2014年4月10日木曜日

慌ただしい旅だった。

(ハウステンボスの一景 4/6)
結婚して42年にもなるのに、夫婦そろっての旅行などは初めてのことである。
いろいろな出来事が多すぎて、旅行どころではなかったのだが、60も半ばを過ぎたところでようやくといったところだ。

といって、この安らぎが私の手によってもたらされたものではないのが残念ではある。そのすべてが、妻のコツコツとした努力の賜物であるので、私としてはただただ頭を下げるのみである。
本当にありがとう……としか言いようがない。

(吉野ヶ里の復元住居群 4/7)
今回の旅行には。妻の姉も同行している。ここのところはよく一緒に行動しているので、何の違和感もなく一緒に楽しんできた。義姉は、10年ほど前に夫に先立たれているので私たち夫婦との外出を喜んでくれている。歳を重ねると相みたがいという感情が湧くようで、いつまでも仲良く過ごしたいものだと思っている。

今度の旅行は、2泊三日という限られた中で、あれもこれもと欲張った慌ただしい日程となってしまった。旅行社のフリープランツアーということだったので、行動範囲を広げるためにレンタカーを使用しての計画を立てた。加えて、妻の要望があれこれと出されるに及んでは、お世話になる身?の私としてはその実現を目指すべく、強行軍もやむなしの計画とせざるを得なかったのである。

(グラバー亭公園からの展望 4/7)
*4/6 PM12:30羽田発→4/8 PM12:35羽田着
(長崎の平和公園記念像 4/7)

(雲仙温泉地獄谷 4/8)
異国情緒たっぷりの町並みは、半日ではとても散策しきれない広さであった。
旅行の目的でもあり期待したイルミネーション・特に3Dを駆使した企画には圧倒され大いに楽しむことができた。一度は倒産の憂き身を味わったハウステンボスだけに、その企業努力の必死さが伝わってきて感動をすら覚えた。事業の失敗から立ち直れないままになっている私にとっては、その立ち直りが大きな励ましともなってくれた。努力なくして再生なしという現実を見せつけられた思いである。

邪馬台国を連想させる「吉野ヶ里の歴史公園」は、その遺跡の広大さからも、古代の村(クニ)を偲ぶのには十分なもので、この旅行中最も満足のできたところであった。建物などの復元が過ぎるきらいもあったが、弥生社会が想像できる遺跡としては申し分がなく、散策時間の足らなさが恨めしい限りであった。

グラバー亭公園は、かって明治維新において賊軍とされた「会津」出身の私にとっては、複雑な心境での見学となってしまった。偏狭的な考えではあるのだが、どうしても【死の商人】としてのイメージが強すぎて、近代日本への貢献という側面では見学できなかった。反省しなければならないとは思っているのだが…。

平和記念公園には訪れる人が少ないのか、人影がまばらであった。私達は、この惨劇をもたらした戦争を再び起こしてはならないとの願いを込めて、祈りをささげた。忘れ去ってはならない記憶なのである。原爆資料館には、多くの外国人も訪れていて、平和の希求がグローバルなものであることを実感した。
世界の三大夜景になったとかで浮かれることなく、平和都市長崎としての発展を願ってやまないところである。

雲仙温泉は、奈良時代の701年に【行基】によって開湯されたものだと、ホテルの若旦那?に教えてもらった。早朝にヘルシー散策だとして周辺を案内してもらった中で教えてもらったのだが、さびれゆく観光地の再発展を模索してのこうした努力が、大きな成果につながることを心から期待している。若旦那ガンバレである。

もっともっと、あちこちと周りたかったが、私達の慌ただしい旅は、とにかく無事に終わった。機会があれば、次回はもっとゆったりとした旅にしたいものである。

2014年4月4日金曜日

桜並木を散歩して

(埼玉県戸田市 荒川土手沿いの桜 4/2)

(同上を土手の上から撮影 4/2)
3月30日の雨の中、義兄嫁の納骨式が行われた。
本当に早いものだ。2月15日の大雪の日に倒れ、雨の日にお墓に入るなど、本当に悲しむべき出来事でしかなかった。それでも、認めざるを得ない現実なのだから、諦めるほかはない。

お墓のある埼玉県武州長瀬は、東京よりは開花がやや遅く、桜はチラホラとしか咲いていなかった。花の好きな人だったので、満開の桜吹雪の中での葬送が似合いだったろうにと、考えたりもした。

写真は、納骨式から3日後の花模様である。
埼玉県戸田市のボートレース場前荒川土手の桜並木だ。水曜日ということもあって、混雑はなかったが、丁度満開の見ごろで、そのあでやかさには圧倒される思いであった。

この桜並木の変貌ぶりには驚かされている。この並木も、私が仕事をバリバリとやっていた30数年前には、若木の並木であまりパッとしたものではなかったが、今は丁度壮年期と言ったところでみごとというほかはない。
たそがれ時に入っている私には、この圧倒的な力強さは眩しいぐらいである。いや羨ましいと言った方が良いのかもしれないな。木々の生命力には感動をすら覚えてもいる。

だから、この生命力を吸収して、65歳で亡くなった義兄嫁の分まで生き抜かねばとも思う。少なくとも、私も妻も、この素晴らしい桜並木の下を、仲良く元気に散歩できているのだから、頑張って行かねば申し訳ないではないか。

(たくましく、幹に直接花を咲かせていた 4/2)

2014年3月27日木曜日

健康長寿を目指すぞ!

( 今年は咲かないかと諦めていたのに
  見事に咲いてくれたハナカイドウ 3/25)
妻と一緒に、鳥越俊太郎氏の講演を聞いてきた。講演内容は、ガンと闘っている鳥越氏らしく「ポジティブに生きる」が主題であった。

私と妻の間には暗黙の了解がある。
それは、私たちの一方がガンに侵されて終末を迎えた場合の対応についてである。

妻の希望は、一切の告知をしないで欲しいというものである。自分の死を感じないままにこの世を去りたいというのがその理由である。あと何か月、あと何日とその日を数えることは嫌だということであった。

私の希望はというと、告知して欲しいということである。限りある命を、最後まで有効に使いたいと思っているからだ。その告知後の残された期間に、何かしらできることがあると考えられるからである。

このように違いのある二人ではあるが、終末に関しては共通した願いがある。医者の判断で回復の見通しが立たなくなった場合には、延命治療はしないで欲しいということだ。植物状態となって無駄に延命しても、私たちにはその延命措置になんの価値も感じることができないと思われるからだ。抗ガン治療を否定するわけではないが、私達はぜひにもそうしてもらいたいと願っている。

その際は、どのような措置であっても構わないので、苦痛を伴わないものにしてもらいたいものだ。苦痛に耐えられるのは、治癒できるという希望が持てるときであって、何の希望も持てないままの苦痛などはごめんである。モルヒネでもなんでも有効な鎮痛剤で、痛みを緩和してほしいと願う。と今は思っているのだが、いざというときにはどうなるのか…。

鳥越氏の話は、転移を繰り返す悪質なガンとの闘いの体験談であった。そして、その体験からは教訓として「早期発見に努め、健康長寿を目指す」ことの大切さを学びとった。74歳という年齢を感じさせない氏の若々しさは、闘病中であることも感じさせない力強さで、まさに「健康長寿」の体現者であることを知らしめるものであった。66歳の私としては、大いに学ばなければならないところである。あっちが痛いこっちが痛いなどと騒いでいてはいけないのだ。


2014年3月12日水曜日

心をこめた復興を!

先日、花芽を小鳥に食い散らされたこと、そしてゴミ袋のネットで残った花芽を守っていることを、命のはかなさとの関連で投稿した。その守りきった花芽が成長して、今では写真のように以前も増して咲き誇っているので、妻と一緒に喜んでいるところだ。

今日、平成24年3月11日は、あの東日本大震災から3年が経過した日である。2~3日前から、あの時の生々しい被災映像を繰り返し流しながら、この3年間の歩みについてを、特別番組として各局が報道している。そのいづれもが、真剣に真面目に取り上げていることを感じることができて、ホッとした思いだ。今日も又、終日、内容の濃い報道がなされており、日頃はマスコミに批判的な私も、マスコミの良心に触れた思いで素直に喜んでいる。

(復活して咲き誇るアンジェリカ)
その一方で、先日の国会中継(予算委員会)や、民放での被災地復興を巡っての復興対策委員長と現地関係者との討論番組をみていて、情けない思いにとらわれてしまったことも、正直なところである。

質問者が、福島の現状が決して好転していないことを、資料をもって説明しているにもかかわらず、又、政府の原子力安全に関しての諮問委員会(原子力規制委員会)の委員長が、「安全宣言できる立場にない」として安全宣言をしようとしないでいるのに、「世界一厳しい審査基準で臨んでいる」などと詭弁を弄していた安倍総理や担当大臣は、相変わらず、原発再稼働まっしぐらという対応に凝り固まっていた。もはや正常であるとは言い難い痼疾ぶりだ。国民でなく誰の代弁をしようとしているのか、と、疑わざるを得ない在り様である。

「アンケートによる被災者の要望をとりあげたので、復興対応策には問題はないと考える」とか、「何度も足を運んでいるので、現地の要望は理解しているつもり」などと答える民放での政府関係者達からは、形式を整えようとする姿や、体裁やメンツを保とうとする姿が見え見えで、恥ずかしくさえ感じられた。「現地の要望と違った対応をしている」「もっと、現地を理解してほしい」といった地元からの切実な訴えとの甚だしい乖離を感じたのは、私だけでけではなかった筈と思う。

今日の政府主催の「被災者慰霊祭」でも、天皇の被災者を思いやる誠意ある姿勢に比して、安倍総理の原発問題に触れまいとする逃げの姿勢には、情けなさを通り越してあきれかえる思いでたまらなかった。私にはあの姿勢からは、かっての中身のなかった“美しい国日本”のスローガンと、同様のことが連想できるのだが、いかがなものであろうか。復興は進んでいる、原発事故の対応は改善されているなどと、一国の総理たるものが白々しく言明するなど、あってはならないことだと私は思っている。今、何が一番大事なのかを真面目に考えろ!である。

支持率に支えられていると言われる安倍内閣ではあるが、「驕る平家は久しからずや」ということを忘れないでほしい。いつまでも国民を欺けるとは思わないことだ……。





2014年3月6日木曜日

だんだん孫たちが遠くなる、遠くなる?

