2016年12月27日火曜日

戦争などまっぴらだ!


(私の長年の愛読書)
今年もあと数日で終わる。

平成28年は、激動の年であったと言ってもいい。後年には、安倍の独裁体制が、ほぼ出来上がった年だと評されるものと思う。それぐらいに安倍の独裁政治が際立った年でもある。

掲載したものは、漫画「元気くん」の表紙をスキャンしたものだ。この漫画は、作者の北見けんいち氏が、昭和28~30年代の庶民生活を、元気くんというワンパク少年を通して優しく描き出してくれている。

漫画は、戦後の貧しさの中で、明るくたくましく生活する少年たちやその周囲の人たちを通じて、平和の大切さを私たちに教えてくれている。そして、その平和は、戦後の民主主義によって育まれてきたことだと、優しく教えてくれてもいる。

私達は、戦後の70年余りを、この国を平和国家日本として誇ってきた。しかし、その大切な平和国家が、今、安倍政権のために大きく脅かされようとしている。中国や北朝鮮を理由とした周辺脅威論が、国民の恐怖心を掻き立てたからだ。そしてその脅威論の浸透が、安倍政権の支持をも高めてしまった。

軍国主義復活で、明治の世を再現したい安倍政権は、この強い支持を背景に、70年かかって築き上げた民主主義を次々と破壊し始めている。本当に嘆かわしい事態となってしまった。

旧民主党政権の反動も一因ではあるが、この国の民が、政治に関して余りにも無関心すぎたからだ、と言っても言い過ぎではない。長く続いた平和に慣れ過ぎてしまったと言うことだ。平和は勝ち取るものではなく、与えられるものだと錯覚してしまったからだ。民主主義は、戦後に築き上げてきた大切なもの、との感覚も薄れてしまったと言うことでもある。

平成29年は、この国の民主主義にとっての正念場となるはずだ。戦争か平和かの岐路を巡って、壮絶な戦いが展開されるはずだ。その正念場の年に、古希に入る自分に何がなせるのか、何をなさねばならないのかを、よくよく考えねばと思う。

戦争などはまっぴらだ。闘うほかはない!

2016年10月16日日曜日

驕る安倍らは久しからずや。

(豊臣五奉行の一人増田長盛の墓)
豊臣政権を支えた五奉行の一人、増田長盛の墓を、武蔵野の一角で見つけた。
説明書きには、徳川幕府によって岩槻に配流され、高野山で愛息が没したことを知って、自刃したと記してあった。その墓を、松平家の手によってこの地に移したとのことだ。

この墓を守っているのは、武蔵野の古刹、平林寺だ。平林寺は、知恵伊豆として名高い松平伊豆守信綱の菩提寺でもある。時の権力者の力量を知るには、その松平一族の墓群を見れば納得できる。圧倒される、墓域である。その墓の豪壮さにも驚かされる。

栄枯盛衰は世の常とはいえ、その隔たりの大きさを知らされた思いである。

(増田長盛の事績の説明板)
今日の日本で、栄華(?)を誇っているのは、この国を思い通りに動かしている安倍政権(安倍とお友達)だと言っても良い。
国会での絶対多数は、驕りさえ生んでおり、法律さえもかって解釈で捻じ曲げてしまう。
あたるところ敵なしといったところだ。

その安倍政権でも、大きな弱点はある。どんなに虚飾を誇ろうが、正論(雑誌名ではない)には勝てはしないということだ。つまりは、国民の目を怖がっているということ。

先の参議院選挙で、念願の2/3勢力を確保したのに、国会論戦では、信念としている憲法改正問題に直接触れることを、忌避している。突っ込まれるのが怖いからだ。自民党草案などという、ばかげた土台では闘えないことを承知しているからだ。ふざけた話である。
(歴史を見つめる樹齢数百年の槙)

驕りが嵩じると、人命をも軽んじるらしい。南スーダンでの駆けつけ警護任務付与問題で、現地視察に行った稲田防衛大臣の報告には嘘がある。嘘をついてまで、自衛隊員を危険に晒そうとしているのだから、その罪は重い。

10/15のTBS報道特集で、その報告の嘘を暴いてくれた。画面では、現地の状況を説明する自衛隊の指揮官が、ハッキリと7月の軍事衝突をさして「戦闘」があったと、稲田大臣に説明していた。その様子も声もしっかりと確認することができる。

白紙領収書問題では、非常識ぶりを発揮したどころか、法律の解釈さえ替えようと開き直った三閣僚。それを公然と肯定した総理大臣。この国の指導者?は、驕るだけでなく、腐敗していると言ってもいい。

―驕る平家は久しからずや―ではないが、「驕る安倍らは、久しからずや」となるであろう。天罰は必ず下る。
平林寺の老いた槙は、その盛衰の歴史をその年輪に刻み込むことであろう。間違いはない。

2016年9月14日水曜日

病を考える。

(北海道美瑛で見つけたシャレたペンション?)
写真ようなシャレたペンション?に住んでみたいなんてのは、誰もが持つ夢だと思う。北海道の美瑛は、丘陵の美しい町だ。その美映が台風の被害で、惨憺たる有様になっていると言う。写真の建物も無事であったかどうかと、心配している。

美しい景色に囲まれて、のんびりと暮らせたら、人間は健康でいられると思うが、なかなかそうはいかないのが現実だ。のんびりどころかあくせくと追われる毎日に、腰をさすり、膝を労わるのが普通となっている。

そんな普通の生活で、大過なく過ごしてきたはずなのに、ここにきて、思考力と集中力が極端に衰えてきているのを、自覚するようになった。いや劣化して来ていると言ったほうが正しい。認めたくはないが事実のようだ。

(初夏の大雪山系を臨む)

ニワトリは三歩の歩みでその前のことを忘れるとよく言われるが、今の私は正にその状態に近い。最近では、その状態の多さに自分でも驚くようになった。妻にも、首を傾げられることも多い。

認知症を自覚するということはないのだろうが、私は、自分が自分でなくなるという恐れに近いものを感じ始めている。それは、時に一瞬のことであったり、数分のことであったり、数時間のことであったりと、その都度ごとに違っているが、確実に自分が自分から遊離していることを感じてしまうのだ。

具体的表現は難しいが、今何かをしている自分が、一瞬前に、数分前に、数時間前に何かをしていた自分を忘れ去ってしまっているという恐怖だ。トイレに入って、トイレに入りたいとしていた自分を忘れたり、忘れないためにとメモ書きした自分を、メモ書きそのものと一緒に忘れ去ったり、買い物に出かけて財布を忘れるどころか、買い物をしようとした自分すら忘れる、といった具合だ。

こういうことが続くと、自分がどうなってしまうのかという恐怖にも襲われる。時折、妻に笑われたりすると、今の自分が自分なのだと開き直ったりもしてしまう。言い訳することすらが、疎ましく恐ろしくさえ思えるのだ。もはや、認知症に踏み込んだということだろうか。考えたくはないが---。

2016年8月31日水曜日

ツイッターに慣れ始めた

(7月初旬に訪れた北海道美瑛の丘陵)
8月に入ってから3本の台風に襲われ、あげくは月末に東北を襲った台風の余波で大雨に見舞われた。おそらく、北海道観測史上類例のない大惨事だったはずだ、
写真の美瑛の丘陵は、樹木とてない広々としたお花畑だ。この丘陵に、記録的な大雨が降り注いだのであれば、畑の土はひとたまりもなくえぐられたのではなかろうか。遠い空からではあるが心を痛めている。

本「たそがれ備忘録」は一月半の休みを取った。余りにも、考えることが多すぎて、どう手を付けようかと迷ってしまったからだ。
その代わりに、短文で済むツイッターに集中し、この間に300本以上も呟いた。
呟きは、主に政治上のものが多く、舛添問題・甘利問題・都知事選問題・選挙活動などが多く、我ながらよく呟いたものだと呆れかえっている。が、その結果は、決して喜べるものとはならなかった。選挙戦は惨敗に終わり、反省多き闘いとなったのだ。

ツイッターは、自分の意見を発信するばかりではない。あれこれと取捨選択して愛読ブログを見つけるのも結構楽しい。私の「リメイク布袋」などは駆け出しにすぎず、歯牙にもかけてもらえないが、それでも思いのままを呟くのはそれなりに楽しい。自分の呟きに少しでも反応があればなお楽しい。いつの日か、多くの人の目に触れられるような、内容の充実したブログとなれるように心がけたいと思っている。



2016年7月16日土曜日

参院選を終えて思うこと。

(参院選の結果を伝える東京新聞―7/11)
私にとってはおぞましい限りの結果であった。

投票した国民を呪っても仕方のないことだが、恨みたくなってはしまう。この国の民は、結果的には戦争への道を選択し、戦争への加担を決めたということになる。だが、そう選択した人のほとんどが、そのことに気づいていないから泣きたくなってしまう。EU離脱を巡っての英国民のように、投票後に後悔などはして欲しくはないのだが、我が国の民は後悔する理由さえ分かっていない。

ある調査によると、今度の選挙のキーワードになっていた3分の2の意味するところを、80%近い有権者が理解できていなかったというのだから驚きだ。それだけではなく、自民党の改憲草案に目を通した人が20%にも満たないというのだから、何を基準に自公政権に投票したのかと、文句を言いたい気分だ。それでいて、現憲法を安倍政権の下で変えるのは嫌だという有権者が50%もいるのだから、二重に驚いてしまう。何を考えているんだと言いたい。

と、有権者を責めるよりは、自公政権の争点ぼかし、いや争点隠しを打ち破れなかった、我々憲法擁護勢力の非力さを反省すべきなのだろう。とにかく選挙戦は結果としては負けた。

 こうした敗戦の中でも、次の闘いに希望を持たせる特徴ある結果も生まれた。それは野党共闘が一定の役割を果たし、その戦い方によっては自公政権と互角以上に闘えることを立証できたということだ。

野党統一候補が勝利した沖縄や福島は、基地問題や原発問題を明確に争点として闘って勝利した。又、青森・岩手・宮城3県は震災復興とTPP問題を争点として闘い勝利した。更には山形においては、TPP問題を前面に据え、農協改革まで踏み込んで争点とし勝利した。

新潟では、原発問題とTPP問題を中心に据えて闘い競り勝ったし、隣の長野県や山梨県では教育問題や表現の自由問題を争点として勝利した。争点が有権者の要求にマッチしたところの闘いは、統一候補が勝利しているのだ。この事実はものすごく意義のあることだ。1強と言われる自民党を、自公連合の形のまま破ったのだから、その威力はとても大きなものだと大いに評価できる。



北海道から三重までの戦いぶりは、互角以上の闘いだったと言っても良い。決して、自公の独占など許してはいないのだ。

しかし、岐阜以西となると、近畿・北陸・中国・四国・九州と沖縄を除いては、大分でかろうじて勝利したのみという全くの惨敗に終わってしまった。この惨敗が、改憲勢力の3分の2議席獲得を許すこととなった。

何故西日本では惨敗したのか、今後の課題として真剣に検討しなければならないと思う。特に近畿圏でのおおさか維新の暗躍を止めない限り、同地域での勝利など覚束ない。おおさか維新は、間違いなく国民に害をなす勢力なのだから、その対策は真剣に考えなければならないと思う。

選挙後、安倍はその本性を現して、日本会議の後ろ盾を得ながら、改憲に突き進むことは間違いがない。いくら公明党が騒ごうが、大阪維新や民進党右派を取り込むつもりなのだから、何の足しにもならないとして切り捨てられるばかりだ。むしろ政教一致を理由に、学会潰しに走ることは間違いのないところだ。山口や北側が慌てても遅い。その責任の重さにうちしがれる日も遠いことではない。今から覚悟しておくことだ。

改憲勢力との戦いは、市民と力を合わせての野党共闘以外にはない。民進党は、内部の膿を出し切る必要があるが、そのことがプラス作用することに自信を持つべきだと思う。自浄成った民進党と共産党とが中心となって統一行動を行えば、改憲勢力との戦いに勝利することは決して夢ではない。沖縄・福島の教訓を大いに生かそうではないか。

次の衆議院選挙には、野党共闘で必ず勝利する。




北海道は広く疲れるところ。

(層雲峡の豪快な大滝―7/5)
北海道の大自然は雄大であった、と書けばいかにも北海道旅行の旅日記と言ったところであろうが、今回の3泊4日の旅行では、写真の大滝が一番印象に残った。

大雪山の雪解け水を集めて、流れ落ちるその威容さには感動をさえ覚える。真下まで行きたいところだが、老人3人組の旅行では、それもままならない。滝好きの私にはたまらない景色であり、震える思いも味わえて嬉しい限り。

