2010年12月10日金曜日

新そばの味

 12月も半ばになろうとしているのに、公園内のバラ園は、咲き誇るバラでかぐわしく匂っていた。種類別の香りを楽しむのか、花びらに顔を押し付けるようにしている人もいた。「同じ色なのに、匂いは違うのね。」…初老の婦人が、試してみたらと言わんばかりに話しかけてきた。私も、それではと鼻を近づけてみたら、甘くくすぐるような匂いがしたので、なんとなく嬉しくなって次の花に顔を向けた。

 東京都調布市の神代植物公園と、地続きの深大寺に行ってきた。妻と妻の義姉との3人で、深大寺の新そばを目的に出かけたのだ。私は、深大寺周辺の茶店を覘き歩いていると、一時代をさかのぼったようなゆったりとした心持になれるので、この散策コースがお気に入りである。饅頭やそば菓子、コマや焼き物等の民芸品を並べた店先には、かっての門前町を偲ばせる風情がある。その通りを着流しでそぞろ歩きでもしたら、自分自身がタイムスリップの世界に入り込めて、大いに満足できるかも知れないな。かって、近藤勇や土方歳三が闊歩したように、胸をそらし刀でも差して歩けたら最高かもしれない。くしくも、近藤の生家は、ここからさほど遠くないところにある。
                     
 武蔵野台地からの豊かな湧水は、畑作の多いこの地域に、うどんや蕎麦をたべる食文化を定着させたようだ。深大寺といえば、なんといっても手打ち蕎麦である。深大寺の代名詞のようなものだ。ということで、ここを訪れるたびに必ず食している。店店によって、その味わいや食感が違うので、その都度入る店を変えている。茶店である場合もあるし、専門店の場合もある。店が違うのだから、当然のように、その美味しさも違ってくる。残念なことに、今回の感想はいまいちであった。妻や義姉はまあまあだったとの感想であったが、私は、次回に期待したいといったところだ。

 植物園の方は、冬ということもあって、バラ以外にはこれといった花は咲いていない。それでも、広い庭園を散策していると、いろいろな発見をするものだ。園内には、その思いがけない発見を求めて、同年輩の人たちが、カメラや三脚をかついで、ポイントを捜し歩いていた。一見、雑草のような小さな花にもおもしろい表情があるようで、真剣な顔で覗き込んでいる。一寸したプロ意識に浸っているようだ。65歳以上の年間入場料は1250円とのこと、四季折々を楽しめるのだから、
近隣の同年配者にはありがたいことだと思う。私も、近くに住んでいたのなら……である。

 園内に、枝振りのよい桜の老木がたくさんあった。春には、その老木の下で、花見をしたいものだ。今度は、花を愛でながらの団子である。そういえば、茶店には美味しそうな草団子も売られていた。今度は、孫たちも連れてこようかな?
……はーるよ来い、はーやく来いである……。
                                           

2010年12月1日水曜日

名刹と十三参り

 写真は、郷里の名刹・円蔵時(虚空蔵様)の境内にある一院である。鮮やかなモミジの色と寺院との取り合わせが、とても素晴らしかったので一枚を。この日は、孫の「花音」と甥の子供たちを連れて何年ぶりかに訪れたのだが、悲しいことに、時代の波はこの古刹にも押し寄せており、観光化が急速に進みかっての厳かさは薄れていた。

 街を歩いていると、町の観光課の職員でもあろうか、キャラクターの赤い牛のぬいぐるみを着て、町の宣伝パンフを配布しているのに出会った。子供たちは、大喜びで一緒の写真に納まった。このひなびた観光地でも、町の振興に必死に取り組んでいるのだ。観光化することは、歓迎すべきことではないのだが、過疎の町の努力には敬意を称したい。

 この地方の子供たちは13歳になると、「十三参り」と称して、親に連れられてこの名刹を訪れる。なぜ13歳なのかは定かではないが、古くからの慣習として、今日に至っているのだ。私は母に連れられて、汽車に揺られて訪れた。私の母は、祖父に連れられて、夜更けの峠道を泣き泣き歩いてのお参りだった、とのことである。甥や甥の子供たちは、マイカーでのお参りだったとのことだ。世代によって、お参りの交通手段に違いはあっても、素朴な信仰心に基づく慣習は脈々と受け継がれ、今日に至っているのだ。

 私にとっての「十三参り」は、厳かな儀式であり、母との初めての楽しい小旅行でもあった。初めて食べた「卵どんぶり」の味や、湯気の出ていた「あわまんじゅう」のおいしさは、50年経った今でも記憶に残っている。裸まつりで知られる虚空蔵様の鰐口銅鑼の綱を、思い切り引いて音高く鳴らしたこと、お守りを買ってもらってポケットに入れたこと、急坂の階段を元気良く上ったこと、名刹縁起の牛の像を撫でまわしたこと等と、今でも懐かしく思い起こせるのだ。しかし、風情のあったつり橋の上・下流に無愛想な鉄橋が覆いかぶさるように架けられたこと、名刹縁起の一つである尺余のウグイの群れや巨鯉の姿が見られなくなったこと等には、一抹の寂しさを感じさせられてしまった。

 帰りに食べた新蕎麦の味は、なかなかのものであった。子供たちが食べたお餅(あんこ、きなこ、なっとう)もなかなかで、おいしいおいしいと一緒になって味わった。味わいながら、私は、50年前の母との想い出に浸り、介護ホームで待つその母に想いを募らせていた。



 

2010年11月12日金曜日

おかしいぞ日本

 マスコミ報道が曖昧になってきた。尖閣諸島をめぐるビデオ流出事件に関して、そのユーチューブ投稿者をどう評価するかの諸説が様々に入り乱れて、本件の本質が曖昧になりかけている。

 今のところ、投稿者と思われる人物は、現職の海上保安官であるという。本人が、上司に話したことによって公となり世間を騒がせているのだが、その目的とするところがハッキリしないために、マスコミは右往左往させられている。ただ、右往左往しながらも、ある一点については、全てのマスコミに共通性がある。その共通性は、最近ではこのビデオ流出問題だけに限らず、ほとんどの時事問題で顕著になってきている。

 ----不甲斐ない総理、出しゃばりすぎの官房長官、その彼に振り回される信頼できない内閣、公約も政策もあいまいで実行力のない与党、思い付きで口先だけの大臣が多い現政府によって、この国はかってないほどの危機的な状況に立たされている。----だから、政府は信用できない。------信用できない政府を批判することはマスコミの責務である。----政府内からの内部告発は、正義の行動であり、国民の期待し要求するところである。-----

 ここにあげた幾つかの論点から検証すると、最近のマスコミが、いかに常軌を外しかけているかを知ることができる。極端な言い方をすれば、政府不信の方向に国民を誘導しているのではと、疑いたくもなるのである。おそらく、マスコミ自身は気づいてはいないと思う。今、自分たちが犯している過ちについて、をである。国を愛し国を思う純真な心が、偏狭な民族主義の台頭に利用され、危険な右翼思想に犯されつつあることを、マスコミは自覚して欲しいところだ。
            
 右派として折り紙つきの、かの石原都知事は、真相究明も待たずに、かの保安官を『愛国者』呼ばわりをして民族主義を煽っている。このことを、マスコミはどう報道しているだろうか。国民を代弁しているかのように繰り返し報道しているのが実態であって、その右翼的言動の検証すらしていない。又、ある高名なキャスターの、「ビデオの機密性がなくなっている以上、国家機密としての扱いは不適当であるから、流失に犯罪性はなく、むしろ国民の知る権利に合致した時宜を得たな行為であるから、起訴すべきではない」…とのまともでない主張を、そのまま当然として報道し続けている。

 事件の本質が理解されていないのである。かの保安官のとった行動は、流失したビデオに機密性があるかないかということとは関係ない。その機密性の問題は、別次元で論じるべきであるまいか。機密?を国家間の駆け引きに用いたとされる政府中枢の、対応の是非をめぐる問題として、政治レベルで論じるべきであるのだ。そのことと、流失させた問題とを混同させてはならないのである。

 投稿問題は、彼が国家公務員であり、その立場で勤務上知りえた情報を、その勤務時間中に、勤務先の機器を私用して、公憤を名目にした私用目的のために取得し、自分のパソコンや報道機関などで堂々と公にもせず、流失元を曖昧にするために漫画喫茶から投稿した…というその事実から判断すべきことで、そこから遊離した議論は、見当違いも甚だしいものである。忘れてならないことは、彼が最前線で活動する保安官であるということである。一個人が、恣意のままに行動したら、どのような組織でも成り立たないことは明白である。まして、準軍人的な海上保安官の立場は、規則遵守が第一であるはずだ。