一番上の孫娘が、11回目の誕生日を迎えた。4月からは、はやくも小学6年生である。
最近では、バレーボールに熱中していて、かってのように一緒に楽しむことがなくなってしまい、満たされないことが多く不満たらたらのジジイなのである。
(妻の拾ってきた桜の枝に花が咲いた。3/6)

誕生祝は靴がいいとの事だったので、ショッピングモールで待ち合わせをして、孫娘に選ばせた。やはり女の子なのか、洋服にも目が行くようで、娘(孫娘の母)に足し前させて、気に入った洋服もプレゼントすることにした。娘は喜んでいたが、肝心の孫娘は今一と言ったところのようで、妻と二人で拍子抜けした思いであった。

拾ってきた桜の枝なら、水を換えたり栄養剤(砂糖)を加えたりと、手を加えることで早めの開花を促すことはできても、孫娘までもは思うに任せないもののようだ。それが成長するということなのであろうか。

「だんだんお家が遠くなる、遠くなる。」と言った歌?が思い出される。「だんだん孫たちが遠くなる、遠くなる。」と言った心境になってしまい、何となく侘びしさを感じてしまう。
ジジイの僻みと言ったところか。孫たちの成長が、嬉しいような悲しいような、何とも複雑な今日この頃であるのだ。




2014年3月5日水曜日

あまりにもはかなくて……。

(ベランダで咲き誇るアンジェリカ)
写真の花は、もう1カ月以上もベランダで咲き誇っていた。……と、残念ながら、過去形の話として伝えざるを得なくなってしまった。
この綺麗に咲いていた花が、あろうことか小鳥に食い散らされてしまったのだ。小鳥たちが、食用としたのか、興味本位でいたずらしたのかは分からないが、とにかく見事に食い散らかされてしまった。
今は、応急措置として、生ゴミ用のネットを使って残された花芽を守っている。嬉しいことに、残された花芽からは、たくさんの花が開き始めているので、元のようになるのも近いようだ。又、きれいな花々を楽しめそうではある。

花々は、守ったり手入れしたりすることで再生させることができるが、悲しいことに人の命は絶対に再生させることができない。

私達に不幸がもたらされたのは、つい先日の大雪の日であった。私の妻の兄嫁が急逝してしまったのだ。義兄夫婦は、私たちの住まいとは 300~400m程しか離れいないところに住んでいる。まさにご近所のお付き合いといったところであった。

その日、義兄嫁は、大雪だということで、同じマンションの人と雪かきをしていたらしいが、その最中に突然倒れてしまったということであった。あわてて救急車を呼んでも、大雪ですぐには来てもらえず、警察から連絡してもらって漸く病院に搬送してもらったそうだ。この間2時間を要した言うことである。あの大雪では、誰も責めることはできないが……。

私達のところに連絡が入ったのは病院の義兄からで、手の施しようがない状態で手術もできないとの知らせであった。突然のことにその意味合いが分からないまま、雪道の中をノーマルタイヤで病院に向かった。本当に、この大雪は恨めしくも呪わしいものでしかなかった。
(なんとも恨めしい大雪であった。2/15)

彼女が病院に運ばれた時には、すでに心肺停止の状態だったそうだ。MRIで調べた結果は、蜘蛛膜下出血で脳内に出血が広がっていて手の施しようがなく、ただただ心臓の止まるのを待つしかない状況らしかった。

午後の1時過ぎに病院に運ばれて、深夜の1時一寸過ぎには、彼女は還らぬ人となってしまっていた。あまりにもあっけない、はかない終焉であった。現実とは思えぬままに、葬儀が執り行われて、彼女は、笑顔の写真を残してこの世を去ってしまった。数日の間は、私たちは、彼女の面影が思い起こされて、信じられないままに日を送っていた。これは本当の事なのだろうかという思いで……。

今、私たち夫婦は、65才で逝った彼女を偲びながら、余生をお互いに楽しもうと話し合っているところだ。いつ訪れるか分からない不幸を待つより、生きている今を大事にしたいからである。ちなみに私達は、私が66才で妻は64才の人生まだまだといった夫婦なのである。

2014年3月2日日曜日

孫を預かるのは大ごとだ!

 一番下の孫がインフルエンザにかかったので、4日ほど私のところで預かった。
預かった初日の深夜に、39度6分以上の高熱を出して、はあはあ言い出したのでビックリして熱さましにかかった。ぐったりした孫を見て、正直、預かるのではなかったと後悔したものである。自分の子でないだけに、その対応に苦慮せざるを得なかったからだ。

 と言うのは、熱さましの方法に、孫の親である私の娘との間には考え方に、大きなくい違いあったからである。大げさかもしれないが、私は熱に関しては神経質なくらいに気を配っている。過去(私のタクシー乗務員時代)に、肝を冷やした経験があるからだ。

 深夜に千住近くで乗せた親子連れ(20代の夫婦と3歳ぐらいの女の子)があった。
子供が熱を出したので、病院までと言うことであった。話の中で、熱は39度8分ぐらいまで上がったが子どもが元気だったので、救急車を呼ばなかったとの事であった。話の通り、車内でも子供は元気にしていた。運転手の私とも「お熱が出ちゃったの」「病院に行ってお薬貰ってくるの」などとおしゃべりしていてとても元気であった。

 病院を目指してしばらく走っていたら、急に後部座席でバタバタと言う音がして、母親と父親の悲鳴のような叫び声が起こった。「○○○が、死んじゃう!白目をむいてしまって、体が突っ張ってしまったままになったよ!」「○○○どうしたの!返事して!○○○!○○○!」

 若い両親のあわてように、私までもが冷静さを失い、「どうしました!娘さんがどうかしたのですか」と、あわててしまっていた。私は、もしや癲癇ではないかと思いながら、「舌をかまないように,注意して!」と言うのが精いっぱいの事であった。

 それからの病院までの走行は、まるで宙を走っているような思いで運転した。泣き叫ぶ両親の「とにかく急いで!信号もなにかも無視してとにかく急いで!○○○が死んじゃうよー!」との必死の切なさが伝わってきて、とにかく病院へ病院へと急いだ。

孫の誕生祝のケーキ
料金どころの騒ぎではなかった。到着するとすぐにタンカに乗せられて救急室に入って行った子供が心配で、胸がつぶれるようであった。15分ほどして、看護師が私のところにきて、「ひきつけだったようですよ」と告げてくれた。そして、両親から託されたとタクシー料金も預かってきていた。そこで私は漸くホッとした思いになることができた。無事だったのだと……。

 私もそうであるが、あの若い両親にとっても、子供のひきつけは初めてのことであったようで、あの突然の事態には、何の対応もできなかったのである。看護師の話によると、高熱からのひきつけはよくあるとのことで、あまりの高熱の場合には、とにかく下げることを心掛けること、下がらない場合には遠慮しないで救急車を呼ぶようにとの事であった。

 高熱は怖いという私の先入観は、こうした経験から来ているのだが、保育士をしている娘にとっては薬による対応の方が心配なのだと言う。そう言われても、熱にうなされている孫を見ていると、あの夜のことが思い出されてしまい、買い置きの小児用坐薬やピタット等の熱さまし湿布薬を使ってしまう。今度の場合も、額と両脇にピタットを貼りつけて、冷たいタオルを換えながら熱さましに神経を使った。その効果か、翌朝には平熱近くまで下がって、孫は元気になって食欲も出てきた。

 元気な孫を見ながら、私は妻とぼやいていた。「娘の仕事を助けるためとはいえ、今度のような場合は預かるのは考えもんだね。私たちには責任が取れないんだから、考えなくちゃね。」と………。

2014年1月19日日曜日

トイレットペーパーの芯から、モアイ型人形を!

(陰陽師、楽人、旅人、素浪人のモアイ型人形)
(梅沢富雄、河童、妖怪ガラス、トランプマン等を追加)
我ながら子供じみたものを作ったものだと思う。何の考えもなしに、ただ思いのままにトイレットペーパーの芯を切り刻んでいくうちに、それなりの形になってしまうのだから、このモアイ型(勝手にそう呼んでいる)人形作りはとても楽しいものだ。

ゴミとしか扱われないトイレットペーパーの芯を、いろいろなものに変身させることができるとは思ってもみなかっただけに、思い付きのままに作業することでそれなりのものが出来上がっていく過程は、本当にわくわく感をさえ覚えてしまうほどである。これが、子供がえりというものなのだろうか。不器用で、創作能力もない私であるはずなのに、66才を超えた今、こうした楽しみを見つけられるとは、幸せなのだと思うべきかもしれない。

孫たちには、気持ち悪いと不評なのだが、私自身はなかなかのものではないかと自画自賛しているところだ。妻の友人が、面白い作品だとして写真を撮って褒めてくれたが、お世辞とはわかっていても嬉しいものである。

調子に乗った私は、絵手紙にも挑戦しているが、TV番組の「ちい散歩」みたいな旅紀行画が描けるはずもなく、いささか自信喪失といったところである。やはり、基本的なデッサン力に欠けているせいか思うようには描けず、なかなか筆が進まない状態だ。でも、描き続けていれば、いつかは満足のできるものが描けるかもしれないと思って今も続けている。