参院選最中と言うこともあって、ツイッターでは所用で出かけているなどと気取っていたが、何のことはない、老人3人組の運転手兼旅コーディネーターと言ったところである。それも格安旅行と言うこともあって、日程の詳細を直前まで知らされないだけに、計画の慌ただしさは中途半端ではなかった。

計画する際に一番悩まされたのは、宿泊地(ホテル)が、いずれも目的から遠いと言うことであった。その遠いホテルを起点に考えるのだから、レンタカーのコース選びもななかなか骨の折れるところだ。幸いにして、シーズン初めなので混雑もなく、快適にドライブができた。道路も整備されていて広く長い道路を進んでいると、流石に北海道だなーと感嘆もした。車好きなら嬉しい旅である。

(大雪の森から大雪山を遠望する―7/5)
旅の目的が風景を楽しむところにあったので、高台からの雄大な景色を求め、あちこちと巡り歩いた。4日間のうち天候に恵まれたのは2日だけであったが、先の2日も小雨程度で運転にも支障がなく、目的地のほとんどを回ることができた。

花の季節には、少し早かったのか、写真で見るようなラベンダー風景には程遠かったが、自然を生かした散策コースは満足できるものであった。帯広・十勝周辺や富良野・美瑛周辺にはその趣の違いもあって、それぞれに楽しめて嬉しいものであった。

ただ、私の健康面に若干の支障が出て、喉風邪や旅行前手術の傷跡回復が遅れ、楽しみの露天ぶろや大浴場に入れなかったのは残念であった。無念だ―。
(少し早かった花畑―7/4)


皆が、参院選を戦っているのにと言う後ろめたさを抱えながらでも、やはり旅は楽しいものだ。今回はグルメ旅ではなく、景色を愛でる旅であったが、ホテルのバイキング料理はそれなりのもので、質量ともに満足できた。

ホテルも初日は首を傾げるものであったが、2・3泊目は満足できるもので上々であった。今までの旅行で最高であったと思う。特に、層雲峡観光ホテルは、料金が違うのではないかと疑うほどの充実ぶりで、応対も含めて大満足であった。3老人とも大喜びである。

(小樽運河はこんなもの―7/5)
格安旅行の不便さは、宿泊地と空港との距離にも関係してくる。3泊目の層雲峡から新千歳空港までは250K以上もあり、計画を立てるには距離がありすぎる。でも、少し強行ではあったが、道央道を使って小樽経由を選択した。ところが、この高速道路が単調なだけに眠気を催して閉口した。だから、小樽では観光どころではなくあくびばかりしていた。

それにしても小樽の観光客の多さにはびっくりする。どこに行っても中国人だらけであった。一寸違和感を覚えるほどだ。国民性の違いだろうが、食べ歩きの多さには閉口する。落ち着いての観光には、小樽は禁物かなんて思ったりもする。

羽田→帯広・十勝(泊)→十勝→新得→富良野→白金温泉(泊)→美瑛→旭川→層雲峡ロープウィ→層雲峡温泉(泊)→層雲峡(大滝)→大雪の森→道央道→小樽→新千歳→羽田
こうして、3泊4日の旅行は無事に終了。

帰宅後、2日間は、疲れで眠りっぱなし。トシを考えて計画しなくちゃ。

2016年6月21日火曜日

親の心を子は知っている。

親の心をよく知っている、と誉めるべきか。息子家族からの「父の日プレゼント」は、卓上の天体望遠鏡であった。どうやら、孫の天体望遠鏡を羨ましがっていた私の心を察しってのことらしい。69歳にもなって、玩具みたいな天体望遠鏡もないであろう、と思われるであろうが、正直私にはとても嬉しいプレゼントだ。

どんなものでもいいから、天体望遠鏡が欲しいとは、子供時代からの夢だった。その夢が、なかなか実現しなかったのだ。ある時からは、子供みたいだと言って、プレゼントのリストからは外されてしまった。それではと、自作の天体望遠鏡をと考えないでもなかったが、生来の不器用者ゆえ、着手すらできなかった。大げさに言えば、喉から手が出るくらいに欲しかったのだ。

(プレゼントされた卓上天体望遠鏡)
近々、孫たちを連れて、孫の望遠鏡と一緒に秩父の山に星空観測とシャレてみたい。もちろん、オモチャみたいな天体望遠鏡なのだから、どんな星を観測できるかはわからない。でも、澄み切った夜空を眺めながら、あれこれと星空談議を交わすのは楽しいはずだ。できれば、ホタル狩りも併せてと行きたいところだが、そう都合のよいところがあるとは思えない。秩父はどうであろうか。

こんな子供じみた夢を語っている間にも、世相はどんどんと悪化の一途をたどっている。本来なら、ホタルやら星空などと、のんびりしたことなどを言ってはいられない事態なのだ。

舛添都知事の問題は、自公の策略に嵌ってしまい、疑惑解明のないままに幕引きとなってしまいそうだ。本当にふざけた話である。
辞任と引き換えに、全ての疑惑に蓋をかぶせてしまったのだから、自公のやり方はあくどいものである。自公だけなら、さもありなんと理解もできるが、民進党までもがその策略に加担したのだから、何と言ってよいのか分からず、アングリ状態と言ったところだ。参議院選挙で苦戦を噂されてる民進党のとるべき態度だとは到底思えない。何を考えているのかと言ってやりたい。

(我が家の会津土産の定番)
その参議院選挙。あれほど憲法改正をと騒いでいた安倍総理が、選挙まぢかとなった途端に口を噤んで知らぬ顔を決めている。憲法改正が国民に支持されていないことを察知してのことだ。公明党の山口委員長に至っては、憲法問題は争点にさえなっていないと逃げの一手と決め込んでいる。

両党が嘘つき政党であることは、承知済みであるが、少なくとも公党であるのだから、争点隠しをせずに、国民の前で論争すべきが筋であろう。政策論もへちまもなく、あの狂奔じみた「野党共闘は野合」一本やりの攻撃は、国民を愚弄するものでしかないし、破たんしたアベノミクス云々などは子供騙しでしかないことを、いい加減に分かって欲しいものだ。

ネットTVの党首討論では、安倍が「秋の国会から憲法改正を論議したい」と本音を漏らし、選挙戦での争点隠しを自ら暴露してしまった。慌てたのは山口委員長。「国民の間で争点にもなっていないし、政府が発議云々するのはいかがか」と否定のポーズづくりに躍起だが、国民世論が憲法改正問題に大きな関心を示し、改正に否定的なことは承知のはずだ。すべての世論調査がその事実を示しているのだから、世論に敏く変わり身の早い同党が、知らぬはずはないのである。おとぼけもいい加減にしてほしい。

その論より証拠が、都民批判の多さにびっくりして、後出しじゃんけんで舛添辞任を迫り、自らへの延焼を恐れての隠ぺい工作。あの白々しい公明女性都議の「辞任が成ったので、疑惑追及の質疑は取り下げた。あとは舛添氏の問題」との言い訳が、都民の目にどう映ったのか、知らぬわけでもあるまい。これが同党の体質だと言ってもいい。都政も国政も自民追随に徹し「自民党公明部」、あるいは「自民党学会対策部」と化していることを恥じるがよい。学会信者をいつまでもなめ切っていると、必ずや「仏罰」が下されるであろう。よも忘れるではない。





2016年6月18日土曜日

69歳+2日、頑張らねば。

(郷里のあやめ祭り前々日―6/13)
私には72歳までは絶対に生きるという変な拘りがある。親父の逝った歳を超えたいからだ。若い時には、42歳までは絶対に死ねないと言う信念みたいなものも持っていた。その42歳が心筋梗塞で急逝した長兄の逝った歳だからだ。

別に親父や長兄に後を託されたわけではないが、何がなんでも二人の歳は超えたいという拘りは持ち続けてきた。その72歳まで、あと3年弱となった。体調を考えると、まだ十分に余裕はあると思っているが、今の世の中では何があっても可笑しくはないので、大切に生きていこうと思っている。

でも余裕があったとしても、長寿を全うしたオフクロの97歳を再度の目標とはできそうにもない。男は女よりも弱いと言った言いわけではなく、自信が持てないというのが正直なところだ。考えると、オフクロは見た目以上に逞しかったと思う。いつも心臓がどうの神経痛がどうのと騒いでいたが、看護婦出身であるだけに、自己管理をしっかりとしていたようだ。ボケないようにと、折り紙や刺しゅうなどで絶えず指先を動かし続けていた。努力していたのだと思う。

手の震えは感じられても、その文章はしっかりとしたものだった。何かあるたびに、オフクロは手紙に認めて知らせてきた。転んで歩けなくなるまでは、なんだかんだと手紙で知らせてきた。ぼやいたり泣き言を言ったり文句を言ったりといろいろだったが、いつも会いたいとの本音は伝えてきた。会津のオフクロにとって、大阪や東京の子供たちはついそこの距離にいないだけに、本当に心細かったのだろう。もう少し会いに行っておればと反省もしきりである。

(甥の末子―生後6カ月)
そのオフクロは震災の年に、その4年後に義姉が他界した。実家もすっかりとそのメンバーが変わった。写真の赤ん坊は、甥の末子で生後6カ月である。義姉が他界して半年後に生まれた。まるで生まれ替わりだという者もあるが、私はそうは思わない。正に天使の降臨であるかのよう思えてならないのだ。

とにかく可愛い。法事で帰省中の3日間というもの、手放すことなく抱き続けていた。よくミルクを飲み、よく寝て,健康そのものの本当にかわいい女の子である。連れ帰って自宅に置いておきたいぐらいに可愛い。

69才+2日。祖父母を失っているこの子のためにも、私はもう少し頑張らねばと思えるようになった。もちろん、自分の4人の孫たちのためにでもある。頑張って生きねば!

2016年6月16日木曜日

自然から学んでほしい。

 とにかく圧巻であった。自然の織り成す不思議には言葉も出ないと言ったところだ。福島県阿武隈山中の「あぶくま洞」は、国内鍾乳洞の中では最大級の規模を誇っている。未公開や未発見分も含めると、どこまで繋がっているのか分からないそうだ。

あの東日本大震災のおりにも、崩れることなくその自然美を保持していたというのだから、8000万年にも及ぶ自然の力強さには、ただただ頭を垂れるほかはない。

石灰岩から滴り落ちる一滴一滴がこの造形美を完成させているのだから、あくせくとした人間の営みなどは、瞬きにも例えられない。悠久の流れの中では、ちり芥にも過ぎないということなのだが、そのちり芥が見苦しく騒ぎ立てているのが人間界である。

 今日は私の69回目の誕生日である。いよいよ古希の世界に突入したと言ったところだ。だが、この記念(?)すべき朝の報道は、舛添辞任劇で一色に塗りつぶされている。ようやく決着がついたかのような論調が目立ち、そのいいかげんさに、せっかくの誕生日も白けたものとなってしまった。真相究明はどうしたんだ、と言いたい。

辞めさせりゃいいってもんじゃない。なんでも、安倍自らが舛添に直接引導を渡したとか。それも声高に、今やめれば次もあるかのような説得をもって。あたかも安倍の功績でもあるかのような報道には、開いた口も塞がらない。いいかげんに提灯持ちはやめて欲しい。安倍の果たさなくてはならないことは、まず国民に謝罪し、舛添問題の本質を自らに語らせ、その上での辞任であったはず。その上で、政治資金規正法の欠陥を認め、その是正に言及すべきであったはずだ。

それにしても、流石はマスコミと言って笑えばよいのか、早速の後がま候補騒ぎには、呆れてしまう。マスコミの存在価値が問われても止むを得ないところだ。真相究明が先だろうが、誤魔化しの片棒を担ぐではない。

(あぶくま洞―6/13)
朝一番での電話はそれなりに嬉しいものだ。娘親子が、「誕生日おめでとう」の挨拶をしてくれた。孫に至っては、眠そうな声での「おめでとう」であったが、それでも嬉しいものである。2年前には、誕生日を忘れられたと怒っていた私であるが、今朝は、この件に関してはご機嫌だ。息子からは、親子で土曜日に来るとの連絡があって、何やらかプレゼントもあるらしい。歳はとっても嬉しいことは嬉しいものだ。現金すぎる自分に呆れ返りつつも、楽しみにしているのだから、個人的には幸せなのだと思う。

あぶくま洞には、法事で帰郷した帰路に立ち寄った。この自然遺産を、孫たちにも見せてやりたいと思う。風評被害で悩む福島の現実を見せながら、自然との共存についてを学んでもらいたい。福島原発のもたらした罪深さを、浜通りの惨状をつぶさに見せて、肝に銘じさせてやりたい。もの言わぬ孫であって欲しくはないという、じじいの願いを込めて---。

2016年6月7日火曜日

手長エビ釣ったド―!

