2014年11月25日火曜日

絶景かなは、アンチの行動?

(湖東三山の内、西明寺の紅葉 11/16 )
京都の紅葉を楽しみたいとの妻の希望で、湖東三山(百済寺、西明寺、金剛輪寺)と嵐山(トロッコ列車、天龍寺、渡月橋)、それに清水寺・南禅寺という一泊2日の超過密ツアーに参加してきた。

いつものように、妻の姉と3人での老人旅行であったが、今回は山登りに行ったような場所が多く、ただただ疲れたという感じであった。それにしても、有名寺院はなにゆえにかくも山中にお堂を建てたがるのかと首を傾げた次第である。ありがたや 苦難の末の 御本尊 といったところであろうか。とにかく、石段の多いお寺さんばかりである。

(清水寺の舞台から 11/17 )
清水寺の舞台からの遠望は素晴らしかった。かくも大がかりな木造建造物を築き上げた先人達には畏敬の念を覚えざるを得ない。
都をとりまく周囲の山々に古刹が多いのは、為政者の思惑が働いての事であろうが、それにしてもその権力の大きさには驚かされてしまう。駆り出され、絞りとられた庶民の苦しみはいかばかりであったろうか。でも、矛盾するが、その庶民はありがたい教えや巨大な建造物に歓喜して拝跪したに違いないのだ。権力者の思惑通りにである。

いつの世も、権力者は自己の勢力を誇り保存するために詭弁を弄して庶民を騙そうとする。このことは古今を通じてなんら変わることはない。時には、天変地異の禍までも政治的に利用する。権力を弄ぶものは、庶民などは道具でしかありはしないのだ。
(絶景かなーで有名な南禅寺の山門 11/17 )

かの石川五右衛門は、時の権力者・秀吉に逆らいその鼻を明かそうとして捕まったのだとの逸話がある。そのために、見せしめとして釜茹でにされてしまったというのである。だから、彼は大泥棒などではなく庶民のヒーローたる反逆者であったというのだ。真偽のほどは別として、その絶対権力者に立ち向かった姿には喝采を送ってもいいのではなかろうか。

1強5弱の中で暴走を続ける安倍政権は、あろうことか国費700億円を無駄遣いしてまで大義なき選挙を挙行してしまった。国民愚弄も甚だしいものである。しかるに、暴挙でしかないこの事態に際しても、いまだに40%近い支持を得ているというのだから、私にはとても信じられないことだ。2年前に安倍政権を許して窮地に立たされたはずの国民は、またまた同じ轍を踏もうとしているのだろうか。

戦争をしたいのですか?戦前の日本に戻りたいのですか?この際、しっかりと考えましょうよ!国民の一人一人が、平和のための五右衛門になりましょうよ……。


2014年11月13日木曜日

老いるとは?

(かりんの実を見上げて)
あの台風にもめげず、団地内のかりんは吹き落とされることもなく枝にしっかりとしがみついている。そしてそのたくさんの実たちが、黄色に熟して周りにかぐわしいにおいを降り注ぐようになった。

洗面器の中では、お祭りですくってきた金魚が元気に泳いでいる。3尾いたのだが、1尾は脱出を図ったのか、器の外に飛び出して干からびてしまった。可哀そうだったので妻と一緒に植木鉢の片隅にお墓を作って弔った。
そんなこともあって、この絵を描いた後に小さな浄化装置の着いた水槽を買って引っ越しさせた。だから、今ではブクブク泡立っている水槽の中を元気に泳ぎ回っている。

(お祭りですくってきた金魚)
最近、仏心(ほとけごころ)について考えることが多くなった。蜘蛛をつぶしたり、ゴキブリを叩いたり、虫をつまんだりした時などは特に考え込んでしまう。今まで何の気なしにしていた、そうした行為がすごく罪深いもののように感じられてならないのである。

金魚は弔うのにゴキブリなどは当然のように殺してしまう。その差には自分でも納得できない何かを感じてしまうのだ。とりわけて仏教の教えを信じているわけでもないのに、何故かもののあわれを考えてしまうのである。

齢67に至っての心境の変化とでも言えるのだろうか。思いまどろむことの多い昨今である。普段は、政治への不満をたぎらせてあれこれと憤っているはずの自分が、この頃では空の青さや、木々の色づきに目を奪われることが多いのだ。

老いるとはこうしたものなのだろうか?

2014年10月27日月曜日

本来について考えよう!

(水量豊かな袋田の滝 10/15)

(観瀑台からの袋田の滝 10/15)
写真は、同級会の途次に訪れた茨城県の“袋田の滝”である。この日は、台風通過のせいもあって、水量も豊富でその迫力は名瀑にふさわしいものであった。

この滝にはこれまでに2度訪れているが、いつもちょろちょろとした流れしか見られず、期待外れであっただけに、本来の姿を見せられた思いで嬉しい限りであった。

本来の姿と言えば、ここのところの政治家の見苦しいあたふたぶりにはあきれ返ってしまい開いた口もふさがらない。政治家とは何者ぞと問いただしたい思いである。

国民注視の国会中継で、うちわをかざしてうちわのようなものでうちわでないと開き直る現職の女性法務大臣、子どもでもその収支に疑問を持つであろう報告書を突き付けられて、言い逃れもできず困惑している二世女性大臣、SMバーへの支払いを交際費として計上していた引継経産省大臣と、語るのも恥ずかしい醜態でしかない。

しかし、これが安倍内閣の実態で、いまさら呆れかえっても仕方がないのかもしれない。だから当然のようにボロが出たということで、嘆くにも値しない出来事なのだと思う。第一次安倍内閣を彷彿させるこの事態は、安倍総理の指導力の欠如と人物眼のなさを如実に示したということでもある。一刻も早いご退陣を願いたい。

法の解釈もできない法務大臣、収支の計算のチエックも出来ない経産省大臣、SMバーへの支出を政治活動費と判断する部下に支えられる引継大臣とこの国の指導部は、なんと情けないメンバーで構成されていることか、恥ずかしい限りである。今こそ、政治家の本来のありかたが問われる時ではなかろうか。

国民よ目覚めよ!である。本来の政治家とはどういうものであるかを真剣に考えようではないか。

2014年10月7日火曜日

復興はまだまだ遠い!