いつの日か、このブログに、絵手紙コーナーを開けるようにと念じてもいる。66才、まだまだ気力満々のじじいでいたいと思う。まだまだ、先は長いのであるから……。

2014年1月16日木曜日

やっぱり驕って右傾化へ

(元旦の七福神-東京大仏にて)
平成26年は、寒いながらも穏やかな日差しの下で幕を開けた。

私たち夫婦は、例年通り東京大仏で初詣を済ませた。昼時ということもあってか、人ごみはさほどでもなかった。
今年は、妻がひざを痛めて久しいので、神頼みとばかりに、境内の七福神にも詣でたが、果たして霊験あらたかとなるかどうか。とにかく、少しでも痛みが薄らぐことを願うばかりである。にわか信心で虫のよいことではあるが、願わずにはいられない昨今であったのだ。

この投稿まで、半年近くの間が開いてしまった。先の投稿もやはり、数か月の間をあけてしまったが、別に投稿が億劫になったというわけではない。むしろ、投稿して、自分なりにメッセージを発信しなくてはと焦っていたというのが正直なところであるのだ。

この間の私は、66才の全力?を、小中学時代の同級会(同期会)開催のために注いでいたのである。昨年(鬼怒川開催)は、単なる参加者であったが、今回は幹事として初めての連年開催という課題に挑戦していたのだ。もちろん、幹事は一人だけではなかったが、部落(地区)の出身者7名とともに、あれこれと知恵を絞り合っての準備活動は、久しぶりにやりがいを感じさせるものであった。中学卒業以来50年余を経た交流は、心浮き立つものでさえあった。

仲間との努力の甲斐もあって、同級生の半数近くが1泊2日のマイクロバス旅行に参加して、修学旅行気分を味わうことができ、同級会は大成功であった。記念のDVDを作ったりして、同級生50数名とのコンタクトもとれ、私自身にとってはとても有意義な期間であったと思っている。

しかし、こうした私の個人的な喜びを暗澹とさせる事態が、いやおうもなく眼前に迫ってきたことで、その私の喜びも半減させられてしまった。
私は、このブログを通じて、日本の右傾化についての不安を繰り返し訴えてきた。そして、その不安に対しての自分なりの対応ができていないことにも悩んできた。

こんな私を置き去りにして、アベノミクスなる経済政策?を隠れみのとした強引な右傾化誘導は、私の予想をはるかにしのぐ勢いで実行されつつある。秘密保護法しかり、安全保障問題しかり、原発再開問題しかり、中韓外交の悪化を招く靖国参拝しかりと、もはや歯止めは効かないのではとの疑念をさえ覚えてしまうほどだ。

あまつさえ、都知事の不祥事からの政治動向を、小泉やら細川やらの曖昧勢力に利用されかねない事態も発生している。彼らは、一面、独走する自民への警鐘をならすかのような装いも見せているが、私には、 安倍内閣・自民党の軍国化への逆戻りを、反原発の名目をもってベールをかぶせてしまう補完勢力としてしか映らない。アジテーターのアジテーターとしての本質が見えるように思われてならないのだが、いかがなものであろうか?

ご用心ご用心である……。
警鐘を連打させなければならない事態なのだから……。

2013年7月8日月曜日

初めての収穫!

(花が咲いたので期待も大)
(期待通り立派に結実)
(我が家での初めての収穫)
前回の投稿から、いろいろなことがありすぎてどう投稿すれば良いのかと、考え込んでしまった。グローバルなできごとや、ほんの身の回りのできごとでもその変化は激しく目まぐるしいもので、そのできごとの理解に追いつかず、自分の処すべき対応も見いだせないまま今日に至ってしまった。

 別に大げさに考えているつもりはないが、シリア・トルコ・エジプトの問題などは、その根底にあるものが理解できないので、宗教・民主主義・経済問題などを説かれても一向に理解できないままにその推移を見守っているだけだ。

 国内問題では、相も変わらずに理解しがたいことが続いている。先の東京都議選の結果は、危うんでいた通りの結果となり、腹立たしい限りでしかない。命よりも株(景気)の動向が大切だとの判断をしたということなのか。それでも、一部とは言え、反原発や憲法改悪反対・戦争反対を唱える政党が議席を倍増させたことは、酷暑の中で清涼飲料水を味わうがごとくの清々しさを感じさせてくれた。

 現在参議院選挙中であるので政党名は伏せるが、その政党の存在意義すら定かでないもろもろが多すぎる。それらの政党は、暗雲に更に曇りガラスをかざすような役割をはたしており、毒素を全世界に売り歩こうとしている輩を陰に陽に支えている。始末の悪いことには、その自ら果たしている役割に気付いてはいないのだ。そのことが、日本の右傾化を確実に促進させていることに一日も早く気付き、今何が大切なのかを改めて考えなおしてほしいものである。この参議院選挙も、都議選と同様の結果が予想されており、私にとっては憂鬱でしかないが、微力を尽くして、命を本当に大切にする勢力の躍進に貢献したいと考えている。

 写真は、我が家のベランダで初収穫をした茄子を撮ったものである。さほどの手入れはしていないが、毎日の水やりと野菜の病気や害虫駆除には気を配ったせいか、見事(?)に収穫ができた。次々と花も咲かせているので、この夏は自家栽培茄子を堪能できそうだ。この茄子のように、命を大切に、丁寧に育てれば必ず実は結ぶのである……。

2013年5月31日金曜日

ラップの芯で楽しもう!

(ラップの芯などで作ったオモチャ)
右の写真は、ラップやトイレットペーパーの芯で作ったオモチャである。適当に切り刻んだり、組み合わせたりしながら形作っていくのはそれなりに楽しいものであった。サイズも何もあったものではない。ただ、適当に作業を進めていく中で出来上がったシロモノ(?)ではあるが、出来上がってみるとそれなりに愛着がわいてくる。目ざとくこれらを見つけた4歳の孫が欲しい欲しいと騒いだが、すぐに壊されるのは分かり切ったことなのでとうとうあげずじまいにしてしまった。

(セスナ機?)
私はとても不器用な方なので、妻はその完成を危ぶんでいたのだが、出来上がった作品(?)をみて、意外であるといった表情を見せていた。今では、新しい芯が出るとすぐに私に手渡すようになっている。夢中になって作っている私を見つめながら、多分、「子供がえりでも始まったか?」と思っているのかもしれないな。とにかく、楽しんでいる最中である。

 いらなくなったボタンや孫のオモチャのタイヤも部品として大活躍している。プロペラは、ラップの芯で作ってゴム動力で回るようにしてある。苦労したのは、そのプロペラを固定させることであった。小さなボタンを利用して針金で回るようにしてみたが、残念ながら、今の私の力量では自走したり飛行させるまでにはできそうもない。ただ、子供みたいにプロペラの回ることを楽しんでいるだけなのだ。

(チキチキ大レース?の車)
下の写真は、パソコン用インクの入っていた小箱とトイレットペーパーの芯を使って作ったチキチキ大レースに出てくるような車である。組み合わせによっては、意外に面白い発想も湧いてくるようだ。この車はまだ孫には見つけられていないので、見つかったらまた欲しいよと騒がれそうだが、今度は「大事に優しく扱って」と注文をつけてあげようかと思っている。やはり、孫の喜ぶ顔はなにものにも代えがたいものだからね。でも、本音はチョッピリ惜しい気もする…。

2013年5月14日火曜日

一喝される!

(妻が頂いたシクラメン。毎年咲いて楽しませてくれる。)


電話が鳴った。妻が取り上げてO先生からだと言う。O先生は80才間近の税理士である。何だかんだと先生との付き合いは長く、私の上京後すぐからのお付き合いである。だから、年数だけであれば四十数年もお付き合いしていることになる。

O先生は、東大出なのに、労働運動(特に未組織労働者の組織化)に命を懸けて取り組んでいて、自身の栄達などまるで顧みない熱血青年闘士であった。上京したてで、小企業勤務の苦汁を飲まされていた私にとっては、先生は頼りがいのある憧れの存在でもあったのである。先生とは、直接の親交というよりは、地域支部という組合関係を通じての触れ合いであったが、その折々の触れ合いの中での印象は常に強烈に心に残るものであった。まさに、私にとっての英雄そのものであった。

ある時、私たち三名(友人2名を含む)は、売上税(今日の消費税)創設反対のポスターを電柱に貼っていた。当時は、今と違って、政治的主張はポスター掲示によることが多く、労働運動や政治運動をする者にとっては、電柱は警察に捕まる危険はあっても格好の主張の場でもあったのである(現在は電柱でのポスター貼りはほとんどなくなっているが…)。その時は不運(?)なことに、ポスター貼りを通報され、パトカーに追い回されて私以外の2名が捕まってしまった。あわてた私は、知人に連絡を取って、即時釈放を求めて集団で警察署に押しかけた。20名以上であったか、深夜にもかかわらず集まってくれた仲間の中にO先生もいて、釈放交渉の中心となって折衝してくれたのである。その対応の見事さや毅然とした態度には、若かった当時の私の魂を揺さぶるのにやぶさかではなかった。とにかく、O先生は私の憧れの人であったのである。

時を経て、労働運動も勢いをなくし今日のようになってしまったが、先生は税理士の資格を取得してその業務をしながら、労働運動への関与を現在も続けている。私は、税務関係の相談等で交流を続けてきているが、未組織労働者の救済の話になると、四十数年前の情熱そのままに熱弁をふるうO先生の姿には、ただただ頭が下がるばかりでなのだ。

(力強く大地から顔を出す筍)
その先生に、一喝されてしまった。
近況いかがと心配して電話をくださったのであるが、健康を理由とした最近の私のていたらくぶりが情けなかったらしく、この状況をなんと考えているかと一喝されてしまったのである。久しぶりの叱責に、身の震える思いがしたが、仰られる通りなので、電話口で身をすくめるほかはなかった。

私にもできる貢献の場があるはずだからと、かっての熱情そのままに話す先生は、あの当時の若々しさを今にとどめていた。本当に頭の下がる思いであった。近日中に訪れることを約して電話は終わったが、私は、久々に身の引き締まる思いにとらわれている。そうなのだ、先生の言われる通り、健康を理由に怠惰な生活を繰り返していてはいけないのだ…。情勢は緊迫していることを忘れてはいけない。奮起せよである………。