(釣り上げた手長エビ―6/6)
体長5~6センチの手長エビだ。まあまあの大きさで、手ごたえもエビ独特のものがあり、大いに楽しめた。一緒に行きたいと妻が言い出したので、これ幸いと早速出かけた次第。弁当(私製)持参で自転車をこぎ、小一時間も要する岩淵水門行きも、好きな釣行なので、このときばかりは愚痴なし、の私である。

2時間ほどの釣りであったが、25匹の釣果を得て大満足であった。妻も、10匹ぐらい上げたので大喜びである。何事も妻の喜びを第一とすべしが肝要。

釣ったエビは、かき揚げとして夕膳にのった。桜色のその姿は、いかにも「エビ、海老」としたもので、美味であり目も楽しませてくれた。釣られて食べられたエビにしてみれば、ふざけるじゃないと言ったところであろうが、遊びで釣ったわけではないので、お許し願うのみ。エサはまだまだたくさん残っているので、つぎの釣行も近い。エビ君、待っててね。

(あでやかなユリの花-住民の手による団地花壇―6/6)
自分で手をつくさずに、きれいに咲いたところをついパチリとは、一種の花盗人とでも言えるのだろうか。でも、きれいなものへの感謝を込めてのパチリであるから、多分お許し頂けるものと思う。

それにしても厚顔無恥とはよく言ったものだ。安倍に甘利に舛添と、そろいもそろって面の皮が厚すぎる。反省はおろか謝罪もない。こんな連中がこの国のトップであり、中堅なのだから、と呆れ返るほかはない。

少しは、私を見習え! 写真を撮っても、花盗人ではないかと、心配するこの小心さを見習え!政治の要諦は、庶民感覚を大切にする細心さだ。人の痛みの分かる小心さだ。嘘をつくこと、ほらを吹くこと、人を脅しつけることなどは、政治家の恥でしかない。
安倍も、甘利も、舛添も私(庶民)の細心さ、小心さを大いに見習うがよい。見習え!見習わないなら即退陣せよ。

2016年6月5日日曜日

「だんだん自分が遠くなる。」

(住民が手入れしている団地内の花壇―6/2)
「だんだんお家が遠くなる」とは、童謡の一節であったか。最近、物忘れが激しいので、照れ隠しに「だんだん自分が遠くなる」などと口ずさんでいる。とにかく、その物忘れの頻度が激しく、妻からは「晩御飯に何食べた?」などとからかわれたり、「食べたことさえ忘れてなければ、まだ平気よ」と慰められたりもしている。TVではないが、「どうしたもんじゃろのう]の心境だ。

5/23に、「7秒の記憶」と言う投稿をして、まだまだ頑張らねばと自分を励ましたばかりなのだが、直近の記憶力の悪さには、驚きもし呆れ返ってもいる。正に「だんだん自分が遠くなる」状態なのだ。ちょっと怖いが、一度病院に行って診察を受けてこようかと考えている。

実は、5/23からこの投稿日までの間に、2度投稿 (5/31、6/2) したのだが、下書きに戻してしまった。幸いにして閲覧者がなかったから良いようなものの、大恥をかくところであった。

5/17から、ツイッター を再開しているので、最近の政情などについて呟くことが多くなっている。年甲斐もなく、結構きつい呟きを発することも多く、反応のあるなしにかかわらず、自己満足的に言いたいことを呟いている。もちろん、いい加減なことや誹謗中傷めいたことは呟かない。自分はネトウヨ等とは違うとの矜持を持っているからだ。でも、どうなのだろうか。気短から、カッカとして参戦しているのが本当かも。

(花の種類も多くきれいな花壇だ―6/2)
5/23~6/4までの間には、いろいろな出来事が多くあって頭の整理も大変であった。だんだん遠くなる自分を戻しながらのツイッターなのだから、判断力の鈍ることもしばしばであった。歳のせいとは言いたくないが、もどかしいこと限りなしである。

沖縄での悲劇、伊勢志摩サミット、オバマ氏の広島訪問、マスコミの舛添叩き、国会閉会、甘利の不起訴、定例都議会の開始、参議院選への突入と、心波立たせられる事案が多く、安倍への怒りや憤懣は頂点に達していたと言ってもいい。こうしたおりの呟きや投稿がどんなものか、ご想像頂けると思う。まして、安倍内閣の支持率が上昇したなどと報道されては、じっとしてなどはいられなかった。

下書きに戻した投稿は、2回にわたるもので、原稿用紙に直せば数十枚分と長かったが、一気に書き上げた。安倍内閣の支持率が高いことの理由についてを、「日本会議」との関係から、激情のままに書き綴ったものだ。が、冷静になって読み直してみると、いくつかあいまいで不正解な記述が見られた。で、あわてて下書きに戻してしまった。いつかは、不正解な部分を書き改めて、再投稿したいと考えている。

「だんだん自分が遠くなる」を実感しつつ、いつまで投稿を続けられるだろうか、いつまで冷静に自分の思いを呟き続けられるだろうか、と、しみじみ考えている夜明け前なのだ。

(* 下書きに戻した2件の投稿は、6/9に再投稿した。)



2016年6月2日木曜日

国民はなぜ安倍内閣を支持するのか―2

(再掲示/トイレットペーパーの芯で作った飛行機)
5/31付投稿で示したように、ヘイト攻撃等に見られる民族主義の台頭が顕著となってきた。特に第一次安倍内閣時にその兆しが表面化して以来、くすぶり続けながらも浸透し、第二次安倍内閣に至って、急速にその実態を露わにするようになった。第三次安倍内閣からは、その実態を隠そうともせずに、表面に出てきた。

出てきた新興右翼組織の中には、あろうことか天皇への批判めいた街宣さえ始めているものもある。軍国主義復活のためなら、支柱と仰ぐ天皇さえ攻撃対象にしているのだ。安倍の今上天皇に対する姿勢の表れと言ってもよい。彼らにとっては、天皇は担ぐ神輿に過ぎないということなのだろう。

当初は、暴対法の関係からか、暴力団くずれの政治結社が急増して、街宣車などで騒いでいる程度だった。が、現在はその様相ががらりと変わってしまった。軽トラから大型トラックへぐらいの変化である。右派理論家を交えて理論武装し、いずこからか資金調達もして組織だった運動を展開し始めているのだ。横の連絡体制も取れているようで、侮りがたい存在となっった。ヘイト攻撃は、そうした連中が組織だって行っているもので、散発的な暴走行為ではない。この国を戦前の体制に戻そうとの目的意識をもって、排斥運動を繰り返しているのだ。欧州における、右派の台頭やネオナチ運動と同質と言ってもよい。

右派理論家として目立っている櫻井よしこなどは、そうした連中のマドンナ的存在として祭り上げられている。言論界やマスコミだけでなく政界(特に革新系)への罵倒と中傷を展開しているが、その主張には正当性のあるものなどはなく、ほとんどがデマと欺瞞に満ちたものばかりだ。こうした右派理論家は、政界の中にも入り込んでいる。安倍晋三、稲田朋美などはその代表と言ってもいい。

そうした右派民族主義者のデタラメぶりは、先の朝日新聞社記者攻撃などでその典型を示した。が、現在では、その虚偽主張を告訴されて言い訳も出来ず窮地に立たされている。先の東日本大震災を利用して、緊急車両ガソリン不足をでっちあげ、緊急事態法必要論を展開したが、TBS[報道特集」でその嘘を暴露され、反論さえできずにいる。嘘を平気で言いふらし、人権さえ無視したその手口は、ヘイト攻撃に狂奔する連中と同じで、この国を暗雲で覆い隠そうとしている。

(再掲示/紙飛行機の編隊)
その暗雲の本体である「日本会議」は、言わずと知れた日本最大の右派的民族主義者の集合体である。憲法改正で9条を葬り、自衛隊を国防軍とし、天皇を国家元首と仰ぎ、戦前の軍国主義復活を狙う、時代錯誤もいいところの民主主義破壊の一大組織である。

自民・民進(松原・前原など一部)など政治家も数多く参加しており、実質的に今日の日本を動かしている組織だ。もちろん、安倍や麻生もその名を連ねている。稲田朋美なども幹部格として同然に名を連ねている。櫻井よしこは、その思想的理論部隊の宣伝隊長といったところであろうか。

この「日本会議」が、政界だけにとどまらず、経済界、宗教界、スポーツ界、一般社会にまで浸透していることは意外に知られていない。
形を変え名前を変えて、業界や商店会、町会にまでも食い込んでいるのだ。彼らの言うところの草の根運動によってである。巧妙なのは、その運動が、気づかれないうちに進んでいるということだ。え、あの人もと言う具合にだ。あの実直そうな舞の海が、その旗振り役の一員だなどと誰が信じられようか。意外な面々が、意外なほどその名を連ねている。知られずにその浸透を果たしているということだ。

具体的なところでは、町会活動にもその典型が見られる。日常的な町会活動が、日本会議の手助けになっている、などと気づく人は誰もいない。それだけに、変わりゆく自分に気づくこともほとんどない。でも、長年の間に確実に右派思想がその身ついて、何の不思議も感じなくなってしまっている。残念ながら、私の身近にもそうした人が多い。そこでその一人を例に挙げる。

その知り合いは、青年時代には「民青」と言う共産党系と言われる組織に入っていた。その後、親の代からの店舗(食料品店)を引き継いで、やはり共産党系と言われる「民商」という組織にも入っていた。しかし、、地元商店街の有力者(自民党員)からの影響が大きかったのか、やがて区議会議員は地元出身者をと言うことで、その自民党区議の後援会有力者となった。それでも当初は、都政や国政は革新系でなければと言っていたのだが、町会の幹部になったあたりからは、完全な自民党支持者となり、現在では自民党員として動き回っている。「日本会議」などの草の根運動の成果?だといってもよい。おそらく当の本人は、何も気づいてはいないと思う。日本会議の草の根運動は、その裾野を広げるところにその運動目標を置いている。だから、地方議会の中に占める会員議員の人数は驚くほどに多い。

(再掲示/100円ショップで買い求めたゴム鉄砲)
「民青」とか「民商」とかは、思想の革新性を求める割に実利を与えるという側面が少ない。ある面運動体と言うことで、実利よりも運動優先と言った組織ともいえる。その点、商店会や町会などは日常の繋がりが多いことから、隣組的連帯感が生まれ、交流の中で実利感も得ることができる。ここで言うところの実利や実利感とは、経済的な面だけでなく、友情とか友好的交流とか、心の充足感とかを総称したものだ。具体的な表現は難しいので、感覚的に理解して頂ければと思う。

その実利感は、町会と言う組織ではさらに強くなって、地域の中での自己の存在感を味わうことになる。存在感は、自己の役割が大きくなればなるほど、満足感へと変わっていく。これは、名誉欲とか出世欲とは違ったものだ。存在感から精神的満足感を得たいという、単純な自己満足的欲望だと私は理解している。そう考えると、保守的であるはずの町会長に、無欲でお人好しの人が多いのも頷けるはずだ。叙勲を受けることが最高の幸せと考えているような人たちだ。更に付け加えると、こうした活動ではその伴侶も、本人同様に満足感を得ている場合が多く見られる。婦人部活動と言う名で、本人と一緒に町会活動にいそしんでいるのだ。草の根運動は、こうした形でもその裾野を広げている。日常的な活動であるだけに、遠くの親戚よりもその繋がりは深い。その深い関係の中で、「日本会議」は影響力を強めているのだ。

この町会の組織と同様に、納税協力会とか、青色申告会とか、法人会とか、交通安全協会とか、自衛隊協力会とかでも地域を通じた仲間意識が育まれ、それぞれに精神的満足感を得ようとする人たちが集っている。それぞれの役員を兼務する人も多く、その繋がりは予想外に広く強い絆を見せている。そして、こうした繋がりの多くが、保守系区議や保守系市町村議員を支えることになる。その後援組織が、都政や県政・国政議員を支える基礎組織として働く。考えるまでもないことだ。経済団体や業界団体でも同様なことが起っている。宗教団体などでも当然のように起っている。保守基盤は、こうしたものの集合体で成り立っていると言っていい。だから、強固なのである。