(南三陸町の被災庁舎 9/22)
猛暑を避けて、お彼岸に郷里に帰った。
歳のせいなんだろうか、盛夏に帰省することにためらいを感じるようになった。
私の郷里は、福島の会津である。東京からは、高速道路を使用すると丁度300キロぐらいの距離で、3時間30分ぐらいで帰れる。

今年は、会津から足を延ばして気仙沼(大谷海岸)のおばさんの墓参りをすることにした。実に、中学2年生以来の52年ぶりの訪問である。そのためか、道筋の記憶もあいまいで、カーナビ頼りの心もとないドライブとなってしまい、会津からの距離は、400キロ弱であったのに、5時間近い時間を要してしまった。

いとこ夫婦は、大谷海岸という海水浴場のある海辺の町に住んでいたが、あの大震災のために跡形もなくすべてを流されてしまい、今は高台にある仮設住宅での生活を余儀なくさている。

おばの墓は、高台にあって津波の被害は免れていた。私は、線香をたむけながら、懐かしい叔母や小父の顔を思い出していた。かってのチリ地震の際の津波を語ってくれたことなども併せて思い出していた。それにしても、あらためて自然の力の恐ろしさを知らされた思いであった。

いとこ夫婦からの三陸の味の供応を受けてから、気仙沼を訪れた。その気仙沼は、あの港祭りで賑わっていた漁港の面影はどこにもなく、ガランとした復興中の様相でさびしい限りであった。

(ガランとした復興中の気仙沼港 9/22)
気仙沼で宿をとって、帰路は途中まで三陸の海岸沿いを南下した。写真の南三陸町を訪れた時には、その余りなまでの荒涼さに言葉さえも出なかった。まるで荒野そのもであったからだ。その中をダンプが走り回るという異様な光景でもあった。この光景が、どのような街並みに変わるのかなど、私にはとても想像がつかない。

どこかの首相が、しらじらしくも復興は進んいる等と言いきっていたことを考えると腹だたしくてならない。どう進んでいるのだという思いである。途中の切れ切れに寸断されていた鉄道の様子や、荒れ果てたままの小さな漁港の姿には、ただただ慨嘆するほかはなかった。 

写真の建物跡には、バスで訪れる人も多く、皆一様に心からの冥福を祈っていた。繰り返し報道された、最後まで避難放送を続けたという建物だけに、皆感慨もひとしおの様子であった。それにしても、かの建物を飲みつくした津波とは---考えるだに 恐ろしい自然の脅威である。 

被災地の復興はまだまだである。オリンピックなどと浮かれていてはならないのである。

                                    

2014年8月3日日曜日

夏休みと孫離れ。

(孫のゆうじろう 5才 4月)

毎年のことであるが、この時期は孫たちの夏休みの関係で、私も結構忙しい。

4人の孫たちは、それぞれに一人で泊まりに来るので、最低でも8日間は孫と一緒に過ごすことになる。その他に花火大会や、川遊び、2度目のお泊りや延長お泊りなどを合せると、なんだかんだで14~15日ぐらいは孫と関わりそうである。

1ヶ月ちょっとの間の事だけに、ジイさんも本当に大変なのである。だから、孫と遊ぶための下準備にも結構悩まされてしまう。

私には変な?こだわりがあって、流行りのゲーム機を使った遊びには熱中させたくないという思いが強い。だから、トランプや碁石・将棋等を使ってオリジナルな遊びを考える。そして、その遊びに孫と一緒になって興じている。遊びの中で独自のルールも孫たちと一緒に決めて行く。だから孫たちも、開拓者としてそれなりに新しいゲームを楽しんでいる。

(新しい仲間のポテチガールとコンソメマン)

とにかく、孫たちには遊びの中で考える力を養ってもらいたいと思っている。身近な物でも作れる紙飛行機やゴム飛行機、トイレットペイパーの芯でも作れるおもちゃや人形などといったぐあいに、利用次第考え次第で、廃材も役立つのだということも、体験から理解してほしいと思っている。

妻や子供たちからは、ジイさんの押しつけだと批難されることも多いが、私は、頑固にその姿勢を守って行こうと思っている。本音を言えば、そうしていることが自分でも楽しいし、孫たちも喜ぶものと信じているので続けている。

私は今、孫たちの似顔絵を描き始めている。納得できるものは描けていないが、いずれこれはというものを描くつもりなので、飽きないで描きつづけようと思っている。孫たちが成長した時に、ジイさんに描いてもらったものだと飾ってもらえるように頑張るつもりなのだ。

とにかく、孫離れができないジジイなのである。

2014年7月23日水曜日

ひと思案ひと思案。

(集団自衛権を合唱する雀の学校-
-自民・公明・維新・みんなの党等々)
雀の学校のように、仲良く並んで「平和・平和」と合唱しているのに、その実は「戦争・戦争」と集団的自衛権を唱えている、不思議な合唱団がある。

数を恃んでやりたい放題にして国会を糞だらけにしている。国民の生命や権利などというものは、自分たちの権力を維持するがためには、二の次三の次と言った合唱団である。

あれほど無茶を通して憲法解釈をねじまげた内閣決定をしておきながら、選挙に不利だからとその本質に迫る各法案は、統一地方選挙まで棚上げにするというご都合主義にはあきれ返ってしまう他はない。多くの国民の反対をおしきってまで捻じ曲げた憲法解釈は、結局は党利党略に基づくものでしかなかったことを彼らは自ら証明してしまったのだ。

最近のマスコミ報道も、集団的自衛権の問題にはあまり触れなくなってしまった。毎度のことであるが、掘り下げて継続して追及するという姿勢は保てないようである。情けないことだと思う。

(ちょっとまて、平和のためにひと思案)
2枚の絵は、墨絵教本の模倣画であるが、私の訴えたい心情をよく表していると思う。

猫ではないが、この国の為にも、全国民が「平和のためにひと思案」をするべきではなかろうか。

小学二年生の孫が、夏休みになったのでということで、早速泊まりに来た。
この孫は、ついこの間まで釣りに連れて行っても魚にも餌にもさわれない孫であったが、頑張るからということで富士見市の用水堀に小魚を釣りに連れて行った。

写真は、その釣果である。小さな鯉が1匹(尾)に、フナが2匹、クチボソが7~8匹といったところであったが、くだんの孫は暑いなか2時間以上も頑張ることができたので、合格点をあげようかと思っている。(クチボソ4匹の成果)

先に海釣りに連れて行った孫は、すでに合格点をあげているので、これで二人目である。楽しみが増えたというものだ。
(富士見市の用水堀で釣果)

今、戦争に参加しようとしている無責任な政治家たちに、このかわいい孫たちを奪われてたまるものかとあらためて思う次第である。

「平和のためにひと思案ひと思案」……。


2014年7月16日水曜日

古代蓮の里に行ってきた。

(埼玉県行田市の古代蓮の里 7/15)
行田市の古代蓮の里は、古代遺跡発掘中に発見された2000年前の蓮の種子を、大切に守り育てて、現代に蘇らせた処である。

蓮池一杯に咲き誇っている古代蓮は、「行田蓮」と名付けられている。魅惑的な色合いの「甲斐路」と名付けられた交配種も、その「行田蓮」を元としているとの事であった。なんでもアメリカの種子との交配らしく、2000年をかけた日米親善(?)と言ったところか。

7月1日の自公政権による憲法無視の「閣議決定による集団的自衛権の容認」という暴挙から、一昨日(7/14)は初めての国会開催日であった。

安倍首相は、野党の質問に対して、相も変わらずにとぼけた答弁を繰り返し、集団的自衛権の本質から国民の目をそらそうと、見苦しい態度を続けていた。あげくは、先に公明党を妥協に誘い込んだ約束事(基本的な3つの歯止め事項)を、早速破る言動も開始している。

(大きな目で自公政権を監視)

