2012年12月18日火曜日

こんなバカなことが!

(間違いであって欲しい報道)
とうとうバカなことが起こってしまった。私が最も恐れていた事態をひきおこしてしまったのだ。

 なんという選択をしてしまったのであろうか、この国の有権者は…。子や孫を戦争に駆り立てても良いのだとでも言うのだろうか…。脅威の原発を存続させて、子や孫を生涯に渡って危険にさらし続けても良いと言うのだろうか…。私には信じられない。いかに現政権への不満が蓄積されていようとも、今日の事態を招いた最大の責任者たちを、再び政権に帰り咲かせようとは。信じられない。本当に信じられないことが起こってしまった。

 反省もさせず、その責任も問わず、歯の浮くような威勢のいい煽動に踊らされて、圧倒的な議席を与えてしまったとは…。信じたくはない。考えたくもない。このような選択をした有権者が正常な心理のままに行動したのだとは…。

 ショックである。ショックどころではなく、夢を見ている気分である。情けない思いでいっぱいである。空しい思いでいっぱいである。ここが日本であることが疑わしくさえもある。唱えてきた民主主義に自信も持てなくなってしまった。何もかもをが揺らいでいるように思える。子や孫の将来が不安になってきた。その未来が心配にもなってきた。どうしたというのだ。どうしてなんだ、どうして、こんなバカなことを起こしてしまったのだ。どうしよう。どうすればいい?何とかしくちゃ、なんとかしなくちゃ。

 愚痴である。つぶやきでもある。後悔でもある。今の正直な心でもある。
なんとかしなくちゃ。黙っていちゃいけない。なんでも出来ることから始めなくちゃ。何とかしなくちゃである。何とかしなくちゃ…。
 

2012年12月9日日曜日

せっせと歩くぞ!

(嫌々ながら服用している薬)
朝8種類、昼4種類、夜5種類、就寝前1種類と本当に嫌になるぐらい薬を服用している。
血圧の薬、肩の筋肉をほぐす薬、筋肉を保護する薬とビタミン剤、痛み止め、血管の収縮を助ける薬、2種類の胃薬、中性脂肪を抑制する薬等々を半年以上も飲用し続けている。

 その効果がどれほどのものかは自分でも確かめようもないが、手術前後の痛みや辛さを考えると、薬を減らすことが怖くなってしまう。こうした私のような患者が多いのだから、国の医療保険制度が大変なことは、実感としても理解できる。でも、止むを得ないことだと割り切るしかない。あの痛みや辛さは二度と味わいたくないのが本音だからだ。

 そこで、せめてもとリハビリに精を出している。それでも週に2~3回通院しているので、負担もバカにはならず、リハビリだけに頼らずに、自己回復を課題として模索しているところだ。

(妻が買ってくれた図鑑)
その一つとして、ウオーキングを始めた。なるべく手の振りを大きくしながら、小さなリュックを背負って歩き回っている。その動きが肩にも良いようで、気のせいか、はりや凝りが少しは薄れてきたようだ。

 そのウオーキングもただ歩くだけでは味気なかろうと、カメラと花植木の図鑑をリュックに入れ、散策を兼ねたものにした。リハビリと気晴らしを同時にできるのだから、今では結構楽しいスケジュールとなってきてもいる。

 私は、妻と一緒の行動が多く、早歩きの妻に遅れないようにと、せっせと歩いている。万歩計で10,000~12,000歩ぐらいとなると、それなりに運動した実感が湧いてくる。こうすることが、医療制度を支えるささやかな一助になると信じて、せっせと歩き続けようと思っているのだ。

 次の日曜日は、二つの選挙の投票日である。空しさを感じつつも、自分の意思を貫くために投票するつもりだ。結果が予測されても、自分の大切な一票は無駄にはなりはしない、と信じて…。

2012年12月6日木曜日

空しく切ないのだ……。

(秋の名残りの真紅のモミジ)
初冬の佇まいである。写真は団地の防音緑地帯の一角であるが、四季それぞれにそれなりの風景を演出してくれている。私は、この緑地帯を楽しい散歩道として利用している。
 
 師走に入って、街は二つの選挙戦が繰り広げられており、何かと騒がしくなっている。都知事選と衆議院選である。混迷政治の結果としての選挙戦であるが、私には、この選挙が「空しくやるせない思いを募らせる選挙」となっている。

 選挙につきものの中間情勢の発表があって、民主の大敗北と自民・公明・みんなの党等の回復と躍進が見込まれるとの分析が示された。維新の会は予想したほどでなく、新党みらいや、既存政党の共産党や社民党他は軒並み苦戦であるという。

 今回の選挙は、とても大事な選挙だと思う。今後の日本の進路を左右する、本当に大事な選挙であると思っている。であるのに、過去の反省もなく原発を容認し、再軍備を目指そうとする勢力が伸長するなど、とても考えられない状況が生み出されようとしているのだ。どうしたのですか?こんな選択をしようとして皆さんは後悔しないのですか?私には信じられない、こんな選択をしようとしているとは……。

 原発の再開については、経済的な混乱を起こさないための現実的な対応だとかとの理屈を掲げて、国民を逆行への道に誘導しようとしている。あの原発事故はたまたま震災によってもたらされたものであるので、常時危険にさらされているわけではないと。だから、今は、国家の経済復興を優先させるべきであると。原発に代わるエネルギーの確保には、原油や諸外国との関係から困難が伴うとも。だから、少々の危険には目をつぶって我慢しようと。とにかく、根本から離れたところで、論議を重ねているのだ。嘆かわしい限りである。

(秋の去っていく風景)
   仮に自民党の安倍さんが毒虫に刺されて、その命が危険にさらされているとしよう。そして、その毒虫が、まだ数多く彼の周りを飛び回っているとしよう。このような場合、何を優先としなければならないかは自明の理であるはずだ。理屈ではなく、生命を第一に考えた対策を立てるであろう。先ずは、注入された毒の除去から始め、ついで、ぶんぶん飛び回る毒虫の除去に全力を尽くすはずだ。飛び回っているが、近寄らなければ刺されはしないと放っておきはしないはずである。原発対応のように、経済復興が先だから、対策は10年かけてとか30年後だとかなどと、決して言うはずはないのである。原発問題の基本的な考え方は、ここに置かなければならないのだ。理屈ではなく、命にかかわる問題は何にもまして優先されるべきものなのだ。だから、原発即時撤廃こそが正しい選択だと、私は深く確信している。

 情勢分析から予想される政界地図は、あまりにも右がかったものとなりそうだ。ゴマメの歯ぎしりにも似た私のジレンマなど、とるに足らないものかもしれないが、子を思い孫を思う一老人としては、ジッとしてはおられない気分なのである。私には、戦争への足音が聞こえてきそうな、たまらない焦りがある。戦後生まれではあっても、戦争の悲惨さはベトナム戦争や中東戦争・アフガン戦争等世界中の多くの事実から知らされている。だから、体験はなくともあってはならないものと、心から思っているのだ。あろうことか、その戦争への道を切り開く勢力が、この選挙で大きくなろうとしている。

 選択を間違ってはいけない!間違わないで欲しい!もっともっと真剣に考えて欲しい!子供たちや孫たちの将来に影を投げかけないで欲しい!そう願う私であるのに、この空しさをとり除くことはできそうにない。本当に空しい。自分の無力であることを知るだけに、この空しさは例えようもなく切ないものだ…。
 

 

 

 
 

 

 

 
 

2012年11月26日月曜日

危惧が現実に?