 私は、これまでの投稿でも述べているように、菅内閣を支持するものでも、民主党を支持するものでもない。むしろ、アンチ民主党的な考えの持ち主である。このような私でも、昨今のマスコミの有り様には、焦げ臭い危険なものを感じてならないので、しつこいくらいに警鐘を鳴らし続けているのだ。

 最近の報道のあり方には、本当にウンザリとさせられている。現政府を批判し、菅総理を無能呼ばわりし、仙石官房長官を影の総理扱いすることが、キャスターやコメンテーター等の常識的対応として定着し、内政・外交・経済・雇用等の失敗も当然のように結び付けられて、失政のためだと結論が出されている。マスコミの影響は本当に恐ろしい。最近では、タレントやお笑い芸人などにも同様な傾向が見られ、したり顔でコメントを発している。やがて、子供たちさえも、あなどりだすに違いない。当然の様にだ……。否定を前提とした報道は、ものごとの全てを歪めてしまうことに気づいて欲しい…。

 報道では、今回のビデオ問題では、国民の大多数が投稿した保安官を支持し、公務員法などで処罰されることを望んでいないという。そして、「国民の知る権利に応えた正義の内部告発」であるから、起訴すべきではないと願っているというのだ。恐ろしいことだ。見事なまでの、コントロールである。私は、コントロールされている多くの人々に警鐘を鳴らしたい。こうした「正義」をふりかざすマスコミのあり方こそが、かっての「大本営発表」の影に重なって来ていることを…。 ご用心ご用心である……。

 

 



 

 

 

 

 



 

2010年11月5日金曜日

早く元気にね

 11月5日、今日は孫の「そうたん」が病院に行く日だ。前から気になっている足を診てもらうためである。もう、出かけた頃であろうか。とても心配でたまらない。

 保育園から、「そうたん」の足について話があったのは、半年ほど前のことらしい。『O脚のようです。一度診てもらったほうがいいのでは。』と、告げられたとのことであった。妻によると、娘も保育園の時に同じことを言われたらしい。身内におられませんかと言われたので、私の足を見たところ、見事なO形だったので納得したそうだ。「そうたん」は、じいちゃんの遺伝なのかな?

 あらためて見てみると、確かにO形になっていた。それも、かなりの湾曲である。娘の話では、大きくなると直る場合が多いとのことであったが、私の見た感じでは、医者の診断が必要だと心配させるほどの曲がり具合であった。「じじバカ」である私は、すぐにでも病院に行くようにと焦っているのだが、娘夫婦はのんびりと1ヵ月半後に保健所検診があるとして、一向に急ぐ様子はなかった。……困ったものだ。………で、今日がその日なのである。

 気になると、「そうたん」と遊んでいても足の方に視線が向いてしまい、その歩き方にさえ神経を使ってしまう。運動会でも、ほかの子と違いはないかと、そればかりを気にしていた。どうも違うような気がする。歩行そのものが不安定に見えて仕方がないのだ。左足の具合が内側に歪んで見えて、少しだけ引き摺っているように感じられる。不遜ではあるが、歌手の某氏の歩行に似ていると思えるのだ。娘には言いにくいが、たまらなく不安である。とにかく、今日の結果を待つしかないのだが…。

 その「そうたんが」が、自宅の階段から転げ落ちて、病院に運ばれたのは10日ほど前である。大きなこぶたんができて大泣きしたとのことだ。こぶたんの方は大したことがなかったようだが、自分から『ポンポンが痛い』とお腹を押さえて訴えるので、病院に行ったとのことだ。まだ口も満足にきけない「そうたん」が、必死にポンポンと言うぐらいなのだから、相当に痛かったのだろうとは、娘の話である。

 病院では、思いがけなくも[そけいヘルニヤ]との診断が下され、その場で腸を押し込んだとのことであった。階段から落ちた拍子に、脱腸したらしい。痛みはすぐに収まったようであるが、今後も同じことが起きやすいので、手術をしたほうがよいとのことだった。ということで、「そうたん」は11月の中旬に、ヘルニヤの手術を受ける。心配するほどの手術ではないとのこと、ホッと一安心というところか…。

 「そうたん」、早く元気になって、じじと紅葉を見に行こうね。

 

 



 

2010年10月30日土曜日

短くなった秋

 記録的な猛暑が漸く終わったと思ったら、山々は急いで紅葉のたたずまいを見せ始めた。ここのところの異常気象は、夏から一気に冬にいたるという、秋外しの様相を強めている。ゆったりとした四季の移ろいが楽しめたのは、過去の話となってしまうのだろうか。日本の気候は、フィリピンに近い亜熱帯に変わろうとしているようだ。やがて、北海道でバナナが収穫できるということになるかも知れない。事実、東京湾の舘山周辺には、沖縄あたりに見られるサンゴやあでやかな熱帯地方の魚が確認されている。まさに温暖化現象が起こっている証拠である。

 ニュースでは、昭和記念公園のコスモスが満開とのこと。早速出かけようとしたら、冷たい雨が降って冬もどきの寒さになってしまい、中止となってしまった。なんせ、出かける予定の3人は、60~70歳の老人だから、無理はしないことにしている。青空の下、可憐なコスモスに囲まれたいと期待していただけに、中止はとても残念であった。…が、諦めたわけではない。コスモスが無理でも、紅葉や銀杏並木がある。埼玉県新座市の平林寺境内のもみじや神宮外苑の銀杏の葉が、風に吹き流される様は絵画的で、里の秋を満喫するのには十分である。楽しめる時期も11~12月にかけてであるので、焦る必要もないが、モミジやケヤキの色づきが悪くくすんでいるとのこと、ちょっと心配ではある。

 今日は10月の30日(土)である。時期はずれの台風14号が、関東地方に接近中とのことで、歓迎されざるその訪れを、私はメールを打ちながら待っているところだ。風も強くなってきた。雨足も強くなっている。最接近が近いようだ。孫たちの学校や保育園はお休みなので、今日は台風の心配はする必要がない。これが平日のことであったら、心配で気もそぞろとなり、車でお迎え?に走り廻っていた事と思う。私はジジ馬鹿なのだから…。

 異常気象で秋季が短くなっている。1日の寒暖の差が極端に大きくなって、スコールのような豪雨や竜巻が頻繁に起こっている。経験したこともないような自然災害が、時期に関係もなく発生している。奄美大島の記録的な豪雨は、今後起こりえる大異変のまがまがしい前兆であるのだろうか。こんな時に……

 ……のんびりと秋を楽しもうだの孫のお迎えを心配するだのは、あまりにも個人的に過ぎることであろうか?これ程地球が壊れかけているというのに、個人的な喜びに終始にしてよいのであろうか?遅いかもしれないが、自分でも出来ることがきっとあるはずだ。小さいことから始めよう。始めることが大切だと気づいたのだから、まずは第一歩を踏み出さなければ……である。

 

2010年10月27日水曜日

いつか来た道へ?

 衆議院議員北海道5区の補欠選挙の結果が出た。おおかたの予想通り、自民党・町田氏の大勝である。典型的なマスコミのお膳立て選挙であった。勝つべくして勝った自民党のコメントや、勝たせたマスコミのコメントは、それこそ、同じ原稿用紙を読んでいるかのような決まり文句が並べられている。

 政権与党の民主党に対する国民の失望感や不満、小沢氏など政治と金に関する問題でのあいまいさ、政権交代後の与党としての実績の少なさ、相変わらずの景気低迷、進展しない雇用問題等々、判を押したように同じ調子で論じている。そしてそれこそが、"国民の声であり国民感情である"という。景気が悪いのも、失業者が多いのも、政治が悪いのも、みんなみんな与党の民主党が悪いからであり、実効力のない菅内閣のせいであるとして、歩調を合わせて攻撃している。

 オイオイ待ってくれよ…である。私は、政党としての民主党や政治家としての小沢氏は好きではないが、今のマスコミや自民党をはじめとする野党の論調には納得できないものがある。むしろ、納得できないを通り越して危険な臭いをさえ感じているのである。このことについて、共産党員であるⅠ氏と話し合ったことがあるが、やはりその論調は自民党などと同じであり、特に小沢問題については、「あなたの考え方は、一部週刊誌の受け売りでしかないし、小沢の擁護論でしかない。」「国民の声や国民感情は無視してはならないし、証人喚問は当然である。」「国会の場でこそ、白黒をハッキリさせるべきだ。」と批判されてしまった。

 さらにI氏は、尖閣諸島の中国漁船問題にも及び、諸問題と関連づけて、与党の民主党がいかにあいまいな政党か、小沢氏の喚問要求がいかに正当な要求であるのかを、彼なりの論法で主張した。しかし私には、その主張にはマスコミや野党の主張との違いを、見つけることはできなかった。言い過ぎであるかも知らないが、付和雷同であるとしか、感じられなかったのである。共産党までもが冷静さを失っている事態は、非常に危険な状況になっていると言わざるを得ない。