2013年4月12日金曜日

入学式で右傾化を知る。

(入学式会場-開会前)
孫の入学式に行ってきた。私としては、式というあらゆるものが苦手なので、足を運びたくはなかったのだが、妻の再三の誘いに止むを得ずといったところで出かけた。

 孫の入学する小学校は、東京に隣接する埼玉県の地方都市で開校9年目を迎える新興地の学校である。建物も近代的で、一見学校とは思えないモダンな造りであった。地元では人気の小学校とかで、3クラス90名余りの新入生を迎えたそうだ。

 緊張する孫を見つめながら、私は、数十年ぶりの入学式を楽しもうと、リラックスしていたのだが、式が進行するにしたがって、顔がこわばってくるのを抑えられなくなっていた。ニュースでは知らされていたが、その現場を目のあたりにして、今さらながらに考えさせられてしまったのである。それは、教育現場への右傾化の押しつけが、考えていた以上に浸透していることに気付かされたからである。そして、そのことに参列者のほとんどが気づかず(?)、無関心であるばかりかむしろ当然の事として受け入れている事実に、肌の泡立つ思いさえしてしまった。

 式であるからには、ある程度の厳かさがあってしかるべきだとは思う。しかし、教頭の開会のあいさつから始まった入学式は、校長・教育長・PTA他と順次の登壇でありきたりの歓迎挨拶等で終了し、孫のために喜べるなにものをも感じることができないものであった。むしろ、孫のためには嘆かわしい事実を知らされて、不愉快そのものであったのである。

(お国のために出撃?)
特に、登壇したすべての者の、団中央につるされた国旗への対応には驚かされるものがあった。必要以上の礼拝とも受け取れるその対応は、登壇前の階段下の拝礼に始まり、登壇後の重ねての拝礼、さらに降壇後の再々の拝礼と、拍手を交えればまるで神社における礼拝そのものであって、かっての国家神道への対応を彷彿させるものであった。こうした国旗へのバカげたへりくだりと強制される国歌斉唱とを抱き併せて考えると、歪められた国家観が無言のうちに押しつけられようとしていることは、私にも容易に理解できた。伝聞だけだはなかったのだ。教育現場では、現実に右傾化が進行していたのである。おそらく、国を愛すること、そのための国旗であり国歌であると関連付けて教育しているに違いない。

 そうした日常の教育が入学式にも反映して、登壇者のすべてに何の矛盾も感じずに馬鹿丁寧な拝礼を繰り返させていたのであろうか。恐ろしいことである。その国旗の横に、象徴天皇でない専制天皇やヒトラーの影が見え隠れしていることに早く気付くべきなのだ。かっての日本は、そうした日常教育の中から、戦争への道を突き進み、国民に塗炭の苦しみを味あわせてきた。お国のためにとの合言葉のもとにである…。

 今日の日本は、内外ともに大変な状況におかれている。北朝鮮と中国の軍事圧力や東日本大震災の復興の遅れ、特に原発事故対応への人権無視の無責任な対応と意識的な風化政策、金融大緩和の名目によるお金のバラマキと日本売りの促進等と複雑怪奇な課題に取り囲まれている。こんな時だからこそ注意しなければならないのだ。彼ら(戦争を企てる勢力)にとっては、防衛を名目にして民族意識を駆り立て憲法を改悪して再軍備を計り、経済復興を名目にして増税(軍事費増強)を正当化する絶好のチャンスであるからだ。危険な状況である。国民一人一人が、身近な幸せに酔っている時ではないのである。目覚めよう、今目覚めなければ悔いを残すに違いないのだ。

 入学式で感じた不快感から、話が飛躍してしまったが、私は私たちが今こそ声を上げ行動に移る時だと思っている。たかが国旗への対応ではないかなどと、見過ごしてはならないのである。危険な躍動に対しては、声を大にしてその芽を摘んでしまわなくてはならないと思うのだ。そのことが、愛する孫たちへの果たすべき責任であるのだから…。

 

2013年4月10日水曜日

孫を歴女に!

(満開の桜が美しい埼玉古墳公園-丸墓山)
一番上の孫を連れて、埼玉県行田市の埼玉古墳公園に出かけてきた。小5になる孫娘に願わくば将来の歴女を期待してのことであったが、果たして期待通りとなるかどうかは疑問かな?といったところだ。

 私がこの公園を訪れるのは、20数年ぶりのことである。平成3~4年頃に深谷市にいたおりに行ったのが最後で、古墳公園としての環境整備は予想以上で驚かされた。整備されすぎて、古代を偲ぶのにはいささかと惑いを感じさせられる変わりようであった。周辺一帯も公園化されており、田んぼや畑の中の遺跡群といったイメージはなくなっていた。稲荷山古墳のごときは、かっての面影をなくして復元されてもいた。率直に言って少し公園化を計りすぎたきらいがある。欲を言えば、懐かしさを感じさせて欲しかったのであるが…。

 とは言えここの古墳群は、我々に、この国の成り立ちを考えさせるには申し分のない遺跡ではある。それだけの資料を十分に埋蔵していた遺跡であるのだ。稲荷山古墳から出土した、国宝となっている金象嵌の鉄剣などはその最たるもので、中央(ヤマト王権)から遙かなこの地に、これらの古墳を築いた強力な権力者が存在していた事実を教えてくれている。詳細は語らないが、紀元470年頃に、ヤマト王権?の雄略大王が存在し、その大王に仕えたオワケの君という豪族(権力者)がその記念として金象嵌の鉄剣を作ったと、記している。

(稲荷山古墳から出土した金象嵌の鉄剣)
雄略大王(天皇)というと、神話から歴史の世界に踏み出して間もない時代の権力者である。中国への朝貢も知られており、その後ろ盾によって倭国(日本)を代表する権力者(大王)と認められている?人物でもある。俗に、倭の5王と呼ばれている、我が国の黎明期の大王の一人でもあるのだ。その歴史上の人物との繋がりが証明されたのだから、この遺跡の価値はとても計り知れないものである。もっともっと足を運ばなくちゃ…。

 このようなことを、私は孫と語り合いたので、歴女への期待を高めているのだが、広々とした公園や満開の桜の方が嬉しいらしく、あと何年かかるやらとため息が出るばかりである。小5じゃしかたがないのかな…。娘からは、自分の趣味を孫に押し付けないでと、念を押されてはいるのだが、耳をかさずに連れ出すつもりの歴爺なのだ。あきらめないぞ! 

2013年3月25日月曜日

孫来て嬉し、………嬉し。

(写真の花は義兄からの転居祝いの花)
孫来て嬉し、帰ってなお嬉しとはよく言ったものである。
 
 昨年来体調が思わしくないせいか、私の対孫感情が変わってきているようだ。孫に会ったからと言って、前のように無条件に嬉しいということが少なくなってきたのだ。会えない期間が少しでも長くなると、ソワソワしだして電話をかけてしまう等ということもなくなった。

 もちろん孫たちの成長につれて、孫たちが自我に目覚めじいちゃん(私)の思うに任せなくなったということもあるのだが、とにかく、孫たちと接していてうるさいと思うようになったり、煩わしいと感じたりするようになったのは事実である。自他共に認めるじじバカの私に、こうした感情が生まれようとは思いもしなかったことだ。やはり、体調不良で疲れているのだろうか。引っ越しによって、面倒くさいという思いは一段と強くなっており、装いなった住居への孫たちの訪れも心はずものではなく、むしろ鬱陶しくさえもある。

 かと言って、孫たちが来ると、一緒になって真剣に遊び、一緒に疲れ果てているのは変わりのないことである。だから、嬉しいということには変わりはないのだと思う。嬉しいけれど、何かが違ってきているということであるようだ。成長している孫たちの進歩と、旧態依然としている私の対孫感情にズレが生じてきて、そのズレの克服が出来ないことがかかる心の変化を生み出した、ということになるのであろうか。

 最近では、孫たちを叱ることも増えてきた。優しいばかりのじいちゃんではなくなっているのだ。しかる材料となる孫たちの行為が目につくようになって、些細なことと知りつつもついつい叱ってしまっている。郷里の教えではないが「ならぬことはならぬ」と、しかりとばしてしまうのだ。孫たちにとっては、優しいはずのじいちゃんの大変貌といったところであろうか。ときには、ゴツンとやられて、びっくりした顔をして泣き出すこともある。じいちゃん、どうしてしかるのって!抗議の目を向けられることもある。

 困ったものだ。孫たちのせいにしているが、変わりつつあるのは自分(じいちゃん)である事を誰よりも知っているくせに。素直になれない、困ったじじいではある。そんなことでは、孫たちに嫌われてしまうよ!「孫来て嬉し帰ってなお嬉し」なんてことは、まだまだ自分は孫たちに好かれているという自惚れが言わせていることで、孫たちともっともっと触れ合っていたい願望の裏返しでもあることを、素直に知るべきじゃないかな? …理屈やで素直でないおじいちゃん…自分を知りなさい。本当に「…帰ってなお嬉し」なの?………。
 
 

2013年3月13日水曜日

春が来た。でも浮かれまい。

(東京北区の旧岩淵水門)
穏やかな日差しを浴びながら、荒川の河川敷でサイクリングを楽しんだ。写真は、自宅から8~10キロぐらいのところにある、荒川と隅田川(新河岸川)とを結ぶ水防のための調整水門で、その水門が赤く塗装されていることから、「岩淵の赤水門」として知られている。