宗教団体と言えば、公明党を支える創価学会にしてもしかりである。「日本会議」と創価学会とがどう繋がるのかと不思議に思えるだろうが、さにあらずなのだ。そこには、選挙制度の問題が大きく関わってきて、政権に足を突っ込み過ぎ抜きさしならなくなった公明党の事情もある。同党は、小選挙区制によって自民党を支えられるようになり、その存在意義を主張できるようになったはいいが、政権欲に捉われたことで、今では自民党の創価学会対策部として働くようになってしまった。真面目な学会員こそいい迷惑であるが、そこはそれ、信じることが第一とする宗教団体の特質もあるから、なかなか気づく人は少ないようだ。昨年の安保法制で目覚めた学会員も多くなってきてはいるが、学会そのものをも動かすほどの高まりとはなっていない。安倍政権打倒を目指すなら、それらの人たちを励まし支援することが肝要だと思う。そして、この励ましや支援こそが、安倍政権打破の重要なポイントとなるはずだ。

ここまでまわりくどく、ヘイト攻撃や民族主義の台頭、それに町会や宗教団体にまで触れてきたのは、「日本会議」の草の根運動が予想以上に浸透しているということ、それも恣意的に巧妙に張りめぐされている、ということを知って欲しいがためである。私にも、誰がいつから計画し実行しだしたかは定かでない。しかし、現に、メディアに対してはその効果を上げている。圧力によって萎縮させた等は、その端的な例だ。NHK会長人事に介入し、傀儡的人物を送り込むなど、その証拠だと言えるのではなかろうか。放送法を盾にされて、圧力に屈してすっかり委縮し、メディアとしての気概すら示せなくなっている現状は、[日本会議」の狙いだったと言ってもいい。高市総務大臣の高圧姿勢などは「日本会議」の勝利を宣言しているようなものだ。

以上の考え方はあくまでも私見であるので、批判があって当然のことと思う。戦争を憎むあまり、安倍自公の暴走を阻止したいがための偏見であるかもしれないが、お許しを願いたい。次にその私見を纏めてみる。その上で、本題とした【国民はなぜ安倍内閣を支持するのか】についてを考察する。思い付きの考察だと不快に思われたのなら早速の離読をお願いする。

サブリミナル効果?

かって、オーム真理教事件でサブリミナル効果と言う言葉が、マスコミを賑わした。潜在意識への繰り返しの問いかけにより洗脳するという意味合いだが、オームはその罠を信者に対して巧妙に仕掛けていた。教材・宣伝アニメの中に、浅原の映像を密かに埋め込んだとか、なんとか帽子とかを被らせて微弱電流で脳に刺激を与え、その効果を高めるとか、マントラ(経文)を唱え続けることで夢遊病的境地に立たせ、ジャンプを浮遊だと誤魔化して超人意識を持たせるとか、実に巧妙に信者を操った。

そのサブリミナル攻撃が、長年にわたってこの国になされている。そして、その効果がここ数年の間に急速に表れだしたのではないか、というのが私の持論である。もちろん、「日本会議」の恣意的な思惑によるものであることは言うまでもないが。

そんな、馬鹿な話がと笑い話にされそうだが、決してそうではない。前の投稿でも触れた―基本政策の支持が少ないのに高支持率を保てる不思議―を解明するためには、そのサブリミナル効果が、この日本にどういう現象を引き起こしてきたかを確認することが必要だ。と同時に、そのサブリミナル攻撃がどのようになされているかの検証も必要となる。そして、その検証が終われば、笑い話でないことが理解できる。

サブリミナル効果を上げるためには、その対象者が影響されやすい状態であることが望ましい。つまりは、真理についてを余り深く考えないようにさせてしまうということだ。事実かどうかは確認のしようがないが、かってアメリカは日本占領を続けるためにと、日本人に対して白痴化政策を仕掛けていたという話が流された。退廃文化を押し付けて考えさせなくしてしまおうとの政策だったというのだ。笑い話のようだが、かってはともかく、現状において白痴化現象が起こっているというのは事実のようだ。それも国民の大多数に及んでいると言っていい。

満員電車の中でもスマートフォンを手ばさない姿や、シルバー席を陣取って障害者を見向きもせずにゲームやメールに熱中している姿、座っているいないに関わらず携帯を絶対に手放さない老若男女、交差点内に子供を置き去りにしたことを忘れてメールする母親、片手自転車運転でメールする若者、歩きスマホに夢中な高校生などと、この国では、携帯(スマートフォン)を例に取り上げても白痴化現象が確実に進行していることが証明されている。このような人たちの多くは、スマホの世界に入り込んでいて、他を考える余裕をさえ失っているのだ。つまりは、麻薬患者が麻薬を欲しがるがるような状態に陥っており、付け入られ易くなっているということだ。サブリミナル効果がでやすい環境をスマホを通じて、自ら作っているのだ。

メディアだけでなくあらゆる組織や団体を通じて、長年に渡りサブリミナル攻撃が続けば、人間の思考方法が変化するのは当然のことだ。それも、本人が気づかないうちに仕掛けられているのだから、防ぎようもないことである。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、町会の回覧板や掲示板、業界新聞や役所の広報誌等、その伝達手段は無制限だったと言ってもよい。「日本会議」と言う危険な組織が、その恣意をもって仕掛け続けたとすると、その効果のほどは知れようというものだ。

戦後の日本人は、先の大戦の反省から平和憲法のもとに、貧しいながらも民主的な教育を受け、戦争のない国家、戦争しない国家を国是として歩んできた。だから軍隊は勿論、武器の製造をもさえ許してこなかった。教育現場では、民主主義の普及のためにと自由な教育が施こされた。又、国威だと称して国旗の掲揚や国家の斉唱などが強要されることもなかった。個人の尊厳が大切にされていたからだ。こうしたことが戦後の私たちには、当然のことであったのだ。

しかし、国を誤らせた戦犯たちが許されて蠢動し始めてから、この国の先行きに齟齬が生じるようになった。安倍晋三の祖父A級戦犯岸信介、同じく賀屋興宣、児玉誉士男、笹川良一等の暗躍が始まると、敵国であったはずのアメリカとの同盟第一に、この国を反共浮沈戦艦とするべく憲法改悪の旗印を掲げるようになった。この段階から事実上の解釈改憲が行われ、警察予備隊、保安隊を経由して今日の自衛隊が創設された。そして、この時から、自衛隊の合憲か否かの論争が始まったのだ。

この時期に、日本帝国への回帰を願う思想が形成され、その中核に生長の家の学生組織が座って活動を始めた。その後その学生たちが中心となって立ち上げたのが「日本会議」の初期組織である。彼らは草の根運動を続けながら、この国の要所要所にその種をまき散らし、長年をかけて右派組織をまとめこの国の右傾化を画策してきた。

小泉政権下で、政権に入った安倍晋三は、祖父岸信介に心酔して、改憲を自己の政治目標と定めて自民党内外で活発に動き始めた。その行動と併せるがごとくに、「日本会議」の活動も活発となり、櫻井よしこなどが右派論客として持てはやされるようになった。草の根運動が「日本会議」の恣意のもとに本格的に活動しだしたのはこの頃からである。サブリミナル効果を狙ったかどうかは定かでないが、あらゆる組織にその根が蔓延るようになった。

教科書問題が騒がれ、慰安婦問題や南京事件等の歴史修正が取りざたされたのもこの頃からだ。国旗掲揚や国歌斉唱を義務付けようと策謀しだしたのもこの頃である。東京都知事となったワンマン石原慎太郎もその役割を大いに担った。彼の領土問題への口出しは、この国の民族主義台頭を促進させたと言ってもよい。現在騒がれているオリンピック招致なども、彼の名誉欲から出発したもので、100億円からの無駄遣いをしただけでなく今日にまで騒ぎの種をまいてしまった。責任も負わず火消もしない本当に罪深い男である。

この領土問題(尖閣諸島や竹島等)からの国防意識は、中国の台頭と北朝鮮の核開発とが絡み合って、周辺危機と言う形で国民の間に浸透させられた。それに合わせての安全保障論議も意識的に活発化され、アメリカとの同盟強化論へと誘導されることとなった。つまりは、国民の間に、こうして考え方が刷り込まれたということだ。だから、安保法制への闘いが高まっても、その強行が為されても60年安保闘争のようには盛り上がらなかったのである。草の根運動と白痴化作戦?の大成功と言ったところだ。

特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則の実質的解除、武器製造の実質的解禁、憲法解釈変更による集団的自衛権行使の容認、アメリカとの軍事同盟の強化、辺野古基地建設の強行、警察権による盗聴行為の容認、米軍との地位協定固定化容認と核保有の法的容認等々安倍政権になってからの反民主義的暴政はとどまるところを知らない。国民の多くは、余りなまでの性急さに、考える余裕さえ与えられずに洗脳された状態になっている。頭の中には絶えず安倍がいて、良いも悪いもなく、その存在を認めるようになっているのだ。安倍、アベ、安倍と言う具合にその偶像化が進んでいるということだ。ドイツの宣伝相ゲッペルスではないが、嘘も百篇繰り返せば真実になるという現象が、現実に起こりつつあるということである。

だから、安倍の存在は、政策云々の問題ではなく、植え付けられた記憶として残されているので、政策が失敗しようが成功しようがは大勢に影響しないという結果を生むようになった。こうした状況を作ったのが「日本会議」であり、その恣意によるサブリミナル攻撃であったと私は思っている。野田政権の悪いイメージが強すぎるので、替りわりなしとして安倍を選択しているというのは、現実的ではなくなっている。そんなものは、過去の話である。―基本政策への支持が少なくても高支持率を保っている―要因は、ここにあったのである。安倍の存在が国民の深層心理に根付かされてしまったということだ。メディアの責任が重いのは当然だといってもよい。

仮に安倍でなく、橋下徹をもってきたらどうであろうか。その際も、「日本会議」にその恣意があれば、安倍と同様な結果を生むに違いない。偶像は、その時代を反映(右派的強権指向)できる雰囲気を要していれば誰でもよいのである。だから、最早、政策だけで安倍政権を倒そうなどは夢でしかないということだ。敵は安倍にあらず偶像を作り出している「日本会議」だと思わなければならない。参議院議員の山本太郎氏も「日本会議」の草根運動には警戒しろと警告を発している。見るべき人は見ているということだ。草の根運動が、サブリミナル現象を引き起こしていることに気づいているのかもしれない。

ここまで述べれば、安倍内閣の高支持率の不思議も、ヘイト攻撃の本質も理解していただけたと思う。繰り返すが敵は安倍や公明党にあらず、黒幕の「日本会議」だということを強調しておきたい。安倍自民党や公明党等はその走狗でしかないということだ。併せて、サブリミナル効果が相当に浸透していることを認め、その上での対応が迫られていることを、肝に銘ずべきとも言いたい。つまり、闘い方を変えよということだ。政策一辺倒では戦えないと自覚せよということでもある。

私の呼びかけや警告は、大げさではなく、平和を愛し戦争反対を唱えて行動する、全ての人々へのメッセージである。例え私見であろうとも、メッセージの中に一片の真実が含まれていると信じて投稿を続けているのだ。ということで、素人故の乱脈乱文は切にお許し願いたい。

長くなってしまったので、黒幕「日本会議」そのものについては、次としたい。


2016年5月31日火曜日

国民はなぜ安倍内閣を支持するのか―1

(運動会での孫たちのダンス―5/28)
一番下の孫は小学2年生。この土曜日、その孫の運動会と言うことで、弁当持参で出かけた。4人一組の徒競走では、ガムシャラに走って今年は1位の栄冠。本人も鼻高々と言ったところだ。去年2位の雪辱を果たしたと言ったところらしい。

運動会の開催時期も変わってきて、5月開催が多くなっている。田舎育ちの私には、豊穣とした実りの中での運動会が懐かしいのだが。楽しみの昼食は、どのシートでも自慢のお弁当を広げて嬉しそうだ。私たちは、孫一人に大人5人の応援団と言ったところだが、見まわすとそうしたシートも数多く見られた。子供にとっての運動会は、今も昔も家族総出の運動会と言えそうだ。

(娘との持ち寄り昼食―5/28)
私の4人の孫たちは、保育園(2人)、幼稚園(2人)を経て入学している。昨今の「保育園落ちた。日本死ね!」といった深刻な状況にも遭遇せず無事にスルーできた。幸いであったと言うところだ。

娘(現役保育士)の話では、現場では本当に深刻な状況らしい。保育士が足りないことは事実らしいようで、娘の勤務状況からもそうしたことが伺える。増員要請も空しいとのこと、民営化の話で躱されることも多いという。入所できなかったり、別々の保育園入所で苦労している保護者も多いと聞く。政治の積極的関与が求められるところだ。