 中国では、反日デモが繰り返されている。日本の国旗が焼かれたり、日本製品が壊されたりしている。尖閣諸島問題の抗議活動であるとのことだが、事態はそのような生易しいものではなくなっている。政府間交渉はおろか民間の交流にさえ、深刻な影響を与え始めている。ネットを媒介にして、あっというまに広がったデモは、反日から反政府へとその矛先が変わりつつあり、中国政府も慌て始めたようだ。

 デモの参加者は、大半が学生や若者である。中国政府に煽動された彼らは、真実の何たるかよりも洗脳された日本憎しの感情に踊らされていることに、気づいてはいない。そして、その感情こそが、中国国民の正義であると信じきっている。私は、国家的煽動とマスコミ的煽動の違いはあっても、国民を誘導しているということに関しては、日本も中国も似通ってきていると危惧している。自由な国である日本と、統制されている中国とを同時に論じることは、本質的に違っていると批判されるだろうが、私には、共通した危険性が含まれているとしか見えない。むしろ、日本のほうが、自由主義という美名にカモフラージュされているだけに、騙されやすいのではないかと思っている。

 今の日本は、危機的な状況にある。経済的な面ばかりではなく、国際的にも国内的にも不安定な状況にある。にもかかわらず、与党も野党も政争にあけくれてばかりで、国家の危機を顧みていない。小沢氏の証人喚問が実現しなければ、国会審議にも応じないなどその最たるものである。小沢氏の問題をそれほどまでに重視したいのであれば、中途半端な対応にしないで、刑事事件として司直の手で裁くべきであろう。国会は、裁判所ではないのだ。どうしても裁きたいのであれば、断罪を主張している議員自身が、資料をそろえ証拠を示して、自身で告訴すればよいことである。その理も分からないとは、情けない限りだ。国会を冒涜するのもいい加減にしてほしい。

 今の中国が、国力の増強を裏づけとして大国主義に陥っていることを、私たちは愚かなことと見過ごしてはならない。なぜなら、私たちは、先の大戦で同じ過ちを犯して大きな犠牲を払っているからだ。形は違っても、中国は、同じ過ちを犯そうとしているのである。そして、第二次世界大戦以上の惨禍が、この地球上にもたらされるかも知れないのだ。危機はすぐそこにまで迫っている。

 私たちは、心せねばならない。マスコミがあらぬ方向で歩調を合わせ始めたときには、大きな落とし穴が待っているということをだ。今のこうした状況を打開するためには、マスコミの正常化をこそ求める必要がある。そのためには、私たち一人ひとりが目覚めなければならない。そして、心のそこから、マスコミや政府に大きな声で訴える必要がある。………いつかきた道へ戻ってはならないと。戻りかけているのだと…。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年10月23日土曜日

老いるとは

 この半年ぐらいのタクシー乗務の間に、同じように考えさせられることが3件あった。それは、老いるということであり、その老いがそう遠くない時期に、私にも妻にも確実に訪れるということだった。そしてその体験は、老いが痴呆症をともなうことを見せつけたことで、言いようもないほろ苦さを感じさせるものであった。

 おどおどとして乗り込んできた80歳ぐらいの老人(男)は、いつまでたっても行き先を告げないでいる。私は行き先を確認してから発信させるようにしているので、スタートさせずにこちらからも「どこまでお送りしますか?」とたずねた。「えーと、えーと…。」、老人は考え込んでいるのだが返答が出来ないでいる。 「行き先が分からないと、お送りできませんので、想いだせてから乗られたらいかがですか?」と言って、止むを得ないのでドアを開けてその方を降ろした。そしてしばらく走った後、何となく後ろめたかったので、ユーターンして戻ったが姿はなかった。

 品のよい80過ぎのおばあさんだった。「△△△に行って頂けますか?」「ハイ、かしこまりました△△△でよろしですね。」、行き先が確認できたので、車をスタートさせた。お天気の話などしながら走らせていたら、「あのね、私、タクシーで分からないところに連れて行かれたのよ。」と変な話を始めた。「池袋から乗ったんだけど、あっちこっちまわっても家に着かないから、おかしいわって言ったら、あそこに降ろされちゃったのよ。」「ちゃんと、△△△とおっしゃったのですか?」「△△△じゃなくて、〇〇〇っていったのよ。」「えっ、△△△じゃないんですか?」…。正直、困ったことになったと思った。--どうやら、このお客さんは、自分の行くところが分からないらしい--

 私の不安そうな様子が分かったのか、おばあさんは「私、お金は持ってるから大丈夫よ。」などと見当違いの事を言い出した。どうやら、前のタクシー運転手は、面倒になって降ろしてしまったらしい。私は困ってしまって車を止め、あらためてそのおばあさんの行き先を確認しようとしたが、おばあさんは泣き出しそうな顔になり、「お家に帰りたいの」と訴えるようにしている。何だかんだと話しているうちに、迷子札のことを思い出して、「何か書いたものを持っていませんか?」と言うと、本人も気づいたらしく財布から、メモのようなものを出した。そこには住所と電話番号が書いてあった。早速電話したが、留守なのかだれもでなかった。その住所はそれほど遠いところではなかったので、とにかく送ることにした。

 その住所は、△△△でもなく〇〇〇でもなかった。目的の住所に近づいたのでたずねたら、その周りには見覚えがないと言う。住所の近くに車を止めて、おばあさんには車内で待ってもらって、その家のインターフォンを鳴らしたが誰も応答しなかった。あきらめて、近くの警察に行こうとしたところ、勤め帰りのような男性が、「家に何かごようですか?」と声をかけてきた。その男性に事情を話したら、「うちの母です。うちの母にまちがいありません。」と言って、すぐに車のおばあさんを確認した。息子さんであった。息子さんを見つけたおばあさんの表情が急に明るくなった。料金は息子さんに支払ってもらった。おばあさんは、車を降り、手をひかれてうれしそうに家に入っていった。何度も何度も頭を下げていた息子さんと、あの嬉しそうなおばあさんの顔は、当分の間忘れることはないだろう。

 3件目の体験は、年老いた奥さんが90過ぎの徘徊おじいさんを迎に行くというものであるが、投稿が長文になってしまうので、紹介は次の機会にしたい。

 掲載の写真は、妻が埼玉県の『川越祭り』を撮ってきたものである。こうした伝統行事は、多くの人々の想いと努力が支えとなって、何十年何百年と続けられるものだ。私も妻も、しばらくの間は元気でいられそうなので、何度かは見物に行ける事と思う。祭りには直接関与できなくとも、見学に参加することはできる。参加することが、祭り継続の小さな一助になると信じて…。

 私たちは、喧嘩をしながら、ぼやき合いながら、お互いにボケないことを念じながら生きて行こうと思っている。そして、たとえボケたとしても、社会の一員として、老いた自分たちにもできる小さな役割を、見つけたいと考えている。その役割に、老いてからの生甲斐を感じたいとも思っているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年10月15日金曜日

ヨーイドン!

 雲ひとつないお天気、まさに快晴である。雨天順延が幸いして、りん君の運動会は最高のお天気に恵まれた。10月に入ってから、私にとっては3回目の孫の運動会だ。
 
 小2の花音に始まって、保育園のそうたん(1歳9ヶ月)、幼稚園のりん君(4歳2ヶ月)と続いたのだが、仕事の都合で花音の運動会だけは見に行けなかった。花音には、自分のところだけ来なかったとふくれられたが、『借り暮らしのアリエッテイ』という映画に連れて行って、埋め合わせをした。

 運動会は、お天気しだいで日程が狂うことが多く、共働きの若夫婦にはその調整が大変である。二人以上の子供がいて、小学校・幼稚園・保育園と別々に通っていると、その日程のやりくりは本当に大変である。私の場合には、妻が一人ですべてに参加してきたのだが、今にして思えば、働きながらであっただけに本当に大変なことであったと思う。ただただ感謝感謝である。

 運動会には、パパ・ママだけでなく多ぜいのじいちゃん・ばちゃんが来ている。りん君も母方のじいちゃん・ばあちゃんが顔を見せてくれた。そして、りん君の出番には、身を乗り出して声援を送った。そうした光景があちこちで見られた。もちろん私たちも手を振って応援した。

 そうこうしながら、私は、昭和30年代の郷里の運動会を思い起こしていた。当時、農村という特殊性はあるものの、小学校の運動会は村・地区を挙げての一大イベントであった。そして、その運動会では、親子・兄弟・親戚・級友間のふれあいを深め、親子競争や地区対抗リレーで地域ぐるみの一体感・連帯感を確かめ合ったものだ。