 私は、初めて行ったのだが、それなりに環境整備がなされており、その独特の風情と併せるとなかなかの行楽スポットとして楽しめそうであった。訪れた時には、あちこちに釣り人の姿も見られ、話を聞くと、釣り場としても知られているとのことで、週末には子連れの釣り人で賑わっているとのことでもあった。釣り好きの私には、願ってもない場所となりそうである。「このポイントで、昨日(3/11)は、75センチぐらいの鯉をあげたよ。」なんて話を聞くと、次回には釣竿を持ってこなくちゃと、思わざるを得ない。ハゼは12月ぐらいまで、セイゴは年中釣れるとのことも聞かされたので、再度の訪れは決まったようなものだ。但し、同行した妻からは、「釣りだったら、一人で来てね。」と冷たいお言葉を賜ってしまったが…。

 昨日の3月11日は、「東日本大震災から2年を経過した日」である。岩淵の赤い水門を見つめながらあの日のことを思い出してしまった。テレビ映像に映し出されていたあの破壊つくされた津波防御壁をの様子が、目の前の赤水門と重なってしまい、自然の恐ろしさに今更ながら震える思いがしてならなかった。昨日は、各局共に、あの震災の特集番組を組んでいた。原発事故やあの大震災の風化をもくろむ風潮への、一石を投じたことになったので、とても有意義なことであったと思う。
(春を告げる白木蓮が咲き始めた)

 私は、郷里が福島であることもあるせいか、震災後の政府対応や政治家達の無神経さには、心からの腹立たしさを感じている一人である。原発を再開させるかどうかを巡っての会合に出席した福島県知事が、被災者に対してのそのあまりなまでの無神経さに憤って、席を立ってしまったとの記事に触れて、当然だとの思いで一杯であった。が、その続きの記事を目にしたときには、愕然としてしまった。あろうことか、その同じ会合で、再開の方向が出たとして、歓迎する拍手が湧き起ったというのである。現場対応に心血を注いでいる福島県知事の抗議の退場を慮りもせず、党利党略のみから原発再開の歓迎の拍手をするなど、人間としての資格をさえ問いただしたい思いである。恥を知れ!である。

 その拍手が、先の総選挙の結果から生み出されたもので、自民党や保守勢力の驕りから出たものであることを、私たちは見逃すべきではない。恥ずべき選択であったことを、思い知るべきなのである。昨今の株価の動きなどから、景気回復云々と騒がれているが、煽り立てられたムードは、その本質と関係なく一時的な現象をもたらすものである、ということを忘れてはならない。そして思いもかけないしっぺ返しが待っているのだとも、忘れてはならないことである。ご用心ご用心なのだ…。


2013年2月6日水曜日

最後の引っ越し?

(整理を終えて回収を待つ段ボール)
1月末に引っ越しをした。段ボール箱で100箱余もの荷物があり、自分でもその量の多さにビックリと言ったところだ。2DKの団地住まいだったのに、どこにそんな荷物が詰め込まれていたのかと不思議でたまらない。役に立ちそうもないがらくたを、よくもまあため込んでいたものだと、我ながらあきれ返ってしまった。

 引っ越しを考えたのは、一昨年3月の東日本大震災の恐怖体験によってである。その恐怖から、7階に住んでいた私は、高層から低層への移動を強く願うようになった。自分の身の安全はもちろんであるが、孫が来ていたらと考えると身の縮む思いがしてたまらなかったのである。孫を連れて逃げ出すのには、どうしても低層に移るしかないと、その移動を考えていたところ、丁度良い具合に同じ団地の別棟に3階の空きが出て、広さも希望通りであったので、急遽、リフォームを待って転居することにした。

(整理した書棚)
歳を重ねるということは、それだけ思い出の品(荷物)も多くなるということで、引っ越し慣れている(13回)私でも辟易するぐらいに、その準備と整理には時間を要してしまった。それでも、多分最後の引っ越しであろう事を考えると、準備も整理も慎重にならざるを得ず、保存をきめる取捨選択の手間暇はやむを得ないことであった。写真の一枚一枚にも思い入れがあるのだから、大量の荷物であるだけに、当然と言えば当然のことであったのだ。引っ越しとは、回想に浸る機会でもあるようだ。

 11月の総選挙の結果は、私に暗澹とした未来を予感させ、孫たちやこの国の将来に不安を抱かせるものであった。以後の経過は、進展の速度はともあれ、決して好ましい推移をたどっているとは思えないし、危惧したとおりに動いているとしか考えられない。私は、この引っ越しを契機に、私なりの平和への発信を開始しようと決意している。幸いにも、1年以上にわたって私を苦しめた肩の故障は、引っ越しの激務にも耐えられるまでに回復したようだ。だから、1年半ぶりの仕事への復帰も検討を始めている。困難でも、自分に適した仕事を確保するつもりでいるのだ。

 

2012年12月18日火曜日

こんなバカなことが!

(間違いであって欲しい報道)
とうとうバカなことが起こってしまった。私が最も恐れていた事態をひきおこしてしまったのだ。

 なんという選択をしてしまったのであろうか、この国の有権者は…。子や孫を戦争に駆り立てても良いのだとでも言うのだろうか…。脅威の原発を存続させて、子や孫を生涯に渡って危険にさらし続けても良いと言うのだろうか…。私には信じられない。いかに現政権への不満が蓄積されていようとも、今日の事態を招いた最大の責任者たちを、再び政権に帰り咲かせようとは。信じられない。本当に信じられないことが起こってしまった。

 反省もさせず、その責任も問わず、歯の浮くような威勢のいい煽動に踊らされて、圧倒的な議席を与えてしまったとは…。信じたくはない。考えたくもない。このような選択をした有権者が正常な心理のままに行動したのだとは…。

 ショックである。ショックどころではなく、夢を見ている気分である。情けない思いでいっぱいである。空しい思いでいっぱいである。ここが日本であることが疑わしくさえもある。唱えてきた民主主義に自信も持てなくなってしまった。何もかもをが揺らいでいるように思える。子や孫の将来が不安になってきた。その未来が心配にもなってきた。どうしたというのだ。どうしてなんだ、どうして、こんなバカなことを起こしてしまったのだ。どうしよう。どうすればいい?何とかしくちゃ、なんとかしなくちゃ。

 愚痴である。つぶやきでもある。後悔でもある。今の正直な心でもある。
なんとかしなくちゃ。黙っていちゃいけない。なんでも出来ることから始めなくちゃ。何とかしなくちゃである。何とかしなくちゃ…。
 

2012年12月9日日曜日

せっせと歩くぞ!

(嫌々ながら服用している薬)
朝8種類、昼4種類、夜5種類、就寝前1種類と本当に嫌になるぐらい薬を服用している。
血圧の薬、肩の筋肉をほぐす薬、筋肉を保護する薬とビタミン剤、痛み止め、血管の収縮を助ける薬、2種類の胃薬、中性脂肪を抑制する薬等々を半年以上も飲用し続けている。

 その効果がどれほどのものかは自分でも確かめようもないが、手術前後の痛みや辛さを考えると、薬を減らすことが怖くなってしまう。こうした私のような患者が多いのだから、国の医療保険制度が大変なことは、実感としても理解できる。でも、止むを得ないことだと割り切るしかない。あの痛みや辛さは二度と味わいたくないのが本音だからだ。

 そこで、せめてもとリハビリに精を出している。それでも週に2~3回通院しているので、負担もバカにはならず、リハビリだけに頼らずに、自己回復を課題として模索しているところだ。

(妻が買ってくれた図鑑)
その一つとして、ウオーキングを始めた。なるべく手の振りを大きくしながら、小さなリュックを背負って歩き回っている。その動きが肩にも良いようで、気のせいか、はりや凝りが少しは薄れてきたようだ。

 そのウオーキングもただ歩くだけでは味気なかろうと、カメラと花植木の図鑑をリュックに入れ、散策を兼ねたものにした。リハビリと気晴らしを同時にできるのだから、今では結構楽しいスケジュールとなってきてもいる。

 私は、妻と一緒の行動が多く、早歩きの妻に遅れないようにと、せっせと歩いている。万歩計で10,000~12,000歩ぐらいとなると、それなりに運動した実感が湧いてくる。こうすることが、医療制度を支えるささやかな一助になると信じて、せっせと歩き続けようと思っているのだ。

 次の日曜日は、二つの選挙の投票日である。空しさを感じつつも、自分の意思を貫くために投票するつもりだ。結果が予測されても、自分の大切な一票は無駄にはなりはしない、と信じて…。

2012年12月6日木曜日

空しく切ないのだ……。

(秋の名残りの真紅のモミジ)
初冬の佇まいである。写真は団地の防音緑地帯の一角であるが、四季それぞれにそれなりの風景を演出してくれている。私は、この緑地帯を楽しい散歩道として利用している。
 
 師走に入って、街は二つの選挙戦が繰り広げられており、何かと騒がしくなっている。都知事選と衆議院選である。混迷政治の結果としての選挙戦であるが、私には、この選挙が「空しくやるせない思いを募らせる選挙」となっている。

 選挙につきものの中間情勢の発表があって、民主の大敗北と自民・公明・みんなの党等の回復と躍進が見込まれるとの分析が示された。維新の会は予想したほどでなく、新党みらいや、既存政党の共産党や社民党他は軒並み苦戦であるという。

 今回の選挙は、とても大事な選挙だと思う。今後の日本の進路を左右する、本当に大事な選挙であると思っている。であるのに、過去の反省もなく原発を容認し、再軍備を目指そうとする勢力が伸長するなど、とても考えられない状況が生み出されようとしているのだ。どうしたのですか?こんな選択をしようとして皆さんは後悔しないのですか?私には信じられない、こんな選択をしようとしているとは……。

 原発の再開については、経済的な混乱を起こさないための現実的な対応だとかとの理屈を掲げて、国民を逆行への道に誘導しようとしている。あの原発事故はたまたま震災によってもたらされたものであるので、常時危険にさらされているわけではないと。だから、今は、国家の経済復興を優先させるべきであると。原発に代わるエネルギーの確保には、原油や諸外国との関係から困難が伴うとも。だから、少々の危険には目をつぶって我慢しようと。とにかく、根本から離れたところで、論議を重ねているのだ。嘆かわしい限りである。