その政治であるが、理解しがたいことが起こっている。そして、この現象は短期間と言うよりは、長期間続いている。

東京新聞5月30日付朝刊には、共同通信社発表の世論調査の結果が掲載された。大騒ぎした伊勢志摩サミットやオバマ氏の広島訪問の後だけに、与党に有利な数値が出ることは当初より予想されていた。が、その内容には驚かされるものがあった。不思議なことであるが、その理解しがたい特徴が固定化されてしまったようなのだ。

安倍内閣の支持率は、その失政にもかかわらず、48.3%から55.3%に上昇している。その上昇原因が、サミットやオバマ氏の広島訪問にあることは明白だ。しかし、この世論調査や先の世論調査、そのまた先の世論調査には、共通した類似点があって、そこから判断すれば、高支持率維持や、急激な上昇などは考えられないことなのだが、何故か高支持率を保っている。

― 基本政策への支持が低いのに内閣支持率が高い不思議 ―

それらの特徴とは、安倍政権の基本政策に関しての評価が、いずれも低いという特徴だ。通常であれば、基本政策が支持されない内閣など支持率が低くて当然なのだが、理解しがたいことにある程度の高支持率をずっと保ってきている。不思議としか言いようがない。

具体的には、今調査でも、世界の経済認識をリーマンショック前と酷似とした安倍に対して、世論では51.9%もの人がその認識を否定している。アベノミクス関しては、この政策で今後景気が良くなるとは思わないが64.1%を示し、憲法改正に関しても54.9%が反対の意思を表明している。又、消費増税の再延期に関しても70.9%の世論が賛意を示し、沖縄問題の根幹をなす地位協定に関しても71.0%に人たちがその改定を求めている。こうした数値は、アベノミクスの失敗を意味し、他の重要政策も国民と乖離していることを示している。

常識的には、これだけ基本政策が否定されれば支持率も降下するはずだが、不思議なことに政策とは連動せず別な動きを示してしまう。例えば、サミットに関しての評価は、評価すると、どちらかと言えば評価するを合わせると、78.4%もの高評価を示している。リーマンショックなどを持ち出して顰蹙をさえかっているのにである。私などは国際的に恥をさらしたとしてマイナス評価であるのだが。政党支持率でも37.2%から44.4%へと上昇している。いかにオバマ効果があったとしても、この数値は異常だと言ってもよい。このことは、国民は政策で安倍政権を支持しているのではないという証明ではなかろうか。

この、基本政策は支持しないが安倍内閣は支持するという傾向は、ここ数か月間若干の変動はあるとしても、固定化した特徴として定着してしまった。なんとも理解しがたい不思議な現象である。安倍内閣を支持する理由も、他に適当な人がいないが33.0%から37.7%に上昇しており、民主党政権への失望感が強すぎるためだ、と受け取られている。しかし、その理由づけには、いかに何でもと疑問をもたざるを得ない。民主党内閣が不十分な内閣であったとしても、3年余もその嫌悪感が続いているとは思えないからだ。そう思い込ませてしまう、何か別の要因があると思えるのだが、考えすぎであろうか。

― 国民全体が無意識のうちに右傾化傾向に馴染み、その傾向を容認し始めた?
― 国民の意識の中に、周辺危機の洗脳的喧伝によって、偏った民族主義が芽生えた?
― 政治への諦め感が、安倍を実力以上に評価し、代わりがいないと錯覚させた?

漸くにして、ヘイトスピーチ規制法が国会で議決された。内容的には不十分さもあるが一歩前進と言ったところだ。こういうと国民的盛り上がりの中で、議決されたと思えるが事実は違う。勇気ある在日韓国人女性の訴えから運動が立ち上がり、多くの人の奮闘で法整備へと進展したのだ。そして、その闘いは、命を脅かされながらの苦しいものでもあった。カウンターや支援者たちの体を張っての対峙がその運動を支えてきた。ネット社会でのネトウヨ攻撃に対して、反撃を繰り返し続けた多くの支援者があったことも見逃せない。しかし、運動そのものは、全国民を巻き込んでまでのものとは言いがたく、その広がりは決して大きものではなかった。だから、法整備までに時間がかかったのだ。

わが国におけるヘイト攻撃とは、在日韓国人や朝鮮人、朝鮮総連、朝鮮学校生への、人権を無視した侮蔑的攻撃を指して言う。が、最近はアイヌ民族や外国人に対しても同様の攻撃が行なわれ、排斥運動も繰り広げられている。しかも、無知で凶暴な民族主義者達のその攻撃は、執拗で生活環境を脅かすばかりでなく、生命の危険をさえ感じさせる攻撃に変わってきている。一種、組織的ネオナチの様相をさえ示し始め、危険極まりない事態にもなっている。

こうした攻撃が長年にわたって繰り返されていることを、ほとんどの国民は知らないで来た。知っていても、大音量をあげて走り回る一部の右翼活動だ、ぐらいにしか認識していなかった。だが、事実は、特定の人種、特定の地域を攻撃目標とした、反動民族主義者や反人権団体による組織的な排斥運動であったのだ。たんなる暴力団崩れの嫌がらせなどではない。しかし、この攻撃が被害者の訴えによるまで公には明らかにされず、つい最近まで警察の見過ごしのもと繰りかえされてきた。無関心もいいところである。日本人として恥ずかしい限りである。では、なぜ見逃されてきたのかとの疑問が出てくる。なぜ、ヘイト攻撃が公にされなかったのかと言う疑問である。

私は、この疑問を解き明かせれば、表題とした「安倍内閣高支持率の不思議」も同時に解明できると思っている。この疑問の中にこそ、理解しがたい特徴が固定化し定着化した理由が含まれているとも考えている。

疑問の解き明かしと私見による対応策は、次の投稿で述べることにしたい。

2016年5月23日月曜日

7秒で記憶が消える。

5/21のTBS「報道特集」は、感銘を受けるものであった。
3年に及ぶ取材を通じて、難病と闘う母娘の姿が力強く生き生きと映し出されていた。又、そこに至るまでの母娘の葛藤や、難病を抱える本人の辛苦・絶望からの脱出と努力、更には娘を支え続けた母親の生きざまも飾らずに映し出されていて、見終わってからは感動とともに活力を与えられた思いで一杯だった。

(息子から妻がもらったミニバラ―5/23)
娘の病状は、おりおりの記憶がたったの「7秒間」しかないというものであった。7秒以前の記憶が保全できないという難病なのだ。病名は定かではなかったが、その原因が、誰でも罹病するヘルペスのウィル菌だということで、その菌が何らかの経緯を経て脳内に侵入し、発症した言うのである。なんでも、脳の海馬と言われる部分を収縮させ、その収縮が喫緊の記憶を7秒以上保てなくさせているというのだ。CT画像を見ると、明らかにその部分(海馬)の収縮が見られた。身体の不思議としか言いようがない。なぜ、その部分だけなんだという思いである。

症例は、今食べたことを7秒後には忘れてしまうという具合に、すべての行動、すべての視聴覚が7秒間しか脳にとどまらないというものだ。考えられないことである。そうした世界がどういうものであるか、私にはとても思い至ることができない。そうした世界に母娘は4年まえから入って闘ってきたのである。そして、闘いの中で母娘は生きる道を掴み、逞しく歩んできた。

(岩淵の赤水門―5/19)
娘は、いつもメモを取っている。それも膨大の量のメモをである。海馬の収縮で記憶できないものを、その都度に全てメモにしているというのだ。言い換えれば、メモをもって、海馬に記憶できない部分を補おうという試みである。
だから、その量は膨大なものとなってしまうということであった。メモこそが脳の一部と化しているのである。

見習わなくてならないのは、彼女が、現在も運転を続けていることだ。記憶が保てないのだから、ルートなど覚えようもないはずなのに、繰り返すことで体に覚えさせているというのである。まさに脱帽と言うほかない。車だけではなく、簡単な仕事も他人との付き合いも、メモを片手に頑張り通しているのだ。それもいつも笑顔を絶やさずにである。

写真のミニバラをいつ貰ったのかとか、赤門に前回行ったのがいつだったのかとか、物忘れが多さを悩んでいる場合ではないらしい。そんなことでは母娘に申訳がない。頑張って吠え続けなければあの母娘に恥ずかしいではないか。戦争反対と叫び続けるのが私の役割なのだから。

ここのところの「報道特集」は素晴らしい。憲法特集(緊急事態法)では日本会議のウソを暴き、ヘイト特集では、被害者の目から真実を追求してくれた。放送法の圧力問題以来、萎縮しきっているメディアに光明が射したという思いである。これからもますます頑張ってほしい。


2016年5月19日木曜日

赤水門にサイクリング

(趣のある岩淵の赤水門―5/18)
お天気が良かったので、妻とサイクリングとシャレてみた。夕食で残った炊き込みご飯(ちなみに私が作った傑作?)をおにぎりにして、フキの煮物(妻の傑作?)・ゆで卵と一緒に昼弁当とした。水門は、荒川河川敷を6~7KMほど下ったところにあり、自宅からでも40~50分ぐらいで行ける。陽光のまぶしい中を、サイクリングするのはとても清々しく、日頃の鬱憤など忘れてしまう。それにもまして、広々とした流れを見晴らしての昼飯はなんとも贅沢である。単純ながら本当に最高だと思う。

水門の周りでは、何人もの人が釣りを楽しんでいた。釣り好きの私は、さっそくその釣果を聞いて廻った。リール竿を立てている人たちは、フッコ・セイゴ狙いだという。でも日中よりは夜の方がいいとのことだった。水辺の護岸石の間に糸を垂れていた人たちは、手長エビ狙いだとのことで、それなりに数をあげていた。時期的には少し早いのでまだ小さいとのことだったが、ここのところ釣果に恵まれていない私には、釣行を誘うに十分な魅力であった。ということで、近日中に手長エビ釣り決定!

(荒川と新河岸川とを結ぶ水門。合流後の下流は隅田川。)
この赤水門の位置は、荒川河口から20KM程の上流にある。だから、東京での直下型地震のおりには、ここまで津波が押し寄せるだろうかなどと、いやな妄想も湧いてくる。ここのところの大震災は、何かにつけて諸々を連想させる。困ったものである。

この水門は、津波だけではなく、大雨などでの大水害に際しても大きな役割を担っている。その開け閉めで、上下流域に大きな影響を及ぼすから、防災拠点と言ってもよい。そんなことを考えていると、「頼りにしてますよ」と声もかけたくなる。何にせよ、私はこの赤水門の魅力にひかれて何度も訪れている。機会があったら、ぜひにも訪れてほしい。

いつもいつも政治への憤懣をブログにぶちまけているので、たまにするこうした投稿は自分でもホットできる。人間である限り、怒ってばかりではいられないということだろう。何の不思議もないことだ。

2016年5月15日日曜日

舛添叩きは巨悪を隠すためのフェイクに過ぎない。

この数日間と言うもの、メディアのほとんどが舛添叩き一色となっている。あろうことか、御用評論家の田崎史郎までもが、声高に舛添を非難している。私は、田崎氏が前面に出るときには、素直にその論評を信じないことにしている。安保法制で彼の果たした巧妙な安倍擁護ぶりには、辟易させられたからだ。はっきり言って、まともな批評家などとは思っていない。安倍が守勢に立たせられたときにポッと顔を出す、安倍親衛隊の一員に過ぎないと思っている。

今回は、オバマの広島訪問で挽回しかけている安倍政権が、舛添叩きの巻き添えで苦境に立たないための防波堤として、又、舛添叩きを好機とした衆参同時選挙の焚き付け役としての登場だと思っている。なんせ彼は長い安倍の鮨友で、これまでも要所要所でその知名度を生かして安倍の危機を助けてきている。メディアを都合よく渡り歩いて、フジはフジなりに、TBSはTBSなりに振る舞って視聴者の目をふさいできた。その言動を、よくよく吟味していれば、そんなことは容易に分かることだ。決して、反骨精神を持った真っ当なジャーナリストなどと評価してはならない。正真正銘の御用達評論家であると承知すべきだ。

本来、評論家が今般の都知事の公私混同問題を語るのであれば、オリンピック不祥事との関連で、森を、下山を、安倍そのものをも同時に論じなければならない。又、石原や猪瀬の都政独裁とその弊害をも批評しなければならないのだ。その上で、舛添の政治姿勢についてを語らなければ、批評家としては一流とは言えない。しかし、彼のこれまでを振り返ってみればわかることだが、彼は、決してそんなことはできないはずだ。なぜなら、彼は、その時々において彼らを援護していたはずだからである。要は、時の権力者との馴れ合い批評家であるということだ。繰り返すが、田崎の舛添叩きは、安倍擁護のためでしかないと私は思っている。体良くメディア誘導をしていると言うことだ。まともに受け止めたら、馬鹿を見ることになる。