(孫たちに作ってあげた紙飛行機)
今年の2月に、このブログで、マスコミが無分別に持ち上げていた「維新の会」の動きと、マスコミの対応についての一文を投稿した。そして、その維新を巡っての動きが、日本の右傾化につながるのではとの危惧を訴えた。

 特に、石原前都知事と橋下大阪市長との野合を懸念し、その流れが日本の右傾化を促進し、かっての戦争への道を歩み始めるのではと、その危惧の本質についてを述べた。

 あにはからんやである。その危惧した通りに事態は進行を始めた。自分を暴走老人と評し、尖閣問題や竹島問題を利用して、自衛の名のもとに再軍備の旗を掲げようと都政を投げ出した石原氏。選挙に勝つためには手段や主張もさえあっさりと変えてしまった橋本氏。日本の逆戻りを目指して歩調を合わせるこの危険極まりないコンビが誕生したことで、日本の民主主義は危険に瀕してしまったと、私は恐れにも似た懸念を感じている。

対抗しようとしてか、また一人、変な政治家が復活してしまった。自民党の安倍総裁である。幕末の吉田松陰に自身を重ねて、憂国の志士気取りで再軍備を主張し始めている。かの松陰もびっくりしているに違いない。まったく次から次と理解しがたい政治家が現れるものだ。私は、さきの一文でも述べたが、自分の任務を全うしないでその責任を投げ出す者は大嫌いである。そのような者を信用できないのは当然のことである。名をあげた3名は、その典型である思う。国難だからと主張しているようであるが、私には、彼らこそがさらなる国難をもたらす人たちであると危険視している。

写真は、孫たちと遊んでいる紙飛行機とゴム鉄砲である。私は今度の選挙が、この日本に 本物の戦闘機と鉄砲をもたらし、戦争への道を 開きかねない危険を孕んだ選挙だと受け止めている。だから、声を大にして訴えたい。ムードに流されるな、マスコミに踊らされるな、自分の1票が進路は決めるのだと。

 
(孫たちと遊んでいる木製のゴム鉄砲)
これまで、何度も味わった来たことだが、マスコミのいい加減さには本当にウンザリさせられている。小沢氏の裁判に関しても、ある面では、マスコミが彼を陥れたといってもいいと思う。彼が2年余も日陰の暮らしを余儀なくさせられなかったら、今日の状況がどうなっていたか分からないと思う。私は、小沢氏の支援者ではない。むしろ、その政治家としての手法には反感をさえ覚えている一人である。でも、政敵を倒すための策謀や、マスコミの格好の餌食としてさらされたことに関しては同情を禁じ得ないのである。こうした誤りが、今度の選挙においても繰り返されようとしているのだ。

 有権者のみなさーん、選択を間違わないようにしてくださーい!



 

2012年11月14日水曜日

同級会に行ってきた。―2

 私の同級生(小・中学時代の2クラス)は、その顔ぶれがほとんど変わっていない。小さな村落だったので、小学校も中学校も同じ顔ぶれで過ごしてきた。その9年間というものは、2名の転校生の入れ替えと、病没した1名があっただけである。だから、私たちの同級会はクラス会ではなく同村同年会と呼ぶべきもので、お互いの子供時代をよく知っており、卒業後の付き合い方も子供時分と変わってはいない。俺お前の付き合いなのだ。

 悲しいことではあるが、中学卒業後から現在までに5名の友が亡くなってしまった。事故や病没によってであるが、その早い別れは惜しむべきものであり、残った私たち五十数名は、彼らの分までこれからの人生を有意義に過ごさなければならないと思う。同級会とは、そうしたことの確認の場でもあるのだ。
(東照宮正面からの紅葉風景)

ホテルでの宴会は楽しいものであった。
年齢(65歳)が年齢であるだけに、話題の大半は健康や孫の話が多かった。特に健康面では、この1~2年の間に、心臓のバイパス手術をしたものや咽頭ガンの手術をしたものなど、人生の岐路に立たされた者もいた。又、大震災で甚大な被害を蒙ったのに、たくましく立ち直ったものもいて、私などは手が上がらないなどとショボクレてはいられないと励まされたものだ。

 子供の話、孫の話、嫁・婿の話と、まるで老人会の集いみたいな愚痴話も多く、気心が知れているだけに遠慮のないアドバイスもでて和やかであった。カラオケを聞くよりは、隣同士で話し合うことの方が楽しく、料理にも手を付けず談じあっていた。余りの楽しさに、次回は5年後ではなく1~2年後に開催しようとの意見が多く、それも修学旅行みたいにはとバスに乗ってみたいなどとの希望もでて、次の幹事への期待も大なるものであった。私も、同室の3人と深夜まで話が尽きず、翌朝は目をこすりながら朝風呂にとびこむほど楽しめたので、次回に大きな期待を寄せる一人である。
 
 バイキング形式の朝食後、一室に一同が会した。そこで別れがたいので、車で参加したものに全員が分乗して、東照宮の紅葉を楽しもうということになった。写真は、その東照宮で撮ったものである。幸いなことにモミジの色付きが特に鮮やかで、全員を楽しませてくれた。丁度見ごろでラッキーであった。混雑が多くなって、全員で昼食をとる場所が確保できず、各車ごとに分かれて食事をとることにしてそのまま散会とすることにした。私は、同方向の4人を乗せて、鹿沼までの杉並木を楽しんで帰路についた。途中、手打ちそばを食したが、まあまあといったところで腹を満たした。

 再会を約して、みんなと別れたのは夕方の5時頃である。友の変わらぬ無事と再会への期待を胸に、帰宅後すぐにデジカメを確かめプリントアウトを始めた。次回も元気な笑顔で会えるようにと祈りながら……。本当に楽しかったよー!
 

同級会に行ってきた。―1

(鬼怒川温泉街の小公園からの遠望)
11月10日(土)、1泊2日の日程で、待ちわびていた同級会に出かけた。鬼怒川温泉のBクラスのホテルだったが、ホテルのランクなどには関係なく、5年ぶりのとても楽しい再会となった。みっちょ(光男君)やせっちゃん(節子さん)ら同級生との懐かしい再会である。

 逸りすぎたのか、車での到着は予定時間よりも2時間半も早かった。そこで、日ごろは帰郷の際の通過点となっていた温泉街を巡り歩くことにした。写真は、散策のために何ケ所か用意されていた公共駐車場(小公園)で、新設間もないようでとても綺麗に管理されていた。

 温泉街を流れる鬼怒川に架けられている橋を渡り歩くのが、散策のポイントであるようだったので、私も公園に車を止めて急坂を上り下りして歩いた。吊り橋もあったりして、そこからの眺めは、峡谷とホテルとの対比が面白く、それなりに楽しめるものであった。特に、モミジの真紅と白い岩石、流れに映える水面の照り返しなどはシャッターを押さずにはいられない組み合わせであった。

 峡谷の趣きに対して、裏通りの温泉街は世相を反映してか、侘びしさだけを感じさせるゴウストタウンの様相を呈していた。せっかくの散策も、その楽しみが半減されてしまった思いである。閉じられたままのホテルや土産物店からは、この温泉街の実情を知らされた思いもした。昨年の大震災・原発事故は、この温泉街にも更に暗い影を投げかけてしまったようだ。

(吊り橋から上流を臨む)
散策を終え、ホテルに入ってから懐かしい顔を見つけた時には、瞬時に小・中学生時代の心に戻っていた。そして、数人に声をかけて近づくと、彼らは65歳の年齢を感じさせない若々しさを発散させていた。その若々しさを感じた時に、私は、「自分だけがジジイになってしまったのではないか」と変な妄想にとらわれてしまった。それだけ、自身の変貌ぶりを気にしていたということであったらしい。歓談の中でその話をすると、「頭はそれなりに薄くなったようだが、まだまだ若々しいものだ」と慰めてくれた。正直、ホッとした思いがしたものである。

 一風呂浴びてからの宴会は、予想通りの楽しいものであった。 ―2に続く……。


2012年11月9日金曜日

盛りは過ぎても…。

(蕾から咲きはじめの姿)