 茣蓙に車座になって食べた昼食は、太目のかんぴょうの海苔巻きにぎっしりと詰まったおいなりさん、甘い鯛でんぶのおぎにりに里芋と油揚げの煮物が定番で、芋あり・栗あり・柿ありと秋の味覚も盛りだくさんで、とても楽しいものであった。隣同士がお互いのものを交換し合って、お互いのものを誉めあっては喜んでいた。保育園も幼稚園も少ない時代であっただけに、運動会は、子供たちのお披露目の場でもあり、大人(地域社会)全体が子供たちを認識できる場でもあった。ああ、あの子は〇〇んちの3番目かという具合に。

 今の時代にかっての運動会を求めても無理なことは承知している。しかし、カメラやビデオの撮影に気をとられて、わが子だけの記録造りにあくせくしているパパママの姿からは、「時代である」と笑ってはすごせないやるせなさを感じさせる。地域ぐるみで共有できた、子供たちを通じての交流や連帯の場・運動会はもはや存在しないのだと…。今では、たんなる発表会の場に過ぎないのだと…。

 澄み切った青空のように、子供たちの心には曇りもかげりもないままでいて欲しい。大人たちの都合や社会の都合で、勝手に染め分けて欲しくはないのだ。生活用品の充実や便利機器の発達が、文化の発展を促したと勘違いしているむきがあるが、心の充実なくしての発展などはあり得ない。小学生の時からケイタイを持たせたり、高価なゲーム機を与えているようではどうしようもない。私たちは、今こそ、子供たちが何を求めているのかを理解すべきである。運動会は、それを理解できるチャンスでもあるのだ。

 パパやママ、じいちゃんばあちゃん、おじちゃんおばちゃんを見つけた時の、子供たちのあの喜びに輝いた目を、私たちは忘れてはならない。あの輝きこそが、真に求めているものを証明しているのだ。子や孫のために、運動会に出かける人が多ぜいいるのだから、私たちは、時代の波に流されず、運動会の持つ本来の目的や役割を考え直してみたいものだ。……ヨーイドンである。


 

 

 

          
 
 

2010年10月8日金曜日

花は咲いたが?

 ベランダのポーチュラカがきれいに咲いています。今年は特に花の数も多く、妻はニコニコして毎日水やりをしています。
 どういうわけか、私の妻は、大輪の花よりも小さめの花が好きなようです。バラや百合・ひまわりといったものよりも、コスモスや芝桜・桜草といった群生する花や松葉ボタンのような大地に密着している花を好んでいます。派手な花よりも地味な花といったところでしょうか、妻の性格をうかがい知ることが出来ます。

 ところで、花は咲いたが…です。先の投稿で妻と一緒にダイエットに挑戦すると宣言したのですが、2ケ月も経っているのに、何の計画もたてられずあいもかわらずにモタモタとしています。妻は水泳教室に通ったりしていますが、食欲はますます旺盛で、その効果は出ていないようです。

 私はというと、経理の仕事が忙しかったことと、体調が思わしくなかったことを理由に、油っぽいものを減らしているぐらいで、取り立てて何の対応もせずに今日に至ってしまい、むしろ体重が増えてしまいました。タバコを止めると、食欲は旺盛になるようで、本当に困ったものです。このままでは、二人して大輪の花ならぬ大デブになりそうです。

 真剣に挑戦しなくちゃね!反省していまーす。

  

2010年10月5日火曜日

ショックです!

 9月下旬の深夜、杉並区の宮前体育館の近くで、タクシー乗務中に、タヌキが車にはねられているのを見つけた。一瞬目を疑ったが、それはまちがいなくタヌキであった。2ヶ月ほど前に、そこから600~700メートルぐらい離れた上荻で、つがいらしい2匹を見つけて喜んで投稿しただけに、本当にショックであった。その後、あのときの片割れでないこと願いながら、悲しい思いで業務を続けた。そして、彼ら?の厳しい現実を知らされて、見つけたと浮かれていた自分が情けなかった。

 ほどなくして、テレビで、都内でタヌキの生息が数多く確認されているとの報道があった。隅田川を越えた地域でも確認され、それまで考えられていた高尾山方面からだけではなく、筑波山方面からの進出もあるのでは、との考えに興味を持たされた。又、彼らの移動が、深夜の線路(山手線他)を使っている可能性もあるとのことで、そのたくましさには感心させられてしまった。

 喜んだり、悲しんだり、感心させられたりするばかりで、何一つ出来ない私ではあるが、彼らにエールを送ることだけは出来る。「杉並だけでなく、東京のタヌキがんばれ!」「ドライバーの皆さん、タヌキが頑張って生きています。注意して運転してください!」……と。

 

 

2010年9月3日金曜日

二人でダイエット?

 今年の元旦から始めた禁煙は、9月に入った今も続いている。この間、くじけそうになったこともあったが、苦しむこともなく何とか我慢できた。どうにか、このまま吸わずにいられそうだ。

 禁煙を始める時に、私は、あることを危惧していた。それは、太るのではないかという心配であった。禁煙によって太るという話は、よく聞かされていた。だから、太らないように気をつけていたが、タバコをやめたことで食欲が増してしまい、危惧した通りになってしまった。

 禁煙前に71㎏であった体重は、今では75kgとなってしまった。2重顎ならぬ3重顎となった顔はふくよか?になり、下腹ではなく上腹がポッコリと突き出たために、見事?なタヌキ腹が完成してしまった。なまじの料理?好きが、災いの原因となったようでもある。当然のごとく妻も巻き添えをくい、一緒に成長?を続けている。横へ横へと限りなく成長している…。

 太りすぎは健康にとっては大敵である。医者の話では、先の腰痛に際しても、この太りすぎが要因となったようだ。体重の増加が、腰への負担をきつくしたようである。又、仕事や一寸した運動で疲れやすくなり、回復も時間がかかるようになった。タクシー乗務のあとには足がパンパンにはって、浮腫みがとれるまで半日はかかるようになった。そこで………

 ……妻と話し合って、二人してダイエットに挑戦することにした。
 私は、事業に失敗する前(20年前)には80kgぐらいまで太ったことがあり、減食によるダイエットを続けた経験がある。同時期に飲みすぎで胃潰瘍も患い、何日間かの絶食をしたこともある。その折には一時的に66kgまで体重が下がり、2~3ヶ月間軽やかな生活を体験したものだ。しかし、すぐに76㎏までリバウンドしてしまい、しばらく、そのままの状態が続いた。その後、プロフィールに記したような経過があって71㎏までダウンし、禁煙にいたるまでその体重を20年近く維持し続けた。

 私の身長(171.5㎝)からして、ベスト体重は66~68㎏のようである。だから、私の減量目標は7~9㎏となり、その数値を目標に計画をたてることにした。ところがである………その計画作成が難しいのだ。私一人ではなく、二人で立てる計画だからである。勝手に献立を考えたり、絶食したりはできないからなのである。別々にすると、煩雑になるし一緒に挑戦する意味合いが薄れる。どうせなら、一緒に達成したい。そのためには、目標の数値からして、中途半端な計画ではできそうもない。しっかりとした計画が必要なのである。

 禁煙は、意思を強固にすれば出来ると思うが、ダイエットは計画を緻密にしないとできそうにない。まして、二人しての挑戦であるからには、中途半端な計画では失敗する。だから、慎重になってしまい、なかなかスタートが出来ずにいるのである。健康面からも、急ぐ必要があるのに、なぜかグズグズしているのだ。やっぱり、二人一緒には無理なのかな? 一人でやるべきなのかな?……

 近日中には、計画と実施状況について報告しまーす!

 

 

2010年8月17日火曜日

パンフに一言

 8/13日~8/16日まで帰省した。
 例年のごとく、渋滞覚悟の帰省であったが、予想外のことにたいした渋滞もなく、ひょうしぬけした感じであった。私の郷里は東北の会津なので、通常であれば、東北道の郡山ジャンクションから磐越道に入り会津若松インターで下りる。その日はあまりに順調だったので、白河で下りて、平成21年に開通したばかりの、甲子温泉(トンネル)経由下郷町ルートを選んだ。

 紅葉の時期には、さぞかし絶景だろうと思われるラインを走行して、途中にあった[道の駅下郷]に立ち寄った。まだできたての道の駅は、とても感じがよく帰りにも立ち寄ろうと思ったほどである。町をあげて取り組んでいる様子が見られ、地方の頑張りが感じられて、なんとなく嬉しかった。

 その道の駅で、観光案内のパンフを配布している人たちがいた。下郷町の人たちではなく、私の郷里の人たちで、宣伝のために道の駅の一角を借りているようであった。手渡されたパンフには、私の知らない名所旧跡や飲食店等が案内図入りで紹介されていたので、郷里の頑張りや懐かしさを感じながら見入ってしまった。写真は、そのパンフで知って訪れた、[左下り観音堂]回廊からの眺望とその3階建ての骨組みである。郷里の知らない部分を知ることは、とても嬉しいことである。こんなところに、こんなすばらしい文化財があったとは……。急坂はきつかったが、喜びはひとしおであった。

