)には80kgぐらいまで太ったことがあり、減食によるダイエットを続けた経験がある。同時期に飲みすぎで胃潰瘍も患い、何日間かの絶食をしたこともある。その折には一時的に66kgまで体重が下がり、2~3ヶ月間軽やかな生活を体験したものだ。しかし、すぐに76㎏までリバウンドしてしまい、しばらく、そのままの状態が続いた。その後、プロフィールに記したような経過があって71㎏までダウンし、禁煙にいたるまでその体重を20年近く維持し続けた。

 私の身長(171.5㎝)からして、ベスト体重は66~68㎏のようである。だから、私の減量目標は7~9㎏となり、その数値を目標に計画をたてることにした。ところがである………その計画作成が難しいのだ。私一人ではなく、二人で立てる計画だからである。勝手に献立を考えたり、絶食したりはできないからなのである。別々にすると、煩雑になるし一緒に挑戦する意味合いが薄れる。どうせなら、一緒に達成したい。そのためには、目標の数値からして、中途半端な計画ではできそうもない。しっかりとした計画が必要なのである。

 禁煙は、意思を強固にすれば出来ると思うが、ダイエットは計画を緻密にしないとできそうにない。まして、二人しての挑戦であるからには、中途半端な計画では失敗する。だから、慎重になってしまい、なかなかスタートが出来ずにいるのである。健康面からも、急ぐ必要があるのに、なぜかグズグズしているのだ。やっぱり、二人一緒には無理なのかな? 一人でやるべきなのかな?……

 近日中には、計画と実施状況について報告しまーす!