 数年前に息子から妻にプレゼントされたミニバラは、今年も何度目かの開花を迎えた。

 3枚の写真は、特にきれいに咲きそうな部分を摘んで、咲き始めから咲き誇るまでを撮ったものだ。わずか何日間かの移り変わり様であったが、見つめているだけでも心弾むものであった。ベランダの花を、このようにじっくりと観察したことはなかったので、あらためて花の持つ神秘さに触れた思いである。

 妻が突然に具合を悪くした。
めまいと吐き気で、布団から起き出せなくなってしまったのである。歩いてトイレにも行けなくなり、食事もとれず嘔吐を繰り返すばかりであった。 突然のことであっただけに、私はオロオロしてしまい、救急車を呼ぼうとしたが、妻に止められてしまった。少し様子を見て欲しいというのだ。

(咲き始めた姿)
食事もとれず起き上がることもできないままに1日が経過してしまった。喉を通したのは、ヨーグルトと麦茶だけで、食べやすいようにと炊いたお粥と野菜のやわらか煮にも手を付けることができなかった。

 夜、娘から電話があったので状態を話すと、どうして病院に連れて行かなかったのかと叱られてしまった。妻の頑固さを知っているはずの娘なのに、生意気にも親を叱るのだから、それだけ成長し、本当の大人になったと言うことなのであろうか。変なところで、感心してしまったものだ。

 1日おいて、妻の状態も少し良くなったので、
朝一番で病院に行かせた。連れて行くと言っても
(咲き誇っている姿)
歩いて行けるからと、自分一人で出かけて点滴を受けてきた。その効果もあってか、昼時分にはお粥も食べられるようになり、ホッとさせてくれた。更年期障害の典型的な症状であったようである。体が急に熱くなったり、冷えたりと、自分でもコントロールができなかったようであった。

 63歳直前の年齢は、その盛りが完全に過ぎ去ったということでもあるようだ。2歳年上の私などは、特にそのことを切実に実感している。妻の突然の変調は、盛りを過ぎた人生を、二人してどう生きるかを真剣に考えよという、何らかの啓示なのであろうか?
 
 とにかく、私たちは写真のような盛りは過ぎたのである。だから、姿かたちは咲き誇れなくとも、心の充実を目指して、お互いの生きざまを誇れるように努力したいものである。老いてもますます盛んであることを示したいものだ…。
 
 

 
 

 

2012年11月7日水曜日

東京駅は楽しいところとなった!

(丸の内中央口から南口ドームを臨む)
  小雨降る中を、新装なった東京駅に行ってきた。テレビで映し出されていた通りの威容で、どちらかというとロシアあたりの宮殿を感じさせるものであった。私と同じように見学に訪れたのか、カメラを向けている同年輩の人たちが大勢いて、小雨の中、傘をさしながら、思い思いの角度からシャッターを押していた。

 それにしても巨大な建築物である。このような建物が、よくもかの時代に建てられたものと、その時代を思わずにはいられなかった。それこそ国力を挙げての大事業であったに違いない。外形だけでなく、建物内のあれこれにも驚かされた。ショッピング街や飲食街なども、歩くだけでも楽しめるものであった。不景気と騒がれ続けて長いにもかかわらず、大きな流れとなって蠢いている人々の群れは、嬉々として意外にも明るいものであった。私も、妻と妻の姉との3人連れで2時間ほど歩きまわってきたが、それなりに楽しい時間を過ごすことができ、満足して帰宅できた。食事も、他店舗との競い合いのせいか、リーズナブルな価格の魅力的な店が多く、選んだところも満足できるものであった。楽しめる場所を確保した思いで何となく得した気分になれて嬉しくもあった。

(丸の内北口の天井ドーム)
一寸としたハプニングもあった。車で出かけたせいもあって、当初は高速道路からそのまま進入できる八重洲の地下駐車場(東側)を利用する予定であったが、その八重洲線が事故のために通行止めとなって進入できず、いったん高速を降りて丸の内側の地下駐車場を利用することにした。

 ところがその駐車場がステーションホテルの駐車場となっており、高級車がずらりと並んでいるような場違いのもので、地下から1階までの豪華なエントランスの中を歩くのが気恥ずかしいぐらいであった。止めてしまったのだからと、開き直った思いで利用はしたが、出庫の際の料金にはビックリさせられてしまった。通常の5倍ぐらいの料金だったので、3人分の食事代だと苦笑いしてしまったものだ。とんだおのぼりさんぶりであった。

2012年10月28日日曜日

押入れのアルバム

 11月の同級会が近いというせいか、懐かしさを求めたいという回顧願望が強くなってきた。

(ベランダのノースポール)
 そこで、押入れに首を突っ込んでアルバムを探した。アルバムとはいうものの、子供たちが保育園に入るまではそれなりに整理したのでそれらしくはあるが、それ以後はただ写真を撮って保管してあるに過ぎず、雑然としていてアルバムなどと呼べる代物ではない。

 何時・何処で・誰が・誰と・何のために撮ったのかも判然とせず、1枚1枚の写真を見ながら考え込んだり首を傾げたりと苦笑いをしながら数百枚の写真をめくり続けた。

 不思議なもので、そうしているうちに、この写真は娘との初めてのハイキングであったとか、息子の保育園のお迎えの際に、先生にシャッターを押してもらったのだとかが、少しづつ記憶としてよみがえってきて、だんだんと嬉しくなってきた。最近では、昨日の食事がなんであったかさえも忘れる始末なのに、20年も30年も前のことが次々と想い起こされるのだから、自分でも驚く次第である。

 押入れから箱ごと引っ張り出して、部屋中に撒き散らかして、ああだったこうだったとか独り言を言いながら、何とはなしに時空列的に整理を始めると、その時々の瞬間が鮮明に浮かび上がってくるようになってきた。だから、何十年も整理できずにいた難題のはずのその作業がとても楽しくなってきて、雑然としていた写真も、妻関係の思い出、娘関係の思い出、息子関係の思い出、仕事関係の思い出、家族みんなの思い出などとそれなりに整理ができ、アルバムづくりの基礎ができたように思えてきた。とは言え、我が家の写真はこれだけではなく、押入れ以外にも最近の孫たちの写真を含めた相当量があるのだから、基礎ができたなどと喜んではいられない。

 亡くなった両親や長兄・祖父母のあれこれの記憶や、中学高校時代の青臭い自分や青春時代の中での妻との出会いなどが、めくられる1枚1枚の写真から思い起こされて整理する手が止まってしまうのだが、我が家のアルバム作りもようやくその第一歩を踏み始めた言えそうだ。台帳に貼りつけたり、コメントを書き綴ったりといった作業はこれからであるが、焦る必要もないことだ。1枚1枚に込められている懐かしい思い出をたどりながら、じっくりと取り組んでいこうと思う。

 押入れのアルバム(?)にもようやく光が届きそうである…。
 



2012年10月22日月曜日

嬉しい便り

(埼玉県吉見町の道の駅で求めた桔梗)
凛とした姿が何ともすがすがしい風情を醸し出している。孫娘とドライブに出かけた際、道の駅で求めてきた桔梗であるが、しばしの間我が家のベランダに涼風を感じさせてくれた。
歳を重ねたせいか、こうした1輪の花にも愛おしさを感じるようになった。

 その歳を噛みしめ味わえる嬉しい便りが届いた。小・中学校時代の同級会(同年会)の知らせである。還暦時以来5年ぶりに開催するというもので、その幹事の中に彼の名を見つけた時は、心からの喜びを感じたものだ。なぜなら、彼はあの忌まわしい震災で家を失い最愛の娘さえも失っていたからだ。

 彼の惨状を知らせ、少しでも励まそうと、郷里(福島の会津)の同級生から呼びかけがあったのは、震災後の間もない時期であった。その呼びかけが、とても嬉しくて世話役たちには感謝さえしたものである。同級生っていいよね。

 しばらくして、彼からの直筆の礼状が届いた。その文面からは、悲しみを必死に乗り越えようとしている心情が汲み取れて、思わず涙してしまった。その彼がである、幹事に名を連ねて同級会を呼びかけてきているのだ。嬉しいことではないか、とても素晴らしいことではないか…。その力強く歩んできたであろう彼に会いたいという思いで、肩の痛みも忘れ、喜んで出席する旨のはがきを投函した。○○君、よく頑張ったね、とても励まされたよ。腱板断裂ごときはなんのそのの気概を持たなちゃね……。

 老いても凛として生きたいものである。


2012年10月21日日曜日

まだまだハイキング気分!