 嬉しい反面、眉をひそめたこともあった。私は、食事をとるために妻と一緒に、パンフで紹介されていた飲食店を訪れた。郷里のことであるから、知っているところではなく、わざと知らない店舗を選んだ。1日目は、ラーメンを食べたかったので、ある飲食店に決めて訪れた。ところが、探しても見つからないのである。看板も見当たらなかったので、見当をつけたあたりで聞いて、ようやく見つけた。
ラーメンは、そこそこに美味しかったので、パンフへの不満は半減したが、しっくりはしなかった。
 2日目は、日本そばが食べたかったので、やはりパンフを頼りに探したが、なかなか探し出せなかった。漸く見つけたお店は、お世辞にも食欲を掻き立てるようなお店ではなかった。出前が中心だとかで、食べることを躊躇させる雑然とした店内は、衛生的にもどうかと疑わざるを得なかった。それでも、隠れた名店もあるのではと、覚悟を決めて注文したが、素人料理の範疇でしかなくガッカリしてしまった。

 2日続けての不首尾に、私と妻はパンフへの疑問を持たざるを得なかった。自分の郷里でのことだけに、なにか裏切られたような思いで、嫌な感じであった。地元出身の私でさえこう感じるのだから、パンフを頼りに期待して訪れる人たちは、ガッカリするだけでなく怒りも感じるに違いないと思う。パンフが町に寄与するのではなく、逆効果をもたらすのではと、私は懸念して止まないのである。本来なら、誇らしげに郷里の名前を出したいのだが、とても出せるものではないので残念でたまらない。

 私に、こうした情けない思いをさせたパンフの作成者には、具体例を示して抗議したい。愛する郷里のためにも、必ず抗議する。町は、パンフなどの作成に当たっては、その内容を十分に検討して欲しい。紹介するのであれば、紹介するものされるもの双方に、責任を持って欲しい。パンフは私文書ではなく、公的なものであることを、肝に銘じて欲しいものだ。

 

 
  

2010年8月6日金曜日

杉並のタヌキ

 深夜、中央線西荻駅から、荻窪駅北口近くに進行中のことであった。杉並区上荻1丁目の住宅地を走行していると、垣根から目の前に2匹の動物が飛び出してきた。まるまるとした体型の狸であった。つがいの様子で慌てる風もなく、ヘッドライトの前を少し走ってから、別の垣根に潜り込んでいった。その、なんとも悠然とした姿がおかしくて、「態度のでかいタヌ公ですね、あれは夫婦ですよきっと。」「そうですねえ、誰か餌付けでもしてるんでしょうかねえ。」「善福寺公園から、川の中をあるいてきたんでしょうか。」…タヌ公のおかげで、お客さんとの会話は楽しいものとなった。タヌ公は、ほのぼのとした何かを与えてくれ、嬉しくさせてくれた。

 10日ほど前には、子ダヌキがピョンコピョンコと車を案内するかのように走るので、「こらこら、危ないよ。早くどいて、どいてくれなちゃぶつかっちゃうよ。」と、窓を開けて声をだしながら運転した。善福寺川公園と五日市街道が交差するあたりである。街道から少し入った杉並区成田西の住宅街で、やはり深夜のことであった。子ダヌキが、ふりかえりながら走るさまは、本当に可愛いものである。帰宅してから妻に話すと、「猫か犬を見間違えたんじゃないの?」と素っ気なくあしらわれてしまった。あれは間違いなく子ダヌキなの、絶対にタヌキだったの!……ここまでは7月の話

 8月5日に、小2の孫娘『花音』を連れて、井の頭恩賜公園に行ってきた。阿佐ヶ谷の七夕祭りを見に行ったついでに立ち寄ったのである。ボートに乗りたいというので、安全を考えて、スワン型の足こぎボートにした。池の上は、そよ風が吹いていてとても気持ちがよかった、と言いたいところであるが、何とも言えない独特な臭いには閉口した。池の水が、腐っているのである。釣堀で嗅がされる、練り餌の臭いと水の腐った臭いとが混じりあったような、あの臭いである。恩賜公園というのであれば、もう少し、池の浄化に心して欲しいと思う。せっかくの孫娘とのデートが、台無しになるところであった。それに、臭いに閉口して早めに上がったので、せっかくの水上景観を楽しめなかったのは残念である。

 公園に併設されている、井の頭自然文化園にも行ってきた。小動物園を兼ねた遊園地といったところで、未就学児あたりに向いているようである。孫娘はそれなりに喜んでいたが、私は暑さに辟易して、日陰を探して歩いていた。小動物園の一画に、アライグマやタヌキ、キツネのコーナーがあった。暑さのせいかそれとも夜行性であるためか、いずれの動物も元気がなく片隅に寄り添っていた。本土狸と表示されていたタヌキたちも、やはりひっそりと寄り添っていた。

 私は、タクシー乗務中に出会ったあの『タヌ公夫婦』や『子ダヌキ』を想いだしていた。あの時の姿には、愛嬌や微笑ましさが感じられたのに、ここでは何の感慨も得られなかった。杉並のタヌキたちには生き生きとした躍動感を感じたのに、ここでは虚脱感のような気だるいものしか感じられなかった。単に暑さのせいだけではなかったと思う。この違いは、理屈ではなく生き抜いているものと、生かされているものとの違いを知らされた、と言うことではなかろうか。そして、彼らの生き抜くたくましさや必死さが、私に愛嬌や微笑ましさを感じさせ、その出会いを喜ばしい出来事と感じさせてくれたのだろう。……と思う。

 ……暑さのせいで、考え過ぎかな?……ともかく、「杉並のタヌキがんばれ!」……である。

 

 

 

 

 

2010年7月28日水曜日

ノーシード

 夏の甲子園を目指す都道府県大会も、いよいよ大詰めをむかえている。私は、プロ野球よりも高校野球が好きで、特に代表校が選ばれるまでの地方大会が好きだ。一試合ごとの必死で真剣なプレーぶりには、本当に感動させられている。

 私は、バブルの終わる頃、事業に失敗して家族と離れ、3年余り埼玉県の山に近い地方都市で再起を期していた。上州おろしの吹きすさぶ寒い町だったが、何とかしようと必死にもがいていた。もがきながらも、慣れない一人暮らしを続けるためには、自分なりに生活に充足感を持たせる努力が必要であった。釣りが好きになったのもこの時期である。荒川や利根川でのヤマベと鮒釣り、その支流を遡ってのハヤやヤマメ釣り等は、それなりに心を落ち着かせてくれた。秩父の山奥まで出かけて道に迷ってしまい、熊が出るのではないかなどと、逃げ帰ったこともあった。釣り以外でも、生活に楽しみを与えてくれたものがあった。それが高校野球である。

 私は、仕事の途中で、汗を流しているとある高校の野球部員達をよく見かけた。仕事の順調なときには、自分たちで草野球のチームを作っていた私だけに、それ程上手でもない部員たちの練習ぶりは、微笑ましく懐かしいものであった。「がんばれ、がんばれ、へこたれるなよ。」声には出さなかったが、グランドのフェンス越しにいつも声援を送っていた。もちろん、自分への励ましも兼ねてのことであったが…。その無名で弱小の高校も、甲子園を目指して夏の大会に出ていた。ある日、近くの古びた地方球場で試合をすることになったので、早速、応援に出かけることにした。

 相手チームは、県内では名の売れた高校であった。応援団もブラスバンドもそろったチームで、試合開始前から、呑んでかかっていたようだ。予想どうり、試合は一方的なものとなってしまい、5回コールドという惨憺たるものであった。当然といえば当然と言えた試合であったが、部員たちは最後まで頑張った。それこそ一生懸命にである。試合後、その部員達が、泣きじゃくりながら、まばらな応援席に深々と頭を下げた姿には、思わず感動をさえ覚えたものだ。そこには、地方大会ならばでの清々しさがあった。これぞ高校野球と言える何かを、感じさせてくれたのである。

 この試合をきっかけに、私は高校野球が好きになった。あれ以来、もちろん、あの弱小チームを応援してきている。春の大会、夏の大会、秋の大会と時間の取れたときは、球場にも出かけた。私の居た3年余りの間には、何度かの勝利もあった。抱き合って喜び合う仲間もなかったが、それなりに嬉しくなって、一人で祝杯を挙げたものである。「よかったなぁ、よく頑張った。よしよし」と頷きながら、逆に励まされていると感じてさえいた。このチームは、あれから十数年たった今も、上位進出を果たしたことはないが、そこそこの戦いは続けている。この夏もそうであった。

 かっての相手チームは、県内の強豪校として名をはせ、常にシード校として活躍しているが、この夏は準決勝で敗れてしまった。そのチームを倒して、決勝進出を果たしみごと優勝したのは、本庄第一高校である。ノーシードから、勝ち上がってのすばらしい優勝であった。この本庄第一高校とそれほど離れていないところに、私の応援する高校はある。だからつい………