(秋の去っていく風景)
   仮に自民党の安倍さんが毒虫に刺されて、その命が危険にさらされているとしよう。そして、その毒虫が、まだ数多く彼の周りを飛び回っているとしよう。このような場合、何を優先としなければならないかは自明の理であるはずだ。理屈ではなく、生命を第一に考えた対策を立てるであろう。先ずは、注入された毒の除去から始め、ついで、ぶんぶん飛び回る毒虫の除去に全力を尽くすはずだ。飛び回っているが、近寄らなければ刺されはしないと放っておきはしないはずである。原発対応のように、経済復興が先だから、対策は10年かけてとか30年後だとかなどと、決して言うはずはないのである。原発問題の基本的な考え方は、ここに置かなければならないのだ。理屈ではなく、命にかかわる問題は何にもまして優先されるべきものなのだ。だから、原発即時撤廃こそが正しい選択だと、私は深く確信している。

 情勢分析から予想される政界地図は、あまりにも右がかったものとなりそうだ。ゴマメの歯ぎしりにも似た私のジレンマなど、とるに足らないものかもしれないが、子を思い孫を思う一老人としては、ジッとしてはおられない気分なのである。私には、戦争への足音が聞こえてきそうな、たまらない焦りがある。戦後生まれではあっても、戦争の悲惨さはベトナム戦争や中東戦争・アフガン戦争等世界中の多くの事実から知らされている。だから、体験はなくともあってはならないものと、心から思っているのだ。あろうことか、その戦争への道を切り開く勢力が、この選挙で大きくなろうとしている。

 選択を間違ってはいけない!間違わないで欲しい!もっともっと真剣に考えて欲しい!子供たちや孫たちの将来に影を投げかけないで欲しい!そう願う私であるのに、この空しさをとり除くことはできそうにない。本当に空しい。自分の無力であることを知るだけに、この空しさは例えようもなく切ないものだ…。
 

 

 

 
 

 

 

 
 

2012年11月26日月曜日

危惧が現実に?

(孫たちに作ってあげた紙飛行機)
今年の2月に、このブログで、マスコミが無分別に持ち上げていた「維新の会」の動きと、マスコミの対応についての一文を投稿した。そして、その維新を巡っての動きが、日本の右傾化につながるのではとの危惧を訴えた。

 特に、石原前都知事と橋下大阪市長との野合を懸念し、その流れが日本の右傾化を促進し、かっての戦争への道を歩み始めるのではと、その危惧の本質についてを述べた。

 あにはからんやである。その危惧した通りに事態は進行を始めた。自分を暴走老人と評し、尖閣問題や竹島問題を利用して、自衛の名のもとに再軍備の旗を掲げようと都政を投げ出した石原氏。選挙に勝つためには手段や主張もさえあっさりと変えてしまった橋本氏。日本の逆戻りを目指して歩調を合わせるこの危険極まりないコンビが誕生したことで、日本の民主主義は危険に瀕してしまったと、私は恐れにも似た懸念を感じている。

対抗しようとしてか、また一人、変な政治家が復活してしまった。自民党の安倍総裁である。幕末の吉田松陰に自身を重ねて、憂国の志士気取りで再軍備を主張し始めている。かの松陰もびっくりしているに違いない。まったく次から次と理解しがたい政治家が現れるものだ。私は、さきの一文でも述べたが、自分の任務を全うしないでその責任を投げ出す者は大嫌いである。そのような者を信用できないのは当然のことである。名をあげた3名は、その典型である思う。国難だからと主張しているようであるが、私には、彼らこそがさらなる国難をもたらす人たちであると危険視している。

写真は、孫たちと遊んでいる紙飛行機とゴム鉄砲である。私は今度の選挙が、この日本に 本物の戦闘機と鉄砲をもたらし、戦争への道を 開きかねない危険を孕んだ選挙だと受け止めている。だから、声を大にして訴えたい。ムードに流されるな、マスコミに踊らされるな、自分の1票が進路は決めるのだと。

 
(孫たちと遊んでいる木製のゴム鉄砲)
これまで、何度も味わった来たことだが、マスコミのいい加減さには本当にウンザリさせられている。小沢氏の裁判に関しても、ある面では、マスコミが彼を陥れたといってもいいと思う。彼が2年余も日陰の暮らしを余儀なくさせられなかったら、今日の状況がどうなっていたか分からないと思う。私は、小沢氏の支援者ではない。むしろ、その政治家としての手法には反感をさえ覚えている一人である。でも、政敵を倒すための策謀や、マスコミの格好の餌食としてさらされたことに関しては同情を禁じ得ないのである。こうした誤りが、今度の選挙においても繰り返されようとしているのだ。

 有権者のみなさーん、選択を間違わないようにしてくださーい!



 

2012年11月14日水曜日

同級会に行ってきた。―2

 私の同級生(小・中学時代の2クラス)は、その顔ぶれがほとんど変わっていない。小さな村落だったので、小学校も中学校も同じ顔ぶれで過ごしてきた。その9年間というものは、2名の転校生の入れ替えと、病没した1名があっただけである。だから、私たちの同級会はクラス会ではなく同村同年会と呼ぶべきもので、お互いの子供時代をよく知っており、卒業後の付き合い方も子供時分と変わってはいない。俺お前の付き合いなのだ。

 悲しいことではあるが、中学卒業後から現在までに5名の友が亡くなってしまった。事故や病没によってであるが、その早い別れは惜しむべきものであり、残った私たち五十数名は、彼らの分までこれからの人生を有意義に過ごさなければならないと思う。同級会とは、そうしたことの確認の場でもあるのだ。
(東照宮正面からの紅葉風景)

ホテルでの宴会は楽しいものであった。
年齢(65歳)が年齢であるだけに、話題の大半は健康や孫の話が多かった。特に健康面では、この1~2年の間に、心臓のバイパス手術をしたものや咽頭ガンの手術をしたものなど、人生の岐路に立たされた者もいた。又、大震災で甚大な被害を蒙ったのに、たくましく立ち直ったものもいて、私などは手が上がらないなどとショボクレてはいられないと励まされたものだ。

 子供の話、孫の話、嫁・婿の話と、まるで老人会の集いみたいな愚痴話も多く、気心が知れているだけに遠慮のないアドバイスもでて和やかであった。カラオケを聞くよりは、隣同士で話し合うことの方が楽しく、料理にも手を付けず談じあっていた。余りの楽しさに、次回は5年後ではなく1~2年後に開催しようとの意見が多く、それも修学旅行みたいにはとバスに乗ってみたいなどとの希望もでて、次の幹事への期待も大なるものであった。私も、同室の3人と深夜まで話が尽きず、翌朝は目をこすりながら朝風呂にとびこむほど楽しめたので、次回に大きな期待を寄せる一人である。
 
 バイキング形式の朝食後、一室に一同が会した。そこで別れがたいので、車で参加したものに全員が分乗して、東照宮の紅葉を楽しもうということになった。写真は、その東照宮で撮ったものである。幸いなことにモミジの色付きが特に鮮やかで、全員を楽しませてくれた。丁度見ごろでラッキーであった。混雑が多くなって、全員で昼食をとる場所が確保できず、各車ごとに分かれて食事をとることにしてそのまま散会とすることにした。私は、同方向の4人を乗せて、鹿沼までの杉並木を楽しんで帰路についた。途中、手打ちそばを食したが、まあまあといったところで腹を満たした。

 再会を約して、みんなと別れたのは夕方の5時頃である。友の変わらぬ無事と再会への期待を胸に、帰宅後すぐにデジカメを確かめプリントアウトを始めた。次回も元気な笑顔で会えるようにと祈りながら……。本当に楽しかったよー!
 

同級会に行ってきた。―1

(鬼怒川温泉街の小公園からの遠望)
11月10日(土)、1泊2日の日程で、待ちわびていた同級会に出かけた。鬼怒川温泉のBクラスのホテルだったが、ホテルのランクなどには関係なく、5年ぶりのとても楽しい再会となった。みっちょ(光男君)やせっちゃん(節子さん)ら同級生との懐かしい再会である。

 逸りすぎたのか、車での到着は予定時間よりも2時間半も早かった。そこで、日ごろは帰郷の際の通過点となっていた温泉街を巡り歩くことにした。写真は、散策のために何ケ所か用意されていた公共駐車場(小公園)で、新設間もないようでとても綺麗に管理されていた。

 温泉街を流れる鬼怒川に架けられている橋を渡り歩くのが、散策のポイントであるようだったので、私も公園に車を止めて急坂を上り下りして歩いた。吊り橋もあったりして、そこからの眺めは、峡谷とホテルとの対比が面白く、それなりに楽しめるものであった。特に、モミジの真紅と白い岩石、流れに映える水面の照り返しなどはシャッターを押さずにはいられない組み合わせであった。

 峡谷の趣きに対して、裏通りの温泉街は世相を反映してか、侘びしさだけを感じさせるゴウストタウンの様相を呈していた。せっかくの散策も、その楽しみが半減されてしまった思いである。閉じられたままのホテルや土産物店からは、この温泉街の実情を知らされた思いもした。昨年の大震災・原発事故は、この温泉街にも更に暗い影を投げかけてしまったようだ。

(吊り橋から上流を臨む)
散策を終え、ホテルに入ってから懐かしい顔を見つけた時には、瞬時に小・中学生時代の心に戻っていた。そして、数人に声をかけて近づくと、彼らは65歳の年齢を感じさせない若々しさを発散させていた。その若々しさを感じた時に、私は、「自分だけがジジイになってしまったのではないか」と変な妄想にとらわれてしまった。それだけ、自身の変貌ぶりを気にしていたということであったらしい。歓談の中でその話をすると、「頭はそれなりに薄くなったようだが、まだまだ若々しいものだ」と慰めてくれた。正直、ホッとした思いがしたものである。