(埼玉県吉見町の吉見百穴)
孫たちの運動会もようやく終わった。4人の孫たちの内、3人の運動会(2日間)に行った。雨で途中中断となり翌日延期ということもあって三日間費やしてしまった。これから何年間かは、こうしたことの繰り返しとなりそうだ。やれやれというところなのだが、張り切る妻に引っ張り出され、文句も言えないたといったところである。

 一人だけ行けなかった小4の孫娘は、その償いとして一寸した見学ドライブに連れて行った。埼玉県吉見町の古代遺跡・吉見百穴を見学しに行ったのだ。当初は、行田市手前のさきたま古墳公園に行く予定であったが、公園の資料館が休日とのことで、発掘された遺物を孫に見せられないため、急遽の変更となった。

 古代人(弥生時代から古墳時代)の住居とみなされていた横穴は、発掘された資料(遺物)からお墓であったことが証明されたが、硬い岩盤に多くの横穴を穿ったその努力を考えた時、鉄器もままならなかったであろうその時代の困難な作業から、死者を弔う素朴で必死な思いが伝わってきて、思わず手を合わさずにはいられなかった。

 岩盤は、触れてみるととても硬いものであった。先の太平洋戦争ではその硬さを、軍事工場として利用するため、お墓である横穴を穿ち広げ、古代人の聖域を冒瀆した。おそらく軍事優先の名目で、遺跡の価値も古代人への思いも何ら考え及ばなかったに違いない。悲しいことではあるが、戦争とは人間として大切な感情をも失くしてしまうもののようだ。

 小4の孫娘も資料を興味深げに見て回っていた。学校に持っていくのだと写真も撮っていた。でも遺跡の持つ重要さや、古代人の思いは、感じることができていないようであった。まだまだハイキング気分の孫娘である。小4に求めるのは無理とは思うが、願わくは次回訪れるときには、そうしたものを感じられる娘に成長していてほしいと思う…。
 

 
 
 

2012年9月7日金曜日

国際的基準の法整備を!

 竹島問題・尖閣諸島・北方領土等と日本の領土問題を巡っては感情論も交えた盛んな論議がなされている。領土というよりは、領有権や実質的な占有権問題だと言った方が正確であるのかもしれないが、とにかく収拾がつかない状態になっている。

 これらの問題での政府対応に関しては、弱腰外交だとの批判が大半を占め、野田政権の根幹を揺るがす問題となっている。政府見解も「遺憾に思う」の総理談話にとどめている程度だ。領土問題に関して言えば、軍隊を持たない(持てない)国としてはそう言わざるを得ないのだろうが、やはり主権国家としての対応としては情けない限りではある。

 そもそも、領土問題に対する個人観や国家観は、一人一人・一国一国がそれぞれに違っているのだから、国防だとか愛国だとかの民族意識で一本化しようとすることには無理がある。その無理を、当事者国は、互いに国民感情や相手国への敵対意識を煽り立てるパフォーマンスを繰り返えすことで、国民の中に、既成事実として領有権が存在すると認識させ、その意識の統一を図ろうとしているようだ。韓国の大統領やロシアの首相等は、そのことを具体的な行動をもって示している。中国や香港・台湾の活動家と称する輩の、見え見えの敵対的アピール行動もその一環であるのだ。

 飛躍した話になるが、私は、かのアポロ宇宙船が月面に初めて着陸した時、月の領土や領有権ということについて素朴な疑問を持ったことがある。アメリカの主張できる権利は、アームストロング氏が行動した範囲にとどまるのかなどと、他愛もない考えに耽ったことがあるのである。又、アメリカの開拓史時代、先住民族インディアンとの生死をかけた戦いの歴史は、領土問題を考える上で忘れてはならない教訓を私たちに示している。インディアンは、自分達の生活基盤を侵されたからこそ、侵略者との悲惨な戦いを続け敗れ去ってしまったが、彼らは自分達こそがアメリカ大陸の真の領有者であると、今も考えているに違いない。

 明治・大正・昭和(敗戦まで)の時代に、わが日本国も、周辺諸国に対して侵略を続け、台湾・朝鮮半島・満州地域を占領領土として獲得したと喧伝してきた。軍事力によって実効支配してきたのである。朝鮮においては、母国語(朝鮮語)での教育を禁止させ、日本語使用強制によって文化面での侵略さえ行ってきた。近年に至って、そうしたことに目をふさぐ輩が増えて、侵略の事実はなく、虐殺や慰安婦問題なども事実ではないと、声高に喚いている連中が目につくようなった。誇張の問題はともかく、侵略した事実は拭い去ることはできないのである。問題となっているのは、紛れもなく日本国以外の地である限り、侵略した事実は覆い隠せないということだ。過ちは過ちとして、素直に反省できない限り、本当の解決策など見いだせるわけがない。私たちは、ドイツの教訓を大いに学ぶべきであろう。戦争犯罪という意識は、加害者と被害者ではその受け止め方に相違があって当然だと思う。だから、その犯した犯罪には被害者感情を加味して真剣に目を向けるべきなのだ。そして、償うべきは真摯に償わなければならない。私たちは、曖昧にしてきた過去を清算し、未来志向での対話を開始すべきだと思う。今こそ、その時期であることを自覚しようではないか。

 歴史は、その時代時代によって、相手国との関係や立場を変えてきている。その時代時代においては、真逆の関係や立場に立ってきているということである。今、紛争(?)の相手国としている韓国・中国・台湾・ロシア等について考えてみてもそのことは明確である。古くは、邪馬台国の朝貢、白村江の戦い、仏法の招来、遣隋使・遣唐使の派遣、元寇の変、足利幕府の勘合貿易、秀吉の朝鮮出兵、鎖国令による諸外国との目隠し外交、薩摩の琉球支配と日本国への一方的編入等、取り上げればきりのないほど多くの実例があるのだ。

 今騒がれているのは、近年に至っての日清・日露の戦争や、第一次世界大戦後の帝国陸軍暴走による満州侵略とその支配、そしてアジア全域にまで戦火を広げて犠牲を強いた太平洋戦争がもたらした後遺症的問題なのだ。上記したような国際関係や諸問題は、明治維新後の軍事力の増強による帝国主義的な侵略によって、その国際的な立場を逆転させた。アジアの一大強国として、保護や支援を名目に思うがままに領有権や領土支配を宣言してきた。こうした事実の繰り返しの中に、今日の領土問題が起因し、民族の優位性という身勝手なおごりさえ生んでしまったのである。

 そのおごりが、敗戦によって打ち砕かれた。
 ポツダム宣言の受諾、サンフランシスコ条約の締結によって、敗戦後の領土問題は解決したかのように思われたが、そのあいまいさが今日に禍根を残すこととなった。それは、それ以前の領土問題が、国際的にはっきりした根拠に基づくものではなく、相手国との軍事的・経済的強弱によってなし崩しに的に認証(?)されてきたものであったからである。威圧され威嚇されて認証したものを、戦後という解放された感情の中で、取り戻せたと思うのは自然の流れではなかろうか。問題を考える場合には、目線を変えて考えなければならないのである。

 ここまでこうした意見を述べると、私は非国民として罵られるのかもしれない。
 でも、アポロの月面着陸時に抱いた素朴な感慨は、領有権や領土問題の根本問題に関わるものであり、出発点であると思っている。だから、こうした問題は、当事国同士や周辺国だけでは解決できない問題と思っている。その主張をどこまで遡って根拠とするのか、相手国にどうした感情を持ち続けてきたかを考えあわせると、容易に解決できる問題ではないのである。