………「君たちも頑張れば勝ち上がれるよ。ノーシードでも優勝できるんだからね。」と、自分勝手に勝利の美酒に酔いしれたいと、ささやかに願ってしまう私なのである……。

 

 

 

 

 

2010年7月23日金曜日

腰痛(ギックリ腰)孝

 恥ずかしい話であるが、私は、整骨院では注射や薬の処方はしないということを知らずにいた。マッサージ等は、医療行為でなく施術であるから、と言う事らしい。だから、どんなに痛かろうが、痛み止めの注射や薬の処方による治療は出来ないと言う事だ。

 そのせいか、私の場合は、腰にボードをあてがいそれをサラシでぐるぐる巻きにして固定し、全身を揉みほぐすという対応でしかなかった。ギックリ腰?というものに初めてお目にかかり、その痛さや不自由さに閉口した私は、それこそ藁にも縋りたい想いで訪れたのだが、その対応には唖然とさせられた。知らないこととは言え、レントゲンぐらいは当然と考えていたのである。もちろん、注射や薬をもである。

 腰を締め付けたことで、幾分かは痛みが薄らいだ。でも、痛くてどうしようもない状態に変わりはなかった。「注射や痛み止めの薬は?」、私の問いに答えず、「時間がかかりますので、しばらく通ってください。」と告げられた。別に不親切でもなかったので、そんなものかと、次の日も訪れた。トイレに行っても、お尻の始末もままならない状態なのに、同じ処置しかしない対応に私は不満を持ったが、翌日も通おうかと思っていた。

 『昨日も貰えなかったけど、会社に出す都合があるので、領収書を下さい。』と言う私の要望に、『うちは月に一回まとめて出しているので、その都度には出していません。』と返答された時、私の中で何かがはじけた。予期しない返事だったので、疑問が湧いてきて、ここは信用できないのではとの思いに駆られてしまった。薄れかけていた痛みが、激しくぶり返してくるような、そんな想いであった。

 3日めには、通いつけの診療所に行った。レントゲンを撮って説明を受けてから、注射を打ってもらい薬剤投与の処方箋をもらった。いつもは、高血圧の治療ばかりだったので、整形外科があったことを忘れていたのだ。このことで、痛みは驚くほどに薄れたが、日常生活を取り戻すには、まだまだの状態が続いた。再度痛み止めの注射をうってもらい、タクシーの乗務に戻ろうと試みたが、座席に腰が沈むことで痛みが増して、仕事どころではなかった。

 『2~3週間はかかるから、焦っても仕方がないよ。』、顔なじみの担当医が、慰めるかのようにそう言った。と言われても、最悪の売り上げ状況であるタクシー業界だけに焦らずにはおられないのだ。10日ほどして、何とかなると車で出勤したが、会社にたどり着くまでの50分ほどで腰が凝ってしまい、そのまま帰宅という情けない始末になってしまった。

 発症から2週間を経過した今は、痛みもそれ程ではなくなり、日常生活も正常になりつつある。担当医とも話し合って、痛みを庇うことでますます歪んでしまった骨盤や背骨を矯正したり、固まった筋肉を解きほぐすために、マッサージを受けている。別の整骨院で施術を受けているが、効果はあるようで、もう少しの我慢で痛みから解放されそうだ。……焦らず焦らずにである。付け足しのようであるが、この整骨院でも、領収書の発行は月に一度のことだと言う。整骨院とは、そういう業界なのだろうか? だとしたら、私は、前の整骨院に対して、失礼な感情を抱いてしまったのかも知れない……。

 写真は、2月に訪れた[商売繁盛で笹もってこい!]で有名な西宮の神社であるが、お賽銭が足りなかったのか、私の腰までにはごりやくがなかったようだ………。

 

 

 

 



2010年7月19日月曜日

早く抱っこしたい!

 写真は、「そうたん」の1歳誕生日のおりに、本人に背負わせた誕生祝の一升餅である。[力餅]?とも呼ばれている、一区切りの祝い餅でもある。かっての暮らし向きでは、乳児の無事な成長は困難なことであった。それだけに、乳離れができて、歩き始めることのできる時期を迎えられたことは、嬉しく喜ばしいことであったに違いない。だからこそ、その無事を祝い、重さに耐えてしっかり歩けと、励ましたのだと思う。一升という単位は、益々(五合二枡)とかけて繁盛(健康)を願ってのことでもあろうか。あるいは,一生(一升)の無事を願って、縁起をかついだのかも知れない。残念なことに、最近のこうした慣習は、他の慣習と同様に単なる行事と化してしまい、私のような年代のものも、それの持ついわれや意味合いを忘れ去ろうとしている。お恥ずかしい限りである。
 
 私の娘は、こうしたことの一つ一つを、大事に祝ってきている。私なんかの目で見れば、そこまで仰々しくしないでもいいのにと思うのだが、妻はそうではないと言う。そして、してやりたくとも出来なかったことへの反省もあってか、娘の呼びかけには、嬉しそうにして応じている。孫がなついたと言って喜んでいる私とは、違ったところにその喜びがあるようだ。

 [力餅]を背負わされ、押しつぶされて泣いていた「そうたん」も、あれから半年になろうとしている今は、足どりもしっかりとして、あれこれとイタズラを繰り返している。娘に教え込まれた「ジー、ジー」を時折口にして、私を嬉しがらせながら、もろ手を挙げて抱っこをせがんでくるのだ。本当に可愛いー孫である。

 しかし、でも、それなのにである。
今の私は、この可愛い「そうたん」を抱っこできないのだ。恨めしい[ギックリ腰]のやつめが、しぶとく私にしがみついて離れないのだ。注射までして追い払おうとしているのに、疫病神めはとりついて離れようとはしない。「痛いの痛いのどっかに飛んでけぇー」…である。

 

 

2010年7月13日火曜日

真剣に危惧している



 この4~5日、ギックリ腰らしきものでのた打ち回り、痛み止めの注射やらマッサージやらと病院通いを続けている。情けないことに、トイレの始末もままならず、仕事はおろか日常生活にも支障をきたしている。立つことも座ることも歩くこともままならず、部屋の中をゴロゴロ移動しながら、ついついテレビで気分を紛らせてしまう。

 レントゲン写真を前に、何故痛むのかを教えられる。脊椎を支える軟骨がいくつも磨り減っているのを見せられて、痛むのが当然で、それが年をとったと証拠と言われると、どうしても侘しさを感じてしまう。ベットにうつ伏せになり、お尻に何十年ぶりかの注射を打たれた時は、そのズンとした痛みで、子供のときのペニシリン注射を想いだしてしまった。………こんな調子では、孫の抱っこもできそうにない………いやだいやだ………。

 痛む腰を庇いながら投票した選挙結果は、マスコミの思惑通りになってしまったようだ。その言いようのない憤りは、腰の痛みもあってか大きなしこりを胸に残した。選挙結果は、マスコミの言うように、本当に「国民の声」を反映したものなのだろうか?私には、どうしてもそうとは思えない。やすきに走らされている、いや、流されているとしか思えないのである。

 私には、私なりの政治信条がある。支持する政党も、支援した候補者もいる。残念ながら、今度の参議院議員選挙は、私の希望とは相容れない結果となってしまった。でも、このことは予想できたことだったので、それほどの衝撃はない。残念でも、次に頑張ればよいのだから…。 胸のしこりとして私に残されたものは、こうした敗北感ではない。大げさかもしれないが、この国のあり方や孫たちの将来に、疑念や不安を抱かせたと言う事なのだ。それも深刻なものとしてである。

 この国は、不十分ながらも、民主主義国家を標榜してから、60数年の歴史を作ってきた。その歴史は、国際的には経済大国としての地位を築きながらも、対米基調が災いしてか、外交に於いては対米従属を強いられるという、不可思議なものとなってしまった。独立国家の首都やその周辺に、他国の軍事基地が存在するなどあり得ない話なのに、この国の政権は、屈辱的な事実を、国の安全保障の名目で正当化してきた。愚かしいことに、商業主義に陥っているこの国のマスコミも、真実を報道する本来の役割を忘れて、国民の目をオブラートで包み込むという、恥ずべき行為を繰り返してきた。
共犯者としてのマスコミは、バブルを煽りたてたり、小泉劇場などという馬鹿げた騒ぎを演出したり、その息子を追い回すことで旧勢力の浮揚に貢献したりと、国民の目を眩ます役割を反省もなく果たしている。 時の政権が不安定になると、かっての新自由クラブ、さきがけ、自由党、新進党などの立ち上げがそうであったように、新党が乱立する。よく考えれば、改革を標榜しての不満分子が集散離合したにすぎないことなのに、マスコミは新勢力が出現したと騒ぎたて、本質から目をそらさせてしまう。そして、騒ぎ立てることで、一時的にせよ、その勢力の伸張を助けてきた。