そのような検証もなしに、田崎を一流批評家としてとり扱い、コメントを求めるテレ朝やTBSの良識が疑われてならない。これでは、日テレやフジ・NHK並みになり下がったと批判されても仕方がないではないか。見ているがいい、そのうちに、田崎は舛添を叩きながら衆参同時選挙を煽るような言動を始めるに違いない。その時に初めて、田崎の果たしている役割にメディアは気づくだろう。そして、自分たちが安倍援護の一役を担ったことを思い知らされるはずだ。そうなってから田崎を外すようでは遅いのだが、萎縮しきった今のメディアには期待するだけ無駄と言えそうだ。

はっきり言って、舛添などは小者でしかない。本丸の巨悪の面々に比べたら、チョコチョコ走り回る小鼠にしかすぎないのだ。舛添攻撃は本丸隠しのフェイクに過ぎないということを私たちは見逃してはならない。ある面、舛添はスケープゴートにされていると思う。許すわけではないが、舛添そのものの利得などは大騒ぎするほどのものではない。直接的な損害はせいぜい数百万円に過ぎないだろう。殿様気分に酔いすぎて、公私混同も分からなくなったお調子者と言ってもよい。だから、都政の運営に、若干の危惧を抱くことはあっても、全メディアを挙げて叩くほどの価値などありはしない、と私は思う。彼によって、都の財政が食い潰されたり、軍国主義が急速に復活させられるなどは到底考えられないことだ。彼などはきついお灸をすえる程度で十分だ。辞任したら許してやればよい。石原や猪瀬とはその罪の重さが違うのだから。

石原前々都知事などは、その政策の失敗や公私混同分も含めると、数百億円の損害を都民に与えている。それだけではなく、尖閣諸島を買うなどと国民感情をあおって寄付を募り曖昧のまま無責任に放置もしている。その煽りが日中関係にどれほどの悪影響を与えたかは今更言うまでもないことだ。つまりは、舛添などと違って、私的政策で巨額の損失を出したり、この国に危険を呼び寄せるという大罪を犯しているのだ。メディアは、その罪深い石原に、どう対処したのかを反省するがいい、そして何もしてこなかったことを猛省するがいい。その上で、今からでも石原にその責任を求める気概を示して欲しい。相手を間違えるではないぞ、弱腰メディア。

猪瀬前知事は、いくら大物ぶっても、右翼との関わりから5000万円余りで失脚した小者でしかない。が、舛添に比べれば、その罪ははるかに大きい。最近ちょこまかとあちこちに顔を出しているようだが、都民への反省はしているのだろうかと疑いたくもなる。彼は否定するだろうが、今、都民は、彼の名声欲のために数千億円と言う新たな負担を押し付けられようとしている。彼は我々都民に、いや国民に何と言ったか忘れてはいないはずだ。東日本大震災の復興も進まない中で、その復興を励ますためとか、旧施設の利用で小回りの利く低予算オリンピックができるからとかを理由にして、同様に名声を欲しがる安倍と組んで強引に東京誘致を実現させたことを----。なのにこの有様である。だから、今日起っていることの大半は、現知事舛添の責任と言うよりは、前知事猪瀬の責任だと言ったほうが正しい。もちろん、裏で猪瀬をリードした安倍政権(下山+森)の不見識さが被害を甚大にさせたということも事実だ。低予算が聞いてあきれる。2兆円を軽くオーバーしそうだというのだから話にもならない。よくもまあ、愚物がそろったものだと感心するしかない。

その曖昧さで国民を悩まし続けるオリンピックが、今、贈賄による国辱的手段による招致だったことが暴露され、大きく取りざたされている。あの喜びに沸いた瞬間を観せられた我々は、今更ながらに、あの招致活動とは何だったのかと考えさせられてしまう。国民の誰もが、招致活動で、怪しげなブローカーへ報酬がを支払われた事実を知らされていないし、そのような薄汚い手段で招致してほしいなどとは頼んだ覚えもない。まして、あってはならない裏金と言うスキャンダラスな手段を使ったということは、世界中に日本の恥をさらしてしまったということなのだから、恥ずかしいことこの上ない不始末である。国辱以外のなにものでもない、そんなオリンピックはご免こうむりたいものだ。世界中に謝罪して辞退するのが順当と思う。

舛添叩きについての投稿のはずが、思わぬ方向への投稿となってしまった。舛添に限定して書くことに大きな矛盾が出てきたということだ。何度も述べてきたが、書けば書くほど舛添の存在が小さくなってしまい、小者でしかないことに気づいたのだ。そして、この舛添叩きには裏があると思えるようになった。叩くべきは舛添ではなく、その裏に隠れている巨悪なのではなかろうかと思い至ったのである。そこでの田崎氏の登場であった。田崎氏の登場には裏があるというのが私の感覚的発想法なのだ。ある意味、彼の登場はある種のバロメーターでもあるということだ。そのバロメーターには、常に安倍の状況がインプットされており、下降線をたどったときには彼が登場して、視聴者を惑わして側面援護する。その典型が安保法制での彼の動きであったと私は思っている。だから、田崎氏の登場によって、安倍の存在が浮きぼりになったと言うことだ。こんな考え方は笑止に過ぎないと一蹴されそうだが、つじつまが合っているのだから馬鹿にして欲しくはない。なお、繰り返し述べている田崎氏評に関しては、異論が出て当然と思っているが、その異論については、同氏が安倍の鮨友から決別できた時に拝聴したいと思っている。行き過ぎがあればその時には謝罪もする。それまでは一切受け付けないつもりである。言い訳など聞きたくないからだ。

ここで、思い出して欲しいことがある。あの菅官房長官のおりおりの談話とそのタイミングである。彼は政府や与党内での不祥事が出されると、必ずと言ってよいほど「問題はないと考えている」とその追究を一蹴してきた。あの問題でもこの問題でも[問題ない、問題ない」の繰り返しなのだ。それも必ずと言ってよいほど、問題の本質が明るみに出る前に早々と「政府は調査しない」「適法である」とかの談話を出して煙幕を張ってきた。だから、彼が早々と「何の問題もない」と談話を出した時には、必ず何かがあると思って間違いはない。それほど、彼の言動には信用がないということだ。事実、次々とその襤褸が暴かれている。

今年に入ってからのことを考えてみても、そのことは十分に知ることができる。辺野古基地をめぐって、地元と和解したと言った直後にその反故めいた言及をして腹黒さを証明した。甘利氏問題にしても「弁明は果たしたのだから問題はない」と談話を出し、その後の対応を放置している。犯罪者擁護もいいところである。誠実さも何もないということだ。それだけではないTPPに関しての黒塗り資料問題でも「問題はない、違法性はない」と一蹴し、更にパナマ文書に関しても「問題はないので、政府として究明するつもりはない」と早々とプーチンや習近平に次いで曖昧談話を出した。更にさらに、オリンピックの裏金不祥事問題でも「わが国では正当な運動をしてきたので問題ない」と早々と談話を出したが、翌日にはフランス当局にその事実についてを報道されると「担当部局に調査するように指示をした」と一日で前言を翻した。二枚舌もいいところである。一事が万事この通りである。だから、彼の談話には裏があると考えても間違いはない。本当に表裏の多い男である。

こうしたことを考え合わせると、安倍自公政権とは常に不正を覆い隠し、隠ぺいし続けてきた政府であると言える。国民目線などは持ち合わせていないということだ。今彼らは、参議院選挙を前にして、TPPで挫折し、安保法制で国民世論を失い、憲法改正問題で不信をかっている。片山虎之助ではないがこんなおりの九州中部地震は不遜でも助け舟となった。更に、本来ならサミットを目前とした外遊失敗で万策尽きた状態であったはずなのに、オバマの広島訪問という、大きな光明も得た。安倍政権にとってはまさに九死に一生を得た思いであろう。とは言え、安倍自公のあまりなまでの右傾化は、国民の警戒心を呼び起こしてしまった。そして、疑念の眼差しを多く受ける結果を招いてしまった。放送法でのしこりも残っているし、ここにきて、勢力内に政治資金規正法に触れそうな議員も複数出てきた。高市総務大臣も入っているので心中は穏やかではないはずだ。

安倍にとっての最善策は、不可思議な高支持率を保っている間の衆参同時選挙である。国民に何と言われようが、その最善策の実現に全力を尽くすはずだ。おそらく伊勢志摩サミットでは、調整に失敗した経済政策は背後に回し、オバマ関連から核問題を前面に出してくることは間違いない。その上で、オバマの広島訪問をもって議長国としての成果を大々的に宣伝し、瞬間的な高支持を得ようと、目論んでもいるはずだ。だから安倍にとっては、今が最も大切な時期であり、不安定な要素に対してはことさらに神経をピリピリさせているに違いない。

一方、世情では安保法制や秘密保護法に対しての怒りが噴出し、集団訴訟が実現したり、甘利追及のうやむやさを怒って刑事訴訟に発展する様相も出てきた。加えて、オリンピック招致での不正疑惑も出てきて、森・下山への追及も激しくなりそうになってきた。もちろん、安倍自身への追及も厳しくなることは間違いがないことだ。この時期に、波風が立って逆風が吹きあれることは致命傷にもなりかねない。同時選挙どころか、参議院選選挙の大惨敗もあり得ることになってしまうのだ。こうしたおりの権力者とは非常なものである。その矛先を変えるためには同胞をもさえ犠牲にしかねない。だから、週刊文春の舛添叩きは好都合となった。選挙でもなければ救いの手を差し述べるだろうが、安倍の今の心境ではこれ幸いとしてスケープゴートにあげることは当然のことだ。

安倍にとって、甘利の本格追及やTPP問題での徹底審議は絶対に避けたいところである。加えて、オリンピック不正疑惑などはもってのほかと言わざるを得ない。そのための舛添叩き便乗なのである。これまでも書いてきたが、舛添のそれはあまりにせこすぎて話にもならないことであるが、せこくみみっちい問題であるだけに、分かりやすく叩きやすい身近な問題でもあるのだ。都知事と言うその職がらも、叩かれ役としては最適と言ったところである。だから、マスコミも(メディア)こぞって舛添叩きを繰り返しており、ここぞと正義?を振りかざしている。叩きやすいところを徹底して叩くと言いうのが悪しき常法である。今行われている舛添叩きは、そうした内容を含んでいると理解しないと、本当の狙いと言うものは分からない。よくよく考えるべしである。

私は表題で巨悪という表現を用いたが、ここでいう巨悪とはドロドロとした安倍政権に他ならない。汚濁に満ちた自公政権を表するには他に表現のしようがなかったから用いた次第である。本日の私の投稿をよく吟味して頂ければ、つたない文章であっても、私の投稿する意味合いや表題の用いようがご理解頂けるものと思う。

長々とした本稿に目を通して頂いたことを感謝したい。―感謝拝礼―。











2016年5月11日水曜日

税について考えないと。

(確定申告書と一般事業者用青色決算書)
右の写真は、私が毎年提出している確定申告書と決算書である。写真は未記入の用紙であるが、申告時期には結構頭を悩ませながら記入する。私の場合には、事業所得以外の所得もあるのでこの申告書にその源泉徴収票も添付して合算する。もちろん年金等の源泉徴収票も添付して合算している。私同様に国民の大多数は、適正に申告し適正に納税している筈だ。そのまじめな国民によって、この国は支えられている。

納税に関して言えば、私たちはこうした申告納税ばかりではなく、消費税や酒税・自動車税といったものから、固定資産税をはじめ電気・水道・交通費と言った生活に直結したものにまで課税され納税している。端的に言うと、朝から晩まで24時間徴税されていると言っても大げさではない。おぎゃあと生まれて死ぬまで、息をしている間は税金を払い続けていると言うことである。残念ながら、私たちはそのことに余りなまでに慣らされており、自分がどれほど納税をなしているか良く理解していない。一度、総納税額の計算をしてみる必要がありそうだ。

私たちは、多額の納税をしているにもかかわらず、国家運営のためにはまだまだ不足しているとして消費税などでの負担増を押し付けられている。社会福祉予算や年金予算などを削られても、公共のためだとか、国家のためだからとかの綺麗ごとに誤魔化されて支払わされてもいる。一方では、アメリカから押し付けられた欠陥飛行機オスプレイ等に千数百億円もの無駄金を使われても、安全保障のためだなどの戯言や、軽減税率云々とかの世迷言に追及の矛先を躱されてしまっている。不満を言えば、国の安全に無関心だと批難され、財政を知らないと馬鹿にされる。私たちは、本当にお人好しの国民であるようだ。これでは、国(権力者)の言いなりではないか。