 現在は、文明の最も花開いた時代であると思う。こうした時代に、旧態依然とした主張の繰り返しで問題の解決を図ろうとしても、不可能に近いことであると思う。だからといって、武力による実効支配などは、その最悪のもので何の解決にもなりはしない。感情的に高ぶって粋がったり、威勢のいい言辞を弄しても、問題を拗れさせるばかりで、最悪に事態を招くばかりである。どこかの知事などは心してほしいところだ。

 私は、今、国際的に、領有権・領土問題についての基準的な法整備を行うべきだと考えている。そして、国際司法判断に従って、その解決を図るべきだとも思っている。このように言うと、現在も国際司法裁判所で裁かれているはずだと反論されあろうが、現在のものは、当事国の一方が出廷しなければ審議もできないという強制力を伴わないものでしかなく、国連の常任理事国の決議と同じで、一部の国のエゴに支配されてしまってているようだ。しかし、国際紛争の多くが領土をめぐる境界の争いである限り、この法的整備は急務の問題であると私は考えている。

 武力以外の道で解決するしかない以上、私たちは、もどかしさを味わいつつも、国際的基準の法整備を願い、その実現に力を注ぐべきであろう。そして、その実現に心する政権の選択・樹立を目指すべきと思う。そして、その政権が一部の軍事同盟に偏ることなく、真の意味での国際司法の確立に努力を重ねることが大切だと思う。

 領土問題は、一長一短では解決できない問題であるのだから、長い目で、確実に歩むしかないのだ。一時の感情や、一部の煽動に踊らされることなく、本質を見抜くしっかりとした目を養い、この国の未来を誤らせないように身を挺して行こう。子や孫のためにも……。

 
 

 
 

 
 

 

 

2012年8月3日金曜日

なかなか回復しない!

写真は、4月17日の腱板断裂手術後に、肩と上腕部を固定させるために使用したギブスの一種である。

脇の下に固定させ上腕部を押さえつけるもので、その不自由極まりないことは言語に絶するものであった。起きているときも寝ているときも、25日間の入院期間中3週間も外すことができなかったのだから、このギブスへの恨みは骨髄にまで達している。外したその日には思わず蹴とばしてやりたいぐらいであった。

このいまいましいギブスを外してから、本格的な週3回のリハビリに入り3ヶ月を経過したが、部分的にはそれなりの回復が見られるものの、肩や腕の周辺部が委縮して固まってしまい、予定通りの回復には至っていない。入院中に発生した原因不明の肩の脱臼による神経の損傷(?)が要因ではないかとのことである。

退院後も痛みが激しく眠れないことが続いたので、病院のベッド生活が恋しいほどであった。妻の負担も多くなってきたので、私の寝室を私の部屋(事務室兼書斎)に移し、自由に寝起きできるようにして、その負担の軽減を図った。薬の種類や量も多くなって、最近では副作用か浮腫みも出るようになった。痛み止めで効き目の強い薬によるものらしく、体重も5%ぐらいは増えてしまった。痩せるならともかく太ってしまうとは……。

今、パソコンが使えるようになったので、次は車の運転ができるようにと努力中である。私の車はハンドルにギアが付いているので、ギアに手が届かなくてはどうしようもない。オートマ車とは言え、片手運転ではハンドルさばきが思うに任せず、危険であるからだ。今のところ、左肩が思うように回復していないので、ギアに左手が届いてはいない状態だ。何とか届くようにと努力している。

車を元のように運転できるようになったら、一寸だけ大きくなった孫たちを連れて釣りに行こうと思っている。肩を痛めて以来、苦労をさせ続けている妻を乗せて、あちこちのフラワーパークを巡って歩こうとも思っている。そして何よりも先に、去年逝った母の墓前に花を供えたいと思っている。





2012年4月10日火曜日

春なのに---確実に。


 今、不自由な体勢でキーボードをたたいている。
左肩が思うに任せないので、机に向かっても左手の操作がぎこちなくなってしまい思うようにキーをうてない、じれったいこと、この上なしだ。

 心配していた左肩の腱板断裂に関しては、いよいよその接続と修復のために手術を行うことになった。長期リハビリによる回復の目途が、一向に立たないからだ。手術によって、どのくらいの回復が図られるのかは判らないが、現状よりははるかに良い状態になるとのことなので決断した。正直のところ不安でたまらない。なんせ、50年ほど前に盲腸の手術をして以来、手術も病気入院もしたことがないのだから、考えるだけで鬱陶しくなってしまうのだ。

 手術すると、リハビリも含めて半年間ぐらいは不自由な生活を余儀なくされるようだ。
とにかく我慢の一字で耐えるしかない。そして、以前のように、あれやこれやと頑張らねばと思う。このような私の事情には関係なく、遅れていた春もようやく訪れてきた。団地の桜は今が見ごろである。にりん草も可憐に咲き出した。


 手術による入院は3週間の予定で、肩から腕にかけてをギブスで固定し、腱板と肩の骨との接続を図るとのことである。そのために、変則的に固定されるギブスで、身体の自由は奪われてしまい、着衣やトイレなども思うに任せず、介護の手を要するとのことだ。もちろん、食事や入浴も同様に補助が必要とのことである。

 不自由な生活ということから、私は、昨年に永眠した母のことを想いうかべている。
介護施設でのある出来事のことをである。私は、入所して間もない母を気遣って、田舎に帰った。施設は、まだ新しいもので設備も職員も十分に満足できるもので、費用の点を除けば何も言うことはなかった。

 私が訪れた時は、ちょうど食事が終わりかけていた時で、母はお茶を飲んでおり私の来訪を喜んで迎えてくれた。食事はグループに分かれてとっていたようで、母以外の何人かはまだ終えていなかった。そんなおり、母は便意をもよおしてしまい、職員にその旨を訴えていた。

 母の訴えを聞いた職員は、食事中の他の人の世話で手が離せず、少し我慢してほしいと母に言っていた。他の職員(介護)も手が離せないようで、母は泣きそうな声になって、私に助けを求めてきた。情けないことに、私はそうした対応のなにものをもできないので、あらためて私からも職員に頼み込んでみた。しかしその時にである。その時に発せられた介護職員の言葉と対応に、私は激しいショックを受けてしまったのだ。いや私だけではない、母はショックどころではなく人間としての尊厳をもさえ傷つけられてしまったのだ。95歳(当時)とはいえ、母は転倒による歩行困難以外には、何らの問題はなかった。歩行ができなくなったことで、家族で介護できない事情もあって施設に入ったのであった。だから、母も私も、痴呆や耄碌による入所とは違った対応になると考えていたのである。

 「○○さん(母の名)、我慢できなかったら、そこでしてもいいんですよ。オムツをしていますから大丈夫ですよ。そこでしてください、してもいいんですよ。」、何気ない職員の優しげな言葉は、母のプライドをズタズタに切り裂いてしまった。
「違う!私は違う!私は違うんです!」母の叫びは悲痛であった。その叫びを聞きながら、私はいたたまれなくなってしまい、その場を逃げ出し、ほかのグループの職員に助けを求めた。私は、母がその場でオムツに用を足すことに耐えられなかったのだ。自分は、歩けないだけで、耄碌もしていなければ痴呆でもない、だからみんなと違うのだ言う母の叫びが私にはよく分かるから、その場にいることが耐え難かった。

 「最初はいやでも、すぐになれますよ。」母や私の訴えを、困ったものだと受け止めていた職員は、施設での対応はそうであるとして、特別ですよとの態度で、母の車いすを押してトイレに向かってくれたが、私には納得できなかった。そうしたことに慣れて行くだろう母を思うと、心から悲しくなってしまい、傍にいて介護もできない自分が、とても親不孝ものであると、つくづく思い知らされ心苦しかった。