 今回議席を増やした新党の代表は、行政改革や天下り撲滅を掲げているが、その本人は、囀りまくっただけで何の実績も上げられず、壁が厚かったからと同士の獲得もならずに逃げ出した一人である。ただ、その逃げ出しが他に先んじていたことで、マスコミに長時間注目されたことが、彼や彼らに幸いした。マスコミは、ここでも過ちを犯した。国民に考えさせるのでなく、恣意はともかく国民を誘導してしまったのだ。彼を、いや彼らの勢力を、改革の先覚者と錯覚させ、そのイメージを国民に植えつけてしまった、という過ちをである。

 800数十兆円もの負債について、国家予算がどのようにして使われ、その結果誰がどのようにして膨らませたのか、そしてその責任は誰がとるべきなのかの、徹底した原因の追求もない。普天間の現状を誰が作り出し、何故長い間沖縄県民を苦しませてきたのかの、本質的な追求もない。この二つの事柄は、今の日本を語る上で、国のあり方を問う本質的な問題だと、私は考えているのだが…。

 選挙におけるマスコミの果たすべき役割は、こうした国の根幹に関わる問題を、徹底した真実の報道と正確な資料の提供を行うことにある、と私は思っている。その報道のあり方や資料の提供の仕方に、それぞれの違いがあったとしても、これをもとに国民は公平な選択をすることができると思う。マスコミは、時の政権におもねったり、話題性や興味本位のニュースに国民を誘導してはならないのだ。特に、選挙に際しては、マスコミ本来の役割を思い起こし、責任を果たすべきである。

 長文の投稿となってしまったが、孫たちの将来や国のあり方を考えれば、まだまだ足りないぐらいなので、もう少しだけ主張させて欲しい。それだけ、不安を覚え、危惧を募らせているということだ。
 戦後から現在までを、一つのスパンとして考えた場合、この国は間違いなく、右方向に傾いてきている。正しいかどうかは別にして、保革の均衡という一面から考えても、そのことは事実である。かって革新と呼ばれた勢力の退潮は甚だしく、バランスを崩した大きな要因となっている。保守本流の自民党が伸張したわけでもないが、替わりとして中間的な存在としての民主党やみんなの党が勢力を伸ばしてきた。公明党がかろうじて勢力を保っていることは、宗教団体に支えられた宗教政党である限り当然なことであって論じるまでもない。問題は、勢力を伸ばしてきた民主党やみんなの党をどう見るかということだ。そして、大切なことは、その勢力伸張に、マスコミが補完的な役割を果たしてきたということでもある。

 民主党やみんなの党は、集散離合を繰り返してきた党であり、している党でもある。元をただせば、自民党の分派的勢力が主体であり、保守の亜流といっても言い過ぎではない。こう考えると、かっての保革のバランスが大きく変わってしまったことに気づく。六分四分であったものが、九分一分以上にも隔たってしまったのだ。このことは、長期間に渡ってマスコミの果たした役割を考えたとき、簡単に「民意の反映」であった、と納得は出来ないのである。商業主義に陥った結果として、民意を、悪しき方向に誘導してきたとしか思えないのである。

 教科書の沖縄問題や南京事件の取り扱い方、国歌斉唱や国旗掲揚の強制、憲法9条改悪問題、安保条約の拡大解釈による自衛隊の海外派遣等々、危険な方向への歩みは速まっている。こうした急速な右傾化への歩みについて、亡くなられた[井上ひさしさん]をはじめ多くの方々は、九条の会http://www.9-jo.jp/等を作って国民に警鐘を鳴らし続けてきた。このことは、とても大切なことであるのに、マスコミの対応は警鐘に応えるものとはなっていない。気づいていないはずはないのだ。気づいていても、気づかぬふりをすることが、今のマスコミには必要なのか、と疑わざるを得ない。不審でたまらない。

 私は、こうした危険な流れに、不安を感じ、じっとしていられないほどの危惧を抱いている。孫や国の将来のために、身体をなげだすことがあるのでは、との予感めいたものも感じている。添付した写真の靴は、孫の[りん君]へのささやかな誕生祝いである。この可愛い[りん君]や[ゆうじろう][そうたん]を、戦争になどかり出されたくはない。そんなことは絶対に許されないことだ。そのためにも………
 ……マスコミは、本来の役割を忘れるな! 真実をオブラートで包み込むな! ……である。
 
ギックリ腰の痛みをこらえて、二日がかりの投稿となってしまった。……痛い、ああ痛いのに……。




 


 


 


 


 


 


 


 
 


 


 


 


 


 






 

2010年7月5日月曜日

孫には負けました

 奥入瀬の清流は、何人の心をも清々しくさせる。私が奥入瀬を散策したのは、20年以上も前のことである。初秋の頃で、渓流沿いにはまだ紅葉は見られなかった。

 あの頃の私は、ヘビースモーカーで、美しい渓流の散策にも関わらず、途中で何度も喫煙をした。吸殻は持参した空き缶に入れ、臭いを撒き散らしながら、散策を楽しんでいた。その頃は、今日のように、禁煙についてはさほどはうるさくなかったので、タバコの臭いを撒き散らしながら歩いても、罪悪感を感じるようなことはなかった。喫煙は、個人の嗜好の問題であって、周囲にとやかく言われる必要がない、とさえ考えていた。だから、奥入瀬のようなところで喫煙しても、当然の行為であるとしか思えなかったのだ。


 そのような私も、12年前に週2回のタクシー乗務につくようになると、車内のタバコ臭が気になりだし、喫煙本数を減らすようになった。そして、乗客の臭いよりも自身の臭いに、神経が向けられる様になった。当然のように、車内での喫煙は自粛し、車外での喫煙後もウガイをするようになった。それでも、禁煙しようなどとは、露ほども考えなかった。 30数年の習慣は、しっかりと身について、理屈や圧力でおいそれと変えられるものではないのだ。

 初孫が誕生したとたん、妻や娘の圧力は厳しいものとなった。孫に影響するからやめてほしいと、くどいぐらいの圧力となった。禁煙グッズを用意してまで迫られると、持ち前のガンコ癖が頭をもたげ、「楽しみを、奪われてたまるか」と、頑強に抵抗した。喫煙場所がベランダのみとなっても私の抵抗はやまず、寒さをこらえての喫煙も、乙なものとなった。私の抵抗は、4人目の孫が誕生しても、ガンコに続けられた。それでも、孫たちやよその子供たちの前では、絶対に喫煙はしないようになった。

 その私が、突然に禁煙を宣言し、今日まで半年以上も禁煙を続けている。薬もグッズも何ものにも頼らずにである。「来年の正月元旦から、禁煙するよ。」…私の禁煙宣言は、去年11月の家族旅行の時であった。半信半疑の家族の前で、私は、キッパリと宣言したのだ。

 元旦になって宣言どうりに禁煙したので、家族の面々は驚いている。その禁煙理由を教えていないので、その実行性には疑問を持っていたようだ。「孫に負けました。」とは言いづらいので理由は言わずにいたが、「おじいちゃんタバコ臭い。」と上の孫に顔をしかめられたこと、旅行で4人の可愛い孫たちと楽しく遊びながら、「もっともっと長くこうして遊びたい。」と思い至ったことが、決意したきっかけだった。

 ガンコ者も、孫には勝てないもののようだ。「孫には負けました。」…である。
 


2010年7月2日金曜日

出番だね!