(孫のためにとせめてもの鯉のぼり)
5月10日、今問題とされているタックスヘイブン(租税回避地)に関してのパナマ文書が一部公開された。我が国においても400余の個人・法人の関与が取りざたされている。ソフトバンク・丸紅・楽天の三木谷氏、ユニクロの柳井氏など名だたる企業や個人名が相次いで公表された。その各社・彼らは早速に声明を出して弁解に努めている。口裏でも合わせたように、グローバルの視点からのもので、租税回避には当たらないと、同じ言い訳で切り抜けようと躍起になっている。やはり、社会からの批判は怖いようだ。やましいから言い訳をするのだ。

パナマ文書に取りざたされたジャパン関係者の回避総金額は数十兆円と言われており、その回避税額は4~5兆円余りに達すると試算されてもいる。国会で大騒ぎしている消費増税など吹き飛ぶくらいの回避税額であるということだ。言い訳で、合法的なビジネス行為だと言い連ねようが、取りざたされている地域そのものでの行為が租税回避行為そのものと承知しているのだから、日本国への納税回避を図った事実は消すことはできない。そうでなければ、わざわざその地に関与する理由がないではないか。合法的な租税回避などありえないのだ。各社・彼らには、その租税回避で我々国民に負担させた責任を、応分に果たしてもらおうではないか。

こうした事実を承知しているにもかかわらず、自公政権は、その社会的制裁については何の言及もせず、通り一遍の税務調査の必要性に触れただけだ。それも、ことの本質が明るみに出る前にと、ロシアのプーチン、中国の習主席についで、菅官房長官が異例の速さで政府の追及はしない旨の意志を表明した。大企業優先の安倍政権の本質が暴露されることを恐れてのことと考えても不思議はない。それはそうだ、世界に誇るトヨタの国内法人税が優遇措置でゼロであるのに、仮に同社がタックスヘイブンに関与した証拠でも出された日には、目も当てられないことになってしまうからだ。だから、事前に予防線を張ったということだろう。とにかく、大企業本位の安倍政権はやることなすことがコスイとしか言いようがない。早速のご退陣を願いたい。

僻むわけではないが、写真のような鯉のぼりで、ささやかな幸せを感じている私は、かの世界一貧乏な大統領言とわれたムヒカ氏の言葉を借りれば、貪欲に富を求める本当の貧乏人よりは、、本当の意味で幸せであると言えるようだ。幸せは、タックスヘイブンなどとは無縁のところにある。

安倍晋三よ、税金は大儲けをしている大企業から多く取れ、不正を許すではない。増税で庶民を苦しめ、軍国主義を復活させようなど、たわけた夢を追うではない。大喝!

2016年5月10日火曜日

衣替えが必要だ。

(我が家の衣替え-5/10)
我が家では、5月の連休が終わったころに衣替えをする。20年前ぐらいには梅雨に入る前にしていたと覚えているが、果たしてどうだったのだろうか。とにかく、衣替えの時期が早まったということは間違いない。これも温暖化のせいなのでは、と思う。衣替えを済ませると何となく気分もすっきりとして、訪れる季節への心構えも新たになるようで、意外と心地よい。

私は昨日(5/9)、民主主義を守るためには、絶対的課題として甘利氏の告訴が不可欠だと投稿をした。国家が、その行政官たる閣僚の不正を許し、その罪を匿い、権力をもってその罪を隠ぺいするなど断じて許されるものではない、との怒りからの投稿だ。

民主主義は、その主権が国民にあるのであって、行政庁たる内閣や官僚がその主権者であるなどと勘違いしては困る。甘利問題は、民主主義そのものが問われる根本的な問題である、と理解しなくてはならない。この問題をあやふやにさせるということは、日本の民主主義が死に体になってしまったことを証明することであり、主権在民の根本が犯されたということにもなる。憲法の精神を無視した、行政庁たる内閣によって、国家的クーデターがなされているということでもある。日本に於いて、民主主義が順守されているかどうかを検証する際には、三権分立の大原則が守られているかどうかの検証が大前提となる。その大前提が安倍自公の手で露骨に崩されていると見えるから、私はあえて投稿した。それも、なし崩しに忘れさせようという卑怯な心根が見え見えであるだけに、気短な私には到底許せることではない。

甘利問題は、この大前提たる三権分立の大原則を無視し、ないがしろにしていることを如実に示している。こじつけの睡眠障害を隠れ蓑とした立法府たる国会での審議拒否、司法をつかさどる検察の安倍自公を恐れての及び腰、犯罪事実を隠ぺいする内閣の強硬姿勢、まさに民主主義そのものに対しての挑戦である。だからこそ、甘利氏告訴が民主主義を守るための突破口として必要なことなのだ。たんに一甘利氏の問題ではない。民主主義を闘いとるために絶対に必要な闘いなのである。不正は絶対に許してはならない。まして、見逃すなどを許しては、民主主義そのものを否定することに繋がるのだから、体を張ってでも阻止しなくてはならないのだ。

今、政界そのものの衣替えが必要なようだ。衣替えをして、すっきりとしようではないか。


2016年5月9日月曜日

甘利の告発は、民主主義を守る第一歩。

(息子からの母の日のプレゼント-5/9)
父の日は忘れても母の日は忘れることがないらしい。例年のごとく、息子が母の日のプレゼントを届けに来た。忙しい仕事の合間を縫ってのことだという。妻はとても喜んでいる。日頃はなんだかんだと息子の文句を言っているのに、やはり、手放しで嬉しいらしい。

嫁さんと一緒に買い求めたとのことで、その嫁さんにも早速お礼の電話を入れていた。こうした気配りのやり取りが、信頼関係を築くことになるのだが、若い夫婦にはそのあたりの呼吸は呑み込めないでいるようだ。それでも、母(親)を忘れていないということなのだから、素直に喜ぶことにしよう。

信頼関係と言えば、国民の信頼を収賄?と言う形で裏切ったあの甘利氏は、睡眠障害だなどと国民をだまして逃げ切ってしまおうという腹積もりらしい。どうも、そうした臭いが検察筋から漂いだしたとのことだ。国会への招請もしない安倍自公の隠ぺい体質は、検察にも及んでいるということらしい。まったく恥ずかしい限りだし愚かであるとしか言いようがない。あの甘利を逃がして国の体裁が保てるとでも思っているのだろうか、恥を知らないにも程がある。民主主義の否定に他ならないではないか。

こうした日本の現状を憂える外国メディアの評価は、悲しいことであるが正しいと言える。言論の抑圧、専制国家への邁進、軍国主義の復活等は、アメリカへの属国化ばかりではなく、戦前への回帰を図るもので決して見逃しできるものではない。安倍の反知性主義とも言える国民だましのアドバルーンに惑わされてはならないし、外遊パフォーマンスに踊らされてはならないのである。

今やらなければならないことの第一は、国家による犯罪者隠しをやめさせ、国民の手で不正を質すという大事をなすことである。甘利氏への審判を国会の手で行うということである。その実現なしには日本の民主主義は守れないと、私は思っている。このことは、民主主義を守るための第一歩であり最低限の責務だと思うべし----である。


2016年5月5日木曜日

民進党よ英断せよ!

(端午の節句の菖蒲湯-5/5)
我が家は、老夫婦のみで誰も同居していないが、この時期には、毎年湯船に菖蒲を入れる。爺・婆の家に今更菖蒲でもなかろうが、例年のことだからと妻はこの習わしを守っている。同様に、冬至カボチャとか、節分の際のイワシの頭とかにも心を配っている。

イワシの頭では、妻とさんざんやりあったものだ。ウチは、共用通路のマンションなので、廊下側の窓枠に豆ガラとイワシの頭はないだろうという私と、習わしだからという妻とでやりあった。結局、今は窓枠はやめて、節分当日にイワシの丸干しを頭から食べるということで落ち着いている。今では何もしていないが、子供たちが小さかった頃には、桃の節句とか七夕なども、一緒に楽しんだものだ。

私の妻は、こうした風習めいたものをとても大事にしている。私も同感なので、一緒に守ることを心がけている。先人たちの思いがこもっていて、大切にしたい行事との思いがあるからだ。大げさに言えば、原始宗教とも言える素朴な祈りにも似た思いということであろうか。私たち夫婦の信仰心とは、こうした素朴なものであるらしいが、これはこれでいいと思っている。自民党憲法草案のような回顧主義を促し民族主義に彩られた郷愁等では決してない。押し付けられた神道等でもなく、国土と自然とが育んだ素朴さそのものの信仰心だ。私たちはこれでいいのだ。

(江東区有明での憲法集会-5/3)
左の写真は、5月3日に開催された憲法擁護のための大集会だ。参加者は、主催者発表で約5万人という規模のもので、現憲法を守り、自公政権の企む憲法改悪を阻止しようという集会である。私たちも夫婦して参加した。去年横浜で開かれた集会に比べると、安保法制の暴挙があったこともあってか、国民の怒りがそのまま集会に集約されたといった感じであった。野党共闘の実も見られ、難物民進党もそれなりの対応を示すようになった。市民運動の成果であるといえよう。

とは言え、委員長の岡田氏が、この集会で決意を表明しているのに、同じころ、同党の松原某と言う馬鹿者は、あろうことか櫻井よしこなどの改憲集会でおだを上げている。更には、細田某なる不倫議員も、外国まで行って野党共闘に水を差す暴言を吐いている。

私は、こうした民進党の態様を、同党の撓みであり歪みであると批判している。若干勢力が減るとしても、こうした反党的分子は、彼らの故郷である自民党に里帰りして頂いたらと思うのだが。そのことが、民進党の発展のために、いや野党共闘の実現のために、ひいては国民の幸せのためになると私は信じている。今こそ決断すべき時ではなかろうか。そうそう、肝心のノダメ氏の同行は必須条件であるということも、あえて申し添えておきたい。民進党よ英断せよ!である。

2016年5月2日月曜日

野党共闘にノダメはいらない。

(藤の花は今が見ごろ-4/30-上尾丸山公園)
ゴールデンウイークとあって、上尾市の丸山公園は大賑わいであった。孫二人(2・3番目)を連れて行ったが、男の子ばかり(小2、小4)だとこちらのほうが疲れてしまう。

公園の沼で釣りをしたり、弁当を食べたり、広い公園を散策したりと、昼時のひと時を十分に楽しんだ。まだまだ自分でエサをつけることはできないが、釣りの楽しみは味わえたようで、孫二人のこれからが楽しみだ。

帰りは足を延ばして吉見町の道の駅に行ってきた。時間が少し遅かったのか、産直品(農産物)は品薄となっていて、目指すものは買えなかった。ただ、熊本支援と銘打って売られていたトマト(熊本産)は買ってきた。少しでも支援につながればと言うことで。

(根津神社の山門-4/26)
桜・菜の花・チューリップ・つつじ・藤と、ここのところはこまめに花を訪ね歩き廻っている。いかめしい顔の私ではあるが、毎年、花を求めて歩き廻っている。これからは、ポピーや蓮・バラの花なんかが楽しみだ。これでは、花咲じじいならぬ花巡りじじいといったところか。

と言って、花巡りにうつつを抜かしてばかりいるわけではない。安倍自公の暴政を見逃さないためにと、警戒レーダー(メディア全般へ)は全方向に張り巡らしているつもりだ。レーダには、見えないものも結構映し出されてくる。特に、安倍自公の欺瞞ぶりや、堕落した民進党一部幹部の動向など、臭気を帯びたその映像は、見苦しく情けない。

野党共闘の試金石と言われた衆院北海道5区補選は、残念ながら野党側の敗北に終わってしまった。敗因にはいろいろ取り上げられようが、私は民進党の持つ撓みと歪みが第一の敗因であったと指摘しておきたい。寄せ集め政党であるから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、今後の共闘にも関わると思えるので、苦言だけではなく警告も発したい。

本当かどうか定かではないが、選挙の最中にも関わらず、野党代表のそろい踏みに生活の党小沢代表の登壇を拒んだ、とのことが囁かれた。あのノダメ氏(野田元首相)の意向が強かったからだと言われている。先に、小沢氏以外ならだれとでも組むと言って顰蹙をかったかのノダメ氏は、野党共闘の真の意味を理解してはいない。流石に民主党政権をつぶした男だ。安倍自公とのお友達と言ってもいいだろう。右派と言われる前原氏でさえ、共産党と壇上に並んだのに、ノダメ氏の馬鹿さ加減にはあきれ返ってしまう。おそらく、今度の敗因の一部に自分が関わっているなどと言う自覚は持ち合わせていないだろう。あの解散劇での安倍とのやり取りを思い出すたびに、私は、ノダメ氏のご退陣を願っていたのだが、本人は自分の責任に気づいていないのだから始末が悪い。一日も早い自公入りを願いたい。

野党は共闘!、今や市民レベルの闘いになっているこの流れを、ノダメ氏ごときに掉さされてはたまらない。池田候補は優れた候補者であった。その池田さんを次に生かすためにも、共闘の絆は絶やしてはならない。民進党よ目覚めよ、悪魔が蘇ってでは遅いのだぞ。ノダメごときに大きな顔をさせるでない。

2016年4月27日水曜日

じいちゃんがとってやる!