 入院を間近にして、私はあの日のことを思い出してしまった。
不自由な療養生活を考えた時、母の味わったあの屈辱や情けなさを、私自身がかみしめる日も近いのだろうかと、侘びしく感じている今日この頃でもある。老いは、確実に迫っているという証なのであろうか----。
 
 



2012年3月22日木曜日

手術は嫌だ。でも----

遅れに遅れて春がやってきた。
今年の我が家の春は、ベランダの海棠(かいどう)の蕾の膨らみによって知らされた。

 暮れに植栽した菫が咲き誇っても、春の訪れは感じられなかったのに、海棠の蕾の膨らみは間違いのない春の訪れを感じさせてくれた。中途半端な梅の開花からは、中途半端な春の訪れしか感じられなかっただけに、海棠の力強い蕾の膨らみは、我が家にも確実に春が訪れて来ていることを知らせてくれ、冬の心でいた私に一筋の明かりを灯してくれた。(肩の痛みの原因が判明した)

 五十肩だとして痛みに耐え続けたこの4か月間、痛み止めの注射やマッサージを続けて回復を図ってきたが、一向にその成果は見られない。痛みが和らぐからと深夜も含めて一日に数回も入浴するが、その入浴も、不自由な着衣の着脱を伴ってそれなりの努力を要し、結果的には一時的な気休めにしかなっていない。とにかく、昼も夜もない痛みとの対決は絶望をさえ感じさせるもので、自分の肩や腕であるのに、その置きどころさえもわからなくなってしまい、取り外したいとさえ思ってしまう。布団に入るこさえも苦痛になってしまい、立ったまま眠れる方法はないかと真剣に考えてしまうほどだ。

 MRIによる検査結果は、腱板のうちの一本が断裂しているということであった。痛いはずである。自分は忍耐力に欠けているのではと考えたりしたが、そうでもなかったようである。痛くて当然であったということだ。これで痛みの原因は分かった。それじゃあ----ということになる訳だが----。

 説明では、断裂するにはそれなりの要因があったはずと言われたが、私には思い当たることはなかった。何かの拍子に断裂したのだろうとしか言いようがないのだ。筋肉の固まり具合から判断して、かなり以前に断裂した疑いもあるらしい。パソコンや簿記の勉強に集中していた時期に重なるので、集中心が痛みを感じさせなかったのだろうか?

 担当医によると、痛みの解消方法は二通りあるということだ。
その1は手術によるもので、身体のある部分の筋を取り出して断裂した腱板をつなぐというもので、術後2~3週間の入院が必要であり、半年ぐらいのリハビリも必要だということだ。そして、手術もリハビリもかなりの痛みを伴うということらしい。
その2は、断裂した状態のまま筋肉強化のリハビリを続けることで、断裂した部分をカバーできる状態を作り上げる方法だということだ。但し、その期間がどのくらいに及ぶのかは分からないという。もちろん断裂部分の治癒はできないそうで、元の状態に近づけるのが目的でしかないということである。

 今、私は、その2の方法を選択してリハビリに励んでいるのだが、痛みは増す一方で、満足にリハビリも行えないでいる状況だ。そこで、リハビリ担当者とも話し合い、手術もやむなしとの結論を出そうとしている。本音は、手術なんかはしたくはないのである。でも、見通しの立たない状態が続くのも困るし、昨年のスキルアップ努力(パソコン・簿記)も生かしたいので、一日も早い回復が必要でもあるのだ。

 手術は嫌だ。でも、このままはもっと嫌だ。----あ~あ~である-----。

 

 


 

2012年2月29日水曜日

雪に強い東京を!

深夜に降り出した雪が、団地の駐車場を真っ白にしている。今年に入って何度目かの降雪になるが、このたった3~4センチ程の積雪が、その都度この東京の交通機能をマヒさせてしまう。とにかく、東京は雪に弱い。

 今朝の8時ごろ、妻を、車で職場まで送ってきた。妻は、いつもなら7キロぐらいの道のりを、健康のためだからと自転車通勤しているのだが「雪道だけは駄目だから送ってよ」と、頼まれたからだ。大雨のときなどにも送っているので、慣れた道筋ではあるのだが、雪道のときは一寸した緊張感を持つので、普段よりも早めに出かけた。車の流れが、まるで違ってしまうからだ。
 
 私の車は、この時期にはスタッドレスタイヤに履き替えており、この程度の積雪には驚かない。でも、東京ではほとんどの車が雪に対応できるタイヤを履いてはいないので、周囲への対応には、結構気を使ってしまう。冬用タイヤを保持することは、それなりに大変なことだ。団地住まいの私などは、その保管場所に苦慮して、知り合いのタイヤ屋さんに預かってもらっているので、毎年季節ごとに履き替えることができているが、ほとんどの人はその保管場所が見つけられずに、困っているようだ。それで、一寸した積雪には、ノーマルタイヤのままで対応しようとして、事故を誘発させてしまう。

 私は、去年の7月までタクシーの乗務員をしていたので、東京での雪道がいかに危険に満ちているかを体験として知っている。あわやといった場面にも何度か遭遇しており、雪が積もりだすと、あたふたと帰庫することにしていた。君子危うきに近寄らずの、逃げの一手に徹底していたのである。でも、業務上、止むを得ずに運転している人が大半である限り、自分の注意ばかりではこの雪道の危険は防ぎきれない。

 そこで、時期を限っての法整備が必要なのでは、と考えることがある。個人の対応だけに頼っていたのでは、根本的な解決にはならないと思うからだ。時期と地域とを考慮した一律的な使用義務とか、道路の損耗を考慮した履き替え時期の規制とか、タイヤ保管場所の設置とかを法的に整備すれば、予測できる危険を未然に防ぐことができるのではないだろうか。

 こうしたことを言い出すと、突拍子もないことだと批判されそうだが、性能の良くなっている車両への一律的な車検制度を見直すことだけでも、予算的な面での解決はできると思えるし、保管場所等も公共の空き地等を防災事業と関連させて活用すればそれなりに解決できると思う。車検制度の見直しで個人の負担もさほどのことにはならないはずなので、実現にはそれほどの困難はないと考えのは甘すぎるだろうか。多くなる廃タイヤの活用についても、従来の油脂化への研究と併せ、チップ化して東日本大震災の復興資材として研究すれば、思いがけない活用法も見い出せるのではないだろうか。

 私のひとりよがりの考えはともかく、雪に弱い東京からの脱却を図るためには、点としての個人対応のみに任せないで、面としての行政対応が必要なことは間違いないことだと思う。皆で考えて見る必要があるようだ。雪が積もったからとあたふたしないで、その風情を楽しみたいものである---。

 

 

 
 

 

2012年2月27日月曜日

癒しの散歩

 小さな区立公園の中に、瀟洒な日本庭園がある。写真は、その庭園にあるこじんまりとした人工の滝である。少し離れた位置から撮影したものだが、庭師の思惑が感じられて、なるほどと頷かされてしまう。

 この公園には心の字池もあり、その池を臨むように一寸した茶室も設けられている。茶室の縁側に腰を下ろして、池に流れ落ちる滝音を聞きながら目を閉じていると、京都の有名庭園を訪れているような錯覚を覚えてしまい、何とはなしの旅行気分に浸ることができる。

 「五十肩」に悩まされている私は、気晴らしと運動を兼て、3~4時間ほどの散歩に出かけることが多い。この区立の公園も、その存在は知っていても訪れることはなかったのだが、散歩ついでに立ち寄ってみたのだ。身近にある公園だからと、これまでに訪れなかったことが悔やまれる。この茶室でなら、茶道の心得はなくとも、茶席について一服を喫してみたいとも思う。そんなことを考えると、気のせいか、しばし、肩の痛みも飛び散っていくようだ。

 散歩は、思いがけないものが発見できて、結構楽しいものである。
春の訪れを探してみたり、時代の移り変わりを感じてみたり、懐かしい風情を楽しんだりと、その時々の感情によって違った発見ができることがうれしい。

 今の私は、一瞬でも肩の痛みを忘れることができる「癒し」の発見を求めて歩いている。小さなリュックを背負って、防寒具にくるまっての散歩なので、だるまさんが歩いているようだ。デジタルカメラを片手に、ゆっくり歩きながら目線を四方に配る。「癒し」に繋がる発見を求めていると、一寸したものでも目につくもので、写真のような果実にもついシャッターを押してしまう。一緒に歩いている妻と、かりんではないし夏みかんでもない、ポンカンでもザボンでもなさそうだ、などと言いながらシャッターを押す。そうした会話の中にも「癒し」は存在するようで、しばしの間は肩の痛みを忘れることができる。散歩の効用大いにあり、といったところだ。

 五十肩になって3ヶ月、痛みは一向に薄れずに、痛み止めの注射も寄せ付けない勢いだ。だから、私の「癒しの散歩」は当分は続きそうだ。身近なところでの、新しい発見を求めながら-----。

 



2012年2月7日火曜日

維新の言葉に惑わされないで!