とにかく、何が何でも「戦争のできる普通の国」づくりをするという姿勢が見え見えである。閣議決定してしまったのだからと、用済みとなった公明党の存在など歯牙にもかけなくなるのはそう遠いことではないだろう。

歯止めをかけたと見栄を張った公明党幹部は、その妥協による政治駆け引きで、日本国民を戦争の危険へと導いてしまった責任を、国民にも同党の支持者にも、創価学会の信者に対してもどうとるというのだろうか。私には、権力妄想者達の心理などはとうてい分かりはしないが、責任だけはしっかりととって欲しいと思っている。

古代蓮の話ではないが、真の日米関係の改善こそが望ましいのであって、軍事的に従属した関係等は決してあってはならないことである。親分と一緒に戦争ができると喜んでいる安倍首相には、一日も早いご退陣を願いたい。公明党は、政権離脱を覚悟して、泥にまみれた「平和の党」の表看板を綺麗に洗い直して欲しいところである。

7/13投票の滋賀県知事選での自公勢力敗退は、今、国民が何を望んでいるかを示した結果だったと思う。
国民の誰もが戦争などしたくないのである。放射能の危険に満ちた原発再開など誰も望んではいないのである。

安倍首相は、驕るのもいい加減にしろ!
公明党は初心に還れ!………なのである。

2014年7月7日月曜日

打倒安倍政権!

( 郷里・会津の里の夜明け -6月- )
右の絵は、郷里・会津の夜明けである。母の亡くなった平成23年6月に撮った写真をもとにして描いた。

絵を描きながら、その母の亡くなる3カ月前に東日本大震災が起こり、老人施設にいた母の安否が分からず心配していた事を思い出していた。

郷里の会津にも、多くの被災者たちが避難してきた。町ぐるみの避難で、その被害の甚大さを思い知らされたものであった。それも、原発の事故による放射能被害からの脱出という悲惨なものであった。

あの震災から3年を経過した今に至るも、まだ多くの人たちが、故郷に帰れないでいる。安倍政権が糊塗しているような復興などは、その実態が程遠いものでしかなく、将来を奪われた事実には何の変りもないのだ。

安倍首相は何かというと、現地を何度も訪れたと言明しているが、原発被害の深刻さを理解しているというのであれば、その被害をもたらした原発の徹底した検証もなしに、ベトナムなどの諸外国に経済界の代弁者として原発売り込みなど出来る筈はない。つまりは、現地訪問は単なるパフォーマンスに過ぎないということである。財界・大企業のための行動でしかなかったということだ。
(のどかな山村風景-教本の模倣画)

自公政権の7月1日の暴挙以来、私は、現政権のすべてが信じられなくなっている。
今、マスコミを賑わせている「拉致被害者をめぐる北朝鮮との交渉再開」も、純粋にもろ手を挙げて喜ぶことができないでいる。先の暴挙をカモフラージュする駆け引きに利用されているのではとさえ思えてしまうのである。シナリオは、すでに出来あがっているのではないかと穿った見方さえしてしまうのである。彼らの暴挙は、そう考えさせる多くの内容を含んでいるのだ。

こうした考え方が、被害者家族に対して不遜な考え方であることは承知しているが、安倍首相の発想には、軍事国家再建を目指すという彼の命題が常に見え隠れし、何でも利用するという匂いがしてならない。私は、被害者家族の為にも、純粋にそうでないことを祈るばかりだ。

今のままに自公政権が続けば、そう遠くない時期に、私たちは再び戦争の惨禍にみまわれることになるだろう。そうならないためにと声をはりあげているのだが、残念ながら、彼らには届きそうにない。財界を潤し、アメリカに歓待されさえすれば、国民の声などは無視してはばからないからである。

その彼らのこれ以上の暴挙を阻止するためには、彼らを政権の座から引きずりおろすほかないのだ。選挙で敗北させる他はないのである。彼らの本質を、国民全体で見抜く他はないのである。

今こそ、安倍政権打倒の国民的大運動が必要だ。



2014年7月2日水曜日

まるで、童話のようだ…。

(水彩画教本からの模倣画)
娘がブログを見たとメールをくれた。父の日を忘れていて申し訳なかったと、あらためて電話をくれ、遅ればせながらと“パステルのスケッチセット”をプレゼントしてくれた。
右の絵は、そのパステルを使って描いたものだ。相変わらず、教本の模倣に過ぎないが、それでも楽しく描くことができた。

大人気もなく僻んだり拗ねたりしていた私だが、娘や孫の顔をみるとやはり頬が緩むのはどうしようもない。我ながら現金なものだと呆れている。

息子からは相変わらずの音沙汰なしであるが、孫の誕生祝(7/3)の呼びかけもないので、父の日の件できまづくなり、電話ができないでいるようである。
私は、妻と話し合って、、孫の誕生プレゼントを誕生前に届くように郵送した。本来なら、届けてあげればよい事(車で15分)なのに、まだ不満が残っているのであえて郵送にした。

(与野公園のバラ園でパチリ)

昨日(7/1)は、この日本の平和精神を根本的に変えてしまった忌まわしい日となった。
政府与党によって、閣議決定だけで憲法解釈ができるとする暴挙がなされたのである。

得々として、記者会見する安倍首相の顔が、イソップのオオカミにだぶって見えたのは、私だけであったろうか。自民党の高村氏は橋の上のキツネに、公明党の山口氏や北川氏はカチカチ山のタヌキに見えてならなかったのだが、余りにも皮肉にすぎるであろうか。

童話は、本質をついた話が多く、たくさんの教訓を示してくれている。子どもに話しつがれるのは、ただ楽しい話であるばかりではなく、そこに心に触れる教訓が示されているからだと私は思っている。だから、何代も何代も語り継がれてきた。

この国が、オオカミに蹂躙され、キツネのために国益を損ない、タヌキによって火のついた薪を背負わされてしまったことが本当に残念でならない。でも、まだ諦めてはいない。そう簡単に諦めてたまるものかである。国民は決して騙されはしないのだ。

2014年6月25日水曜日

またまた妥協ですか?