 午前6時30分、慌しく呼び出し音がなっている。
受話器をとるまでもなく、相手も用件も分かってしまう。「そうたん、お熱かな?」と言いながら、妻と顔を見合わせる。

 娘の2人目の子供は、この4月から区立の保育園に通っている。1年あまりの産休後に、運よく入所できたのだ。孫は、1歳5ヶ月の元気な男の子で、よく食べ・よく遊んでいる。チョコマカと休みなく動き回るので、上の女の子と違って、相手をしていると結構疲れてしまう。疲れるのが分かっているのだから、ほどほどに相手をすればよいのに本気で相手をするから、「そうたん」と遊んだ後はクタクタになってしまう。

 娘によると、保育園に早めのお迎へをして欲しいとのことである。熱は下がっているとのことだが、心配なので娘が帰宅するまで遊んでいて欲しいとのことだ。幸いにして、今日の予定は特にないので、二つ返事で承諾をした。妻が横で笑っている。疲れる疲れると言いながら、喜んで返事している私に、半分あきれ返っているようだ。

 「じいちゃん、出番だね!」と笑う妻に背を向け、湿布薬を貼ってもらいながらニヤニヤしてしまう私は、相当な[じじ馬鹿]のようだ。  <写真は、息子の上の子(男)に、妻がプレゼントした傘と長靴>

2010年6月28日月曜日

素直に喜べない

 埼玉県高坂にある子供自然動物公園に、孫と出かけたおりの1枚である。日本カモシカが、場違いのように、公園の片隅で寂しそうにしていた。私のイメージするカモシカは、急峻な崖の上の威厳のある立ち姿であって、ショボクレたような風情は何となく可哀そうであった。3歳9ヶ月の孫は素直に喜んでいたのだが…。

 街は早朝から沸き立っている。号外も出て、日本チームの快勝を伝えている。課題のデンマーク戦に勝利し、ワールドカップの予選リーグを突破して、決勝トーナメント進出を果たしたのだ。快挙である。サッカー通でもない私も、寝もやらずテレビ観戦して声援をおくった。パッとスッキリしない昨今にあっては、まさに快挙そのもである。「よくやった、おめでとう。ありがとう。」と、大声で祝福したい。

 テレビは、快挙に酔う各地の様子を、繰り返し映し出している。各地のサッカースタジアム・スポーツバー・選手の家族や母校の喜び・渋谷や六本木・大阪や名古屋の繁華街の様子・現地の表情など、すべて祝勝ムード一色である。男も女も、老いも若きも、誰もが思いがけな勝利を素直に喜んでいる。韓国のあの熱狂振りには及ばないまでも、その活躍ぶりに興奮していることは事実である。このことは、今の日本にも、こうしたことで皆が喜び合えるのだ、と何となく嬉しさを感じさせる。

 同じテレビで、前日公示された、参議院議員選挙のことが報じられていた。争点は消費税だというが、民主・自民ともにその主張の根拠があいまいである。あまつさえ、増税を恥じることもなく、値上げ主張の本家争いを演じている。口では、無駄の洗い出し・天下りの撤廃・予算の根本的見直し・公務員法の見直し等を主張しながら、それでも足りないから・足りないこと気づいたからと世論を誘導して、増税を当然として論じている。

 気の早いことに、マスコミは選挙の情勢とやらを論評し、民主・自民の停滞とみんなの党の躍進を予想している。何をか言わんやである。今、マスコミに求められていることは、そのようなことではない筈だ。悲しいことに、今の日本には、政権や政党の支持率云々を論じて、浮かれているほどの余裕はない。900兆円からの借金を抱え、倒壊しかかった不安定な国家であるという現実を、国民にしっかり考えさせて欲しいのだ。その上にたって、今度の選挙の持つ大事な意義と役割を、徹底した論陣を張って国民に訴え、政治への関心を高めさせるべきなのである。

 私には、マスコミの大半が、マスコミの持つ本来の役割や 責任から、だんだん遠のいてしまっていると感じられてならないのである。過当競争の中で、読者・視聴者の顔色を窺わなければならないことも承知はしている。そのためには、最も関心がありひきつける魅力を持つニュース、例えばワールドカップでの快挙-の様な出来事は 、恰好なニュースソースであることは理解できる。でも・しかしなのである。その快勝に埋没してはならないのである。国民を、そのようなことに埋没させてはならないのだ。

 私は今、私の孫が、カモシカを見つけて素直に喜んだように、日本チームの快挙を、マスコミの在り方に関連付けて素直に喜びきれない自分が、好きになれず疎ましくてならない。 困ったものだ…。 
 -26日以来のもやもや-












 





 


2010年6月18日金曜日

誕生日に思うこと

長男の家で63回目の誕生を祝ってもらった。
嫁の手造りのケーキにローソクを点灯させ、二人の孫たちと顔を寄せ合って吹き消した。リハーサルなしなので、小さいほうの孫があわてて消そうとして、タイミングが合わずなんどかやりなおし、皆で大笑いをした。
我が家では、何だかんだと言いながらも、何らかの形で全員の誕生を祝っている。私たち夫婦・娘夫婦・息子夫婦・それに4人の孫たちを加えると、1年に最低でも10回は祝い事をしていることになる。父の日や母の日もそのおりおりに集まっているし、正月の2日も全員我が家に顔を見せるので、年中お祝いごとをしている感じである。

幸いなことに、私たちは車で20~25分の範囲に住んでいるので、それほど無理をしないでも会うことができる。よく、外孫がどうの内孫がどうのと話題になるようだが、我が家ではそうした感情の違いはない。適度の距離と少し多いぐらいの顔合わせが、丁度よい関係をつくっているようだ。
もちろん、そう思っているのは私だけかも知れないのだが----。

一番上の孫娘も小学2年生となった。2年生ともなると、それなりの交際範囲も広いようで、今までのように爺ちゃんべったりと言う訳にはいかず、私としてもいささか寂しい限りである。ヨチヨチ歩きで,ニコニコ笑顔で手を差しのべてくれた日が、とてもとても懐かしい。こうした感慨は、歳を重ねた証なのだろうか。

かっての家族風景は、祖父母と孫が手をつないで夕焼け空を眺めていると言う様な、ほのぼのとしたものであった。裕福ではないにしても、3世代同居が当たり前であった。そうした家族の中で、理屈ではない人情味のある絆が育まれていったものだ。私の妻は、私の事業の失敗以来、成長期の子供を抱えながら、家族バラバラとならないようにと、本能的にこうした絆を大切にしてきた。本人が気付いているかどうかは分からないが、私にはそう思えてならない。そうした妻の思いが、全員の誕生祝いという今の形を大切にすることで、同居はしていなくとも家族の絆を深く結びつけているのだと、私はそう理解し感謝している。




2010年6月10日木曜日

" 奇兵隊内閣 " ?

 会津出身の私だからと言って,長州出身の新総理に特別の感情移入はないが、それにしても「奇兵隊内閣」とは驚きである。高杉晋作の奇兵隊は、藩内閣に対してのクーデター部隊であって、日本における革命部隊ではなかった筈…。とは言え、結果としてその後の経過の中で、明治維新の大きな原動力となったことも事実だが…。

 高杉の奇兵隊は、その構成メンバーが従来の武士階級中心から、農民・町人・職人・浪人・神主・相撲取り等々を加えた常識はずれの部隊であり、当時の正義(尊皇攘夷)思想で組織された特異で奇妙な部隊であった。隊は、そのためもあってか「奇兵隊」と名乗って藩の保守(左幕)勢力と戦い、勝利してその勢力を一掃し藩の中心部隊に成り上がる。その後、第二次長州征伐で幕府に勝利し、鳥羽伏見の戦いを経て、戊辰戦争の中心的存在となった。

 慌しく成り上がった隊の急造幹部は、官軍(?)の幹部としても各地に派遣され、その無能ぶりのために多くの無益な戦いを仕掛けて人民を苦しめた。特に、わが会津も含めた奥羽越地方の被害は甚だしいもので、その差別的政策によって長期間苦しめられ、100年にも及ぶ怨念を残すこととなった。

 すでに死語となっていたはずの「薩摩と和すとも長州とは和さず」との会津の怨恨は、取りざたされる「奇兵隊内閣」のざわめきによって再び甦ることもあるまいが、明治維新におけるその隊の功罪の大きさについては、権力を手中にした新総理としても充分に考慮して欲しいところである。その隊の幹部たちが、維新政府の中で、いかに汚濁に塗れていったのかを、教訓として思い起こして欲しいものだ。今、その清潔さ透明さを疑問視されている与党は、幕末ブームにあやかろうなどとのケチな了見はではなく、この国をどう導いて行くのかの確固とした方向性を国民に示すべきである。夢想的なものではなく、具体性を持った方向性を---。

 新総理の「最小不幸社会を目指す」の言や善し、「奇兵隊内閣」がそのためのものであることを期待する。

2010年6月6日日曜日

どうなってるの?

 政治家の神経ってどうなっているのかねえ。
 失敗して、みんなに叩かれて、都合が悪くなったら辞任ですか。私なんか、何とかしなくちゃともがいてもがいて何年も苦しみ抜いたのにねえ。もっと、責任の重さを考えて欲しいよ。もっと苦労しなくちゃ、本当の大人じゃないよ。
 その辞任劇を、何だかんだと攻撃している元の与党の面々は恥ずかしくないのかねえ。それと新党を作って、我々は関係ありませんなんて顔してるのもいるけど、本当はあんたがたに根本的な責任があるんじゃないの?
 今
、この国の運営を担うことの出来る人って、本当にいるんだろうかねえ。我々国民もしっかりしなくちゃね。そういう人を、我々が育てるようにしたいものだね。



2010年6月3日木曜日

たそがれを楽しもう!


ブログを始めました。
人生のたそがれ時を迎えているとはいえ、生き方までたそがれたくはないですよね。4人の孫たちのためにも頑張らなくちゃ。孫だけでなく妻のため・自分のためにも頑張らなくっちゃね。
よろしく お願いしまーす!