維新という言葉が流行っている。
大阪維新の会という政治会派・団体(?)が、自称して流行らせているようだ。
維新という言葉からは、すぐに明治維新という歴史の転換期が連想できる。そこからは、坂本竜馬・西郷隆盛・高杉晋作・吉田松陰などの名前も思い起こされ、黒船以来の激動の時代であったことも偲ばされる。そしてその維新が、幾多の犠牲の上に成し遂げられたものであったのかをも考えさせられる。

 私も、維新活動が、社会の行きづまりや停滞を打開すべく、変革を求める有為の志士による犠牲的活動で成し遂げられたものであることは承知している。今日、維新を叫んでいる人達は、今こそが激動の時代であり、明治維新のような一大変革を求めて、立ち上がる必要があるのだと主張している。こうした動きのあることに対して、マスコミの大半は、その活動に参加する者たちこそが正義の志士であるかのように、持ち上げ祭り上げようと煽り立てている。それも、過激な言動を繰り返す一部の新進政治家?達を、さも平成の時代における坂本竜馬であるなどと、なぞらえかねない論調をもってしてである。

 こうした風潮は、無責任なあおり報道の追い風を受けて、維新の活動に集うものは正義の改革者であり、反対を唱える者は時代遅れの偽政者であるとの色分けを無理矢理に行ってしまってもいる。今、盛んに報道されている維新活動なるものは、今の政治の欠点を抉り出すことによって、それらへの民衆(市民)の不満を、過激で先導的な言動の繰り返しで集約し組織化しようとしているものに他ならない。しかし、そこにかってのヒットラーやムッソリーニの影やにおいを感じてしまうのは、一人私だけではあるまいと思う。多くの国民(市民)が、同様の漠然とした危惧を抱き始めているのではあるまいか。

 ここ数年で新星のごとくに現れた大阪市長の橋下氏は、市民の不満をうまく煽り立てて利用した前の小泉元首相によく似ている。行動力もあり、弁もたち、アジテーターとしては申し分がない。大阪の府民(市民)は、特徴あるキャラクターにからしき弱い面があるようで、その人物の政治性や人間性というよりは、その人物に特徴的なキャラクター性があるかどうか、人情味があるかどうかが、選択の基準とされている場合が多いようだ。かの横山ノック氏を2期にわたって選択したことなどは、その端的な例であると思う。失礼な話ではあるが、かの横山氏に、府知事としての資質や先見性があったとは、私には到底思えない。人間味という点では、破廉恥な行動によって退いたというところでは証明されたが、あまりに情けないことであった。大阪府民は大いに反省すべきである。

 私は、再登場が期待されている前の小泉元首相を、政治家としてはさほど評価してはいない。なぜなら、かの元首相は、国民を愚弄してはばからなかったからだ。郵政問題を前面に立てて、国民を一大旋風に巻き込んで政治を混乱させ、その混乱に乗じて、イラクへの自衛隊派遣を行うなどは恥ずべき行為でしかなかった。それも、安全区域は行ってみなければ分からないとか、自衛隊が行っているところが安全区域だとか、くもをまくようなこと言い続けて国民を愚弄した。自衛隊員の命を軽んじるのもいい加減にしろといったところである。

 マスコミの作り出した小泉ブームは、国民生活をないがしろにして、格差社会を生み出すことにもなった。私は、タクシー乗務員としてその時代を見てきたので、暮らしがだんだん厳しくなって来ていることを、実感として受け止め続けていた。だから、純ちゃんなどと手を振って騒いでいた多くの人々を、冷めた情けない思いで見ていた。自民党をぶっ潰すという威勢のいい掛け声に騙されて、国民生活を壊されてしまったことを、私たちは真剣に反省しなければならないと思う。同じことを繰り返してはならないのである。

 然るにである、犯してしまった過ちを、私たちは再び繰り返そうとしているのだ。今、大阪維新の会?を核として、平成維新とやらを目論む人たちに、国民のすべてが巻き込まれようとしている。そして、過ちを繰り返す危険な徴候も、ところどころに見られるようになった。確かに、今日の政治(家)に、国民生活を委ねることは誰しもが不安に思うことであろう。何の政策も打ち出せず実行もできない政府や国会に失望することは、当然の成り行きであるからだ。だからといって、この閉塞感を打開するために、今のブーム的流れに身を委ねてしまっては、自らを身動きできない立場に追いやってしまうことになる。

 今、大阪と東京の指導者の提携云々が、マスコミで大きく取り上げられている。今日の日本は、強いリーダーシップによってのみ混迷から脱却できるので、その資質を持っている東西の指導者に国政を預けたらどうかというのが、その根拠であるらしい。最新の情報では、意見や立場の違いを超えて、大まかなところで妥協し合えるための「船中八索」なるものも、チラホラと見え隠れ始めた。なにおかいわんやである。かの東西の指導者の主張に共通していることは、強いリーダーシップによる教育の改革であり、国旗掲揚に起立し、君が代斉唱を何の疑問も持たずに成長する子供たちを育成することにある。そして、そうして教育した子供たちを、右習いで行進させることが最終目的でもあるのだ。反論もあるであろうが、私には、彼らの行き着くところはそこでしかないと思えてならないのである。

 彼らの共通点を、もう一つ取り上げてみたい。それは、彼らが、与えられた任務を全うもしないで、中途半端に放り投げてきた言うことである。東京都知事の石原氏は、参議院議員の任期半ばで衆議院にくらがえし、そのくらがえした衆議院議員の責務も都知事に挑戦して放り投げ、敗れるや再び衆議院議員に返り咲き、その衆議院議員も25年の政治活動を理由にして、任期半ばで責任を放り投げた。そして4年のブランクの後、再度都知事に挑戦して当選し現在に至っている。橋下氏にしてもしかりである。大阪府知事に当選するや、多くの課題を府民に投げつけたままその責務を投げ出して、大阪都構想を掲げて大阪市長にくらがえした。まるで、ロシアのプーチン氏を彷彿とさせる行動をとっている。そうすることが、責任を果たすことになるなどとの彼らの言い訳は、私には詭弁としか受け取れない。投げ出した事実は事実でしかないのだから。

 私は、自己の人気にあやかって責務を投げ出し、その任期も全うできない政治家は信用できない。まして、その人気におもねり、すり寄ろうとしている政治家などは、なおさらに信用ができない。今、マスコミが犯している過ちは、こうしたブーム的現象を、強いリーダーシップを持つ者の出現であり、維新改革の具体的行動が始まっていると、歪めて報道していることである。ブーム的現象による政治の結末がどのようなものであるのかは、かっての日本新党や、横山氏・青島氏・小泉氏からも苦い教訓として知らされているはずだ。だから、マスコミは、維新などとの言葉で、私たちを混乱させないで欲しい。

 冷静に現実を見つめようよ---。マスコミの煽り立てに踊らされず、選択の目をしっかりと養おうよ---。かってドイツが犯したように、誤った民族主義に陥っての焚書活動や国会放火事件などの暴挙を、是として容認しないように、私たちは曇りのない確かな目でこの国を見つめて行こうよ---。過激な言動に迷わされることなく、この国が誤った進路に踏み出さないように、しっかりと監視して行こうよ---。子や孫の為にもね---。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

2012年2月5日日曜日

鬼(不幸・災い)は外!