(公明党の妥協を伝える朝日新聞)
公明党が政権に絡むようになってから、こうした記事を何度読まされたことか。そして、その妥協の都度、日本の政治が右傾化への速度を速め、戦争への道を急速に歩み始めていることに何度も危惧を感じてきた。その危惧がとうとう現実のものとなってしまった。

極論だが、今日の危険な政治情勢を作り出した責任は公明党にあると言っても過言ではない。自民党の暴走を許しているのは、その補完勢力として、妥協に妥協を重ねてきた同党にこそその責任があるのだと思う。

政権にしがみつきたいがためのその妥協の連続が、この国をいかに不安な国とさせてきたか、彼らはおそらく気づいてはいまい。
振り返ってみてもその妥協の歴史は、枚挙にいとまがないのである。

そして、その妥協の言い訳も決まりきった文言で、「わが党の存在が自民党の暴走を阻んでいる。政権に入っているから、児童手当等の福祉政策も実現もできている。だから、政権に入っている事は絶対必要なことだ。それに、池田創価学会名誉会長の国会喚問を阻止できているのも、与党だからこそだ。」と…。
善良な支持者や学会信者は、その言い訳を信じて今日まで来ている。

いつものことながら、彼の党は、重要法案に関しては、最初は必ず抵抗の姿勢を見せている。そして、必ずと言っていいほどの妥協を繰り返してきた。先の言い訳を続けながらである。

今回の集団的自衛権の問題でも、平和の党だからと、反対のパフォーマンスをとっていたが、飯島内閣参与に、「名誉会長喚問」を示唆されると腰砕けになってしまい、記事のような妥協に追い込まれてしまった。とは、私の穿った見方であろうか。

そもそも、彼の党と自民党との政策協議の中に、自衛隊を戦争に駆り出すような集団的自衛権の政治課題が入っていたのだろうか。おそらくは入っていなかったはずである。そのことが政権協議に入っていたのなら、心から平和を希求する支持者や学会信者が納得しないからである。だから、今回も抵抗しているかのようなパフォーマンスが必要だったのだとしか思えない。政策協定にも入っていない重要問題を押し付けられるなど、政党としての資質を疑わざるを得ない。

公明党の妥協の歴史を遡ってみる。

その最初が、選挙制度の改悪に賛成した、小選挙区制の導入であった。この時も、最初は頑強に抵抗した。でも、結局は政治的駆け引きで妥協した。その結果が、今日の大政党(自民党)有利に作用することなど見え見えの事であったのにである。揚句は、政党助成金制度などで税金の流用にまで甘受しているのだから、彼の党の本質やいかんといったところである。

(お地蔵さんだって、憂えている)
思えば、戦争への危険を増大させたのは、それまでの党是を破棄して日米安保容認に転じ、自衛隊のPKO派遣に賛成してからである。その結果、アフガン戦争への後方支援やイラク戦争への協力、PKOを名目とする海外への自衛隊派遣と拡大の一途をたどるに至った。

国民を苦しめている消費税の導入やその税率アップも、一部の条件を付したとして妥協している。安倍内閣の経済政策が、大企業本位に立ったものであることを知らぬはずはないにもかかわらずである。彼の党の補完的役割で、どれだけ国民生活が脅かされいるかなど、支持者や学会信者はどれほど理解できているのだろうか。

原発の再開や海外輸出、武器の製造と輸出の緩和、秘密保護法案可決、と最近の安倍内閣はやりたい放題である。それができるのは、与党であり、友党?でもある公明党の協力が見込めればこそである。彼の党は、完全になめられているのだ。政権にしがみつきたい本音を、自民党に見透かされているからにほかならないのである。

今たくまれている、戦争への参加をもたらす集団的自衛権問題は、憲法の精神を根本から否定しようとするものである。この大事な国民的課題を、憲法の改正もなしに一内閣の解釈で変えようとしているのに、彼の党は報道のごとくまたまた妥協しようとしている。

彼らは、平和の党と自称してきた誇りも矜持もすべて失ってしまったのであろうか。支持者や学会信者への背信行為をまだまだ続けるつもりであるのだろうか。かっての結党精神はどこに行ってしまったのか。

しっかりと目を覚ませ公明党。国民の期待を裏切ってはならない。

2014年6月23日月曜日

侘びしかったから

(郷里の大沼のイメージで模倣)
左の絵は、昨日描いたものだ。図書館から借りてきた水墨画の練習本を模倣したものだが、我ながらよく描けたものと感心している。

私には絵の素養がないのか、スケッチやデッサンといったものが不得意で、絵は好きでもなかなか筆を握るということはなかった。自分には描けないと半分あきらめてもいた。

昨年に絵手紙を描いたことはあったが、おせじにも誉められた筆さばきではなかったので、数か月で筆をおいてしまった。

その私が、今は墨絵というか水彩画というか、日本画風の絵に夢中になっているのだから、不思議だとしか言いようがない。それも、毎日毎日描いているのだからあきれ返ってしまうほどだ。

あくまでも模倣の段階でしかないのだが、その出来栄えに納得して自己満足するのも、悪い気持ちではなく、次のステップへと向上心も湧いてくる。

今、なぜ絵なのかについては、一寸したいきさつがある。
ここにきて、いい年をして私は少々拗ねてしまったのである。それも、父の日に子どもたちから電話一本なかったことに腹を立ててしまったことが原因なのである。私の誕生日は6月16日、今年の場合には父の日の翌日になっていた。だから、この十年来の事から考えても、誕生日と一緒の何がしかが当然あるものと考えていた。
(安倍内閣の暴走に抗議しての一枚)

にもかかわらずである。父の日の当日には、二人の子供からは何の音沙汰もなしで、誕生日の夜に遅くなってごめんと二人から言い訳がましく電話が入ったのみで、ハンカチ一枚ものプレゼントもなかった。別に物が欲しいわけではないが、通り一遍の電話だけで済まそうとするその態度が、大いに不満なのである。現に母の日には、二人の子どもたちから、カーネションのプレゼントが届けられているのだから、私が僻むのも無理はないではないか。

 孫たちも電話口に出たが、誕生日だか父の日だかの区別も分からない話ぶりは、親に言われてのあいさつが見え見えで、嬉しさも半減といった感じだ。こんなことは、初めてのことである。これも僻みに違いはないと思っているのだが…。

ということで、侘びしさ解消のためと、墨絵や水彩画に夢中になってしまったという次第である。でも、けがの功名ではないが、私にはいいキッカケとなったようだ。

で、今は平常心に戻っている。
私のハンドルネームである「リメイク布袋」のごとく、ゆったりとした心もちでいたいものだ。

(自分にどこか似ている布袋)

情勢は緊迫しているので、僻んだり侘びしがったりしている時ではないのに、本当に大人げないことであるとは思うが、侘びしいときには侘びしいのだから、歳には関係がない。

6月10日の9条の会の講演会に夫婦で行ってきた。今の危険な政治情勢を按じる多勢の人が集まって、私達は大いに励まされた。

でも、安倍首相のような厚顔無恥の人が少ないせいか、講演は終始穏やかすぎて、かっての安保闘争のような勢いに欠けるのではと、物足りなさも感じてしまった。

穏やかにしている時ではない筈である。今声を挙げなくては、必ず後悔するのだから、「戦争反対・憲法守れ」の行動を、安保闘争を上回る規模で!が、今必要なことでは?
全国の老人たちよ奮起せよである。


2014年5月12日月曜日

【戦争をする国】にはしたくない!