 一風呂浴びてからの宴会は、予想通りの楽しいものであった。 ―2に続く……。


2012年11月9日金曜日

盛りは過ぎても…。

(蕾から咲きはじめの姿)

 数年前に息子から妻にプレゼントされたミニバラは、今年も何度目かの開花を迎えた。

 3枚の写真は、特にきれいに咲きそうな部分を摘んで、咲き始めから咲き誇るまでを撮ったものだ。わずか何日間かの移り変わり様であったが、見つめているだけでも心弾むものであった。ベランダの花を、このようにじっくりと観察したことはなかったので、あらためて花の持つ神秘さに触れた思いである。

 妻が突然に具合を悪くした。
めまいと吐き気で、布団から起き出せなくなってしまったのである。歩いてトイレにも行けなくなり、食事もとれず嘔吐を繰り返すばかりであった。 突然のことであっただけに、私はオロオロしてしまい、救急車を呼ぼうとしたが、妻に止められてしまった。少し様子を見て欲しいというのだ。

(咲き始めた姿)
食事もとれず起き上がることもできないままに1日が経過してしまった。喉を通したのは、ヨーグルトと麦茶だけで、食べやすいようにと炊いたお粥と野菜のやわらか煮にも手を付けることができなかった。

 夜、娘から電話があったので状態を話すと、どうして病院に連れて行かなかったのかと叱られてしまった。妻の頑固さを知っているはずの娘なのに、生意気にも親を叱るのだから、それだけ成長し、本当の大人になったと言うことなのであろうか。変なところで、感心してしまったものだ。

 1日おいて、妻の状態も少し良くなったので、
朝一番で病院に行かせた。連れて行くと言っても
(咲き誇っている姿)
歩いて行けるからと、自分一人で出かけて点滴を受けてきた。その効果もあってか、昼時分にはお粥も食べられるようになり、ホッとさせてくれた。更年期障害の典型的な症状であったようである。体が急に熱くなったり、冷えたりと、自分でもコントロールができなかったようであった。

 63歳直前の年齢は、その盛りが完全に過ぎ去ったということでもあるようだ。2歳年上の私などは、特にそのことを切実に実感している。妻の突然の変調は、盛りを過ぎた人生を、二人してどう生きるかを真剣に考えよという、何らかの啓示なのであろうか?
 
 とにかく、私たちは写真のような盛りは過ぎたのである。だから、姿かたちは咲き誇れなくとも、心の充実を目指して、お互いの生きざまを誇れるように努力したいものである。老いてもますます盛んであることを示したいものだ…。
 
 

 
 

 

2012年11月7日水曜日

東京駅は楽しいところとなった!

(丸の内中央口から南口ドームを臨む)
  小雨降る中を、新装なった東京駅に行ってきた。テレビで映し出されていた通りの威容で、どちらかというとロシアあたりの宮殿を感じさせるものであった。私と同じように見学に訪れたのか、カメラを向けている同年輩の人たちが大勢いて、小雨の中、傘をさしながら、思い思いの角度からシャッターを押していた。

 それにしても巨大な建築物である。このような建物が、よくもかの時代に建てられたものと、その時代を思わずにはいられなかった。それこそ国力を挙げての大事業であったに違いない。外形だけでなく、建物内のあれこれにも驚かされた。ショッピング街や飲食街なども、歩くだけでも楽しめるものであった。不景気と騒がれ続けて長いにもかかわらず、大きな流れとなって蠢いている人々の群れは、嬉々として意外にも明るいものであった。私も、妻と妻の姉との3人連れで2時間ほど歩きまわってきたが、それなりに楽しい時間を過ごすことができ、満足して帰宅できた。食事も、他店舗との競い合いのせいか、リーズナブルな価格の魅力的な店が多く、選んだところも満足できるものであった。楽しめる場所を確保した思いで何となく得した気分になれて嬉しくもあった。

(丸の内北口の天井ドーム)
一寸としたハプニングもあった。車で出かけたせいもあって、当初は高速道路からそのまま進入できる八重洲の地下駐車場(東側)を利用する予定であったが、その八重洲線が事故のために通行止めとなって進入できず、いったん高速を降りて丸の内側の地下駐車場を利用することにした。

 ところがその駐車場がステーションホテルの駐車場となっており、高級車がずらりと並んでいるような場違いのもので、地下から1階までの豪華なエントランスの中を歩くのが気恥ずかしいぐらいであった。止めてしまったのだからと、開き直った思いで利用はしたが、出庫の際の料金にはビックリさせられてしまった。通常の5倍ぐらいの料金だったので、3人分の食事代だと苦笑いしてしまったものだ。とんだおのぼりさんぶりであった。

2012年10月28日日曜日

押入れのアルバム

 11月の同級会が近いというせいか、懐かしさを求めたいという回顧願望が強くなってきた。

(ベランダのノースポール)
 そこで、押入れに首を突っ込んでアルバムを探した。アルバムとはいうものの、子供たちが保育園に入るまではそれなりに整理したのでそれらしくはあるが、それ以後はただ写真を撮って保管してあるに過ぎず、雑然としていてアルバムなどと呼べる代物ではない。

 何時・何処で・誰が・誰と・何のために撮ったのかも判然とせず、1枚1枚の写真を見ながら考え込んだり首を傾げたりと苦笑いをしながら数百枚の写真をめくり続けた。

 不思議なもので、そうしているうちに、この写真は娘との初めてのハイキングであったとか、息子の保育園のお迎えの際に、先生にシャッターを押してもらったのだとかが、少しづつ記憶としてよみがえってきて、だんだんと嬉しくなってきた。最近では、昨日の食事がなんであったかさえも忘れる始末なのに、20年も30年も前のことが次々と想い起こされるのだから、自分でも驚く次第である。

 押入れから箱ごと引っ張り出して、部屋中に撒き散らかして、ああだったこうだったとか独り言を言いながら、何とはなしに時空列的に整理を始めると、その時々の瞬間が鮮明に浮かび上がってくるようになってきた。だから、何十年も整理できずにいた難題のはずのその作業がとても楽しくなってきて、雑然としていた写真も、妻関係の思い出、娘関係の思い出、息子関係の思い出、仕事関係の思い出、家族みんなの思い出などとそれなりに整理ができ、アルバムづくりの基礎ができたように思えてきた。とは言え、我が家の写真はこれだけではなく、押入れ以外にも最近の孫たちの写真を含めた相当量があるのだから、基礎ができたなどと喜んではいられない。

 亡くなった両親や長兄・祖父母のあれこれの記憶や、中学高校時代の青臭い自分や青春時代の中での妻との出会いなどが、めくられる1枚1枚の写真から思い起こされて整理する手が止まってしまうのだが、我が家のアルバム作りもようやくその第一歩を踏み始めた言えそうだ。台帳に貼りつけたり、コメントを書き綴ったりといった作業はこれからであるが、焦る必要もないことだ。1枚1枚に込められている懐かしい思い出をたどりながら、じっくりと取り組んでいこうと思う。

 押入れのアルバム(?)にもようやく光が届きそうである…。
 



2012年10月22日月曜日

嬉しい便り

(埼玉県吉見町の道の駅で求めた桔梗)
凛とした姿が何ともすがすがしい風情を醸し出している。孫娘とドライブに出かけた際、道の駅で求めてきた桔梗であるが、しばしの間我が家のベランダに涼風を感じさせてくれた。
歳を重ねたせいか、こうした1輪の花にも愛おしさを感じるようになった。

 その歳を噛みしめ味わえる嬉しい便りが届いた。小・中学校時代の同級会(同年会)の知らせである。還暦時以来5年ぶりに開催するというもので、その幹事の中に彼の名を見つけた時は、心からの喜びを感じたものだ。なぜなら、彼はあの忌まわしい震災で家を失い最愛の娘さえも失っていたからだ。

 彼の惨状を知らせ、少しでも励まそうと、郷里(福島の会津)の同級生から呼びかけがあったのは、震災後の間もない時期であった。その呼びかけが、とても嬉しくて世話役たちには感謝さえしたものである。同級生っていいよね。

 しばらくして、彼からの直筆の礼状が届いた。その文面からは、悲しみを必死に乗り越えようとしている心情が汲み取れて、思わず涙してしまった。その彼がである、幹事に名を連ねて同級会を呼びかけてきているのだ。嬉しいことではないか、とても素晴らしいことではないか…。その力強く歩んできたであろう彼に会いたいという思いで、肩の痛みも忘れ、喜んで出席する旨のはがきを投函した。○○君、よく頑張ったね、とても励まされたよ。腱板断裂ごときはなんのそのの気概を持たなちゃね……。

 老いても凛として生きたいものである。


2012年10月21日日曜日

まだまだハイキング気分!

(埼玉県吉見町の吉見百穴)
孫たちの運動会もようやく終わった。4人の孫たちの内、3人の運動会(2日間)に行った。雨で途中中断となり翌日延期ということもあって三日間費やしてしまった。これから何年間かは、こうしたことの繰り返しとなりそうだ。やれやれというところなのだが、張り切る妻に引っ張り出され、文句も言えないたといったところである。

 一人だけ行けなかった小4の孫娘は、その償いとして一寸した見学ドライブに連れて行った。埼玉県吉見町の古代遺跡・吉見百穴を見学しに行ったのだ。当初は、行田市手前のさきたま古墳公園に行く予定であったが、公園の資料館が休日とのことで、発掘された遺物を孫に見せられないため、急遽の変更となった。

 古代人(弥生時代から古墳時代)の住居とみなされていた横穴は、発掘された資料(遺物)からお墓であったことが証明されたが、硬い岩盤に多くの横穴を穿ったその努力を考えた時、鉄器もままならなかったであろうその時代の困難な作業から、死者を弔う素朴で必死な思いが伝わってきて、思わず手を合わさずにはいられなかった。

 岩盤は、触れてみるととても硬いものであった。先の太平洋戦争ではその硬さを、軍事工場として利用するため、お墓である横穴を穿ち広げ、古代人の聖域を冒瀆した。おそらく軍事優先の名目で、遺跡の価値も古代人への思いも何ら考え及ばなかったに違いない。悲しいことではあるが、戦争とは人間として大切な感情をも失くしてしまうもののようだ。

 小4の孫娘も資料を興味深げに見て回っていた。学校に持っていくのだと写真も撮っていた。でも遺跡の持つ重要さや、古代人の思いは、感じることができていないようであった。まだまだハイキング気分の孫娘である。小4に求めるのは無理とは思うが、願わくは次回訪れるときには、そうしたものを感じられる娘に成長していてほしいと思う…。
 

 
 
 

2012年9月7日金曜日

国際的基準の法整備を!