 写真は我が家での節分グッズである。目刺しを焼いて、その頭をとって豆の枝の先端にさし、玄関表の窓格子にヒイラギとセットにして1年間置いておく。子供たちが小さかった時分には、私か妻かが鬼のお面をかぶって、逃げる役目を果たしていた。節分も、子供たちと触れ合える楽しい行事の一つであったのだ。

 妻と二人暮らしとなってからは、鬼の面を玄関ドアに貼りつけて、そのお面に豆をぶちまけている。はじめのうちは「福は内、鬼は外」と大声を出していたのだが、年を経るにしたがってその声もだんだん小さくなってしまい、今では口の中でぶつぶつ言っているような具合になってしまった。ぶちまける豆も、あとの掃除が大変なほど撒いていたのを、今は玄関に少々と各部屋にぱらぱらとしか撒いていない。鬼(不幸・災い)は、こうした中途半端な対応を知っていたのだろうか。平成23年は、そうとでも考えないと理解できないぐらいにいろいろなことが起こってしまった。

 健康面では、腰痛の悪化と年末からの五十肩に悩まされた。仕事面では、腰痛から長年勤めたタクシー業界を退いて失業せざるを得なかった。100歳まで頑張るかと思っていた母が97歳7か月で他界した。物的な面でも、テレビ・湯沸かし器・洗濯機・掃除機・お風呂の釜と次々に故障して取り替えた。姪の健康状態が悪くなったり、子供夫婦や孫たちの心配事が多かったりと、とにかく大変な年であったのだ。

 だから、今年の節分はいろいろな思いを込めて豆を撒いた。
 「福は内、鬼(不幸・災い)は外」と大声で------。
 

 

 

2012年1月31日火曜日

「五十肩」で寝不足に---


 とにかく痛い。痛くて眠れないのだ。眠れないから、夜が恐ろしい。また眠れないのかと考えると、布団に入ることすら億劫になってしまう。こんな状況が2ヶ月も続いている。だから、極度の寝不足に悩まされている。

 「五十肩」だというのだ。64歳の私であるが年齢には関係なく、そう呼称しているということだ。整形外科に行って、痛み止めの注射をしてもらったり薬をもらったりしているが、一向に治る気配がなく悪化しているのが現実だ。担当医によると、病気の原因はいまだに特定されていないということで、考えられるその要因を想定して治療にあたっているのだという。

 私の妻も数年前にこの「五十肩」になって、1年以上苦しんだ。病院に行ったりマッサージに行ったりと、あらゆる方法で治療したが、一時的に一寸だけ痛みが薄らいだだけで目立った効果は得られなかった。私も肩もみをしてあげたりしたが、思うような効果は上がらなかったようで、歯がゆい思いをしたものだ。

 ところがである。妻は、ある日突然のように、それまでの痛みが嘘のようになくなった。妻だけでなく、私の姉も同じように、突然のように痛みが取れたと言うのである。妻の姉も、同様な体験をしたと話していた。医者に話したら、ほとんどの人がそうであるというのだ。個人差はあっても、ある程度の時期を経過すれば痛みはなくなるという。どういうことなのであろうか?

 私は今、痛みのなくなる日をひたすら待ち望んでいる。寝不足と闘いながら、じっと耐えているのだ。失業中なので、仕事に支障が出るということはなくとも、この痛みからは一日でも早く解放されたい。そして、ぐっすりと眠りたい。

 こんな、切実な願いを込めて、新座市で出会った六地蔵に手を合わせた。
 

2012年1月27日金曜日

昭和は遠くに----

 小学3年生の孫娘が、学校で「昭和時代の道具」について勉強しているので、我が家にも何かないかと問い合わせてきた。あらためてそう問われると、団地住まいの我が家には、地方の農家のように古い道具が置かれているわけでもなく、あれこれと探してみたが、相応の道具を見つけることができなかった。
 見つからないとの返事にガッカリしていた孫娘を励まそうと、所用で埼玉県の新座市に出かけるおりに、孫娘を同行して「昭和探し」をすることにした。デジタルカメラを片手に、一寸したハイキング気分で歩くことにしたのだ。しかし、いざ探すとなるとなかなか見つからないもので、「昭和の道具」と限定されると、昭和から現代まで使用しているものはどうなんだろうなどと、その判断に迷ってしまい、なかなかこれはというものを見つけることができなかった。
 
 あれこれ探していると、「おじいちゃん、あった、あった」と孫が目を輝かせて駆け寄ってきた。そして、写真の赤いだるまポストを見つけてすぐにシャッターを押した。 その後も、こ一時間ほど探し歩いたが、これはというものには出会わなかった。建設現場に作業用の一輪車があったりしたが、「平成の道具」の面も多いということで写真には撮らなかった。難しいものである。

 自宅に戻ってから、孫が、道具入れの中から七輪を見つけてきた。孫の感性では「昭和の道具」に見えるようだ。本人がそう言うのだからと写真に撮った。「七輪は江戸時代にもあったんだよ。煮炊きは、七輪ですることが多かったようだよ。」と一応の説明はしたが、他にこれはというものもなかったので、この写真も学校に持っていくことにしたようだ。

 私も64歳の半ばになっている。平成の今上天皇も相当の年齢となっている。私の周りでは、平成生まれの孫たちが飛び回っている。「昭和の道具」を探すのにひと苦労するようになったということは、昭和がだんだん遠くになりつつあるということらしい。-昭和は遠くになりにけり-は、言葉ではなく実感として受け止めざるを得ないようだ。


 

2012年1月9日月曜日

孫で暮れて孫で明ける

 昨年の暮れは、小学3年の娘孫を2泊三日、5歳の息子孫を1泊二日預かった。孫来てうれし帰ってなおうれしなどと言われているが、その通りだと思う。大晦日も途中まで孫と一緒で、結構疲れがたまってしまった。

 新年は、元日に家族の顔合わせをしたので、娘も息子も孫連れで集合した。今年は喪中ということもあって、年賀のあいさつは簡単に済ませ、ささやかなおせち料理をつまみながらお酒を酌み交わした。例年であれば、誰かしらが車で来ていたので、お酒も乾杯程度であったが、今年は全員が電車で来たので、何の心配もなく飲むことができた。

 ところがである。元旦に孫の一人がお泊りということになり、今年も孫に振り回されそうな気配が濃厚となった。3日には別の孫がお泊りとなり、宿題の書初めを見てやることになった。今の子供たちの書初は、墨をすることから始まるということはない。できあいの墨汁をそそいで簡単に書き始めるのだ。だから、墨の濃淡による味わいのある書体などとは縁遠くなっている。指導する教師や親ができないのだから、筆の持ち方から運び方までを教えないと、毛筆と呼べるような書体を書くことは無理なようだ。

 7日には、息子孫が、じいちゃんやばちゃんと遊びたいと嫁に送られてきた。私は、病院に行ったり予約してあったパソコン教室に出かけたりしたのでそれほど遊べなかったが、妻は四六時中一緒だったので相当に疲れたようだ。孫は可愛いい、でも疲れる。年初からの率直な感慨である。

 冬休みが終わろうとしているのに、孫の習字はうまくいかないとのことだった。そこで、追加の指導(?)が必要となりまたまた孫娘のお泊りとなった。孫娘にとっては、8日の夜は、眠い目をこすりながらの習字となり、新年に書初めをして気を引き締めるなどというその目的からはかけ離れた辛い書初めとなってしまったようだ。やれやれである。