(娘親子が母の日にプレゼントしてくれ
          た妻へのカーネーション)
連休も終わった5月11日(日)は、母の日であった。この5月11日は、娘の誕生日(42才)でもある。
ということで、娘の提案で2つのお祝いを、一緒にすることにした。この日ぐらいは、私の手料理をと提案したが、あっさりと却下されてしまい、妻と娘とが台所に立った。

ちょっとマンネリ化して儀式めいたものとなってきたが、それでもみんなで祝うことができるということは、幸せなことだと思う。こうしたことの繰り返しが、お互いの絆を確認し合い、深め合えるのだとも思う。

この日は、近くの小学校で上の孫がバレーボールの試合に出ると言うので、その勇姿(?)を見に出かけた。早いもので、その孫は小学6年生になっている。
普段は、そのバレーボールのせいで孫と親しめないと文句を言っていたのだが、いざ孫の勇姿(?)を目にするととにかく頑張れと応援してしまうのだから、私も相当に大甘のジジイではある。

孫の奮闘?もあって、孫たちは4チーム中一位(全勝)で次のステージにすすむことになった。得意げな孫の顔が可愛くてたまらない。かってのように髭面をこすりつけたい思いであったが、嫌われてしまうのでそんなことはできない。孫の成長というのは、何とも歯がゆいものでもあるのだ。
(9条の会の講演会チケット)

申し込んでいた、9条の会の「集団的自衛権と憲法9条」の講演会チケットが届いた。

連休後の安倍内閣の動きは、一気に<戦争のできる国造り>へと突っ走る様相を呈してきている。私たち夫婦のように、まずは憲法の再学習からなどというのでは遅きに失するのかもしれない。今こそ、全国民を挙げての行動が必要になっていると思う。

戦争への道を阻止するための大きなうねりが必要だ。子供や孫たちを戦争にやらないための、とてつもないほどの大きなうねりが必要だ。戦争をたくらむ勢力を押し流すほどの大きく強力なうねりを作り出さなければならない。平和を求める声が、国家という名に包み込まれるのをなんとしても防がなければ、子や孫たちの生死が危うくなる。

朝日新聞の「声」欄にも、憲法改正を是とする意見が多くみられるようになってきた。このようなことはかってなかったことではなかろうか。私たちはいつの間にか、安倍内閣のマインドコントロールに左右されてきているのではなかろうか。危うい、とにかく危うくなってきている。

私は、立ち込めている暗雲を取り払うために行動することを決意した。私のできる限りの行動をとることにした。事業の失敗から萎縮していた心を、奮い立たせることにした。例え一枚のビラ配りからでも具体的に行動することから始めることにした。改憲で炎上するネット上に、平和のための風穴を開ける努力もしたい。9条の会への参加も積極的にすることにした。この緑豊かな日本の国を、【戦争をする国】には絶対にしたくないからだ。可愛い孫たちを戦争に狩り出されたくはないからだ。


2014年5月2日金曜日

今こそ憲法を学び直す時!

(孫と遊んでいる模型飛行機 5/2)

明日5月3日は憲法記念日である。テレビでこの連休について、それぞれ何の祝日であるかのインタビューをしていたが、残念なことに憲法記念日を知っていた人は4割にも満たなかった。ただ休日で有ればよいと考えている国民が多いということらしい。

昨日の朝日新聞に、ナチスの蛮行を容認したり、日本の侵略戦争を正当化したりする若者が増えているという記事が掲載されていた。最近問題となっている、図書館や書店での「アンネの日記」を破る事件も、こうした流れの中でのことだと危惧もしていた。

ツイッターやUチューブでの、中国・韓国を誹謗する投稿の多さには、目を覆うばかりである。その内容も悪意に満ちた、卑劣な言葉を浴びせかけると言った愚劣なものがほとんどで、何の説得力も主張をも持たない稚拙なものでしかないが、お互いに煽りあって興奮している様は恐怖さえ覚えるほどだ。

(ベランダのミニバラ 5/2)
こうした民族主義的ナショナリズムの台頭は、安倍内閣のすすめる極端な右傾化政策の産物でしかないのだが、放置しておいてよいものではない。さも表現の自由から政治に参加しているように偽装してはいるが、その実態は言葉や映像を用いての暴力にほかならず、軍靴を響かせる危険な序章となりかねないからだ。どのような形であれ、暴力主義のはびこりを許してはならない。

その危険な芽を早めに摘み論破するのには、私たち自身がしっかりとした平和主義で身を鎧わなければならないと思う。
だからそのために、私達は、今こそ世界に誇れる日本国憲法を学び直す時であると思う。平和主義の大切さを再度考えあわせる必要があると思うのだ。

私達夫婦は、今、遅ればせながらではあるが、戦争反対・原発反対のための一歩を踏み出すことにした。9条の会主催の講演会に参加することから始めようと申し込んだ。その一歩が小さくとも、平和を求める大きなうねりの一雫として役立てるようにと願ってのことである…。

2014年5月1日木曜日

念願の孫との釣りが!

(今年2回目開花のベランダのミニバラ 5/1)
4月25日に、婿殿に誘われて下の孫と一緒に千葉県市原市の海釣り公園に行ってきた。
釣果は今一であったが、数年ぶりの海釣りを大いに楽しむことができた。やはり、海はいい。川釣りでは味わえない醍醐味があるからだ。

この日、国賓として来日していたオバマ大統領が帰国するとの事で、大幅な交通規制が敷かれたため、釣りの目的地も変えざるを得なかった。当初は、横浜の本牧で海釣りをする予定だったのだが、止むを得ず市原を目的地とした。

5才の孫連れでの釣行であるから、何よりも安全が第一だったので、釣果は二の次であった。なによりも、孫を釣り好きにさせるための釣行であったのだ。

(市原市の海釣り施設 4/25)
とは言え、やはり釣果は欲しかった。残念なことにハゼ1匹という結果で、孫を楽しませるには至らなかった。「どうして、僕たちだけ釣れないの?」との孫の声は、私にも婿殿にも辛いものであった。

その声に奮起したのか、婿殿は、4月の29日には横浜に出かけ、目刺し級のイワシを16匹釣りあげて汚名を晴らしている。当然に下の孫も同行して釣果を上げたとのことであった。よかったよかったである。これで孫も釣り好きになることは間違いなしである。ジジイの念願は漸くにして達成できそうなアンバイだ。めでたしめでたし…。

2014年4月30日水曜日

まっ、いいか…。

(板橋区の花“にりんそう”の自生群落 4/12)
桜も散って、春は新鮮な息吹の中で花の盛りを迎えている。
写真は、都市部では珍しい”にりんそう”の群落自生地である。ここは、地元の愛好家たちのたゆまぬ努力によって守られてきた。この自生地には、その愛らしい姿を楽しもうと訪れる人も多く、今では一寸した名所ともなっている。
私は毎年この群落地を訪れ、可憐な花との対話の中で春の訪れを実感してきた。今年も当然のごとく対話を楽しんできた。

この時期、我が家のベランダは色とりどりの花々によって装飾される。
毎年のように咲き誇る真紅のシクラメンは、今年もあでやかさを増して目を楽しませてくれた。息子からもらったミニバラも今年に入って2回目の開花を迎えようとしている。それも、一度に6輪もというのだから、その黄色の蕾には期待を膨らませているところである。

(今年も見事に咲きました 4/25)
今年は、例年よりも出歩く機会が多くなっている。
先に命のはかなさについて投稿したように、意識的に今ある自分たちの生活を楽しんでおきたいとの思いからである。