(釣りをする一番下の孫-館山にて-12/30)
最近、一番下の孫がよく熱を出す。ついこの間も、インフルエンザだとかで学校を休み2日ほど看てやったばかりなのに、今度は風邪だとかで又看ることになった。

扁桃腺でもはらしたのか、とにかく高い熱を出したので、私も少しオタオタとした。40度にも上昇したのだから、とにかく熱を下げようと、冷えピタを、額・わきの下・内腿にと貼りまくって様子を見た。

それでもなかなか下がらなかったので、私(じいちゃん)流に、「それじゃあ、じいちゃんがとってやる(下げてやる)」と言って孫を抱きあげ、胡坐に入れて後ろから抱きかかえてやった。私が、一番上の孫娘にしてやった、熱退治のおまじないである。

私は、抱きかかえながら、少し体をゆすりつつ呪文のように言い聞かせる。「じいちゃんが、抱っこすれば必ず熱は下がる。お姉ちゃんもこれで下がった」と孫を強く抱きかかえる。初めは赤ちゃんみたいだからと嫌がっていた孫も、冷たい私の体が気持ち良いのかうとうとしながら揺さぶりに任せるようになった。そんなことを小一時間もしていたら、本当に熱が下がった。

以来、下の孫はそれまで抱っこされることを赤ちゃんみたいだからだとして拒否していたのを改め、熱が出れば、素直に私の膝に抱っこされるようになった。しかし、そのせいか、前回は私に風邪がうつってしまい、何日も寝込んでしまったのだから笑い話である。じいちゃんも、抱っこされて熱を下げてほしいものだ。あーあ、いい歳をして何を言うか---である。

トシかなあー。

文京区にある根津神社「つつじ祭り」に行ってきた。例によって、私と妻と妻の姉との老人3人組でである。平日(火曜日)にもかかわらずのそれなりの賑わいは、 この祭りが多くの人々の楽しみとなっていることを教えてくれる。

肝心のつつじは、残念ながら見ごろを過ぎたといった感じであったが、それでも境内に咲き誇る花の群れは必見だと思う。10日ほど前に訪れるべきであったとも思ったが、こればかりはどうしようもない。ネットでは、ちょうど見ごろと知らせていたのだから。

九州では地震による災害で苦しんでいる人が大勢いるのに、つつじの鑑賞だなどとうつつを抜かしていて良いのだろうかと言った後ろめたさもあったが、「動けるときに楽しもう」との3人の申し合わせもあるので、目をつぶることにした。

(外人さんも多くみられた谷中銀座-4/26)
つつじを観てから、根津神社周辺を散策した。写真は、その際に立ち寄った「谷中銀座」の1枚である。それほど長くもない商店街だが下町の活気と言った雰囲気があって、私には楽しい商店街であった。3人で、買い食いをしながら楽しんだ。

この後、「田端銀座」にも行こうということになって歩き回ったが、ナビゲーターである私の記憶があいまいでたどり着けず、疲れただけに終ってしまった。情けないことこの上なしだ。一駅分も間違えていたのだから、お粗末様もいいところである。トシかなあー。




2016年4月20日水曜日

ここまで卑屈になれるか。

(震源は一か所にとどまらない-4/18)
(安倍自公は許さないと大喝!大阪維新にも大々喝!)
達磨さんには何度も登場願って、その都度安倍自公を叱ってもらっているのだが、カエルの顔にションベンの例え通り、一向に反省の様子は見られない。とにかく面の皮が厚いとしか言いようがない。厚顔無恥とはよく言ったものである。

その安倍に輪をかけたかのような愚かな議員がいる。いや議員たちがいると言ったほうが正確だ。もはや、議員としてバッチをつけていること自体が国民を愚弄しているといってもいい。見たり聞いたりしているこちらのほうが恥ずかしくなってしまうぐらいのお粗末ぶりだ。

私は、とりたてて大阪維新を攻撃するつもりなどないのだが、何故か、彼らには、いつも厳しく批判せざるを得ない心境にさせられてしまう。いや、批判などといったレベルの話ではなく、嫌悪感をさえ持たされてしまう。

先に本ブログでもとりあげた足立某だけでなく、下地某、片山の虎さんまでもが狂ってきたようだ。下地に至っては、沖縄県民がどのような思いでオスプレイを見ているかを十分に承知しているにもかかわらず、軍用も疑われるその性能があたかも震災の救助にも役立つかのように喧伝するなど、許しがたいことだ。沖縄県民に対する裏切りでしかない。

かの下地某は、オスプレイが、救助と称して現地に迷惑(風や噴射熱で)をかけたり、積み荷を少し増やせば滑走路が必要になるなどを知っているのだろうか。おそらく承知の上で、政権にすり寄るためにオイショしているのだろう。自衛隊の能力も本当に理解しているのだろうか。救援物資輸送をアメリカのオスプレイに頼まざるを得ない理由など何処にも存在しないはずだ。災害をこのように利用するなど、絶対に許されることではない。

TTP審議を地震対策のためには遅らせたらという野党各派の当然すぎる提案を、審議を続ければ北海道5区の補欠選挙が不利になるのでその回避のための提案だなどと、あえて曲解までして提案政党を口汚く罵っている。よく考えてみたらどうか。審議が進めば、国会決議違反などの事実が次々と明るみに出て、困るのは自公政権側ではないか。馬鹿も休み休み言えである。

足立某に至っては、己の人間的な至らなさを反省するがいい。いくら憎しとは言い、災害救援のための募金活動を自党の懐に入れるための詐欺行為だなどと誹謗・中傷するなど許されることではない。公党である共産党への大侮辱であり、恥ずべき攻撃でしかない。下種の勘繰りもいいところだ。違うというなら、国民の前にその具体的な証拠を示すがいい。それに、足立某自身が駅頭などに立って募金活動をしてみるがいい。善意の募金を詐欺まがいに流用できるかどうか、自分で試してみるがいい。それでもできると言い張るのであれば、己のゆがんだ心根をよくよく見つめなおせと言いたい。それもできないようであれば、議員など辞めてしまえ!税金の無駄遣いだ。

まさかの片山さんである。大阪維新には、人間としての尊厳を失わせるなにかが存在するのだろうか。あの片山虎之助氏がである。言うも言ったり「今度の地震は(政局の)良いタイミング」だとは、いくら本音だとは言え、絶対に吐いてはならない暴言なのに。罹災者を侮辱し、災害を政局とみなす卑しい考え方でしかないと、大いに反省を促したい。片山さん、自身の尊厳を守るためにも、大阪維新とは決別すべき時ではないんですか。足立某や下地某とは一緒になって欲しくない。

2016年4月16日土曜日

異常なり、天地人!

(咲き誇っているシクラメン-4/15)
3月の初めに咲きだしたシクラメンは、今が見ごろとなっている。我が家では、このシクラメンを「高田シクラメン」と呼んでいる。妻が退職した際に高田さんという元同僚から頂いたからだ。

この「高田シクラメン」は、頂いてからも毎年(数年)律儀に咲いてくれている。水をやるぐらいでたいして手入れもしていないのだが、美しく咲いてくれるので、我が家の一寸した財産になっている。自然のたくましさか、高田さんの真心の賜か、とにかくありがたい。

自然と言えば、ここのところのその異常さには驚かされてしまう。天地ともに狂ってしまったのではないかというぐらいの異常さだ。政治も狂っているから、天地人の全てに異常をきたしているということか。

熊本・阿蘇・大分を震源とする大地震は、かって観た[日本沈没]を想起させるものだ。5年前の東日本大震災は、人も建物をも流しつくしたが、大地そのものまでは破壊し流しつくさなかった。だが、今度の地震は違う。大地そのものを破壊し尽くそうとしているかのような、壊滅型とでも呼べそうな地震だ。この地上に、人間の住むことを拒んでいるかのような荒れようである。このままでは、九州を南北に分断される心配も出てくるのではなかろうか。大げさかもしれないが、天地に異常をきたしているさなかでは、何が起こるかわからない。現実に小笠原では新島もできている。

歴史好きの私には、熊本城に対しての思い入れは深い。清正の心情はともかく、この城に秀頼を 匿って徳川と対峙したらなどと、よく空想にふけったものだ。その熊本城が、惨憺たる姿をさらしている。あの堅固を誇った武者返しの石垣も、威容を誇った天守閣や多くの櫓も、今では見るに堪えない姿となってしまっている。多くの犠牲者の出ている大災害中に、お城を云々するなど不遜であるかもしれないが、私には、熊本城そのものが悲鳴を上げているとしか思えないのだ。助けてくれと叫んでいるとしか思えないのである。

こうした甚大な被害の進行中に、とんでもないことを言い出しかねない輩もいる。「だから(こうした厄災があるから)、憲法に緊急事態条項が必要なのだ」と独裁体制づくりに震災を利用しかねない輩だ。異常をきたしている天地人の人(政権)の輩の考えることは、私には到底理解できない。大震災さえも利用しようとして憚らないのだから。でも、言っても無駄か、あの御仁方には-----。


2016年4月15日金曜日

激震が走った!

(地震大国であることを忘れまい-4/14)
(被害は甚大だ、原発は大丈夫?-4/14)
4/14 夜の9時26分、東京での私は入浴中であった。妻が慌ただしく、浴室のドアを開けて、「熊本で震度7の地震だよ!」と知らせてくれた。東日本大震災から5年、天災は忘れかけたころにやってくるという格言通りの大震災である。被災者の方々には、心からのお悔みとお見舞いを申し上げたい。あの名城「熊本城」も大きな被害を受けたようだ。加藤清正の霊も心を痛めているのではなかろうか。

妻の知らせを聞いて、私の頭を最初によぎったのは川内原発のことであった。熊本からは150KM離れているが、当地でも震度4の揺れがあったとのこと、その対応が心配された。しかし、私の杞憂をよそに、津波の心配がないとの情報で、何の対応もなしに運転を続けているとのこと、あきれ返って開いた口もふさがらない。

ホンダやソニー熊本など周辺の企業は、いずれも様子見で操業を見合わせているというに、最も警戒を要する原発が操業を続けているなど私には信じられないことである。能天気であるとしか言いようがない。危機管理がなっていないということだ。政府の強い対応を望むところである。

熊本と言えば、噴火が心配されている阿蘇火山に近い。この地震が火山の噴火に結びつかなければよいのだがと、余計な心配もしてしまう。この国が、常に自然災害の危険にさらされているのだと、改めて思い知らされた感がする。心構えを忘れるなという、警告なのではなかろうか。

話題は急転するが、検察は甘利君ではなく田母神君の逮捕で矛を収めようとしているらしい。なんとも摩訶不思議なことである。今、国民の求めていることは、甘利汚職事件の真相である。附けたしのような田母神選挙違反事件では決してない。動き出せばあっという間にできる摘発を、収賄の出丸(秘書、事務所)にさえ手を付けようともせずに、手をこまねいている。政権と検察の癒着が見え見えではないか。ここまでくると、シールズではないが民主主義って何だと叫びたい。

癒着組は、、贈賄側のS社とURとの贈収賄事件としてその幕引きを図る狙いであるらしい。馬鹿にするのもいい加減にしろだ。当の甘利君は、睡眠障害を盾にして国会出席を拒みつつ、次の選挙出馬を画策しているとのこと、何が政治家としての「美学」だ。恥を知れ恥を、である。

熊本地震の余震は多く、かってないほど頻繁に強く揺れているとのことだ。余震であるのに、震度6強という、強烈なものもあった。一日も早い終息を願うのみである。だが、甘利君に関しては、その終息を許すわけにはいかない。心して国民の制裁を待て!---と言っておこう。