 竹島問題・尖閣諸島・北方領土等と日本の領土問題を巡っては感情論も交えた盛んな論議がなされている。領土というよりは、領有権や実質的な占有権問題だと言った方が正確であるのかもしれないが、とにかく収拾がつかない状態になっている。

 これらの問題での政府対応に関しては、弱腰外交だとの批判が大半を占め、野田政権の根幹を揺るがす問題となっている。政府見解も「遺憾に思う」の総理談話にとどめている程度だ。領土問題に関して言えば、軍隊を持たない(持てない)国としてはそう言わざるを得ないのだろうが、やはり主権国家としての対応としては情けない限りではある。

 そもそも、領土問題に対する個人観や国家観は、一人一人・一国一国がそれぞれに違っているのだから、国防だとか愛国だとかの民族意識で一本化しようとすることには無理がある。その無理を、当事者国は、互いに国民感情や相手国への敵対意識を煽り立てるパフォーマンスを繰り返えすことで、国民の中に、既成事実として領有権が存在すると認識させ、その意識の統一を図ろうとしているようだ。韓国の大統領やロシアの首相等は、そのことを具体的な行動をもって示している。中国や香港・台湾の活動家と称する輩の、見え見えの敵対的アピール行動もその一環であるのだ。

 飛躍した話になるが、私は、かのアポロ宇宙船が月面に初めて着陸した時、月の領土や領有権ということについて素朴な疑問を持ったことがある。アメリカの主張できる権利は、アームストロング氏が行動した範囲にとどまるのかなどと、他愛もない考えに耽ったことがあるのである。又、アメリカの開拓史時代、先住民族インディアンとの生死をかけた戦いの歴史は、領土問題を考える上で忘れてはならない教訓を私たちに示している。インディアンは、自分達の生活基盤を侵されたからこそ、侵略者との悲惨な戦いを続け敗れ去ってしまったが、彼らは自分達こそがアメリカ大陸の真の領有者であると、今も考えているに違いない。

 明治・大正・昭和(敗戦まで)の時代に、わが日本国も、周辺諸国に対して侵略を続け、台湾・朝鮮半島・満州地域を占領領土として獲得したと喧伝してきた。軍事力によって実効支配してきたのである。朝鮮においては、母国語(朝鮮語)での教育を禁止させ、日本語使用強制によって文化面での侵略さえ行ってきた。近年に至って、そうしたことに目をふさぐ輩が増えて、侵略の事実はなく、虐殺や慰安婦問題なども事実ではないと、声高に喚いている連中が目につくようなった。誇張の問題はともかく、侵略した事実は拭い去ることはできないのである。問題となっているのは、紛れもなく日本国以外の地である限り、侵略した事実は覆い隠せないということだ。過ちは過ちとして、素直に反省できない限り、本当の解決策など見いだせるわけがない。私たちは、ドイツの教訓を大いに学ぶべきであろう。戦争犯罪という意識は、加害者と被害者ではその受け止め方に相違があって当然だと思う。だから、その犯した犯罪には被害者感情を加味して真剣に目を向けるべきなのだ。そして、償うべきは真摯に償わなければならない。私たちは、曖昧にしてきた過去を清算し、未来志向での対話を開始すべきだと思う。今こそ、その時期であることを自覚しようではないか。

 歴史は、その時代時代によって、相手国との関係や立場を変えてきている。その時代時代においては、真逆の関係や立場に立ってきているということである。今、紛争(?)の相手国としている韓国・中国・台湾・ロシア等について考えてみてもそのことは明確である。古くは、邪馬台国の朝貢、白村江の戦い、仏法の招来、遣隋使・遣唐使の派遣、元寇の変、足利幕府の勘合貿易、秀吉の朝鮮出兵、鎖国令による諸外国との目隠し外交、薩摩の琉球支配と日本国への一方的編入等、取り上げればきりのないほど多くの実例があるのだ。

 今騒がれているのは、近年に至っての日清・日露の戦争や、第一次世界大戦後の帝国陸軍暴走による満州侵略とその支配、そしてアジア全域にまで戦火を広げて犠牲を強いた太平洋戦争がもたらした後遺症的問題なのだ。上記したような国際関係や諸問題は、明治維新後の軍事力の増強による帝国主義的な侵略によって、その国際的な立場を逆転させた。アジアの一大強国として、保護や支援を名目に思うがままに領有権や領土支配を宣言してきた。こうした事実の繰り返しの中に、今日の領土問題が起因し、民族の優位性という身勝手なおごりさえ生んでしまったのである。

 そのおごりが、敗戦によって打ち砕かれた。
 ポツダム宣言の受諾、サンフランシスコ条約の締結によって、敗戦後の領土問題は解決したかのように思われたが、そのあいまいさが今日に禍根を残すこととなった。それは、それ以前の領土問題が、国際的にはっきりした根拠に基づくものではなく、相手国との軍事的・経済的強弱によってなし崩しに的に認証(?)されてきたものであったからである。威圧され威嚇されて認証したものを、戦後という解放された感情の中で、取り戻せたと思うのは自然の流れではなかろうか。問題を考える場合には、目線を変えて考えなければならないのである。

 ここまでこうした意見を述べると、私は非国民として罵られるのかもしれない。
 でも、アポロの月面着陸時に抱いた素朴な感慨は、領有権や領土問題の根本問題に関わるものであり、出発点であると思っている。だから、こうした問題は、当事国同士や周辺国だけでは解決できない問題と思っている。その主張をどこまで遡って根拠とするのか、相手国にどうした感情を持ち続けてきたかを考えあわせると、容易に解決できる問題ではないのである。

 現在は、文明の最も花開いた時代であると思う。こうした時代に、旧態依然とした主張の繰り返しで問題の解決を図ろうとしても、不可能に近いことであると思う。だからといって、武力による実効支配などは、その最悪のもので何の解決にもなりはしない。感情的に高ぶって粋がったり、威勢のいい言辞を弄しても、問題を拗れさせるばかりで、最悪に事態を招くばかりである。どこかの知事などは心してほしいところだ。

 私は、今、国際的に、領有権・領土問題についての基準的な法整備を行うべきだと考えている。そして、国際司法判断に従って、その解決を図るべきだとも思っている。このように言うと、現在も国際司法裁判所で裁かれているはずだと反論されあろうが、現在のものは、当事国の一方が出廷しなければ審議もできないという強制力を伴わないものでしかなく、国連の常任理事国の決議と同じで、一部の国のエゴに支配されてしまってているようだ。しかし、国際紛争の多くが領土をめぐる境界の争いである限り、この法的整備は急務の問題であると私は考えている。

 武力以外の道で解決するしかない以上、私たちは、もどかしさを味わいつつも、国際的基準の法整備を願い、その実現に力を注ぐべきであろう。そして、その実現に心する政権の選択・樹立を目指すべきと思う。そして、その政権が一部の軍事同盟に偏ることなく、真の意味での国際司法の確立に努力を重ねることが大切だと思う。

 領土問題は、一長一短では解決できない問題であるのだから、長い目で、確実に歩むしかないのだ。一時の感情や、一部の煽動に踊らされることなく、本質を見抜くしっかりとした目を養い、この国の未来を誤らせないように身を挺して行こう。子や孫のためにも……。

 
 

 
 

 
 

 

 

2012年8月3日金曜日

なかなか回復しない!

写真は、4月17日の腱板断裂手術後に、肩と上腕部を固定させるために使用したギブスの一種である。

脇の下に固定させ上腕部を押さえつけるもので、その不自由極まりないことは言語に絶するものであった。起きているときも寝ているときも、25日間の入院期間中3週間も外すことができなかったのだから、このギブスへの恨みは骨髄にまで達している。外したその日には思わず蹴とばしてやりたいぐらいであった。

このいまいましいギブスを外してから、本格的な週3回のリハビリに入り3ヶ月を経過したが、部分的にはそれなりの回復が見られるものの、肩や腕の周辺部が委縮して固まってしまい、予定通りの回復には至っていない。入院中に発生した原因不明の肩の脱臼による神経の損傷(?)が要因ではないかとのことである。

退院後も痛みが激しく眠れないことが続いたので、病院のベッド生活が恋しいほどであった。妻の負担も多くなってきたので、私の寝室を私の部屋(事務室兼書斎)に移し、自由に寝起きできるようにして、その負担の軽減を図った。薬の種類や量も多くなって、最近では副作用か浮腫みも出るようになった。痛み止めで効き目の強い薬によるものらしく、体重も5%ぐらいは増えてしまった。痩せるならともかく太ってしまうとは……。

今、パソコンが使えるようになったので、次は車の運転ができるようにと努力中である。私の車はハンドルにギアが付いているので、ギアに手が届かなくてはどうしようもない。オートマ車とは言え、片手運転ではハンドルさばきが思うに任せず、危険であるからだ。今のところ、左肩が思うように回復していないので、ギアに左手が届いてはいない状態だ。何とか届くようにと努力している。

車を元のように運転できるようになったら、一寸だけ大きくなった孫たちを連れて釣りに行こうと思っている。肩を痛めて以来、苦労をさせ続けている妻を乗せて、あちこちのフラワーパークを巡って歩こうとも思っている。そして何よりも先に、去年逝った母の墓前に花を供えたいと思っている。