この4月には、長崎への旅行もしたし、孫たちを連れて武蔵丘陵自然公園(国立)にも行ってきた。
新緑の中で、精いっぱい走る周る孫たちと遊べることは、ジジイ冥利に尽きると言ったところでもある。
婿殿の誘いに応じて、下の孫と一緒に海釣りも楽しんできた。成果は今一であったが、何年ぶりかの海釣りは爽快そのものであった。そして、なによりも、孫が釣りに同行できるまでに成長したことがうれしかった。孫との釣行が念願であっただけに、その嬉しさはひとしおである。
足利のフラワーパークに、藤の花も見に行ってきた。ライトアップされた藤の花は、幻想的でさえあった。時期的には少し早めであったが、藤以外にもつつじやシャクナゲが咲き誇っていて、満足のできる花見行であった。

(ライトアップされたおおふじ 4/28)
別に人生を急ぎ終えようとしているわけではないが、この4月は何となく慌ただしく過ごしてしまった。
仕事の事、健康の事、今後の生活の事、孫たちの将来の事、戦争に至りそうな危うい政治情勢の事等々、考えなければならないことや行動すべきことがたくさんあったはずなのに、この4月はミツバチのように花を求めて歩き周ってしまったのだ。出歩きすぎかな?

まっ、いいか…。

2014年4月10日木曜日

慌ただしい旅だった。

(ハウステンボスの一景 4/6)
結婚して42年にもなるのに、夫婦そろっての旅行などは初めてのことである。
いろいろな出来事が多すぎて、旅行どころではなかったのだが、60も半ばを過ぎたところでようやくといったところだ。

といって、この安らぎが私の手によってもたらされたものではないのが残念ではある。そのすべてが、妻のコツコツとした努力の賜物であるので、私としてはただただ頭を下げるのみである。
本当にありがとう……としか言いようがない。

(吉野ヶ里の復元住居群 4/7)
今回の旅行には。妻の姉も同行している。ここのところはよく一緒に行動しているので、何の違和感もなく一緒に楽しんできた。義姉は、10年ほど前に夫に先立たれているので私たち夫婦との外出を喜んでくれている。歳を重ねると相みたがいという感情が湧くようで、いつまでも仲良く過ごしたいものだと思っている。

今度の旅行は、2泊三日という限られた中で、あれもこれもと欲張った慌ただしい日程となってしまった。旅行社のフリープランツアーということだったので、行動範囲を広げるためにレンタカーを使用しての計画を立てた。加えて、妻の要望があれこれと出されるに及んでは、お世話になる身?の私としてはその実現を目指すべく、強行軍もやむなしの計画とせざるを得なかったのである。

(グラバー亭公園からの展望 4/7)
*4/6 PM12:30羽田発→4/8 PM12:35羽田着
(長崎の平和公園記念像 4/7)

(雲仙温泉地獄谷 4/8)
異国情緒たっぷりの町並みは、半日ではとても散策しきれない広さであった。
旅行の目的でもあり期待したイルミネーション・特に3Dを駆使した企画には圧倒され大いに楽しむことができた。一度は倒産の憂き身を味わったハウステンボスだけに、その企業努力の必死さが伝わってきて感動をすら覚えた。事業の失敗から立ち直れないままになっている私にとっては、その立ち直りが大きな励ましともなってくれた。努力なくして再生なしという現実を見せつけられた思いである。

邪馬台国を連想させる「吉野ヶ里の歴史公園」は、その遺跡の広大さからも、古代の村(クニ)を偲ぶのには十分なもので、この旅行中最も満足のできたところであった。建物などの復元が過ぎるきらいもあったが、弥生社会が想像できる遺跡としては申し分がなく、散策時間の足らなさが恨めしい限りであった。

グラバー亭公園は、かって明治維新において賊軍とされた「会津」出身の私にとっては、複雑な心境での見学となってしまった。偏狭的な考えではあるのだが、どうしても【死の商人】としてのイメージが強すぎて、近代日本への貢献という側面では見学できなかった。反省しなければならないとは思っているのだが…。

平和記念公園には訪れる人が少ないのか、人影がまばらであった。私達は、この惨劇をもたらした戦争を再び起こしてはならないとの願いを込めて、祈りをささげた。忘れ去ってはならない記憶なのである。原爆資料館には、多くの外国人も訪れていて、平和の希求がグローバルなものであることを実感した。
世界の三大夜景になったとかで浮かれることなく、平和都市長崎としての発展を願ってやまないところである。

雲仙温泉は、奈良時代の701年に【行基】によって開湯されたものだと、ホテルの若旦那?に教えてもらった。早朝にヘルシー散策だとして周辺を案内してもらった中で教えてもらったのだが、さびれゆく観光地の再発展を模索してのこうした努力が、大きな成果につながることを心から期待している。若旦那ガンバレである。

もっともっと、あちこちと周りたかったが、私達の慌ただしい旅は、とにかく無事に終わった。機会があれば、次回はもっとゆったりとした旅にしたいものである。

2014年4月4日金曜日

桜並木を散歩して

(埼玉県戸田市 荒川土手沿いの桜 4/2)

(同上を土手の上から撮影 4/2)
3月30日の雨の中、義兄嫁の納骨式が行われた。
本当に早いものだ。2月15日の大雪の日に倒れ、雨の日にお墓に入るなど、本当に悲しむべき出来事でしかなかった。それでも、認めざるを得ない現実なのだから、諦めるほかはない。

お墓のある埼玉県武州長瀬は、東京よりは開花がやや遅く、桜はチラホラとしか咲いていなかった。花の好きな人だったので、満開の桜吹雪の中での葬送が似合いだったろうにと、考えたりもした。

写真は、納骨式から3日後の花模様である。
埼玉県戸田市のボートレース場前荒川土手の桜並木だ。水曜日ということもあって、混雑はなかったが、丁度満開の見ごろで、そのあでやかさには圧倒される思いであった。

この桜並木の変貌ぶりには驚かされている。この並木も、私が仕事をバリバリとやっていた30数年前には、若木の並木であまりパッとしたものではなかったが、今は丁度壮年期と言ったところでみごとというほかはない。
たそがれ時に入っている私には、この圧倒的な力強さは眩しいぐらいである。いや羨ましいと言った方が良いのかもしれないな。木々の生命力には感動をすら覚えてもいる。

だから、この生命力を吸収して、65歳で亡くなった義兄嫁の分まで生き抜かねばとも思う。少なくとも、私も妻も、この素晴らしい桜並木の下を、仲良く元気に散歩できているのだから、頑張って行かねば申し訳ないではないか。

(たくましく、幹に直接花を咲かせていた 4/2)

2014年3月27日木曜日

健康長寿を目指すぞ!

( 今年は咲かないかと諦めていたのに
  見事に咲いてくれたハナカイドウ 3/25)
妻と一緒に、鳥越俊太郎氏の講演を聞いてきた。講演内容は、ガンと闘っている鳥越氏らしく「ポジティブに生きる」が主題であった。

私と妻の間には暗黙の了解がある。
それは、私たちの一方がガンに侵されて終末を迎えた場合の対応についてである。

妻の希望は、一切の告知をしないで欲しいというものである。自分の死を感じないままにこの世を去りたいというのがその理由である。あと何か月、あと何日とその日を数えることは嫌だということであった。

私の希望はというと、告知して欲しいということである。限りある命を、最後まで有効に使いたいと思っているからだ。その告知後の残された期間に、何かしらできることがあると考えられるからである。

このように違いのある二人ではあるが、終末に関しては共通した願いがある。医者の判断で回復の見通しが立たなくなった場合には、延命治療はしないで欲しいということだ。植物状態となって無駄に延命しても、私たちにはその延命措置になんの価値も感じることができないと思われるからだ。抗ガン治療を否定するわけではないが、私達はぜひにもそうしてもらいたいと願っている。

その際は、どのような措置であっても構わないので、苦痛を伴わないものにしてもらいたいものだ。苦痛に耐えられるのは、治癒できるという希望が持てるときであって、何の希望も持てないままの苦痛などはごめんである。モルヒネでもなんでも有効な鎮痛剤で、痛みを緩和してほしいと願う。と今は思っているのだが、いざというときにはどうなるのか…。

鳥越氏の話は、転移を繰り返す悪質なガンとの闘いの体験談であった。そして、その体験からは教訓として「早期発見に努め、健康長寿を目指す」ことの大切さを学びとった。74歳という年齢を感じさせない氏の若々しさは、闘病中であることも感じさせない力強さで、まさに「健康長寿」の体現者であることを知らしめるものであった。66歳の私としては、大いに学ばなければならないところである。あっちが痛いこっちが痛いなどと騒いでいてはいけないのだ。


2014年3月12日水曜日

心をこめた復興を!

先日、花芽を小鳥に食い散らされたこと、そしてゴミ袋のネットで残った花芽を守っていることを、命のはかなさとの関連で投稿した。その守りきった花芽が成長して、今では写真のように以前も増して咲き誇っているので、妻と一緒に喜んでいるところだ。

今日、平成24年3月11日は、あの東日本大震災から3年が経過した日である。2~3日前から、あの時の生々しい被災映像を繰り返し流しながら、この3年間の歩みについてを、特別番組として各局が報道している。そのいづれもが、真剣に真面目に取り上げていることを感じることができて、ホッとした思いだ。今日も又、終日、内容の濃い報道がなされており、日頃はマスコミに批判的な私も、マスコミの良心に触れた思いで素直に喜んでいる。

(復活して咲き誇るアンジェリカ)
その一方で、先日の国会中継(予算委員会)や、民放での被災地復興を巡っての復興対策委員長と現地関係者との討論番組をみていて、情けない思いにとらわれてしまったことも、正直なところである。

質問者が、福島の現状が決して好転していないことを、資料をもって説明しているにもかかわらず、又、政府の原子力安全に関しての諮問委員会(原子力規制委員会)の委員長が、「安全宣言できる立場にない」として安全宣言をしようとしないでいるのに、「世界一厳しい審査基準で臨んでいる」などと詭弁を弄していた安倍総理や担当大臣は、相変わらず、原発再稼働まっしぐらという対応に凝り固まっていた。もはや正常であるとは言い難い痼疾ぶりだ。国民でなく誰の代弁をしようとしているのか、と、疑わざるを得ない在り様である。

「アンケートによる被災者の要望をとりあげたので、復興対応策には問題はないと考える」とか、「何度も足を運んでいるので、現地の要望は理解しているつもり」などと答える民放での政府関係者達からは、形式を整えようとする姿や、体裁やメンツを保とうとする姿が見え見えで、恥ずかしくさえ感じられた。「現地の要望と違った対応をしている」「もっと、現地を理解してほしい」といった地元からの切実な訴えとの甚だしい乖離を感じたのは、私だけでけではなかった筈と思う。

今日の政府主催の「被災者慰霊祭」でも、天皇の被災者を思いやる誠意ある姿勢に比して、安倍総理の原発問題に触れまいとする逃げの姿勢には、情けなさを通り越してあきれかえる思いでたまらなかった。私にはあの姿勢からは、かっての中身のなかった“美しい国日本”のスローガンと、同様のことが連想できるのだが、いかがなものであろうか。復興は進んでいる、原発事故の対応は改善されているなどと、一国の総理たるものが白々しく言明するなど、あってはならないことだと私は思っている。今、何が一番大事なのかを真面目に考えろ!である。

支持率に支えられていると言われる安倍内閣ではあるが、「驕る平家は久しからずや」ということを忘れないでほしい。いつまでも国民を欺けるとは思わないことだ……。





2014年3月6日木曜日

だんだん孫たちが遠くなる、遠くなる?

一番上の孫娘が、11回目の誕生日を迎えた。4月からは、はやくも小学6年生である。
最近では、バレーボールに熱中していて、かってのように一緒に楽しむことがなくなってしまい、満たされないことが多く不満たらたらのジジイなのである。
(妻の拾ってきた桜の枝に花が咲いた。3/6)

誕生祝は靴がいいとの事だったので、ショッピングモールで待ち合わせをして、孫娘に選ばせた。やはり女の子なのか、洋服にも目が行くようで、娘(孫娘の母)に足し前させて、気に入った洋服もプレゼントすることにした。娘は喜んでいたが、肝心の孫娘は今一と言ったところのようで、妻と二人で拍子抜けした思いであった。

拾ってきた桜の枝なら、水を換えたり栄養剤(砂糖)を加えたりと、手を加えることで早めの開花を促すことはできても、孫娘までもは思うに任せないもののようだ。それが成長するということなのであろうか。

「だんだんお家が遠くなる、遠くなる。」と言った歌?が思い出される。「だんだん孫たちが遠くなる、遠くなる。」と言った心境になってしまい、何となく侘びしさを感じてしまう。
ジジイの僻みと言ったところか。孫たちの成長が、嬉しいような悲しいような、何とも複雑な今日この頃であるのだ。




2014年3月5日水曜日

あまりにもはかなくて……。

(ベランダで咲き誇るアンジェリカ)
写真の花は、もう1カ月以上もベランダで咲き誇っていた。……と、残念ながら、過去形の話として伝えざるを得なくなってしまった。
この綺麗に咲いていた花が、あろうことか小鳥に食い散らされてしまったのだ。小鳥たちが、食用としたのか、興味本位でいたずらしたのかは分からないが、とにかく見事に食い散らかされてしまった。
今は、応急措置として、生ゴミ用のネットを使って残された花芽を守っている。嬉しいことに、残された花芽からは、たくさんの花が開き始めているので、元のようになるのも近いようだ。又、きれいな花々を楽しめそうではある。

花々は、守ったり手入れしたりすることで再生させることができるが、悲しいことに人の命は絶対に再生させることができない。

私達に不幸がもたらされたのは、つい先日の大雪の日であった。私の妻の兄嫁が急逝してしまったのだ。義兄夫婦は、私たちの住まいとは 300~400m程しか離れいないところに住んでいる。まさにご近所のお付き合いといったところであった。

その日、義兄嫁は、大雪だということで、同じマンションの人と雪かきをしていたらしいが、その最中に突然倒れてしまったということであった。あわてて救急車を呼んでも、大雪ですぐには来てもらえず、警察から連絡してもらって漸く病院に搬送してもらったそうだ。この間2時間を要した言うことである。あの大雪では、誰も責めることはできないが……。

私達のところに連絡が入ったのは病院の義兄からで、手の施しようがない状態で手術もできないとの知らせであった。突然のことにその意味合いが分からないまま、雪道の中をノーマルタイヤで病院に向かった。本当に、この大雪は恨めしくも呪わしいものでしかなかった。
(なんとも恨めしい大雪であった。2/15)

彼女が病院に運ばれた時には、すでに心肺停止の状態だったそうだ。MRIで調べた結果は、蜘蛛膜下出血で脳内に出血が広がっていて手の施しようがなく、ただただ心臓の止まるのを待つしかない状況らしかった。

午後の1時過ぎに病院に運ばれて、深夜の1時一寸過ぎには、彼女は還らぬ人となってしまっていた。あまりにもあっけない、はかない終焉であった。現実とは思えぬままに、葬儀が執り行われて、彼女は、笑顔の写真を残してこの世を去ってしまった。数日の間は、私たちは、彼女の面影が思い起こされて、信じられないままに日を送っていた。これは本当の事なのだろうかという思いで……。

今、私たち夫婦は、65才で逝った彼女を偲びながら、余生をお互いに楽しもうと話し合っているところだ。いつ訪れるか分からない不幸を待つより、生きている今を大事にしたいからである。ちなみに私達は、私が66才で妻は64才の人生まだまだといった夫婦なのである。

2014年3月2日日曜日

孫を預かるのは大ごとだ!

 一番下の孫がインフルエンザにかかったので、4日ほど私のところで預かった。
預かった初日の深夜に、39度6分以上の高熱を出して、はあはあ言い出したのでビックリして熱さましにかかった。ぐったりした孫を見て、正直、預かるのではなかったと後悔したものである。自分の子でないだけに、その対応に苦慮せざるを得なかったからだ。

 と言うのは、熱さましの方法に、孫の親である私の娘との間には考え方に、大きなくい違いあったからである。大げさかもしれないが、私は熱に関しては神経質なくらいに気を配っている。過去(私のタクシー乗務員時代)に、肝を冷やした経験があるからだ。

 深夜に千住近くで乗せた親子連れ(20代の夫婦と3歳ぐらいの女の子)があった。
子供が熱を出したので、病院までと言うことであった。話の中で、熱は39度8分ぐらいまで上がったが子どもが元気だったので、救急車を呼ばなかったとの事であった。話の通り、車内でも子供は元気にしていた。運転手の私とも「お熱が出ちゃったの」「病院に行ってお薬貰ってくるの」などとおしゃべりしていてとても元気であった。

 病院を目指してしばらく走っていたら、急に後部座席でバタバタと言う音がして、母親と父親の悲鳴のような叫び声が起こった。「○○○が、死んじゃう!白目をむいてしまって、体が突っ張ってしまったままになったよ!」「○○○どうしたの!返事して!○○○!○○○!」

 若い両親のあわてように、私までもが冷静さを失い、「どうしました!娘さんがどうかしたのですか」と、あわててしまっていた。私は、もしや癲癇ではないかと思いながら、「舌をかまないように,注意して!」と言うのが精いっぱいの事であった。

 それからの病院までの走行は、まるで宙を走っているような思いで運転した。泣き叫ぶ両親の「とにかく急いで!信号もなにかも無視してとにかく急いで!○○○が死んじゃうよー!」との必死の切なさが伝わってきて、とにかく病院へ病院へと急いだ。

孫の誕生祝のケーキ
料金どころの騒ぎではなかった。到着するとすぐにタンカに乗せられて救急室に入って行った子供が心配で、胸がつぶれるようであった。15分ほどして、看護師が私のところにきて、「ひきつけだったようですよ」と告げてくれた。そして、両親から託されたとタクシー料金も預かってきていた。そこで私は漸くホッとした思いになることができた。無事だったのだと……。

 私もそうであるが、あの若い両親にとっても、子供のひきつけは初めてのことであったようで、あの突然の事態には、何の対応もできなかったのである。看護師の話によると、高熱からのひきつけはよくあるとのことで、あまりの高熱の場合には、とにかく下げることを心掛けること、下がらない場合には遠慮しないで救急車を呼ぶようにとの事であった。

 高熱は怖いという私の先入観は、こうした経験から来ているのだが、保育士をしている娘にとっては薬による対応の方が心配なのだと言う。そう言われても、熱にうなされている孫を見ていると、あの夜のことが思い出されてしまい、買い置きの小児用坐薬やピタット等の熱さまし湿布薬を使ってしまう。今度の場合も、額と両脇にピタットを貼りつけて、冷たいタオルを換えながら熱さましに神経を使った。その効果か、翌朝には平熱近くまで下がって、孫は元気になって食欲も出てきた。

 元気な孫を見ながら、私は妻とぼやいていた。「娘の仕事を助けるためとはいえ、今度のような場合は預かるのは考えもんだね。私たちには責任が取れないんだから、考えなくちゃね。」と………。

2014年1月19日日曜日

トイレットペーパーの芯から、モアイ型人形を!

(陰陽師、楽人、旅人、素浪人のモアイ型人形)
(梅沢富雄、河童、妖怪ガラス、トランプマン等を追加)
我ながら子供じみたものを作ったものだと思う。何の考えもなしに、ただ思いのままにトイレットペーパーの芯を切り刻んでいくうちに、それなりの形になってしまうのだから、このモアイ型(勝手にそう呼んでいる)人形作りはとても楽しいものだ。

ゴミとしか扱われないトイレットペーパーの芯を、いろいろなものに変身させることができるとは思ってもみなかっただけに、思い付きのままに作業することでそれなりのものが出来上がっていく過程は、本当にわくわく感をさえ覚えてしまうほどである。これが、子供がえりというものなのだろうか。不器用で、創作能力もない私であるはずなのに、66才を超えた今、こうした楽しみを見つけられるとは、幸せなのだと思うべきかもしれない。

孫たちには、気持ち悪いと不評なのだが、私自身はなかなかのものではないかと自画自賛しているところだ。妻の友人が、面白い作品だとして写真を撮って褒めてくれたが、お世辞とはわかっていても嬉しいものである。

調子に乗った私は、絵手紙にも挑戦しているが、TV番組の「ちい散歩」みたいな旅紀行画が描けるはずもなく、いささか自信喪失といったところである。やはり、基本的なデッサン力に欠けているせいか思うようには描けず、なかなか筆が進まない状態だ。でも、描き続けていれば、いつかは満足のできるものが描けるかもしれないと思って今も続けている。

いつの日か、このブログに、絵手紙コーナーを開けるようにと念じてもいる。66才、まだまだ気力満々のじじいでいたいと思う。まだまだ、先は長いのであるから……。